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一緒に帰ろう




 参考書の一つでも買って帰ろうか。

 羊谷は、そう考えを巡らせながら学校からの帰り道を歩いていた。



 少し前に図書館で総一に講義を受けた彼女は、その次の日、数学の小テストで満点を取っていた。

 タコ頭とあだ名される数学教師の小テストは、満点がほとんど出ない。無論、それを見越して彼もテストを作っているので当然なのだが、それでも生徒たちにとっては頭痛の種だった。

 その前の休み時間になると、皆が教科書と前回のノートを持ち寄って出題される問題に見当をつける。大体は前の時間に習った公式を使った問題を二つないし三つ。ネタ切れになると数学パズルとも言うべき問題が出たりもするが、それは少ない。


 満点こそなかなか出ないものの、復習であり、しっかりと勉強していればある意味簡単ではある。だがそんな小テストが、数学の成績にダイレクトに反映されるというのがまた厄介だ。

 簡単ではある。前回の授業をきちんと覚えていれば。

 しかし、すこしでもうっかりとミスをしてしまえば簡単に減点が入る。一年で三十回ほどの小テストの積み重ねは、一度の定期テストで簡単に取り返せるような類いのものではなかった。



 頬に落ちた長い髪を耳にかける。

 痛んだ茶髪にもそろそろうんざりだ。そんなことを考えている間に、軋んだ髪の毛が千切れ、指に絡みついて落ちた。 



 景色も見ずに、羊谷は総一の講義を思い出す。

 思い出そうとした。

 だが、そのノートに書かれた解説や総一の声が記憶の端々から消えていく。思い出そうとしてもぼやけたままで、一向にその数列が出てくることはない。

 両手の人差し指を目尻に添え、引き延ばしながらも懸命に脳内を探るが、出てこない。


 わかりやすかった。多分。

 覚えていられた。おそらく。


 既に二十回近く終わっているタコ頭の小テストで、自分が初めて出した満点。それは誇らしいことで、嬉しいことなのだけれども、それが自分の中に残っていない事実に腹が立つ。

 ノートを見返せば、確かにその講義の時のメモ書きがある。

 しかしそれは総一の言葉なしには成立せず、教科書と、総一の講義が揃って初めて役に立つ。

 

 もしくはきっと、それを読み解けるほど優秀ならば役に立つのだろう。

 だがそれはまだ無理だ。悔しいことに。



 一度上った表彰台から降りなければいけないというのは悔しく、そして恥ずかしいと羊谷は思う。

 タコ頭の小テストは、それを行った次の授業で最高得点者が発表される。前回それは羊谷であり、そして問題を解いていたときの記憶が残っていなかったため、その表彰に覚えがなかった。

 身に余る光栄。身に余るとはまさにこのことだと羊谷は思った。

 恥ずかしかった。褒められても、その能力が自分に残っていないことが。


 出来たのだ。総一の講義を受けた次の日には。それはたしかに自分の力だったはずなのに。

 

 羊谷が整えた頭を一度掻く。

 一度出来た。ならば、勉強すればまたタコ頭のテストも解けるはず。


 苦心し参考書を選び、購入して本屋を出た。夕日が沈みそうだが、門限には充分間に合う。今の自分にとっては、門限などないに等しいのだから。

 意気揚々と鼻息荒く歩き出す。これから勉強してやるのだ。もう一度、タコ頭の小テストで満点を取ってやる。


 そう決意し、顔を上げた羊谷は、目の前を歩いていた高校生と目を合わせた。




「げっ!」

「ん?」

 偶然だった。数学の参考書を買い求めた羊谷が本屋を出た時刻と、昼寝から目を覚ました総一の下校時間が重なったのは。

 見たくない顔を見た。羊谷はそう思った。


 一瞬だけ顔を見つめて、それから一歩後退った。

 見たくないといえども、不細工というわけではない。

 だが、だらしない。

 普通に開けば涼しげな切れ長の目は気怠げにやや細められており、少し気取った運動部のような短い髪は寝癖で乱れる。

 羊谷の感想はそのようなもの。勿体ないと容姿については少しだけ思うが、原因はそれではない。


 図書館でこの男と話したせいで、自分は次の日酷い目にあったのだ。

 数学の時間に倒れて、保険医にも心配された。

 そこだけ考えれば疫病神のようなその男の影に少しだけ怯え、そしてもう一歩後退った。


「……羊谷……麦……だっけ? 珍しいなこんなところで見るなんて」

 親しげな顔で話しかけてきても、その警戒心は収まらない。

「あ、あたしが本屋にいちゃいけないってんですか」

「んにゃ」

 喧嘩腰の言葉に総一は首を振り、そして少しだけ笑う。

 以前にもこんな会話をした。その事実に、その後輩の会話パターンが読めたようで少しだけ可笑しかった。

 

 それに。

「別に知らんぷりしてくれたらそれで済んだんだけど。反応されたからなんか話さなくちゃと思っただけ」

 話しかけたのは単なる総一の気遣いだ。ただ、双方気まずい思いを引きずるよりはと思っただけの。

 一歩総一が踏み出す。羊谷のその向こう側に向けて。

「何だよ」

「……帰るんだけど」

 その総一の一歩の意図がわからず聞き返した羊谷だったが、総一の言葉にその総一の進行方向をちらりと見て、また表情を固めて口を閉じた。


 総一はレッドブックに載っていた羊谷の住所を思い出す。ならば、この先しばらく自分と一緒に歩くはずだが。

 しかし、その気はないようで羊谷は振り返らない。総一が通り過ぎるのを待っているかのように。

「そんな怖がんなくてもいいじゃん」

「こ、怖がってなんかねーし!」

 総一の軽口にも真面目に返す。


 羊谷自身、少しだけ戸惑っていた。こんなにもこの先輩は苦手だっただろうか。

 少しの間言葉を交わしただけ。その後、一目見ただけのこの先輩が。


 わからない。

 その内心の原因が。

 だが、ここで何もしないのも腹が立つ。決心し、顔を上げる。殊更に笑顔を作る。

「こんなところで会ったのも縁ですし? 先輩一緒に帰りましょうよ!」

「なんだい急に」

 総一に並び立つ。だが、何故だろうか。その右側に、強い存在感を覚えるのは。そして、そちらを見ることが出来ないのは。


 そんな羊谷の表情をちらりと見て、総一は鼻を鳴らす。

 それから、一言「おうよ」と答えて、二つの影は歩き出した。




 夕暮れ時。もうすぐ夜。街が少しだけ茜色に染まり、若者たちの頬を照らす。

 無言でしばらく歩いた二人。だが、そのうちに羊谷が耐えきれずに口を開いた。

「……鳳先輩んちってこっちなんすか?」

「……そうだけど……」

 総一は答え、それから羊谷の顔を覗き込む。

「俺を呼ぶときは下の名前でお願いな」

「何でっすか?」

「いいじゃん、その方が仲いい感じがするし! 俺たちもう親友じゃん」

 描かれた眉を顰め、羊谷が問い返すが総一は軽口で返す。少なくとも羊谷は、それが冗談だと思った。

 そして冗談でも、逆らうのは得策ではあるまい。その程度、何もない。

「……で、先輩はこっちの方に家が?」

「そうだよ。歩いて少しのとこ。次の商店街越えてすぐんとこだけど」

「へー」

「羊谷のところはその更に奥だっけ? 川向こうのほう」

「何で知ってんですか」

「全校生徒の簡単なプロフィールは頭に入れてあるぜ」

「すとーかーじゃねえか」

 得意げに「へへ」と笑う総一にどん引きし、羊谷は一歩身を引く。引いた腕の先でネイルが光った。


 

 小さな商店街を横切るように道が伸びる。

 曲がり角のポストの根元に座る猫が、首を動かし通行人を見張る。


 ろくな会話もなく、二人がその商店街に足を踏み入れる。十数歩で横切れる場所、何のこともなく通り過ぎる。

 一瞬だけ感じた喧噪のような賑やかさ。夕ご飯のための食材を仕入れにきた主婦目当てに、八百屋が張り切る。

 奥の肉屋のコロッケがちょうど揚がったところで、子供たちが、塾の前のおやつにと百円を握りしめて走っていった。


 そんな賑やかさも、今の二人には関係のないことだ。

 総一は、そんなものに興味がない。羊谷にとっては、それどころではない。

 

 歩幅も歩調も違う二人が並んで歩く。お互いに、お互いとの距離を離さぬよう気遣いあいながら。


 ろくな会話もない。だが、羊谷にとってはそうする余裕もない。

 その、総一のいる右側を、未だ碌に見られないのが不思議だった。




 商店街を抜けてすぐ。総一は顔を上げる。

「じゃあ、俺ここだから」

 借りているアパート、四階建ての入り口で立ち止まり、総一はそう呟くように羊谷に告げた。

 羊谷はそこを見上げると、鼻を鳴らす。

 やっと終わるのだ。この、親しくもない先輩と帰るという奇妙な時間が。

 鉄は熱いうちに打てという。ならば、早いところ帰って参考書を開く程度はしておきたい。


 少しだけ通り過ぎるように離れ、敬礼するように手を軽く上げて、体を捻り羊谷は総一に応える。

「お疲れ様っす。じゃ、あたしはこれで」

「おう。学校で会ったらよろしくな」

 気易い挨拶。総一としても、よくわからない時間だった。何故自分が一度話しただけの後輩と帰らなくてはいけないのだろうか。親友だと先程口にしたが、そんなことは毛ほども考えていないのに。



 さて、これで終わりだ。

 総一も、その階段に繋がる入り口に足を踏み入れようとした。


 だが、と足が止まる。

 視界の端の羊谷が、歩き出さずに表情を固める。少しだけぎこちなくなった動きに総一が気付いたときには、商店街の角の辺りから、ちょうどその原因が手を振っていた。


「あーっ! 麦じゃん!」

 

 二人が目を向けたその先には、四人の男女。その全員が登竜学園の制服を着ており、その所属を存分にアピールしていた。

 手を振っていたのは羊谷と同じ女生徒。ネクタイの色からすると一年生で、同じクラスか何かだろうと総一は当たりをつける。

 恐らく全員が同学年。名前とクラスを思い出そうと考え、そしてその全員が同じ括りの書類に載っていたことを思い出した。

 やや太めの男子と長身の男子。それぞれが野球班とサッカー班所属。だが、めぼしい活躍はしていない。茶髪にボブショート、メイクまで双子のように同じような格好をした女生徒は双子ではないが、二人とも手芸班の班員だった。

 

 そして、その書類はレッドブック。

 全員が、素行不良者として札付きとなっている生徒たちだった。


 特に暴力沙汰を起こしたなど、そういうものではない。

 主な要因は成績不良だ。一時限目には欠席も多く、そして試験の結果も振るわない。

 

 声をかけてきた女生徒が、駆け寄るように羊谷に近付く。それだけで、羊谷が唾を飲み込んだのを総一は見ていた。

「声かけたのに今日帰っちゃったしょ!? 今から一緒にショウゴん家いかね?」

「い、いや、あたしは……」

「そのあとオールでカラオケ行くんだけどー」

 言いきったのか言い切らなかったのか。そうともわからない風に語尾を伸ばし、そして総一をちらりと見た。

「あん? 誰それ? 麦のオトコ?」

「違……あ、いや……」

 しどろもどろになる羊谷に構わず、女生徒は羊谷の袖を引く。総一のことはもはや気にしていなかった。

「いいじゃん、なんか用事でもあんの?」

 まずい。そう思った羊谷は数歩離れていた総一に近付き、その袖を後ろから取る。

「いや、ほら、今からあたしこいつん家で一泊だし。な?」

 総一を見上げてそう同意を求めた羊谷の顔。それを見て、ここは下手なことを言うべきではないと総一は思った。

 

 だが、羊谷は明らかにその『ショウゴん家』に行くのを拒否している。それを見捨てられるほど、狭量でもなかった。

「そうそう。明日の朝までお楽しみなんで、よろ」

「はー、大胆(だいたーん)。まあ、そういうことならいいや。にしてもあんた、最近付き合い悪いよー?」

 羊谷に向ける邪気のない笑顔。総一はその女生徒の笑みをそう受け取ったが、しかし羊谷の様子がおかしい。

 口に出してはいないし、態度に出してもいない。

 しかしそれでも、何かを我慢しているように総一は思えた。


「今度また埋め合わせするから! じゃ!!」

 慌てるように、羊谷は総一の袖を引いて階段に足をかける。行き先すら知らぬまま。

 その羊谷の様子を見て、より一層笑顔を強めた女生徒は、その後ろ姿に元気に手を振る。

「じゃ、またねー! また明日!」

「う、うん……」

 だが羊谷の動きはぎこちないままだ。振り返り、手を振る動作も。袖からちょこんと出した指先が、まるまったままだった。


 階段を上り、踊り場を回り、四人が視界から消える。

 「麦来ないって」と、他の三人に報告する声が未だに二人に聞こえていた。


 四人が視界から消え、羊谷は溜め息をつく。黙って見ていた総一に構わず盛大に。

「んで? 俺んちに来ると?」

「んなわけねーじゃん」

 何を馬鹿な、と羊谷は返す。もちろん、羊谷としてもそんな気はさらさらなかった。

 ただ、口実が欲しかった。悪友たちの誘いを断る口実が。


 総一もそれはわかっている。だが、と下に目を向ける。壁に阻まれたその向こうで、何か話を始めた四人に意識を向けて。

「じゃ、俺は帰るからな。まだ四人とも下にいるから出てくのはおすすめしないけど」

「心配しなくても、ここで時間潰してから出てくよ」

「そ」

 まあ、もはや自分には関係のないことだ。そう考えた総一はもはや羊谷に目を向けず階段を上る。総一の部屋は二階の角。登ってすぐの部屋だった。



 羊谷のスマートフォンが鳴る。短く終わるメールの着信音に、羊谷が顔を曇らせる。

 そして、そのスマートフォンを開いた彼女の顔が微かに歪んだ。


「なあ」

「ん?」

 階段の一番上にいた総一に、小声で羊谷が呼びかける。その顔に総一は、緊迫感を覚えた。

 羊谷の喉が鳴る。唾を飲み込んだはずなのに、やけに固い塊だった気がした。

「やっぱり、上げてくんね?」

「何故に」

 小声で言われた故に、小声で返す。不思議だった。

「後で話すよ。いいから、早く」

「……すぐ帰れよ」

 

 しぶしぶと総一は羊谷を部屋に促す。

 上げられない理由もない。


 鍵を回し、扉を開く。

「おじゃまします」

「どーぞ」

 だが、考えてみればこの部屋に管理人以外の人を上げるのは初めてのことだ。

 そう気がついた総一は、一応の来客を迎える体を作り、羊谷を部屋に招き入れた。



 

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