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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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言い訳




 二人はしばし無言で、何もない屋上の先を見る。

 高い建物もなく、そこにはただ夏の青空が遠くまで続いていた。

 日陰の涼しい風が吹く。


「……聞いたぞ、なんぞ知らんが、スランプだってな」

「あー、そうなんすよ。俺的には別に何でもないんですけど」

 視線も交えずに、唇を尖らせて総一は応える。糸子も腕を組んで壁に背中をつけたまま。

「つっても、ただ昨日将棋とテニスで負けただけっすよ。たいしたことでもないっしょ」

「まあ、そうだな」

 

 総一としても、そんなに気にすることでもないと思っていた。

 きっとまだあの天才たちと張り合える猶予はある。まだ衰えるような時期ではない。だから、きっと本当にたまたま調子が悪かったか、もしくは普通の『勝負の波』とでも呼ぶべき偶然の偏りなのだろう。

 スランプというのも大げさな表現だ。

 動きが悪くなっている、という白鳥のたしかな証言があったとしても。


 糸子は溜息をつく。

「今日も拳道の練習に出るんだろ? そんな体たらくで大丈夫か?」

「いかないっすよ」

「え?」

 くいと顔を総一に向けて、ようやく糸子は総一と視線を合わせた。

 座り込んだ総一は上目遣いで顎を上げる。

「一昨日が最後で、もう誘われてないっすね」

「なんでだ?」

「質問攻めー」

 ケタケタと総一は笑う。明るい笑み。糸子にはそれが、何となく無理をして笑っているようにも見えたのだが。

 

「えーと、なんつーか、実力差がありすぎるっていうか?」

「そんなもの今更だろう」

 だからこそ総一を稽古相手に迎えた。学園長の意図もそれで、総一も了承していたはずなのに。

 そして了承していたはずの総一も、思い知った。

「死んじゃったら困るじゃないですか」

「…………」


 総一の笑みは変わらない。だがその言葉と照らし合わせて、糸子はなんとなくギョッとした。

 死。戦場などならば意識することでも、今は辰美流道場でもほとんど意識することなどないもの。

 だが、……ならば?


「事故でもあったのか? それで落ち込んでいるのか?」

「まさか」

 事故が起きかけたのは本当だが、と総一は笑い飛ばしながらも内心思った。けれど落ち込んでいるというのは自覚もなく、それに結局起きなかった事故に関しては本当にどうでもよかった。

 だが、糸子は何となくそうは思えない。

 それに、羊谷の証言もあって。


「……お前が、拳道の稽古で負けて落ち込んでいると羊谷に聞いた」

「あらま」

 そう見えたのだろうか、と総一は驚いた。

 羊谷と会ったのは一昨日が最後。ならばあの日ここで会ったあの時、羊谷は自分を落ち込んでいるのだと感じたらしい。

「つまり……反則負けでもしたのか?」

「何でそうなるんですか」

「事故が関係していそう、拳道で負けていそう、……なら、そうなるだろうが」

「違いますね」

 

 総一としても半分迷いながら。

 けれども違うだろう。自分が反則負けをしたというのは明確な間違いだ。あれが試合だとして、また学園長の介入が反則だとしたら反則負けは丑光の方のはずだ。

 拳道に、首を狙ってはいけないというルールもないし、踏みつけてはいけないというルールもない。……明確なルールの穴だが。


「負けたのは普通の負けですよ。一本取られました」

 比喩としても判定としても。

「丑光がお前から一本? 俄に信じがたい話だが?」

「本当ですよ。顎に一発もらいましたから」

「成長著しい、というやつか」

「ま、偶然もあるでしょうが、そういうことですかね」


 総一の言葉に糸子は、ふうん、と返事する。

 それが本当ならば喜ばしいことだ。丑光の努力が実り、総一に及ばないまでも対抗出来るようにはなってきた。ならばこれからも鍛えれば、いつかはきっと理織にも届くはず。崖っぷちに指先をかけるような僅かな期待でも、持てるならば。

 そう頭では理解しつつも、糸子は丑光のことなどどうでもよいと思った。


「……だから、お前も落ち込んでいると?」

 問題は、総一がそれで気を落としているのではないかという、心配。

「落ち込んでなんてませんって」

「じゃあなんで……」

 それでも理由を吐かない総一に、糸子は苛立つように言葉を重ねようとする。

 けれども、それはやめた。なんと言おうというのだろう、自分は。

「なんすか? 俺が落ち込んでるってことにしたい的な」

 

 冗談めかして総一は言う。怒っているわけではないが、僅かな困惑があった。

 目の前の女性は、何を自分に食い下がっているのだろうかとわからずに。



 埒があかない。糸子はそう感じた。

 目の前の男性は、本当になにも考えてはいないのだろう。

 何かを隠している風でもない。自分自身では何も自覚なく、けれども何かに躓いている。そんな気がした。

 そしてそれは、自分も。

 きっと今、自分は足踏みしている。何かを怖がりつつ、おっかなびっくり彼に探りを入れている。そんな気がしてならない。


 けれども。

 拳を握り、糸子は深呼吸をする。

 辰美流柔術の基本は一意専心。他のことを考えず、ただ目の前の障害だけを見る。

 だから糸子は自信を叱咤する。進めば良いのだ。ただ目の前の心配事に。



「同じに見えるんだ」

「……何が?」

「何となく、二年前、お前が決勝戦で負けた後に」


 何も関係がないのかもしれない。ならば、それはそれでいいだろう。関係ない話題を結びつけて早とちりして、恥をかくのは自分だけだ。

 だがその恥も、きっと言わないよりも大分マシだ。今回は関係がない、それを確かめられればきっとこの胸のつかえはおりるのだろう。


 言ってしまった、と言う事実に、何となく糸子は気が遠くなる思いだった。

 視界が狭くなった気がする。総一の返答が返ってこないことに苛つくが、今自分の言葉からはまだ一瞬経っただけで、待っているということでもないのに気がつくのも次の瞬間だった。


「…………」

「二年前、決勝で負けたとき、お前は笑っていたな」

 総一の言葉を待たずに、待てずに糸子は言葉を重ねる。

「何でだ?」


 それから見下ろすように総一と目を合わせれば、総一は真面目な顔で戸惑うように口を閉ざしていた。そこにいつもの笑みもなく。

「……今となんか関係あります?」

「ありそうだから聞いているんだ。なければないと言え」

「…………」


 ふい、と総一は糸子から顔を背け、前方の青空を見る。

 遠くに雲がもくもくと立ち上がっていた。


「あー、と」

 どことなく真剣な問い。総一は、その真剣さに応えなければと少しだけ考える。

 あの時自分はどうだったか、あの日自分は何を思ったのか。自分自身を巻き戻すように。

 たしか、多分、きっと。

「……あの時は、むなしくなったんすよね」

「むなしくなった?」

「あー、勝てないんだ、って。これだけ頑張っても」


 ぼやくのは本心。

 当時笑ったのは、むなしく、そして滑稽に見えたからだ。

 いつでも負けられぬと臨んでいた拳道の試合。辰美理織のことは、当然総一は本戦出場を知ったときから調べていた。

 幼い日から英才教育を受けていた天才。拳道を始めたのはその年で、そして公式では無敗を誇っていた。

 無敗だったのは自分と同じ。そして試合で感じたそれ以外は、自分とは完全に違っていて。


「俺、拳道は得意だと思ってたんですよ」

 

 中学校三年生にもなれば、他の多くの競技では総一はもはや常勝とはいかなかった。

 才能の限界は早く訪れ、走れば自分よりも速い人間が出てきたし、跳べば自分よりも高く跳ぶ人間が現れ始めた。学力テストでは自分と同じ点数を取る者も出てきた。絵も音楽も、自分よりも評価される人間が大勢いた。

 まだ総一には勝てずとも、けれどもいずれ勝てるだろう片鱗を見せる者までも。

 しかし、拳道ならば。拳道だけは。


「でも、弟君には負けた」

「それは……怪我のせいだろう?」

「…………」


 総一は静かに首を横に振る。

 それは違う、と本気で。


「直接戦えばわかりますよ。あれは才能の差です。当時なら、怪我がなければ勝てたかもしれませんけど……」

 あの頃の実力では伯仲していたと思う。肘の怪我のせいで負けた、と言えればそうかもしれない。

「でも今は違う」

 けれども今、彼に勝てないのはただの実力差だ。自分はあそこが頂点で、そして彼にはまだ上があった。それだけのこと。

「『あ、拳道でも、やっぱり才能ある奴には勝てないんだな』って思って。だから笑えたんですよ、全部」


 言いながら、総一は糸子の言葉の意味を理解して何となく驚いていた。

 似ている。たしかに、試合の後に笑ったときと。今と。

 辰美理織に、もしくは丑光に負けて、才能の差を感じた。そういうことで。


「…………」

「ご理解いただけたら、そんなに古傷を抉らないでいただけると助かりますです」


 今はもうどうでもいい。けれども、たしかにあの時は落ち込んでいたのだ。

 だから古いことを持ち出さないでほしい。

 そういう意味を感じてくれるだろうか。総一はまた改めてへらりとした笑みを作り、糸子を窺い見た。

 その糸子が、泣きそうな顔だと総一は思った。


「……前から聞きたかった」

「何すか今日は真面目モードで。『青春十五時』っすか」

 笑い飛ばすように総一は笑おうとする。けれども糸子は愛想笑いすらも浮かべず、噛みしめるように唇を歪めた。


「何で、怪我のせいにしない」


 そして、糸子の言葉で総一は言葉を失う。

 糸子は目を伏せつつ、苛立つように組んだ腕の先の指で自分の腕を何度も叩いた。


「負けたのなら、お前は悔しがるべきだ。あの日理織に負けたお前は、私を恨むべきだった。私がいなければ、私さえいなければ勝てたかもしれない。怪我がなければ負けなかったのに、と私にぶつけるべきだったんだ」

「そりゃ違うでしょ」

「なのにお前はなんなんだ。一言だって文句を言わない。私が謝ろうとしてもはぐらかす。理織が言っても違うと否定する。負けて何で笑えるんだ。負けたのに、何で次に勝とうと思わないんだ」


 総一に伝えようとしている風ではない。

 ただぶつぶつと呟くように、けれども説教のような言葉の響きに総一は僅かに慌てた。何か地雷を踏んだのか、と。


「ええと、会長? 落ち着こ? ね?」

「ふざけるな、こっちはお前を心配してるんだこのやろう!」

「情緒不安定ですよ!?」


 糸子は涙目で総一の襟を掴む。

 抵抗せずに、しかし身体の前に両掌を示し、なだめる形を取りつつ総一はまた困惑する。

 そんなに重大な話だったのだろうか。重要な話だったのだろうか。

 少しばかり真面目くさってはいたが、けれどもいつもの説教の少しだけ重いものくらいに思っていたのに。


 糸子自身も、少しばかり自分の行いを客観的に見て、まずいな、と思った。

 感情の制御が出来ていない。いつもの自分は、もっと落ち着いて、もっと静かに話せていたのではないだろうか。

 そっと襟を放し、溜息をつく。

 言ってしまった、というほんの少しの後悔。それに意外にも、何故だか胸に満ちるのは、どこか達成感。


「……本当に、何でだ?」

「怪我の話っすか?」

「その話しかしていないだろう」

「いや、今会長の迫力に圧倒されてましてね」


 へへへ、と媚びるように総一は笑う。

 話が散らかっている気がする。そして、目の前の女性はいつもの落ち着きがない気がする。

 正直に答えて良いのだろうか。それとも落ち着かせるべくはぐらかしたほうがいいのだろうか。……はぐらかせば、また興奮してしまう気もするが。

 やれやれ、と総一は肩を上げて下ろす。それから、また視線を目の前の青空に向けた。


「別に気にしてないからですね」

「気にしないわけがないだろうが」

「武道なんてやってれば怪我なんてよくあることでしょ。骨折なんかだとさすがに動けませんけど、擦り傷切り傷捻挫や肉離れ、そんなもんあって当たり前。もしそれで動きが鈍るんなら、それはした奴が悪い」


 今まさに総一に降りかかっているように、調子の良い悪いなどあって当たり前だろう。

 だが、だから、調子が悪くてもそれなりの動きが出来るよう、もしくは調子が悪くならないよう努力すべきであり、自分はただそれを怠ったのだ。総一は本心からそう思う。

「武道場に上がったからには、全部俺の責任じゃないっすか」

「…………」

「そんでまあ多分会長の思ってるとおり、俺のせいでもない。だから、誰のせいでもない。完璧な証明ってやつっすね」

「……お前は、それでいいのか」

「いいからなんも言ってないんじゃないっすか」


 むしろ蒸し返したのは糸子だ。もしくは辰美理織だ。

 自分はもう気にもしていないのだし、だから二人共に黙っていてほしい。


 それでも、糸子は言い募る。

「…………私は、よくない」

 ようやく、この話が出来たのだ。何故今日だったのか、一年前の総一の入学の日でもなく大会のあの日でもなく今日だったのかは自分でもわからないが、けれども今出来たのだ。

 だから、話してしまいたい。全て。


 チャイムの音が鳴る。

 三時限目、いつもならば糸子は自身の教室で授業を受ける体勢になっているのに。

 今から走っていけば、まだ間に合うだろう。しかし糸子も今日はそうする気になれなかった。

 きっとこれは、自分にとって重要なことなのだろう。総一ではなく、自分の。


「お前はあの日、怪我がなければ負けなかった。私のせいで負った怪我で、だから、お前は私のせいで負けたんだ」

「…………」

「お前はあの負けで、自分に才能がないことを知ったと言ったな。だがあの日、勝っていたらそう思ったのか?」

「……どうっすかね」

 総一は後頭部をコンクリートの壁にコツンと当てる。だが、考えるまでもない。きっとこの分では、万が一あの日に勝てていても、近くには。


「この一年ちょっと付き合ってきて、今なんとなくわかったよ。お前は、実はわりと良い子ちゃんなんだな」

「今更何を仰る。俺はいつだって品行方正の優等生ですが」

「だから、言い訳をしないんだ」


 おどける総一を無視して、糸子は咎めるように続けた。

「さっきの話、私だってたしかにそう思う。怪我なんかする方が悪い。試合に出てきて怪我を理由に手加減してくれなんて言う奴は馬鹿だと思う」


 糸子も道場の教えで身につけている。怪我や病気は言い訳にならない。そしてそれはたとえば戦場では、などという物騒な話ではない。

 人の調子はその日その時によって全く違う。常に絶好調の人間など存在しないし、同様に常に絶不調の人間もいないだろう。その事実はどれだけ努力しようとも変わらない。

 だから、スポーツや武道の勝負の場で、相手の怪我などはむしろチャンスとみるべきだ。

 相手が怪我をしているから腕を狙わない、足を捻挫しているからこちらも動かないでやろう。そんな配慮は試合や勝負では無用のもので、真剣勝負ならばむしろ相手への愚弄だ。

 こちらは相手の弱点を配慮しないから、そちらも配慮しないで構わない。もしくはその逆。それが、平等で公正な勝負というものではないだろうか。


「だが、ずっとそれは無理なんだ。勝負を続ける限り」


 糸子とて、思わないことはない。

 寒い日は身体が動かない。暑い日はバテやすい。

 父母に今日勝てなかったのは、昨日の筋肉痛が残っているからだ。気圧の変化で頭痛がするからだ。そう内心で言い訳をしてしまうことがある。

 その度に、『そう思うのは鍛錬不足だ』と自身を律してきた。


 だが、言い訳の何が悪い、とも糸子は思う。


「言い訳をするのは、諦めがつかないときだ。諦めがつかないから言い訳するんだ。諦めをつけないために言い訳するんだ。もっと鍛えておけばよかった。もっと上手くやればよかった。だから、次は勝つぞ、と思うために」


 そして言いながら、糸子は確信した。

 言い訳をしない総一。だから、彼は。

 苦々しさに顔が歪む。


「良い子ちゃんのお前は、言い訳出来なかったから。だから、……お前は、諦めたんだな」

「…………そうですね」


 良い子でいようとした。親や教師の言いつけを守り、努力して、褒められたいと思った。

 けれども、無理だった。良い子でいたはずなのに。


 総一としても異論はない。

 自分は諦めたのだ。勉強を。スポーツを。芸事を。拳道を。人生を。全てを。



「私のせいだ」

「だから、それは違うと」

「謝るくらい、させろよ」


 不機嫌にぽつりと呟くように糸子は言う。

 結局きっと自分はそれが言いたかったのだ。

 自分が、自分のせいで彼を負けさせてしまった。そのせいで何人もの人間が燻り続けている。弟も、彼も、そして自分も。

 その原因が全て自分にあると思っていて、その重荷を下ろせない。

 

 けれども総一としても、言い分はある。

 お前のせいだ、と言うのは簡単でも、言えないことでもある。



「じゃあ地面に頭を擦りつけてもら……」

「わかった」

「じゃなくて! 話を聞いてもらっていいっすか!!」


 冗談だった。けれども屈むようにして、本当にそうしそうになった糸子を総一は止める。

 なんなのだろう。調子が悪いのは自分の方ではなかったのだろうか。何故自分は今、糸子の機嫌を取るように話をしなければならないのだろうか。

 これではまるで当たり屋だ。

 そう頭の中で洪水のように文句が溢れるが、けれどもそれを全て心中に留めた。


 屈みかけた糸子が睨むように総一を見るが、しかしそこに迫力はなく総一も溜息をついた。

「……会長のせい、なんて言いませんよ」

「言えよ」

「やです」


 よ、と声をあげて総一は立ち上がる。それからふらふらと歩き、日向に出た。

 一瞬視界が真っ白になる錯覚を覚えつつ、青空を見つめる。


「『お前なんか助けなきゃよかった』なんて言ってほしいです?」


 脳裏に浮かぶのはあの日の光景。

 トラックに轢かれそうになった子供。子供を助けようとして代わりに轢かれそうになった糸子。

 それを助けた自分。


「俺が怪我をしなければ会長が死んでたかもしれない。俺が怪我をしたのは会長を助けたから。じゃあ、もっと上手いやりかたがあったかもしれない」


 そもそもに、肘の靱帯がもうボロボロだったのではないか、とあの後に医者に聞いた。

 子供の頃からの型稽古。厳しく辛い鍛錬の結果が、あの日に出ただけのことで。


「右手じゃなくて左手で引っぱればよかった、とか言えばいいですかね」


 総一が後悔するとしたらそれくらい。もしくは、言い訳をするとしたならばその程度。


「あの日の俺を褒められるとしたら、会長を助けられたこと。人の命に比べれば、腕の一本や二本軽いもんでしょ……ってどっかで海賊が言ってました」


 振り返れば暗がりに糸子がいる。腕を組んで総一は彼女を見る。


「なのでまあ、『私が腕に怪我をさせなければ』みたいなことグチグチ言ってほしくないっすね。俺にとっちゃ、良いことしたのに怒られてる気分なんで」

 

 それがあの日の唯一の『成功』だ。

 もしかしたら、人生で唯一の。


「謝りたいんならどーぞ。でも出来れば、お礼の方でお願いしますぅ」


 糸子からほしいのは、『ごめん』ではなく『ありがとう』だ。そしてそれも既にあの日にされている。

 だから、もう総一に蟠りもない。糸子も忘れればいいのに、とすらも総一は思っていた。

 胸を張った総一に、堰が切れたように糸子が口を開く。


「……すまん」

「いいってことよ」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「…………だ」

「え? なんて?」


 テンポよく吐かれた言葉。だがその言葉が聞き取れず、総一は聞き返す。

 その仕草が何となく可笑しくて、糸子は小さく噴き出すように笑った。


「何でもないさ。お前は勇敢で、良い子ちゃんだな」

「よく言われます」

 目をきらきらとさせ、真面目くさって総一は応える。その言葉に何となく苛ついたが、糸子は溜息でそれを誤魔化した。




 今だ。そう思った総一が、惚けるように首を傾げる。

「……で、なんの話でしたっけ」

 しゃべり続けた空気が途切れた今がチャンス、説教など適当に切り上げて全てうやむやにしてしまおう、と。

 糸子もそれに同調するように口角を上げる。

「なんだったっけな」

 言いたいことは全て言ってしまった気がする。総一の様子がおかしかったからここに来たはず、なのに。


 励ましに来たのに、励まされた気分だ。

 事実そうなのだが、糸子はそれを認めたくなくて軽くなった胸中のままに伸びをした。


「そうだ。お前の調子が悪いという話だったな」

「ぉぅ、戻しやがった」

「もう何も言わんよ。そのうち戻るだろう」

「ですです」


 体調が悪いわけでもない。ならば、そのうち戻るだろう、というのは総一も同意見だ。

 本来はそこまで気にすることでもないのだろう。

 気にするのは、きっと何年か後のこと。


「だから、これはそれとは関係ない。私からの頼みだ」

「……なんすか?」

「理織と、戦ってやってくれないか」

「…………」


 ぽかん、と総一が口を開ける。

 今までの話と何も関係がないだろう話。どうして、とただ困惑で。


「やですよ。どうせ負けますし」

「そうだ。絶不調のお前相手なら理織も勝てるだろうからな」

「絶好調でも同じっしょ。つーか、なんで」

「あいつにも……」


 区切りがついていない人間が一人いる。糸子と同じように。

 だから、区切りをつけてやりたい。


「やーですー。俺に何の得もないのでー」

 駄々をこねるように総一は言う。

 試合というのは勝つために行うものだ。負けるだろう試合になど立ちたくはない。

 それに、辰美理織との試合は辰美理織が熱望していたものだ。だから向こうは勝ってすっきりするのかもしれないが、自分は別にそうではない。

 更に、少し前の彼との試合を考えれば、自分に勝ったところで満足しないかもしれないのに。

「得があればいいんだな?」

「それはそう、言葉の綾というか」

 総一の言葉に、ふむ、と糸子は悩むように、悩ましげに自身の唇を撫でる。


「お前が勝ったらチューでもしてやろうか」

「あ、遠慮しておきます」

「ほう」


 ササ、と総一は下がる。

 どういう風の吹き回しだ、といつもは真面目な会長を見る。

 しかし下がった総一に向けて、笑顔のまま、糸子は踏み込んだ。

 

 手が伸びてくる。それを察した総一は滑るようにもう一段バックステップで躱そうとするが、けれどもその右手は吸い付くように総一の頭を掴んだ。


「乙女の一世一代の覚悟の言葉だぞ?」

「痛だだだだだだっ! 乙女はこんなことしない!!」


 糸子の握力は、精々が中身入りのスチール缶詰を握り潰せる程度の可憐なものだ。

 そのささやかな握力を以て、また頭部横の経穴を指先で刺激するだけのアイアンクロー。

 総一の視界が糸子の掌で埋まり、足が床から離れる。


 殺す気は無い。殺す気ならば頭部ではなく首を掴めば7秒ほどで総一は意識を失うだろう。

 双方共にそれはわかっている、のどかでいつもの日常の風景。

 いつもの調子に戻ったらしい。そう安心しつつ、しかし今日のお仕置きは苛烈だなぁ、と激痛の中総一は感じていた。





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― 新着の感想 ―
自分達が納得したいからやってくれは本当に酷な話ですね。 気づいてない彼、彼女らが総一が亡くなってから、それぞれどう思い行動するのかの話も最後まで見たいですね。
ある程度ドラゴン会長もわかることわかってスッキリはしたのかもしれない……が、実は彼が万事においてこの調子で、終活に入ってるとまではまだわからん感じかな…… そうそう人並み以上を十全に誇れる人などおる…
糸子はなんて言ったんですかねぇ… 気になるけどこれからこの時の言葉が掘り返させる気がしないのが残念。
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