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窓に

 



 夢。それはいいものばかりではない。

 夢は、脳が記憶を整理しているときに浮かび上がる情報を、無意識が整理して映し出すものという説がある。

 即ち、記憶が心地よいものでなければ、夢も心地よくはないのだ。


 その日も総一は、いつものように夢にうなされ、屋上に小さな呻き声を吐き出していた。



 靄がかかった視界。ボワンボワンと籠もったように響く声。

 いつもの悪夢だ。そう思った総一は、目を覚まそうとする。しかしその意に反して、金縛りにかかったように瞼はピクリとも動かなかった。瞼のない視界。それは拒むことも許されず、強制的に映し出されてしまう。


 目の前にいるのは二人の女性。女性といっても、片方は総一よりも小さい少女だったが。

「……ちゃん、凄いじゃないの!」

「へへへ」

 母親に褒められてはにかむ少女。総一によく似ているが、もちろん総一ではない。

 その少女から紙を受け取った母親は、その紙をニコニコと満面の笑みで見つめ、それから子供にとってはとても嬉しい言葉を紡ぐ。

「今日の晩御飯、何がいい? 頑張ったご褒美に、奏多(かなた)の好きなもの、作ってあげる」

「やったー!」

 無邪気にはしゃぐその妹の姿を見て、総一も一歩踏み出す。今ならば、母親の機嫌がいい今ならば。

「お母さん、僕も、今日……」

 しかし、期待を込めて見上げた目は、勇気を出して踏み出した足は、母親の目に止まることはない。


「総一のはまた後で見るね。お母さん、今から買い物に行くから。奏多、ほら、いらっしゃい」


 ばたんと閉められるドア。その向こう側から、楽しそうな声を漏らしながら。



 これは夢だ。きっと誇張も入っている。総一自身もそう思う。嫌な記憶というのは誇張されるものだ。

 けれど、確かに覚えている。


 総一の手にある県主催の書道展金賞の賞状。

 妹の手から母へと渡され、それからテーブルの上に置かれた、ピアノコンクール地区予選三位の通告。


 その対比。自分の手の中にある金色に縁取られ輝いていたはずの賞状が、くすんで見えたことを。





「総一!!」

「ふぐっ!!?」

 腹部に鈍痛が走る。誰だ? 一瞬そう思い、それから目を開けるまでの間に答えはわかっていた。

 総一は、気が付かなかった。それだけで、殆ど答えは知れるのだ。昼寝中とて周囲の警戒が途切れない総一に忍びより、あまつさえ攻撃を加える。

 そんな事が出来る者を、総一はこの学校で二人しか知らない。


 目を開ける。光を受けて少し霞んだ視界に映っていたのは、黒い髪を頭頂部でまとめ、角のように立てている麗しい女性。

「……会長、おはよーございます」

「ああ。おはよう」

 欠伸まじりの挨拶に律義に返すその様は凛としていて、多くの生徒に憧れられているのも納得だと総一も改めて思った。

 その女性が、スナップを効かせて手の甲で宙を叩く。およそ似つかわしくないその動作すらも、ミスマッチの妙で似合うものに変えてしまう。

「……じゃない! 総一! あれはどういうことだ!!」

「あれ……って、どれです?」

 ぱちくりと、目やにが残る目で瞬きを繰り返し、そしてもう一度ギュウっと瞑る。

 心当たりがない、正確に言えば心当たりが多すぎてどれだかわからないのだが、それでも怒られているその原因は、どれだか見当がつかなかった。


「一年A組の羊谷! お前一体何をした!」

 直近のそれだったか。内心総一は納得するも、今回ばかりは悪いことをしたつもりはない。総一の心当たりとは別角度からの説教に、心底首を傾げた。

「……数学を教えただけですが?」

「嘘つけ、お前あいつの脳みそか何かいじったろ。それか怪しげな手術かなにかで脳みそいじったろ!」

「会長はいったん落ち着いたほうがいいですね」

 自分で何を言っているのかわかっていない。猪突猛進な彼女にはよくあることだが、いつものことだと溜息を吐いた。


「数学の授業中、信じられない速度で難問を解いた後、そのまま気絶して倒れたそうだ」

「わあ、お気の毒。寝不足か何かですか?」

「お前が! 数学を! 教えたといったろ!!」

 ドタバタと足を踏み鳴らしながら、糸子は吠える。

 その迫力。一般の生徒ならば何も心当たりがなくともつい謝ってしまうほどの剣幕だったが、総一はそれをスルーした。

「ま、そういわれましても本当にそれだけなんで。それに、難問を解けたんですからいいじゃないですか」

「本人は記憶が無いと言っているが」

「……三日も持たなかったか」

 糸子には聞こえない音量の舌打ちと呟き。ぼそりと呟いたその言葉には、総一の本音が込められていた。



「……で、何の用です?」

「だから、お前が……ああ、もう!」

 糸子は頭を振り乱す。本当に、目の前の男はその行為を悪いとは思っていないのだ。暢気な問いにそう思い当たり、それ以上の言葉を失った。

「とにかく、お前のその数学のせいで、倒れた生徒がいるんだ。今度会ったら謝るように!」

「……はぁ」

 気のない返事。総一自身は、特に反省する気はない。事実総一の授業はわかりやすく、そのおかげで羊谷はタコ頭の授業で高得点を取ることが出来た。若干詰め込みだったことは認めるものの、総一に後ろめたいことはなかった。

「それだけでしたら了解しました。それでは」


 パタン、と起こしていた体をもう一度倒す。目を閉じ、周囲の音から意識を逸らせば、また元の暗闇に……。

「起きろ!」

 暗闇になるかと思われた視界が、糸子によって強制的に開かれる。肩をゆすられ、瞼を強制的にこじ開けられれば、もう寝ることは出来ない。

「なんすか」

「……いや、用事はないんだが……」

 総一は眉を顰める。流石に干渉が酷いと感じて。

「用事がなければ寝させてください」

「じゃなくて、お前、今寝たら午後の授業出られないだろ」

 糸子は溜息を吐く。その心配はもっともだが、その心配も総一は唇を結んで拒んだ。

「出なくてもいいじゃないですか。俺もうやったところですし」

「いや、まあ、お前はそうなんだろうが……予習も大事だが、復習も大事だろ」

「学校さえ乗り切れれば問題ないですしー」

 総一の本音だった。復習というのは記憶の定着を促すもので、卒業までの期間だけ覚えておければもう問題はない。そのための復習も、もう必要ない。そう思っていた。

 それに、それは真実だった。特待生である総一は出席日数に対してなんの不安もなく、そして勉学に関しても全て終えている。


 そして総一自身、もう努力をする気はなかった。

 それは、何に対しても。


「それより、会長こそ早く教室に戻ってはいかがです? それこそ午後はもう始まりますよ?」

「お前が戻るんならすぐ戻る」

「なら、一緒にサボりですねー」

 またしても、パタンと総一は背中を屋上の床につける。ちょうど予鈴の鐘が響いた。


 糸子は溜め息をつく。目の前の男の頑固さに。

 そして、わずかな怒りも湧いてきた。目の前の男と、そして特待生の権利として『出席する教室、時間は自由』というものを作った学園長に。

 要は、成績さえ良ければそれでいいのだ。それはわかる。一応の規律を身につけさせるために、一人一つの課題を課しているのも知っている。

 けれど、それで総一のように怠惰な者を作っては元も子もないのだ。


 もう一度、糸子は溜め息をつく。

 それから足をわずかに上げると、重々しい声で総一の頭上から言葉を投げかけた。

「起きろ。立て。十秒以内に立ち上がらなければ、その頭を踏みつける」

「暴力反た……」

 またいつもの威嚇に終わるだろうと思って、総一はわずかに目を開けて糸子を見る。

 だが、戦慄した。糸子のその薄い笑みに。


「じゅーう、きゅーう、……」

「会長、暴力はやめましょう。人間には言葉というものがあって……」

「なーな、ろーく、……」

 これは本気だ。改めて感じた殺気に、総一は怯えて転がるように身を反転させる。逃走のため、力を込めた床についた掌の横に、衝撃が走った。


「逃げることは許可していないが?」

「……はは、……またふくよかになられました……?」

 総一が手をついた箇所のすぐ横に、糸子の足がスタンプされる。屋上のコンクリート製の床はけっして柔らかいものではないのに、その足の中程までがめりこんでいた。

 もちろん体重の増加はない。乙女として、彼女も認めない。それは糸子の脚力と、重心操作によるものである。だが、思わず茶化す総一の全身から、また冷や汗が噴き出た。

「っ……!」

 強く踏み込まれた足を軸にしての糸子の蹴り上げ。顔を上げて躱した総一の顎にわずかにかすったと同時に、その足は破裂音を発した。

「それと、レディにふくよかとはなんだ?」

「そうですよね! 筋肉ですもん……ね!?」

 もう一撃。今度は喉を狙って水平に振られた足先。

 だが、その足先が総一に到達するのに合わせて、総一も四つん這いの姿勢からバク転で起き上がる。宙を掠めた必殺の蹴りに、糸子が舌打ちをした。


 距離をとった総一にわずかに余裕が生まれ、また軽口を叩く。

「俺、拳道班じゃないんで勘弁して下さい」

 そして、そのまま屋上から飛び降りる。隣の校舎までは二メートルほど。一階分下がった足場に向けて、軽い動作で跳び立った。

「待て!」

「嫌です!」

 糸子もまたそれを追う。隣接した校舎へ跳び移り、ベランダや配管を足場に縦横無尽に駆け抜ける。

 校舎といえども、二人にとっては小高い丘程度の障害物だ。そのパルクールじみた動きは、二人にとって簡単なものだった。





「じゃあ、午後からは出られそう?」

「……すいません、ご迷惑おかけしました」

 予鈴の音で目が覚めた羊谷は、保健医に頭を下げる。彼女は午前の数学の授業で眠るように意識を失い、そのまま保健室に運ばれていた。

 目が覚めて、まず彼女は戸惑った。何故自分はここに寝ているのだろうか。そんな単純な疑問に。

 そして、最後の記憶を辿ってみても、四時限目の数学を受けた記憶がない。そこまで体調が悪かった覚えはないのに。

 首を捻るが、保健医の見立てでも身体に異常はない。

 通常、生徒が意識を失うというのは相当な異常事態だ。しかし、保健医も慣れている。この学校では、学園長主導のもと、運動班で気を失う者が多数いたためだ。

 その保健医の見立てだ、間違いないだろう。羊谷も、そう納得した。


 もう大丈夫。ならば、午後の授業はきちんと出なければ。休んではいられない。

 次の授業はなんだっただろうか。時間割を覚えていない彼女は、もう一度保健医に頭を下げて、何の気なしに窓の外を見た。


「…………!?」

 そして、絶句した。

 向かいの校舎の壁を、這うようによじ登る影。そしてそれが何かに追われるように、こちらの校舎に飛び移ってきた。予備動作も何もなく。

 保健室の窓の柵に足をかけて、横の壁の角を掴む。その男性の顔は、見たことがあった。


「どうしたの?」

 保健医も、つられて窓を見る。

「い、今、人が……」

「え?」

 総一が手を振っていた。そう羊谷は訴えようとするが、その指の先には誰もいない。

 その時にはもう総一も、それを追って同じように飛び乗った糸子も姿を消しており、保健医の視界には誰もいなかった。

「……やっぱり、もう少し休んでいく?」

「違うんです、今、人が、人が……!」

 疲れているのだろうか。そう判断した保健医は、羊谷の欠席を伝えようと保健室備え付けの受話器を取る。


「本当に人がいたんすよぉー!!」


 驚愕からの涙目で叫ぶ羊谷。

 その叫び声を聞いた糸子が総一を連れて謝罪に訪れるまで、保健医の誤解は解けなかった。



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