相身互いに
「失礼しま……す……?」
ノックをしてから生徒会室に入った白鳥は、中の空気に何となく違和感を覚えた。
視線の先には、ぐったりとソファーにもたれ掛かる総一に、また同じく座ったまま小説に目を通し続ける兎崎。
いつもと何も変わりない光景だ。昼休みや放課後の早い時間であればよくある光景で、ここからいつもは羊谷や糸子が合流して何かしらの動きが見られるのだが。
白鳥が入ってなお、気にもしない風に総一は天井を見つめている。淀んだ目で。
「……何かありましたの?」
いつもの光景。だがいつもと違う何かの雰囲気。尋ねられて、ようやく兎崎は小説から目を上げて白鳥を見た。
「何もないわ。ただ、青春があっただけ」
「青春?」
聞き返した白鳥に補足はせずに、兎崎はクツクツと笑う。
現実世界で久しぶりに面白いものを見た気がする。そう思えてならない。
「ね、格好悪い総一くん」
「えー、めっちゃショックぅー……」
冗談めかした兎崎の言葉に再起動したように総一は溜息をつく。
今の出来事の本質はそうではない。そう思いつつも縋るように。
「格好……悪い……?」
何の話? とやはり何も知らずに愛想笑いの微笑みを湛えたまま、白鳥は首を傾げた。
そして縋れども逃げ道はないと気付いた総一は、白鳥に目を向けずにまた溜息をついた。
強がりのように笑い、総一は白鳥に向く。
「白鳥も、俺と会長の弟君の試合推進派なんだっけ?」
「試合……ああ、ええ、そうですけど……」
「ね、試合しない俺って格好悪い?」
「え?」
にこにこと悪ふざけのように笑う総一に、白鳥はなんと言っていいか言い淀む。
そのような尺度で考えたことはなく、そしていつでも白鳥の目には答えは決まっている。正確には、それは今の白鳥の目の前にいる総一のことではないが。
「いえ? そんなことは……?」
「意気地がないって言ってたものね」
「あ?」
何の話、とまた考えかけて、白鳥はそれが少し前の自分の言葉だと気付く。
気付いて、その言葉の意味を考え直した白鳥は兎崎を睨むが、視線を向けられた兎崎は読みかけの小説で口元だけを隠してそれを受け止めた。
「頑張れば出来るのに、頑張らないで諦めるのは意気地無しだ……ってところだったかしら」
元々表情少ない兎崎の煽るような言葉。けれども、その表情が笑顔かまた別の何かか、わからずに白鳥は眉を顰める。
「それは決して総一さんのことでは」
「忘れたの? 総一の話をしてたのよ、私たちは」
「だから」
「意気地無しですまん」
口論に発展しそうになった雰囲気を裂くように、総一が頭を下げる。いつの間にかソファーの上にあぐらをかいて、背中を丸めるように。
「い!? いや、ですから!!」
「っていうかいつの話だよ。俺抜きで俺の話?」
「この前会長に相談されたの。私たちと羊谷といるときにね」
「はーん」
そういえばそんなことを話したと羊谷も言っていた気がする。そのことかと総一は納得して、深呼吸した。
「つまり、今の俺は意気地無しの格好悪い奴ってことね」
やれやれ、と総一は納得する。まあ異論はない。
そして、立ち止まったままの自分。
客観的に見れば、たしかに、たしかに。
そして、だからといって。
「それでじゃあって俺がやる気になったら、それもまたダサくない?」
「ノーコメント」
別にどうとも思わないが、と兎崎は内心付け足す。好きにすればいいのだ、と思う。
何でも好きにする、しない。それが選べるのが、『出来る』自分たちの特権だ。『そうするしかない』余人にはない私たちだけの。
「ま、だから、聞かなかったことにしとこ」
総一は手を伸ばし、傍らにあった煎餅に手を伸ばしてガリガリと噛み砕く。
学園長室から失敬してきた菓子の一つ。最近の学園長の流行は甘みがつけてある甘塩っぱいものらしい。
「私は総一さんのことだって言ってませんからね!?」
「うん、だから俺は何も聞いてないんだって」
頬の熱さも落ち着いてきた。
それは棚上げ、というようなものかもしれない。けれども、今目の前にないから考えられると言うこともあるだろう、と総一は内心言い訳をしつつ。
落ち着いた様子の総一にまた白鳥は首を傾げつつ言葉を重ねる。
「ええと、何かよくわからないんですが……」
弁解のような言い訳のような。しかし、本心で。
「弟さんとの試合をしてほしい、というよりは、私は総一さんがやらない理由がわからなかったっていうだけで」
元々、落ち着いて考えてみれば、憶測以外、白鳥とて総一に試合をさせたい理由はない。
理由があるとすれば、ただの兎崎への対抗心という程度で。
「やらない理由があるなら、別にいいと思うんです。やりたくないなら」
「この前と言ってること違くない?」
「また口を挟みますか?」
白鳥は青筋を浮かべかけ、中指を立てかける。
しかし、総一の前で醜い口論は出来ないと一人自分を律して咳払いを一つする。
「とにかく、……。相手が強敵だから、だから逃げてるだけなら私も意気地無し、と言わせてもらいますけれど……」
もう一度咳払いをして、白鳥は胸元を握りしめた。
何故だろう。この雰囲気は、先ほど部屋に入ってきたときのような。そう思ってしまう自分が何故だかわからなかった。
「私は総一さんがそんな人ではないと思ってるので。試合しようがしまいが、意気地無しなんて思ってませんわ」
違うでしょう? と声を出さずに白鳥はまっすぐ総一を見つめた。
何故だか真剣な話をしている気がして、胸が高鳴る気がする。
総一はその視線から目を逸らしたくなって、けれどもぼんやりと焦点を合わせずにやり過ごそうとして、そして笑って手を上げて誤魔化した。
「買い被りだね。俺はただの意気地無しだよ」
「そう、ですか」
「すまんな」
また煎餅を口に詰め込み、上を向いて総一はばりばりと噛み砕く。
やはり言われても、彼らに見直されるために戦う気は出ない。どれだけ努力しても、母は自分を見てはくれなかったのだから。肉親ですら『そう』だったのだから。ましてや、他人など。
「……聞かなかったことにしておきますわ」
「ふぉっか」
白鳥の顔が見返せずに、そして目を落として羊谷のノートも見れずに、総一は顔を背けた。
放課後。武道場ではいつものように武道系の班活動が始まっていた。
その中でやはりいつものように元気が溢れているのは、この学校の班活動で最も力が注がれている拳道班だ。
もうすぐ夏休みがはじまる。けれどもそれとほとんど前後して始まる全国大会の地区予選。今はその追い込みの時期だ。
既に『実力を伸ばす』というような時期は終わりつつある。今移行しつつあるのは、その地区予選に向けて『不安を消す』段階。
各々休養を取り、身体が動かない要因を減らす。もしくはサンドバッグを無心に叩き、また延々と組み手を行い、『やり残した』という不安を軽減させる。
これだけ元気ならば負けはしないだろう。これだけ練習すれば勝てるだろう。そう自身の心の弱い部分を打ち消そうとする時期。
拳道の個人戦枠は各校二人。
だが団体戦は各試合で五人が出るものであり、更にそこに補欠も加わるため枠の数も多く総勢で十人となる。しかしこれは近年『お祭り感』がほしいと海馬源道拳道連盟会長の発案で増やすべく協議中だ。
ともかくとして、この時期練習に熱を入れる選手は多い。その熱気に当てられて、次の大会の枠を勝ち取ろうと身体を動かし始める人間も。
当然、今年の大会個人出場枠の一つを埋める丑光雷太もその一人だ。
学園長も見守る中、志願者相手の組み手を続けてゆく。
人間というものは、また若者というものは、一つの勝負の勝敗で大きく成長することがある。丑光もそれで、学園長の補助と総一の自身の手加減もあるが、けれどもたしかな総一への勝利というもので大きく成長したものだ。
ドス、と人が叩かれる音が響く。バシン、と人が畳に叩きつけられる音が響く。
組み手相手をものともしない。もう一人の個人出場枠を持つ選手は除き、もはや危うげはない。
学園長もそう思う。
最高ではないが、現時点でベストの仕上がりだ。これで大きな怪我もなく、また何かしらのモチベーションの低下などがなければ、大会でもそう番狂わせも起きずに順調に勝ち進んでいけるだろう。
無論、強豪といえるものは大勢いる。けれども、それでも勝てる可能性は全てにある。もはや辰美理織にさえ当たらなければ、おそらく全国大会出場は狙えるはずだ。そうは思う。
そうは思うが、しかし。
丑光も同じような考えだった。
元々中学の時から強豪とも呼べる選手の一人だ。なかなか地区予選も勝ち上がれず、また全国で優勝出来るほどの腕はなかった、程度ではあったものの。
だがその強豪とも呼べた腕が、この学園に入り更に開花した。一年間の雌伏の時が終わり、これから雄飛の時が始まる。当代随一の武人である学園長の指導の下、得た力は地区予選を勝ち上がるのにあまりあるものだ。
だが、しかし。
(辰美理織に勝てなきゃ意味がない)
それは二人の共通意見だ。
去年の全国大会優勝者。無論今年も優勝最有力候補。
予選トーナメントでも、勝ち進む限りは必ず当たる相手。また、仮に辰美理織を誰かが下したとすれば、その辰美理織よりも強い相手と必ず当たることになる。
「よっしゃこい!!」
叫び、組み手相手を丑光は呼び込む。相手の予備動作からわかってはいた。狙っているのは中段の正拳突き。腹部に当てようというのだろうし、そして丑光がわざと開けたガードの穴もそこにある。
相手も団体戦の出場者。その正拳突きが弱いわけではない。
だが、丑光も今回はガードする気はなかった。
やってみたくなったし、出来ると思った。
腹筋を全力で固め、思い浮かべるのは、少し前に見た王者辰美理織と、鳳総一の試合。
ドム、と固い水風船を叩いたような音がした。
鉄球のような重さの正拳突きが丑光の腹部に突き刺さる。強大な衝撃。
昼に食べた鮭握りは胃から消えているはずだったが、しかし駆け上がってきた胃液にその気配を感じた。
(無理だろこれ……!)
やってから後悔した。思い浮かべたのは、理織と総一の試合のうち、理織がほとんど無防備な腹部で総一の突きを受けていたときのもの。
急所に伸びる攻撃は全て弾くかいなし、そして残ったものを無視していた姿。
今丑光が相手にしているのは、前身が空手家の上級生だ。空手家にとって中段正拳突きは最も基礎とも呼ばれるもので、そして最も鍛え上げて然るべきもの。
衝撃による痛みと内臓を押し潰される不快感が丑光の全身を駆け巡る。
これでも耐えきれない。万全の状態で準備万端で、それでも抑えきれぬ苦痛。
だが今回のものは、総一以上の突きではあり得ないだろう。
「っまだまだ!」
表情を歪めぬよう眉間に力を入れて、その腕を左手でとって、一歩踏み出す。
思い浮かべるのは、少し前の総一との乱取り稽古。
あの時受けたカウンターは、きっとこのようなものだったと、思う!
左手で相手の右腕を引きつつ、右手での裏拳。
急造のものとしてはそこそこのもの、だが。
「ぐっ……」
相手の頬に右拳がめり込む。歯を折るほどではないが強い衝撃に脳が揺れ、相手が膝をついた。
次に交替する頃合いだ。
「……ありがとうございました」
「ありがとうございました」
見下ろすように告げた丑光に、上級生がふらつきながら立ち上がり頭を下げる。次の相手は誰だ、と丑光が見れば、近くで準備していたこれもまた団体戦の補欠出場選手が腰を上げた。
相手の構えに応えるよう、丑光もまた構える。重心はやや高く、左手を前、右手顎の横。ボクシングのオーソドックス。
相手は少林寺拳法だったと丑光は記憶している。右手を鉄槌の形で前に出し、左掌を腰の前で下向きに構える。けれども本人の性格か、もしくは改良の結果か、やや前屈みのような。
相手が取っているのは所謂『待ち』の構え。丑光はそう思ったが、しかしその姿に迫力も圧力も感じなかった。
勝てる。自分は。
ステッピングジャブ。丑光の必殺技、『雷光』を繰り出せば、やや反応されたもののしかし問題もなかった。左拳が顎先に当たる感触。掠るように当てた拳は狙い通りに顎を打ち抜き、そして決着を見る。
勝てる。
もはや班の中には敵はいない。そう思えるのも当然のこと。丑光も、そして学園長もそう思う。
けれども、勝てない。学園長はそう思い、そして丑光もまた。
(足りねえ……辰美理織にも、鳳総一にも……)
丑光は、真似をしてみた。彼ら二人の。
彼とて出来ないわけではない。動作もなく行ったように見える辰美理織の受け。合理性の塊の鳳総一のカウンター。
しかし、完全に真似出来ているとも思えない。真似出来るとも思えない。
未だ高みにいる彼ら二人に追いつけていない。
それはわかるし、そして理解している。
だがその上で、丑光は納得出来ずに、苛立つように拳を強く握りしめた。
「学園長」
「……なんじゃ」
畳の上から見下ろすように、丑光は傍らで見ていた学園長を呼ぶ。その目には、練習による興奮と、そして何かしらの決意が見えた。
「俺じゃ断られちゃうんで、……やっぱ鳳を呼んでくれませんか」
「うむう……」
学園長もその言葉に唇を締める。
あの事故から数度、丑光は総一に誘いを入れた。けれども、総一は応えなかった。頑として。
それがいつものように『面倒くさいから』という様な理由でないのがわかっていたからこそ、丑光もそれ以上を言えず、また学園長からは何も言えなかったのだが。
だが、あの時と今では、たった一週間ほどでも事情が違う。
予選はもうすぐ始まるのだ。段々と怪我などに配慮する形にしなければならず、そして事故が起こりうる総一とやらせるのも忌避する段階で。
「鳳に勝てないんなら、俺は辰美理織にも勝てない。そんな気がするんです」
「そうかもしれんがのう……」
学園長は髭をしごき同意する。
強さという観点からすれば、辰美理織に劣る総一に勝てないのであれば、辰美理織にも勝てない。簡単な証明問題だ。
勿論必ずしもそうではない。総一と辰美理織の戦い方は正反対に近く、そして戦いというのは相性というものがある。
そしてもう、総一と戦わせる理由もなくなっている。
「儂も強制したくはないから、奴がうんと言わんと難しいの」
「それが」
「いいよー」
そして学園長の横で、声が響く。
丑光は見ていなかった。学園長も班員の誰かだと思っていた。
それが振り返り、また注目すればそこには件の主、総一が学生服のままにこにこと笑いながら立っていた。
「組み手じゃなくて、試合。拳道ルール。二本先取。それでいいか?」
「上等。望むところ……だけどなんだ? いきなりやる気になってんのは」
丑光は獰猛に笑いかける。勝てるとは思えない。けれど、勝ちたい相手が降って湧いてきた。そんな幸運に向けて。
「別にぃー、俺もちょうどよかったっていうかぁー」
野原で蝶でも追うように、総一は身を翻してふらふらと更衣室に向けて歩き始める。手に持つ道着は以前借りて、そして返していなかったもの。
「親切の一環だよ。そろそろみんなうざったくなってきたし、お前が辰美理織に勝てるように協力しようかなって」
「いいのか? 総一?」
「そっすね。だって、仮想辰美理織にちょうどいいんでしょ?」
学園長は、そして会長はそう言っていたはずだ、と内心総一は答える。
それから総一は、だから今日が最後だ、と丑光を見上げた。
見上げられた丑光は、何故だか猛っていた興奮が僅か収まり、そして得体の知れない怖気を感じた。




