決まってんだろ
月曜日。昼休みの生徒会室。
「それで、無理でした、と」
総一の言葉に、むす、と殊更に頬を膨らませて、羊谷はそれ以上の言及を避ける。
総一と兎崎、座った二人の目の前に置かれた羊谷のノートには、大きなバツが二つ。
「……まだやってないところ出すのは卑怯っすよ」
「ははは、幾何とか出してら。これ三年生の範囲じゃん」
羊谷の言い訳の言葉を否定せず、総一は笑う。
小説を読む手を止めて、兎崎もそのノートに写された今日の数学の小テストを覗き込んだ。
二人の見解も相違ない。問題はほとんどが一つ前の授業の振り返りだったし、そこはある種出来て当たり前、だろう。けれども一部の問題は高校一年生に出す小テストの問題としては難解に過ぎるし、そもそも解法の解説を授業で行ってすらいまい。
「当然ってところかしら」
兎崎も頷く。最後の問題は出来なくて当たり前、といってもいいとは思う。勿論自分や総一ならば問題がなくとも、けれども『出来ない』人間ならばそれは出来ない。
「残念ね、ゴジラが倒せなくて」
「……~~~!!」
からかうように微笑む兎崎の言葉に何も言い返せず、羊谷は地団駄を踏む。
最近わかってきた数学。だから悪い点ではない。だが、予告通りの満点を取れなかったのは事実なのだ。これでは何の証明にもならない。
しかし、と兎崎は総一を振り返る。
「前には満点取れたって話だったけど、それは運が良かったから?」
「んにゃ。あの時は全範囲教えてたから普通に出来たんだろ」
「そう。なら、今回もそうすればよかったのにね」
「ふぬぬぬ……」
兎崎の言葉に羊谷はまた地団駄を踏む。
たしかに総一に教えてもらえばそれは出来たかもしれない。けれども、今回は自分の力で満点を取らなければ意味がないのだ。自分の手でゴジラを倒さなければ。
そう悔しさを滲ませる羊谷に、微笑みを消し兎崎は溜息をつく。
「そもそも、あんたは出来るのよ」
「え?」
「前には満点取れたんでしょ? なら、また取れたって『出来ないことをやった』わけじゃない……って理屈はわからない?」
「…………」
言われてみれば、と羊谷は唇を尖らせて目を逸らす。
「……わかりますけど……」
じゃあなにか、自分が頑張ったこの二日の勉強は無駄だったのか。握りしめた拳に、違う悔しさが混じる。
それに。
総一を見れば、異論はないらしい。まあな、とばかりに苦笑しつつ目を逸らした。
不思議だった。
兎崎からも総一からも、『出来る』と言われた。もう少し補足すれば、『やれば出来る』という言葉。
きっと褒め言葉なのだろう。お前は出来る。やれば出来る子なのだから、と。
けれども不思議だった。
その言葉が、何も嬉しく思えなかった。
彼らは嫌みや皮肉を言っているわけではないらしい。なのに、何故だか。
羊谷を無視するように、総一は改めてノートを覗き込む。
「ま、ケアレスミスもほぼ無し。一個公式間違えてるけど」
+と-の単純な取り違え。だがこれは、書き間違えやうっかり、というよりも覚え間違えという性質が近いだろうと総一は推測した。
顔を上げた総一と羊谷の目があう。
「よく頑張ったよ。マジで」
「ぬぐぐぐぐ……」
それは嬉しいが、自分が言われたかった言葉と違う!!
そう思いつつも、もはや何も反論出来ない。出来なかったのは事実だ。そう羊谷は、言いたいことを全て飲み込もうとする。
総一は、その顔を見て、辛かろう、と推測する。
きっと同じなのだ。今羊谷が感じているものは、自分が求めていて、そして得られなかったときの感情と。
今までの人生、自分なりに頑張って、それでも目標は達成出来なかった。母はこちらを向いてはくれなかった。だから。
「でもさ、な? 誰にだって出来ないことってあるもんだろ?」
「あ、あたしは、諦めてませんし!」
「そりゃ羊谷なら、何回かやれば出来るかもね」
「…………」
無理じゃないの? と兎崎は思ったが、その言葉も飲み込んだ。
総一の笑みはいつもと同じ。けれどもどこかいつもと違って、その違和感が口止めをした。
総一は、たしかに思う。別に羊谷にとっては無理ではない。頑張ればいつかはきっと取れるだろうし、そして彼女は頑張れる人間だ。だから今は無理でも、運が良ければいつかはきっとと思う。
「でも、どっかで耐えられなくなるよ、きっと」
出来る前か後か。それはわからない。
けれども人間というのは、永遠に努力をし続けることは出来ないものだ。出来るまで努力をし続けられれば可能だろうと思う。だが、その永遠の努力がきっと不可能なのだろう。
それはきっと、同じように出来ない羊谷と自分の違うところだ。
「せ、先輩だって、そんなに弟さんと試合やってないじゃないっすか」
「俺の場合は『もう無理だ』って思ったし……二回もやりゃわかるよ」
それに自分の場合は、その『問題』はどんどんと難しくなってゆく。
「今だから言うけど、二年前なら勝てたかもしんない。俺もめっちゃ強かったしね。でも、俺の流派って初見殺し特化なんだよね。二回目は無理」
総一の流派、咋神流には弱点がある。それは、再現性が強すぎるということ。
多彩で神速のカウンターは、しかし同じ動作には同じ動作を返してしまう。試合を重ねるだけで相手にはその経験知が蓄積され、そしていずれは攻略されてしまうもの。
本来の時代、戦国時代などでは相手の死亡を以て決着するために問題とならなかった弱点も、この平和な時代では相手が生き残るためにその弱点が顕在化している。
だからというわけではないが。
再戦を重ねる度に、相手は手強くなってゆく。こちらが弱体化するということで。
何百回の乱取りの末、丑光に一本とられたように。
「それに、さすが会長の弟君。この前やったときには、やっぱり段違いだった。ゴジラがスペースゴジラになってたくらいに」
そして相手も強くなっていた。
才能の違いを改めて感じるほどに。
「そんなに違ったの?」
「おうよ。多分二年前の本人とやらせると圧勝するんじゃね?」
良いことだ、とは思う。
それだけ鍛練を重ねてきたということ。その鍛練が上達に結びついたということ。
良いことだ、とは思う。憎らしいほどに。
「……なんすか、それ」
ぽつりと羊谷が呟く。
言葉に混じるのはほんの少しの落胆。出来なかった自分に対する苛立ちと、そして出来ると信じている総一に対する苛立ちと。
総一と兎崎が羊谷を見て、その泣きそうな顔にぎょっとした。
「先輩この前からずっと、全部予想じゃないっすか。全部『多分』がつくじゃないっすか。きっと負ける。きっと本人は勝つ。自分は出来ないから、お前は出来るからって」
自分は頭が良くなくて、そして総一は頭が良いから。
そういうものだと思ってきた。その予想は外れないのだと思ってきた。
けれど考えてみれば、羊谷にとってはそれは全て不確かな予想でしかない。
たしかなのは、二年前に負けたこと。それに、この前試合を途中までしたこと。たったそれだけで。
「前回弟さんはすっげぇ調子が良かっただけかもしれないじゃないっすか。先輩だって負けてないって話でしたし、拳道は二本先取でしょ? 一本取られただけって辰美会長言ってましたし、じゃあ後二本ストレートで取れたかもしんないじゃないっすか」
まだ負けてない。それは言い換えればまだ勝ってない、というだけ。
「無理だった、って言えないっしょ。まだわかんないんだから」
「いやもう」
「勝てないっていうのが本当だって、わかるのが怖いんじゃないっすか」
扉を開けられないとわかるのが怖いから、扉の前で立ち尽くしている。
羊谷は、そんな総一を見たくはない。
「やっぱりやってみましょうよ、先輩。もし負けたって、絶対そのほうがいいっすよ」
「会長みたいなこと言うなぁ……」
溜息交じりに総一は笑う。何となく張り詰めた空気が、少しだけ嫌だった。
兎崎も少しばかり嫌で、その空気を壊すため、からかいまじりに声を上げる。
「あんたは満点取れなかったじゃない」
「満点取れたらやってくれなんて言ってませんしー」
「それはそう」
兎崎の言葉に気丈に羊谷は言い返す。その言葉に、総一は返す言葉がなかった。
「あたしはたしかに出来ないのかもしれないっすけど、先輩は、出来る……から……」
そして勢いのままに羊谷は言おうとして、そして声が小さくなってゆく。
自分は出来ない。しかし総一は出来る。
だがその『出来る』は、先ほどの総一たちの言った自分の『出来る』ともしかして同質の。
「…………」
小さくなって止まった言葉の続き。それを待ち、総一たちは固まる。
その視線を受けて、羊谷は言葉を失った。何を言えばいいのかわからなくなって、だが、何を言いたいのかは自分でも何故だかよくわかった。
「ああもう!!」
長い髪を振り乱し、羊谷は一度大きく頭を振る。
「嫌なんすよ! 総一先輩がそうやってうじうじしてんの!! 勝てない勝てないって、一度の負けが何だってんすか!! 何回でもやりゃあいいでしょ! 先輩ならいつかはやってくれるってあたしは思ってんすよ!!」
「は、はあ」
「あたしたちが出来ないことを何でもさらっとやって、『こんなこと簡単っしょ』って笑うのが先輩じゃないっすか! だから憧れて……」
そうじゃない、と羊谷は自分で自分の言葉を止める。
それを言うべきではない。それはわかっている。だから。
「駄目だったらあたしが励ましてやるから、やってこいってんだよ!!」
啖呵を切り終え、シンと静まる部屋の中。
ふうふうと肩で息をする羊谷。
総一と兎崎は一瞬顔を見合わせ、何となくの気まずさに二人で目を逸らし合った。
止まったような時間の中で、何か言え、と兎崎が総一に祈る。
多分兎崎がそんなこと思っているんだろうなぁ、と総一も思いつつ、どういった言葉で返せばいいのかわからずに一瞬悩んだ。
真面目に応えればいいのか。それとも冗談めかして応えればいいのか。
いっそ無視するという手もある、と考えついたが、それも難しいな、と思った。
真面目な空気は辛い。
「何だよ、羊谷、俺のこと大好きじゃーん」
総一が選んだのは、冗談で返すこと。
きっと羊谷も、失敗の影響か興奮しているのだろう。
「だっ……」
思った通り。総一は羊谷の口ごもる様子に安心した。
『誰が』。羊谷がそんな風に返すと思った。
今の自分の発言を顧みて、少しだけ冷静になって、それでどうにかうやむやにしてくれないかと願った。
けれども。
「……大好きだよ。悪いかよ」
唇を尖らせた羊谷の反応は、願ったのとは違う方向で。
今度は総一が硬直する。
赤面した顔は叫んでいた興奮からではないらしい。更に顔を赤くした羊谷に、兎崎は内心『あらら』と呟いた。
「そりゃそうじゃん。何でも出来るスーパーマンみたいな奴がさ、あたしみたいな落ちこぼれに声かけてくれてさ、友達だって言ってくれてさ、馬鹿やっても何しても見捨てないでくれてさ」
ぼそぼそと、けれども顔を伏せずに羊谷は続ける。唇に血が上りひりひりと痛い。
「よく見りゃ顔だってそこそこカッコいいし? 頼み事したらなんだかんだ聞いてくれて優しいし? 料理作るのだって上手だし? むしろこんだけ優良物件なら好きにならないほうがおかしいじゃん?」
それは贔屓目ではないだろうか。
総一も兎崎もそう思ったが、口は挟めなかった。
羊谷の潤んだ瞳から、涙が零れてきたために。
「でもさ」
鼻を啜り、涙を落としつつ羊谷は下を向く。
「そうやってずっと」
声音が恨み言の質を帯びる。誰を恨めばいいのか、羊谷にはわからない。生まれ持った彼の性格か。それとも勝った会長の弟か。そもそも恨むべきなのだろうか。恨んでいるのだろうか。
わからないが、しかし、言いたいことは一つ。
「うじうじ何もしねえ先輩って今! めちゃくちゃカッコ悪いからな!!」
また、部屋がシンと静まる。
羊谷は顔を上げられなかった。上げた先、総一がどんな顔をしているのか見るのが怖かった。この際兎崎はどうでもいい。ただ、言ってしまった後悔が苦くて、それ以上口を開けなかった。
「…………」
顔を伏せたまま無言で幽霊のように歩き、二人に背を向け、羊谷は生徒会室の扉の前で立ち止まった。
「……さーせん。言い過ぎました。忘れてください」
「…………おう」
それから鼻を啜ると、静かに扉を開けて出てゆく。兎崎も総一も、それを呼び止めることも出来ずに。
総一は閉まった扉に向けてただ小さく声を上げることしか出来ずに。
「……ノート忘れてるよー」
返ってくる声がないことを知っているから、口に出来た。
コチコチと時計の針の音が響く。
残った二人はしばし無言で、気まずさに目を合わせられなかった。
「……よかったわね。好きだって」
「おうよ」
総一としても初めての経験だった。恋の告白。それもよく見知った相手からの。
どう対応していいかわからずに頭が真っ白になる。
そんな素振りも今まで感じていなかったし、そんなことも考えたこともないのに。
「ようやく言ったのね、あの子も」
「知ってたん?」
「見ればわかるわよ」
クツクツと笑い、兎崎はからかうように総一を見た。
一応軽く赤くなってはいるらしい。彼もまた、年相応ということだろうか、と納得した。
「知らなかったの? あんた案外モテるのよ」
「存じ上げませんでしたね」
「あの子含めて、あんたが好き、っていうのは少なくとも私は四人知っているわ」
「まじか」
兎崎の交友関係の狭さは総一も知っている。
けれどそんな中で、四人。誰だ、と総一は思いを巡らせた。
「それで、どうするの?」
「……どうするも、……どうもせんわな。考えたこともねえもん」
「そう」
それならそれでいい、と兎崎も何かを強要する気はない。
総一の答えに安心したように、兎崎は傍らの本を開く。今日の小説は青春小説。きっと甘酸っぱい。今日の今の空気のように。
総一の弱点の一つ。『初めて行うこと』。
今彼を襲っているのは、まさしくそれだった。
「俺、カッコ悪い?」
「そうね」
考えを整理するように、片言で呟かれた言葉に兎崎は同意する。異論はなかった。自分は、彼が格好良くても格好悪くてもどうでもいいだけで。
「マジか」
「マジよ」
どんな総一でも、隣に置けると決めているのだから。
「そっか。カッコ悪いかー……」
呆然としたように総一は呟いて、ソファーの背もたれに背中をくっつける。
それから顔を上げ、見上げた天井に向けて大きく息を吐いた。




