ひめたまま
ぱたぱたと階段を下る音が鳴る。
今はまだ授業中だ。平時ならば人の話し声や何かしらの音が校舎の中では響いているものだが、今は教師の声がどこか遠くで響くばかり。
静けさに余計に足音が響く。
その足音が、糸子には自分の心臓の音のように聞こえていた。
(言った言った、言ってしまった)
口に出してはしまった。しかし総一に聞こえていなかったのは幸いだと思う。またそれが幸いだと思う自分が、どこか情けなくて腹が立つ。
それでも腹立たしさよりもやはり安堵が先立ち、それに今更に羞恥心が湧くようで何となく足音がおぼつかなかった。
階段から踊り場へと降り立つ。
下の階に行くのであれば右へと曲がり、方向転換をする必要があるが、しかし糸子はそのまま真っ直ぐ進む。目の前にあるのは壁。ここも素行不良の生徒たちが時たま煙草の休憩に使うために、ヤニで黄ばんだ汚れた壁。
掌を当てれば外気に反しひんやりとしていて、そして固い。
……なら、充分だ。
「ぬぁ!!」
ガス、と鈍い音が響く。
音は打ち付けた額ではなく壁の方から響いたが、その結果が表面に現れるものでなくてよかった、と糸子は思う。中国武術では打撃の衝撃を対象の内部にだけ伝える浸透勁と呼ばれる技術があり、辰美流にも似たようなものがある。それが功を奏した形である。
壁の中、遠くどこかでパラパラと礫が落ちるような音も遅れて聞こえた。
『殴られたお前よりも、殴った拳の方が痛い』という体罰の罪悪感を減弱させる決まり文句がある。
けれども打撃とは大抵の場合打つ方は出来るだけ痛みを減らすよう、打たれる方のダメージを最大限増やすように打つものだ。
極度に下手なわけでもなければ、殴った側の方が痛いことはない。
だから、あえて糸子は下手に打った。
額が痛い。ぶつけた箇所が熱を帯びて、ひりひりとする。何となく液体が伝っている気がするが、それは単なる染み出た汗か、もしくは血なのかもわからない。
手の甲で拭えばそこには僅かに赤いものが見えて、『鍛え方が足りなかった』と糸子は溜息をついた。
屋上に繋がる扉が開く。
「え? 何事っすか?」
振り返ればそこには先ほど別れたばかりの後輩、総一が顔だけを覗かせている。
「何でもない」
「地雷が爆発したみたいな音がしたんですけど」
「気にするな」
シッシッと糸子は総一を追い払うように手を振り、苦々しくも笑顔を見せる。
彼は何も思っていないだろうが、けれども、糸子の側の感情が整理出来なかった。
「少し……頭の中の整理をしたかっただけだ」
「あの、血、付いてますけど」
呆れるように総一が指さすのは自身の頭。勿論血が付いているのは総一の頭ではなく、糸子の頭だが。
「ああ」
知っている。
もう一度糸子は額を拭って、総一を見上げた。
「総一、私は諦めてないからな」
「何の……さっきの話っすか」
「ああ」
額の傷は浅くとも血が噴き出ることがある。
笑みを浮かべた糸子の眉間を、つつと赤い筋が通った。
その赤い筋を無視して、糸子は笑う。
「二年前のあの日から、私は立ち止まったままだった。そう思う」
「…………」
「理織もそうだ。姉の私にはわかる」
「それはお気の毒っすけど。でも」
「そしてまだ、きっともう一人」
誰とは言わない。
だが言わずとも、見上げる糸子の目が真っ直ぐ総一を捉えていて、それが誰だとは視線が言っていた。
「必要なんだ。お前と理織の試合は。きっと、あそこで関わっていた全員に」
「……俺には必要ないっすわ」
「知るかそんなこと」
鼻の脇を垂れてきた血が唇に届いて、糸子はそれを舐め取る。鉄と塩の味。汗のような。
「立ち止まっていた私が、今一歩踏み出せそうなんだ。だからあと、もう一歩だけ踏み出したい。そうすればきっと歩き出せるから」
「よくわかんないんですけど……」
抽象的な表現に総一は首を傾げる。その晴れやかな笑みが逆に不気味で。
「試合をしてくれればわかりやすく言ってやるさ」
顔面を血で染めながらの不敵な笑み。糸子にとってはそうでもなかったが、しかしその表情が総一には威嚇のように見えた。
総一は逆に血の気が引く。
「……とりあえず、怖いんでハンカチかなんか」
「持ってるから要らない」
総一が尻のポケットを探り出すと、糸子もスカートのポケットからハンカチを取り出す。黒い色のハンカチは、もともと血が目立たないためのものだ。普段の使い道は、主に自分の拳だが。
「じゃあな」
「ええ、お疲れ様です?」
後でな、という言葉を省き、もう一度だけ額を拭き、糸子は歩き出す。
額の痛みはジンジンと響いて、それが思考を清明にする。
伝えられなかった言葉。その羞恥と安堵と高揚と怯懦を痛みに押しつけて、何でもないと涼しい顔を取り繕った。
戦わせたい。総一と理織を。
きっと難しいことだろう。理織は熱望していても、総一の側にその気はないし、その頑迷さは説得などで翻ることなどない。
けれどその大事業を成し遂げれば。その無理難題をどうにか出来れば。
きっと自分にも勇気が湧く。この臆病で軟弱な自分にも、伝えたい言葉を伝えることが出来るだろう。
これは課題だ。ちょうど子供などが、『宿題を終えたらアイスを食べてもよい』などと決める類いの。
乗り越えるべき試練だ。胸に秘めた力を試すのにはきっとちょうどいい。
気分はかぐや姫。そして私は自ら蓬莱の玉の枝を取りに出る。
頑張れ、と糸子は自分を鼓舞する。
総一のために。そして自分のために。
それはきっと、難しい話ではない。
大抵の人は、自らと近い階層の人間に好意を抱くという。
優れた人物は優れた人物に。高名な人物は高名な人物に。
アイドルや俳優の結婚報道などに現れる一般男性や女性は、概して一般的な男女ではない。
そして仮にその垣根を跳び越えるならば、何かよほど大きなイベントや結びつきが必要だ。幼馴染みだった、借金を代わりに返した、などのもの。
その大きなイベントの一例としては、『命の危機を救う』というのがわかりやすいだろうか。
(……頑張れたら、私も勇気を出せると思う。だから、終わらせよう)
だからというわけでもない。
だが、切っ掛けとしては充分なもので。
そして一年あまりという時間は、それを芽吹き花を咲かせるのには充分な期間で。
階段を下る足音は軽く。
伝えられなかった言葉。
乙女の胸の内にそれが宿ったのは、きっと不思議でもないことなのだろう。




