証明問題
嫌いだった。
数学というもの。味のない数字という文字がいくつも並び、自分の脳はそれを理解することを拒絶する。教科書に並ぶ文章は暗号文のようにしか見えず、教師が教える授業風景はお経のように意味のわからないBGMでしかなかった。
クラスメイトたちはそんな難解な文章や音を理解して、自分にはわからない解答を導き出している。
まるで別の世界で知らない言葉を話している誰かたち。
周囲が皆そんなようにしか見えずに、思えずに、孤独感に苛まれていた学校のつまらない時間。
だから、『わからないよね』と言い合える友達が嬉しかった。
数学だけではなく全ての授業で。
仲間だと思った。猿渡や犬上たち、自分と同じく『出来ない』彼らと愚痴のようなものを言い合うのが少しだけ救いになっていたのだと思う。
日曜夜遅く。
羊谷の家の自室で、羊谷は机に向かう。
ノートにかりかりと音を立てて刻み込むのは、数学の方程式、また証明の文章たち。
両親はもう寝ているらしい。先ほど『早く寝なさいよ』と母はトイレで入れ違いにあくび混じりに言い残していった。
だが、今日は寝るわけにはいかない。
いいや、日付も変わりそうな今、本来はもう寝るべき時間だ。
本来は寝られるべきなのだ。明日の午前、数学の授業では小テストがある。その問題のほとんど全ては以前の授業の振り返りであり、そして故に今更振り返る必要などない、というのが理想なのだろう。覚えているべきなのだ。以前、やったことなのだから。
けれども、自分は寝るわけにはいかない。
不出来な自分。本来高校以前、中学で学ぶようなものさえも不確かで不出来な自分。だからまだ、やらないわけにはいかない。
出来ないのだから、出来るまでやらなければいけない。自分はそう思う。
何せ、明日には数学の授業で小テストがある。
自分はそこで満点を取らなければいけないのだ。
それは、実力を証明したいからでも、教師に褒められたいからでもない。
皆に褒められたい、というのも少しだけ違う。
では何故? と浮かべた理由はまず一つ。
認めさせたい。見せたいのだ。総一に。
使命感のようなもの、と羊谷は自分でも思った。
最近、総一の元気がない。
何か自信をなくしているらしい。それが拳道で不覚をとったからなのか、それとも他の理由からか、は羊谷にはわからない。
『努力しても出来ないことがある』、と総一は言っていた。会長の弟には拳道で絶対に勝てない、と彼は諦めているらしい。
力なく笑う総一の顔を思い返して、羊谷のノートの文字が少しだけ濃くなる。
きっと総一は強い。羊谷はそう信じている。
会長の弟がどれだけ強いのかは羊谷は知らない。しかし成人男子を軽々吹き飛ばし、指の力だけで鋏を折る会長の強さは知っていて、あれと同類、というのならば強いのだろうとは思う。
無論、総一がそれ以上に強いかどうかは羊谷は知らない。強いという噂だけを聞いており、その戦った姿を見たことはないのだから。
だがそれでも強いと思う。
だから自信を取り戻し、戦って、勝って……。
羊谷のペンが止まる。
勝ってほしい、と思った。きっと思ったのだが、けれどもその考えに違和感がある。
違う、と思った。本当は勝ってほしいわけではない。
戦ってほしい、のだろうか、とも思った。けれどもそうではない。きっと違っていて。
顔を上げて、ぼんやりと前を見る。
視界の端には小さいカレンダー。もう『あの日』から何週間も経っていた。
……戦うなどどうでもいいのだ。
会長の弟と試合をさせたい。そんなものは会長の、もしくは白鳥先輩の願いでしかない。
やはり、ただ、自信を取り戻して欲しい。
そう簡単に短く自分の考えをまとめた羊谷は、誰にも届かない声で「うん」と頷いた。
勝ってほしいわけではない。戦ってほしいわけでもない。
ただ、戦える、と思ってほしいのだ。
こんなことで、とは思う。
ただ小さなテストで良い点数をとる。それを見せたからといって、あのどこか偏屈でもある先輩が考えを変えるかどうかの確証はない。
でも、決めつけてほしくはない。
勉強が楽しいと最近思う。その日の学校の授業でわからなかったことを彼の授業でまた復習して、また基礎から教えてもらって。ようやく『出来る』人間の気持ちが少しだけ想像出来てきた気がする。
そして『出来る』彼の気持ちがわかるとは言えない。きっと自分は『出来る』の一番下にいて、彼は『出来る』の一番上にいる。そんな彼が『出来ない』と弱音を吐くというのは相当なことなのだろうと思う。
でも、だから、自分は彼に諦めてほしくない。
学校が楽しいと最近思う。同じクラスに友達が出来た。お互いに流行の化粧アイテムを自慢したり、好きな菓子の感想を言い合う程度ではあるが、しかしきっと友達が。
知らなかった。猿渡と犬上以外に、あのクラスで自分を見ていた人がいたなんて。気付かなかった。彼に言われて目を向けなければ。
勉強が楽しいと最近思う。彼が教えてくれたから。開け方もわからず立ち尽くしていた扉の向こうから、彼が扉を開けて招き入れてくれたから。
学校が楽しいと最近思う。彼が教えてくれたから。それとなく、なんとなく、みんなの輪に入る背中を押してくれたから。
だから、今度は自分がやらなければいけないのだ。
それは使命感。
「故に……a=b=cのときに等号が成り立つ……で、いいのかこれ?」
数学の問題集、証明問題を書き終えて間も置かず羊谷はページをめくる。そして、模範解答とほとんど変わらない自分の解答に満足して問題部分に目を戻した。
考え続けて眉間に皺が寄っている気がする。目の端がじわじわと痛む。けれども、まだやりたりない気がする。
やり足りることなどない気がする。
どれだけやっても無駄な気がする。
しかしそれでも羊谷の目や手は止まらない。
胸にあるのは使命感と意地。
やらなければいけないのだ。自分が。
わかっている。これは総一のため、などというものではない。
総一が何かに悩んでいるから、その悩みを解決したい、……などというものではない。
ただ、見たくない。
立ち止まっている総一など。
見たくない。扉の前で立ち尽くしている総一など。
開けられる扉なら一緒に開けたい。
もしも開けられない扉でも、二人で一緒に力を込めて、『開かなかったね』と顔を見合わせ笑い合いたい。
今頑張っている理由。それはいくつも考えて、そしていくつも頭の中どこかへ消えていった。
当初の目的などよくわからない、覚えていない。
自分が総一に対して張った意地の言葉。その理由は、その時の衝動のままで、今考えてもよくわからない。
自分の頭の中で、いくつもの理由がくるくる回っている。
認めさせたい。戦えると思ってほしい。諦めてほしくない。使命感。意地。
そのどれが本当の自分の理由かもわからないままで。そしてきっと、全てが本当の理由なのだろう。
だから、諦めるわけにはいかないのだ、と羊谷は問題をまたノートに丸い文字で書き写してゆく。
数学は嫌いだった。
でも今は嫌いじゃない。
学校は嫌いだった。
でも今は嫌いじゃない。
その理由を考える度、その理由のど真ん中にいる彼の顔が浮かぶ。
だから、彼に見せたい。ゴジラを倒す様を。
自分を元気づけてくれた彼に。
泣いてた自分の隣を歩いてくれた彼に。
自分がやり遂げて、何がどうなるかもわからない。彼の何が変わるかもわからない。
兎崎先輩や会長のように頭が良ければもっと上手く頭の中がまとめられて、そしてもっと上手い方法が何かあるかもしれない。
しかし自分は頭が良くないから。これしか思いつかないから。
だから、やる。私は。
「やってやんぞぉ!」
少なくともこの問題集、タコ頭のテストで出そうなところは全てやる。
数学の苦手な自分には、小テスト満点など難しいだろう。
だがやるのだ自分は。それが総一に対して今自分が出来る唯一のこと。
だって彼が教えてくれた。
学校が楽しいことも。勉強が嫌なことではないことも。
彼と一緒だったら、挑戦だって楽しいことも。
∴
出来る出来る出来る!
難しいことはどうでもいいし!
証明するのだ、彼への想いを!!
決意してまたペンを取る。
そして羊谷が頭から煙を出す感覚を覚えて問題集を閉じたのは、午前三時を回った頃だった。




