自分と他と
学園長は、いつもの通り武道場にいた。
夏場の熱い空気を吹き飛ばすような子供たちのかけ声に、自身も元気をもらえるとばかりに酔いしれながら。
「おっしゃ、次!」
畳の上では丑光が掛かり稽古に邁進する。
もはや班内で敵無し……とは言わないが、けれどももっとも強さを磨いた自身の愛弟子。ここ数日は更に腕を上げた。辰美理織に負けて、鳳総一に負け続けて、そして鳳総一にまぐれ勝ちした一件から。
学園長は他の班員相手に百人組み手とばかりに勝ち続ける丑光に対し、よくぞここまで磨いた、と声なくして思う。たまのアンラッキーな一本はあれども、他を圧倒し続けるその姿はまさに実力差の賜だろう。
汗の光が青春に輝く。
これぞまさに自分が求めているものだ、と内心ガッツポーズをして称えていた。
訪ねてきた二人の乙女に声をかけられたのは、まさにそんな時だった。
「……難しいのう」
そして鼻の下の髭を捻りつつ答えたのは、まさにそんな良い気分だったからだ。
「何故ですか?」
もしも総一が望んだ場合、拳道大会の個人枠を一枠譲ってほしい。そんな願いが聞き届けられず、糸子は少しだけ驚いた。常日頃、特待生である総一に目をかけ、見方によっては総一贔屓とも取れるこの学園長からそのような言葉が出るとは。
「この学園は生徒の自主性を重んじている、のですわよね?」
白鳥は明確に学園長に食ってかかる。
総一と学園長の仲はあまり知らない。けれども、その常日頃の学園長の態度からは、それを認めて当然とも思っていた。
それに、認められなければ困る。
きっと、総一は強い、と白鳥は思っている。
負けるから立ち向かわない。出来ないからやらない。そんな始める前から諦めてしまうような意気地無しなどではない、と信じている。
だからきっと、やりたいと思うはずなのだ、総一は。
「自主性を重んじているからこそ、じゃな」
「本人たちがやりたいということこそ、自主性では?」
「まあそうじゃろ」
事情を少しだけ聞いて、学園長は白鳥の態度に首を傾げる。
まるで、総一がそう望んでいるとでも言いたげな態度。それは、恋心、というもので納得していいものだろうか。
……いいや、これこそまさに恋心なのだろう、と微笑ましくも思いつつ。
「総一は拳道班ではないぞ」
「そうですけど」
「拳道の大会は、拳道班から出す。そして、二枠とももう内定しておる」
「ではそのどちらか一方を説得すれば」
「儂が説得するのか? 丑光は二年生じゃが、もう一人は三年生、最後の夏を諦めろと」
「…………」
拳道班から出す選手はもう決まっており、一人は丑光、そしてもう一人は三年生だ。
丑光には劣るかもしれないが、それでもその三年生も選手として不出来でもなく、三年間練習に励んできた実績がある。
「お主らが説得しても良い、などと儂がここで許可を出しても同じじゃな。もしも儂が、『そいつを説得出来たら替えてもよい』などと言うてみい。他の班員に示しが付かん」
個人出場の希望者は他にもいる。
けれども彼らは、今内定している二人の選手だから納得しているのだ。
班活動で同じ時間を過ごし、腕を競い合った仲だから納得しているのだ。
この一年半、練習もせず、またそもそも拳道班に所属もせず、班員からすれば遊んでいた総一を認めるものだろうか。
そんな総一が、突然自分たちを押しのけて代表入りすることなど、認められるものだろうか。
それに、そんな許可を出したとして、それが現在の選手に伝わってしまえば。
「儂の意向だと取られれば、丑光ももう一人もそれを『命令』だと思ってしまうかもしれん。自身の意に反しつつ、儂に忖度して自身の枠を譲るなど、許せるものではない」
それは総一の自主性ではなく、彼らの自主性を守るためだ。丑光たち代表選手本人が辞退を申し出てくれば、たしかにそれは受け取らざるを得ない。けれども、辞退を促すことなど学園長は決して出来ない。
「お主らが代表選手を説得するのは勝手じゃよ。儂も苦言は呈するが止めはしない。けれども、二人とも、いや、ここにいる拳道班員全員は、皆自分たちこそが代表入りするのだと努力をしてきた連中じゃ。そうして勝ち得た枠は重い。人には譲れんじゃろうな」
彼らにとって個人枠も集団戦枠も、拳道班員の中で選抜を経て勝ち取ったもの。
始めから与えられたものでもなく。
学園長は、二人を見る。
そしてうっすらと納得する。
たしかにこの二人にはその機微はわかるまい。
拳道班では辰美糸子に、そしてテニス班では白鳥叶に勝てる班員などいるわけがない。
二人ともがそれぞれの分野での絶対女王。
故に選抜の枠など、勝ち取るものではなく、常に手元にあるものだ。
だから軽い。
「どうしても枠が欲しければ来年じゃな。総一が拳道班へと所属して、来年まで待てば、チャンスはあるじゃろ」
むしろその場合はほぼ間違いなく個人出場枠の一つは総一で埋まるだろう、と学園長は思う。チャンスどころではない。彼も彼女ら二人と同じ、この学園では絶対王者となれる力があるのだから。
「それしかない、と」
じ、と糸子が学園長に強い視線を向ける。
睨んでいるわけではないが、けれども威嚇をするような視線。
学園長はその視線に怯むようにして、丑光を見て視界から糸子を隠した。
咳払いを一つ。
「そうは言わんが……まあ、儂は、やはりお主や皆の自主性に任せたいと思うとるよ」
このような外堀を埋めるやり方は、好かん。
「なーんか難しそうな曲っすね。なんていう曲っすか」
「これはねー、マゼッパ」
羊谷の問いに指を止めず、総一は暗譜で曲を弾きこなす。
指の動きは複雑で端から見ている羊谷には追えないが、しかしきっと総一のことだ、間違いなどないのだろうと思う。
難しそう。そうは思うが、それ以上に羊谷には驚きがある。
「男子が猫踏んじゃった以外弾くの初めて見たっす」
「それは偏見じゃね?」
まあたしかに、と思いつつも総一は笑った。
放課後の音楽準備室。
今日はまだ帰宅していなかった総一は、羊谷に居場所を聞かれてここだと答えた。
総一として、ここにいたのは特に理由があったわけではない。
ただ久しぶりに何か楽器を触りたいと思って。楽器が自由解放されて置かれている音楽準備室で適当に音を出していただけだ。
「しっかし上手ですよね」
「そりゃあ散々やったもん」
「何かの課題曲とか?」
「んにゃ。これ、練習曲っていって、ピアノの練習のために弾くんだよ」
「はぁ」
練習のために弾く、だから練習曲。
よくは知らないが、きっと練習のためというのならば初心者のためのものだろう。
ならばならば、複雑そうに見えるが、これでもピアノ経験者からすれば意外と簡単な曲なのだろうかと羊谷はぼんやり思った。だとしたらピアノなど自分には向いていないのだな、とも。
「……まあ、先輩の多芸さにはもう驚かない、として」
「おう」
「さっき、ちょっと私たちの間で総一先輩の拳道の話が上がりましてね」
「…………」
動き続けていた総一の指が、音とともに止まる。
「…………俺の?」
薄ら笑いのまま、総一は鍵盤の奥から目を離さない。
だが、楽しそうではない、と羊谷はしっかりと感じた。きっとこの話題は触れられたくないものなのだろうな、と瞬時に理解した。
それでも。
「辰美会長から、総一先輩を弟さんと試合させたいんだけどどうしたらいいかって」
「無理だと思うよ」
即答しつつ、ぽろん、ぽろん、と総一はまた鍵盤をゆっくりと叩く。
演奏している、というわけでもなく。ただ一つ一つ適当な音を鳴らして。
「あたしも無理だと思うんですけど。ま、先輩にその気はなさそうですし?」
「うん」
「でも、それが何でか、ってあたしは気になったんで」
聞きに来てみました、という言葉は省き、羊谷は恐る恐ると総一を窺った。
何となく雰囲気が重い、と思った。
怖くはない。しかし、いつか感じたことがあるこの先輩の雰囲気。たしかあれは、万引きが見つかったときのことだったか。
「会長には言ったし、その時聞いたんじゃない? どうせ勝てないからやらないだけっすよ」
そしてあの時と同じ、とまた羊谷は思った。
急激に軽くなる雰囲気。
しかし、あの時とは何かが違う。
笑みを浮かべた総一は羊谷を見ず、そして口調はやけに明るい。
「本当に勝てないんすか?」
「うん。本当に」
「本当の本当に?」
「マジマジ」
椅子を引き、総一が羊谷を見る。ようやく自分を見た、と羊谷は感じた。今日初めてかもしれないとも。
「目の前にゴジラがいて、人間が勝てると思う?」
「ゴジラ?」
「弟君って会長と同類だからね。俺たちとはそのくらい差があるんだぜ」
ケラケラと笑いつつ、冗談じみて総一は言う。
だがその言葉に、羊谷は何となく真剣みを感じた。
「第一、俺もう二年近く練習サボってるわけだし。現役選手とやって勝てるわけないっしょ」
そして真剣みと同時に、なんとなく寂しさも。細めた目に、憐憫のような暗さも。
「……そもそも、何でやめたんすか?」
「練習が嫌になったから」
総一の指が鍵盤を叩く。
まるででたらめで、しかし雨の滴のようなテンポの断続的な音が音楽準備室に響く。
「俺のやってた流派って結構特殊らしくてさ。ずーっと型稽古やらされるんだよね」
「型稽古って、あの空手の大会とかでやるやつ?」
「そ」
そっと総一は立ち上がる。
それから羊谷から離れて、横に楽器のないスペースへ。
「こういうやつ」
そして、だらりと手を落としたまま直立し、ゆっくりと踏み出す。
その先は羊谷の目には追えなかった。
総一の拳足が空気を裂く音。それに衣擦れのような布を張る音。
ただ動作の終わった総一が、見得を切るような残心で止まったのが見えただけで。
「空手の型みたいっしょ?」
「なんかよく見えなかったんですけど、全然違う気がしますわ」
いやいや、と羊谷が手を振って総一の言葉を否定する。
何せ、一瞬だった。
突きや蹴り、それに肘打ちと膝蹴りと。想定上の相手からの攻撃を弾き、取り、いなす。そんなことをほぼ同時、一呼吸の間に行う複雑さに、羊谷の理解が追いつかない。
張り詰めた空気を抜くように、だらりとまた腕を下げて総一は羊谷を向く。
「これの他にも、六十個以上の型があってさ。一日に、最低一つを千本」
それも、師範が見て失敗だったらやりなおし。
「……どんだけ時間かかるんすか」
「一回五秒でやれば一時間半くらいかな」
十秒なら三時間。それも休みなく行った場合。
「毎日毎日嫌になるほどやってさ。師範が亡くなっても、毎日やってさ」
毎日、道場の床に汗のたまりが出来るほど。帰りが遅くなっても心配しない親だったから出来たということもあるだろう。
「それだけやって、強くなったと思ったら、『あれ』だよ」
ふぅ、と総一は溜息をつく。
思い出すのは二年前、挑戦者辰美理織の姿。そして先日の、王者辰美理織の姿。
才能の塊。歩くだけで経験値を稼ぐ勇者のような。
「やっても意味なかったんだよね」
凡人の努力など意味はない。凡人が必死に走っても、天才たちはその横を悠々と歩いて抜き去ってゆく。
「そう思ったらもうやる気なくなっちゃってさぁ」
総一は明るく笑う。
そんな笑顔から、羊谷は無意識に視線を逸らしていた。
見たくない。
「……でも、今やって、負けるって決まったもんじゃないっしょ」
「んあ?」
「マグレだってあるし? 弟さんだって体調悪かったりするかもしれないし?」
羊谷は白鳥とは違う。どちらかといえば兎崎派で、やりたくないならやらなくてもいいとは思う。
だから、総一が試合をやりたくないのならば、背を押す気はなかった。
でもこれはきっと違う、と思う。
「ないない。ゴジラ相手に素手で向かうようなもんだよ」
「でもゴジラだって、勝てるかもしれないじゃないっすか」
総一は首を傾げる。
唇を尖らせた羊谷も、自分が何を言いたいのかわからない。
総一がどうしようが総一の勝手だ。それはわかっているし、彼に何かを強要して、嫌がられて、そして嫌われる結末などまっぴらごめんだ。
それでも。
羊谷に合わせるよう、総一は唇を尖らせる。
そんな総一を睨むように、羊谷は目と拳に力を入れた。
「先輩」
「おう?」
下級生の迫力に、総一は少しだけ後退る。
いつものふざけた怒り顔ではない。それよりももっと、真剣で、怖くはなくて、そして恐ろしく。
「月曜にタコ頭の数学があるんですけど、そこであたし、満点取れると思います?」
「……いや、まあ、無理じゃね?」
言いづらそうに総一が答える。羊谷自身もそう思う。
タコ頭とあだ名される数学教師。その授業では、ほぼ必ず最初に小テストを行う。けれどもその難易度は高く、満点を取れる生徒が出ることは稀で、ほぼないと言い換えてもいい。
一応、羊谷は一度経験がある。図書館で総一から講義を受けた翌日のこと。小テストで満点を取る栄誉。その記憶はほとんどさっぱりと消えてしまっているが。
だから、今は無理。総一の助力がなければ無理だ、と言い切れる。
だからこそ。
「じゃあ」
羊谷はその後の言葉を一瞬吐けなかった。大言壮語だと自分でも思う。
けれども。
「それ、ゴジラっすよね」
むくれるように、羊谷は頬を膨らませた。




