雨の日
些細な争いだった。
「だから俺の方が先に並んでたって言ってんだろ!?」
「すみません、でも、私トイレに行ってただけで……」
「じゃあ並び直せよ」
競技会や学会など何かしらのイベントがあるとき、昼時、その会場近くの飲食店というのは思いの外混みあうものだ。雨の日という悪条件の上でも、また普段は空席が目立つ食堂でも、小さな行列が出来る程度には。
その日も拳道大会の会場近くの店では順番待ちの行列が作られていた。
そこで起きた些細な諍い。
行列に並ぶ中で前の女性が横入りしたと思った男性と、前の人間に順番待ちを頼んでおいて席を立ってから戻ってきた女性との。
理はどちらかにあるのか、もしかしたら怒鳴っていた男性の方だったのかもしれない、と糸子は後になって思う。
けれどもその時はそうは思えず、もしかしたら手でも出しそうな剣幕に、近くで並んでいた糸子は女性側を守らねばと立ち上がった。それは今でも間違いだとは思えない。
「そんなに怒ることでもないでしょう」
「ああ!? 関係ねえのに口出すなよ!?」
今思えば、自分も空腹で気が立っていたのだとも思う。
そしてそれはその男性も同様で、だから、本当にただの些細な諍いだったのだろう。
店員は止めに来ないのか。
雨の降る中、外の軒で待つという密集した状態。更にすぐ横に小さな階段も車道もあるここで、あまり大立ち回りも出来ないというのに。
そんな風に考えつつも、糸子が周囲を見渡した束の間、男の怒気も更に上がる。
目の前で自分を止めたのは、どうみてもただの小娘だ。精々が中学生から高校生程度の女子。背は少しだけ高めではあるが、それでも男性の平均よりも小さな程度。
怖くなどない。威圧感もない。小さな子供に注意されたのと変わりはない。
そんな侮りと、しかしそんな子供に口答えされたという状況に、苛立ちが増した。
更にタイミングも悪く、ようやく店員が外へと顔を見せる。外での諍いを知らぬままに。
「はいお待たせしております、二組分、机が空きますので、中へとお進みください」
若い男性の声に、待っていた人間たちはそれぞれが一瞬顔を見合わせる。現在待っていたのは、一組の老夫婦と、それに件の女性、男性、サラリーマンの男性、糸子に幾人かの家族連れが続く。
入っていいものだろうか。そう老夫婦は一瞬躊躇したが、けれども緊迫した空気に耐えきれず、逃げるようにして中へと進む。
それに続いて、素知らぬ顔で、女性もまたその後に続こうとして。
「おいっ!?」
男性としても思わず取った行動だった。
何を逃げようとしているのだろうか。まだ言い争いの最中だろう。そう理屈をつけられたのは、自身でも動いた直後のことだった。
女性の後ろ姿に手を伸ばす。
肩は掴もうとした。けれども決して暴力を振るおうとも思っておらず、ましてや怪我をさせるつもりなどもなく。
そしてその手首は、逆に糸子に掴まれることになる。
「…………っ!」
男性の反射的な軽い抵抗。だが掴まれた手は万力に挟まれたようにびくともせず、潰されるように骨が軋んだ。
「何をしようというんですか」
「てめえ、離せよ!」
言いつつ、何かおかしい、と男性は感じ始める。
目の前にいるのはどう見ても中学生か高校生程度の女子。なのに、自分はもしかして力負けしているのだろうか。
ただ腕を掴まれている程度、こんな程度、振り払えばいいのだ。そう思いつつも、けれどもその手は動かない。
振り払えない。
どう見ても、相手の方が自分よりも軽い。ならば腕力で負けても、押し引きすれば身体ごと振り払えるはずなのに。
なのに、動かない。掴まれた腕だけが微動だにしない。まるで鉄柱にでも溶接されたように。
だが、腕というのは二本あり、そして糸子に掴まれているのは右手だけだ。
「っ! 邪魔すんな!!」
男が左腕を振るう。今まさに自分を拘束している糸子に向けて。
腹立ち紛れの攻撃だ。ろくに腰も入っておらず、成人男性の筋力といえども糸子になんらダメージを負わせることも出来ない軽いもの。
けれども、そうは見えない人間もいた。
周りの人間はただ見ているだけで。何が起きたか把握出来ておらず、戸惑う店員。それと、自分たちに何かしらの被害が及ばぬよう精一杯の知らぬフリをしている並ぶ人間の中で。
ト、とコンクリートを踏む音がした。
そして次の瞬間、男の左脇に差し込まれる腕がある。右掌を糸子に見せるようにして、前腕と胸で男の左腕を挟み抱きかかえるように。さらに次の瞬間には、その右腕は滑るように男の首、左側を通り後頭部を持つ。左腕は男の左手首を保持して。
羽交い締めではないが、変則的な男の無力化。絡めるようにした腕を少しだけ引いて、また相手の頭を少し押せば容易に俯せに拘束出来るような。
全容を見ていたはずの糸子も、その速さと複雑さに一瞬何が起きたかもわからなかった。
一つだけわかるのは、彼が使ったのは自分が修めたものと同じく、きっと『競技』ではなく『実戦』のための技術体系ということ。
「……やめましょうよ」
苦笑するように響いた声は若く、幼くもある。
けれども、その男子が自分よりも一つ下でしかないと糸子は知っている。
「貴方も」
「…………」
今まさに自分に話しかけている彼とは、今まで話したこともない。自分のことを知っていることもないだろう。けれども、自分は彼を知っている。大胆不敵にも、また傲慢にも、拳道の大会の有力な選手を調べもしなかった弟とは違って。
目の前にいるジャージの男子中学生は、鳳総一。
きっと決勝で、弟辰美理織と戦うであろう選手。
「どいつもこいつも! 関係ねえ奴は引っ込んでろよ!?」
男が叫び、捻るように固定された頭部から横目で、せめてもの様に総一を睨む。
もはや怒りは頂点に達していた。
なんなのだろう、今日は。横入りした女性を咎めたが、女性は悪びれることもなく店に入っていった。そして正当な怒りを見せる自分を止める女子に、新たに現れた子供。しかも今自分は拘束されている。そんな現状に、まるでこの世の理不尽が一斉に襲いかかってきたかのように取り乱して。
「はなっ! せよ!」
だがそんな理不尽を押しのける力が自分にはないらしい。そう理解するのも早かった。
少女の力も緩み右腕は少しだけ余裕が出たが、けれども今度は左腕が満足に動かせない。
もがけば滑る足が自分を地面に導き、落下させようとする。
男の大きな舌打ちが響いた。
「わかったよ! わかったから!!」
男の言葉に総一と糸子は顔を見合わせる。
一瞬だけ交わる視線に互いに了解し、タイミングを見計らい同時に手を離した。
突き飛ばされるように、また示し合わせたように拘束していた二人が同時に男から一歩離れる。容易に反撃出来ない距離は二人の残心だ。
解放された男は二人を見て、また大きな舌打ちをした。
「……ったく、最近のガキはよぉっ!!」
慣れてもいない暴力では敵わない。
これ以上ここで暴れるのも何となく恥ずかしい。
そう考えた男のせめてもの反撃は、どちらともつかぬ曖昧な方向に言葉を投げかけるのみ。
そしてそれすらも恥と思い、男は行列から背を向けて皆の視線を見ぬふりをした。
「あの……」
「何でもねえよ!」
声をかけようとする店員に、ぶっきらぼうに男は返してそのまま歩き出す。
さすがにもうここで食べる気もない。そう示して、手を上げるようにしながら。
行列の空気が少しだけほっと緩む。
その空気が変わったのも、男は気がついた。
邪魔者だったのだ、自分は。そうかそうか、俺が悪いのか。
気がつき、一瞬でまた噴き上がる怒り。
けれどもそれを見せるわけにはいかない。先ほどまで自分を拘束していた二人の少年少女は、今もまだそこにいるのだから。
けれども、けれども、少しだけなら。ほんの少しの苛立ち紛れならば。
「けっ!」
意味のない言葉を発し、男はすぐ横の壁を見る。ちょうど食堂の柱があるところ、ここならば壊れることもないだろう。
足を振り上げ、力を込めて、その柱を蹴り飛ばす。
「お客さん、ちょっと!」
「…………!!」
それから止める店員の声も聞かずに、足早に男は立ち去っていった。
去って行った男を見送り、そして行列の人間は糸子たち二人に目を戻す。
それでも、それ以上の行動は取れなかった。今まさに目の前で行われた暴力行為。そこに称賛も批判も出来なかった。取れた行動は、更に目を離し、今までそこであった騒動を『なかったこと』にするのみ。
まだ『ある』のは、二人のみ。
「手間を取らせたようですみません」
「いえ」
重々しく礼を言う糸子に、総一は明るく短く返す。むしろ総一の側からも申し訳なく思ったものだ。騒動は総一も最初から見ていた。手を出して止めるならばもっと早くにすべきだったし、目の前の同年代の女性が先に止めに入ったのも何故だか恥ずかしく思う。
こちらこそ、という代わりに総一は店員に目を向ける。一番最初に止めに入るべき立場の人間に。しかしその店員もぺこぺこと頭を下げて中へと入っていった。
店員を見送った糸子も、何となく店員に向けて文句の一つも言いたくなった。そしてそれは、周りで見ていた大人たちにも向けて。
止めたのは総一だけだった。お前たちは何をしていたのだ、とも言いたくなった。
しかしそれも理性で止めた。
それが普通なのだろう。強い自分と、鍛えていない彼らと。
そして、鍛えている自分と。
「さすがに拳道全国一位の中学生ですね。鳳さん」
「そういう貴方は……ええと、辰美理織さんと一緒にいた?」
糸子はうんと頷いて、それから不思議に思う。
弟・理織は強い。自分よりはまだ弱いものの、同年代と戦い負けることなどほとんど考えられない。自分にとっては優勝最有力候補だ。
けれどもまだ『強い』だけで、全国では無名のはずだ。午前の三試合を終えて、現在トーナメントに残る選手は八名。その八名に残るだけでも大したものではあるが、しかしその中には去年の準優勝の選手もいる。注目すべきはまず彼だろうし、初出場の弟を気にかけている暇もないはずなのに。
「辰美糸子。辰美理織の姉です」
「そうっすか」
にこりと総一は笑い、握手のための手を差し出そうとする。
しかしそこまですることはないな、と途中で思い直し、肩を回して誤魔化した。
総一としても、糸子の顔は知っていた。
今日ここまでほとんど全ての試合を見て、最も強いと思い、最も怖いと思った選手・辰美理織。その彼の近くにいた女性。綺麗で、きっと強い。
「弟さん、多分決勝戦に上がりますよね」
「どうでしょうか。他にも強い方はいるので。……姉としてはそうなると良いなと思ってますが」
「まあ、そうなるでしょ」
勇気づけるように、ではない。単なる予測として、もしくは諦観として、総一は淡々と言葉を重ねる。
中学生の大会に出始めて三年目の今年。辰美理織は初めて見た化け物だった。自分たちと同じ人間には見えず、きっと、対抗も難しいほどの。
だが、だからこそ自分は勝ちにいくのだ。勝てばきっと褒めてもらえる。あんなに強い化け物を倒せば、またあんなに強い化け物を倒すから、きっと母に認めてもらえるのだ、と自分を鼓舞するために。
「俺は行きますよ。弟さんの待つ決勝戦まで」
糸子は不思議に思った。今目の前にいる男は、自分に向けて言葉を発したはずだ。
しかしそうは思えなかった。自分以外の誰かに向けて言葉を発したように聞こえて、返答が遅れた。
「……応援してます、とは言えません」
「それはそうですよ」
「でも」
もう一度、糸子はうんと頷く。
見回せば、先ほど、周りで見ているだけだった大人たち。既に何事もなかったかのように素知らぬ顔をしている。
止めたのは総一だけだった。お前たちは何をしていたのだ、とも言いたくなった。
けれどもそれが普通なのだろう。強い自分たちと、鍛えていない彼らと。
そして、強い自分たちだから。
「弟が決勝で戦う相手が鳳さんであってほしい、と私も思います」
弟が雌雄を決する相手は、こういう人間であってほしい。糸子は何故だかふとそう思い、右手を差し出す。
握手のためだろう。先ほどの自分のように。
総一もそう判断し、手を出そうとして、また途中で止めた。
食堂の扉が開いて、客が満腹の腹を撫でつつ出てくる。ぞろぞろと出てきた数人の後ろには、先ほどの店員がいた。
「では二組のお客様中へとどうぞー」
「どうぞ」
差し出しかけた手を途中で止めて、そのまま総一は中を指し示す。順番的に、今入るべきは糸子の前に並んでいたサラリーマンと、糸子の二組。
後ろ髪を引かれるような思いで糸子が中へと歩き出せば、笑顔の総一はそれを見送る。
その笑顔に糸子は、『爽やかな奴だな』と内心いつもは男子に向けぬ賛辞を浮かべた。
事件が起きたのは、食事の後、帰り道だった。
「あっ」
声を上げた糸子に、どうも、と総一は頭を軽く下げる。食事に入る時間は多少前後したが、けれども午後の同じ会場に戻るのだ。行き会うのも当然とばかりに二人は納得し、共に並んで歩く。
傘が触れあわぬよう、少しだけ横に離れて。
遠くで子供がはしゃぐ声がする。水たまりで跳ねて、親に怒られて。
「……そういえば、弟さんと一緒に昼飯とか食べなかったんですか?」
「まあ、そういう年頃なので……」
「ああ」
総一と糸子と理織、それぞれ一学年しか違わないまでも、中学から高校にいる間というものは一年の差は大きい。下は幼く、上は大人びて見えるほどに。
糸子の言葉に、総一も何となく察する。自分はそもそも妹と共に食事を取ることなどほとんどなかったが、けれども『そういう年頃』はあるのかもしれない。家族と一緒にご飯を食べる、もしくはそれを他人に見られる。それが恥ずかしい年頃。難しい年頃。
「今頃コーチと一緒に食べて……終わってるかもしれません」
「コーチ? 日本拳法か何かの?」
「拳道のですよ。主にルールの確認だったんですけど」
へえ、と総一は小さく声を上げる。
やはり。辰美理織の流儀は何かしらの競技ではない。日本拳法や古流空手のような日本的な『武道』に属するものだとは思っていたが、けれども競技化もされていない一種マイナーなものだろう。
「弟さんのやってた武道か武術か、よくわかんなかったんですけど、日拳とかじゃないんですね?」
「弟のは……なんだろうか、今私は敵に塩を送っている気がする。そんなに気になりますか?」
「そうですね、敵情視察ってやつですよ」
総一は笑みを浮かべて、すれ違う人に当たらないように傘を傾げた。飛沫が下に垂れて落ちる。
「何せ、初出場でベスト8まで来た強豪選手相手ですし、情報収集もしておかないと」
「感心です」
調べようともしない弟とは違うなぁ、と糸子もクスと笑う。
それから、観念するように口を開く。もとより隠し立てする気もないが。
「……弟のは、家の道場で教えている辰美流の柔術ですよ。まだまだ未熟ですけど」
「あれで未熟って。お姉さんはあれ以上ってことですか」
「まあ、それは」
その通りだ、と本音は言わず、糸子は言葉を濁した。
実際、弟はまだまだだろう。ルールで守られている拳道ではもしかしたらわからないが、けれどもたとえば喧嘩ならばきっと負ける道理はない。男女という筋肉量や体重の差があっても、まだ。
「鳳さんも、柔術でしたね」
「そうですね。俺のは、小っちゃな街道場でやってるやつです」
先ほどの動きを見て、また糸子も情報収集の一環で知ってはいて、そして総一としても隠す気はない。古武術らしく細かな鍛錬法や技はおおっぴらにするべきではないが、しかし名前程度ならばいいとも師範は言っていた。
「なんていうんですか?」
「言っても多分わからないんですけど、咋神流っていいます」
「くいのかみ……」
元々詳しいわけではないが、本当にわからない、と糸子は顎に手を添える。父や母、もしくは祖父たちならば知っているだろうか。
ピンときていないと糸子の仕草から読み取って、総一はだろうと頷く。
「小っちゃくてハゲたミイラみたいなお爺ちゃんに教えてもらってたんですけどね」
近所の子供たちからは不気味がられていた老人だった。
門下生もいない道場で、年金だけで生活して一人ただ稽古に励むような。
片眼は過去の野試合で潰され、代わりに自分は相手の睾丸を潰してやったのだと嘯くような。
自分もよく頼みにいけたものだ、と総一は思い返しても感心する。まだ小学校に上がる前の頃、お化け屋敷のような道場の庭にいた隻眼の老人に話しかけるのには、とても勇気が要ったもので。
「使うの俺以外にもういないらしいんですよ。だから、もう絶滅する流派です」
「もったいないな」
溜息をついて、糸子が呟く。それから、つい『素』で答えてしまったと咳払いをして誤魔化した。
その仕草に、総一は苦笑する。
「別にタメ口で構いませんよ。俺年下でしょ?」
「そういうわけには……」
一応ほぼ初対面だ。それに、友達でも何でもなく、知人や知り合いといってもまだ隔たりがある。また、このまま会場に着けば、そこで別れてそれから生涯会わないかもしれない相手だ。それに最後にほんの少しだけ、弟と対戦するであろう敵でもあるという理由も。
糸子の言葉に唇を尖らせ、総一は傘越しに暗い空を見上げる。傘についた水滴が光を集めて白く光った。
「せっかく仲良くなれると思ったのに」
「タメ口だから仲良くなれるわけではないでしょう」
「でも距離は縮まりません?」
総一は糸子に笑いかける。綺麗な笑み。媚びも諂いもない爽やかな。
その笑みが、自分に投げかけられることが新鮮で、糸子は目を丸くした。
真面目で、学級委員長は常連で、教師の信頼も厚い。つまりきっと、面白みもなく、話してもつまらない自分に向けて、男子が浮かべる笑みではないのに。
「……そうだな」
まあ、いいだろう。糸子も総一に合わせるように空を見上げる。口元を少しだけ綻めて、穏やかに笑いながら。
それから横目でちらりと総一を見た。
不思議な奴だ、と思った。
通りがかった店にはシャッターが降りている。
並んで歩いていた総一がそれに目を留めるのを糸子は見て、首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「お近づきの印に一本奢ろ、と思ったんですけど、……ありゃ、閉店してたんだ」
食堂へ行くときには気にもしていなかったが。
しかしシャッターに貼られた古い張り紙に、『閉店』を示す丁寧な文句が油性ペンで記されていて総一は溜息をついた。
「ここなんかそこそこ有名な団子屋だったみたいで。たしかに美味かったんですよ」
「ほう」
「上新粉じゃなくって、なんか名前忘れましたが、もっと質の良い粉使って作ってるっていう柔らかい団子で」
しかしそれも食べられないなら意味がない。
「一昨年とかはお土産に買って帰ったんですよね。結局俺ん家二人とも食べなかったんで俺一人で全部食いましたけども」
「それは残念だな」
せっかく買ったのに家族が食べなかったことも。それにそんな美味しい団子屋が閉まっていることも。
しかし、店ならば他にもある。まだ昼休みは残っている。
せっかく知り合った知人と、少しくらいの語らいは……と総一も思い、歩き出して糸子を見る。何か好みの菓子などは。
「お姉さんは……」
だが、糸子の方は生返事で総一に関心を向けなかった。総一に対して無関心というわけではなく、ただ、他に何か注目ごとがあるようで。
総一は糸子の視線の先を追う。道を挟んで反対側、そこには黄色い合羽を着て、また黄色い傘を差していた小さな子供がいた。
まだ未就学児だろう。小さな身体に対して子供用の傘も大きく見えて、またふらふらと危なっかしい。
糸子としても、明確な根拠があったわけでもない。
ただ視界の中に入った黄色い物体が気になっただけで。そして何か、嫌な予感がしただけで。
風が吹いた。糸子らも傘を押さえなければいけないほどの風。
子供の傘も、それを持った子供ごと吹き飛ばすような。
「……危ない」
糸子は予感した。視界の端で信号が青から赤へと変わる。
交差点に、右折車が入ってくる。そのトラックは緩やかに速度を上げて。
糸子が走り出すのと同時だった。
ビルから吹き下ろしてきた風にあおられて、子供が傘に引きずられるように飛ばされる。
行く先は道路。左車線。
「ちょっ……!」
総一が事態を把握したときには、既に糸子は車道に出て。
信号に止まりつつあった車に手をついて、糸子がひらりとその上を飛び越える。
向かう先は子供へ。転がるようにして左車線に蹲った小さな子供へ。
目立つ黄色は運転席からすぐに見える。けれども、車は急に止まれない。トラックという重たい車両ならば尚更だ。
シュウ、という車体の軋む音が響く。
子供に辿り着いた糸子は、その襟元を掴む。傘がトラックに轢かれてバツンと音を立てて折れる。
抱きかかえられればよかったのに。
間に合わない。糸子もそう思った。左手の先にいる小さな命。まだ何も把握していないであろう子供を、すくい上げるようにして歩道に放り投げる。
視界の端に迫ってくるのはトラック。速度を緩めているがまだ速い。
視線の先には放り投げられた子供。近くの花壇に背中から落ちたようで、痛いだろうが大きな怪我はあるまい。
せめて跳んで、避けたいところ。けれども走っている最中だった不安定な姿勢が、子供を放り投げたことによって更に崩れた。
跳べない。避けれない。
さすがに糸子もトラックに撥ねられれば無事では済まない。
(くそ……!)
まだ弟の試合が午後にあるのに。病院のベッドの上で結果を聞くなどということは避けたいのに。
かくなる上は。
せめて少しでも傷が軽くなるように。
糸子は足に力を込める。それは辰美流柔術の奥義、体重の操作。
トラックの前部を破壊し、少しでも衝撃を緩める。そのための予備動作として、右拳を握る。
左腕を掴まれた。
糸子がそう感じたのは、右の拳が空振り、そして鼻先をトラックが掠めた瞬間のことだった。
後ろ向きに自分が飛ばされた。そう感じたのも次の瞬間。また次の瞬間には、仰向けに倒れたということがわかった。またその次には、誰かに抱き留められたという背中の温かさが。
「危ねええええ……」
セーフ、と声がした。耳元、また頭のすぐ後ろで呟かれた言葉に、糸子は驚き、そして飛び退いた。
「うわああっ! すまん!!」
「いいっすけど、怪我はないっすか?」
むくりと立ち上がり、総一も詰めていた息を吐く。
間一髪だった。
車道に残っていた子供。その子供を放り投げ、車の前に残った糸子。その糸子の腕を掴み、引き寄せて待避させた総一。その全てが一瞬の出来事で、どこか一つがずれていればきっと二人ほどが死ぬかもしれなかったという程度には。
子供がようやく事態に気付き、泣き声を上げる。
トラックが止まり、運転手が降りてくる。
子供に駆け寄る親。総一たちを避けるように少しだけ蛇行しながら車が進んでゆく。
流れてゆく車にぺこぺこと頭を下げて、総一と糸子も歩道に上がる。
それでもう一度、二人で顔を見合わせて大きく息を吐いた。
「危ねえっすよ、もう」
「それは、……すまん。それと……、……ありがとう」
抗議をする総一に、糸子は気まずい顔でまた頭を下げた。
怪我をする気はなかった。そもそも、自分が危ないのだとは思っていなかった。そんなことを考える前に身体が動いていた。子供を助けるために。
「……本当に、ありがとう。君は、本当に勇敢な男だ」
見直すまでもなく。見上げるように。
糸子は本心から感嘆の声を上げる。
総一としては、それは違うと言いたかったが、ようやく緊張に身体が震えてきて言葉が出なかった。
危なかった。間に合ってよかった。それは本心で。
そして糸子の腕を引く瞬間、自分の右肘からピキと異音がしたのがどうにも気になって。
じわりじわりと痛みを発し始めたのが、どうにも気になって。
「いえ。辰美さんこそ」
まず気付き、駆けだしたのは糸子だ。自分はそれについていっただけ。
勇敢というならば、まず彼女だろう。総一はそう思い、きっとそれが事実なのだろう。
トラックの運転手と親子が揃って総一と糸子を見ている。
何か話す必要があるのだろう。……午後の試合開始に間に合えばいいが。そう、二人は顔を見合わせた。
その後、午後に行われた拳道の三試合。その最後、決勝戦で総一は負けた。
相手は辰美理織、糸子の弟。
糸子は決勝戦でようやく気がついた。総一は右肘に怪我を負っていたのだと。
きっとそのせいで彼は負けた。
僅差だったのだ。怪我がなければ、きっとその年も優勝者は常勝の鳳総一だったのだろう、と糸子は感じた。
負けたその時の彼の異常な様子に声をかけられず、その日はそれきりだったのが、彼女の後悔だ。
秋の小さな大会にも出場せず、拳道で名を聞かなくなったというのも何となくの心配で。
「総一です! お久しぶりですぅ」
そして、次の春、登竜学園の入学式で偶然再会したときは驚いた。
彼のあまりの変わりように。
以前の何となくの真面目さは形を潜め、へらへらという笑い方があの日の彼と重ならなかった。入学試験全科目満点の特待生として入学してきて、そのせいか授業も真面目に受ける様子はない。
何故そうなったのか、と糸子は聞けなかった。
それが彼の『素』だったのだろう、と思おうとした。彼が何か変わった原因が、自分にあるのかもしれないということから目を背けてきた。
最近、総一の様子がおかしいらしい。
心配だ、と羊谷は言った。拳道の練習で『負けて』から、何か落ち込んでいるようだと。
問題ないだろうと兎崎は言った。自分もそう思いたい。
だが電話口での声を聞けば、そう思えない。
階段を上り、明るい日が差す扉のノブに糸子は手をかける。
登竜学園の屋上は生徒に開放されていない。慣例として生徒会役員は立ち入ることを許されていて、だから静かなそこでよく総一は昼寝をしている。
生徒会室においてある屋上の合い鍵は誰かが持っていってしまっていた。きっとそれは総一で、だから今日もきっとそうしていることだろう。いつもの通りに、不真面目に、だらしなく、きっとへらへらとした薄ら笑いを浮かべながら。
そうしてくれていれば、自分の気もそこまで落ち込むことはないのに。
扉を開けて、屋上へと踏み出す。
今日は雲一つない青空。まだ午前の今でも暑い。
外へ出て、誰もいないと思ったが、しかしそのすぐ横で気配がした。
「あれ、会長、珍しいっすね」
「……まあな」
日差しから身体を隠すよう、雨宿りでもするように壁に背をつけて総一は座っていた。
見上げるようにして糸子を見た顔は、いつもと同じ薄ら笑い。
だがその雰囲気は、いつもと同じというわけでもない。
「昨日、調子が悪そうだと聞いたからな、お前の様子を見に来た」
「それはまたどうも。別になんともないのに」
くく、と総一は笑う。
だがその笑みに、力がないと糸子は感じた。
別になんともないという。それもそうなのかもしれないと思う、けれども。
じ、と目を細めて糸子は総一を見る。
そして、胸騒ぎがした。
いつもと同じ薄ら笑い。
別になんともないという。
ならば、何故。
あの決勝戦の後と、同じ顔に見えるのだろうか。




