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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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今日は疲れた




 夢という言葉は、多くはよい意味で使われる。

 うっとりと恍惚の夢見心地。目指し突き進む将来の夢。


 だが、すぐに消え去る儚いものに対しても『夢のよう』などと形容することはある。

 そしてもっと直接的に。

 『悪夢』というものも。




 マンションの一室、その玄関、重たい音を立てて扉が開く。

「ただいま」

 入った少年は薄暗い廊下に向けて声を発するが、しかし返ってくる声はない。

 中からはテレビの音が響く。再放送の刑事ドラマだろう、と少年・鳳総一は当たりを付ける。最近の母の流行らしい。総一が見ていても、母はその画面を眺めているだけで、内容を理解してもいないのだが。

 靴を脱ぐスペースは狭い。靴箱の前はごく小さな花の鉢がいくつも並べられ、足下はかろうじて人一人がすり抜けられる程度の空間を作っている。丁寧に世話をされた花たちは瑞々しく、来客があればまず目を引くものだ。

 それは総一の小さな時から母が行っていた習慣で、母は朝早くの時間はそれにかかりきりになるのが鳳家の常だった。

 母に、花への興味もないのだが。


 やはり、と総一が入るとそこには想像通りの光景があった。

 何も置いていない木製のダイニングテーブルにもたれ掛かるようにテレビに向かい、ぼんやりとしている母。

 リビングに入った総一を、ちらりと母が見る。

 母は入ってきた誰かを一応とばかりに確認し、総一だと知るとまた視線をテレビに戻した。

「大会、終わったよ」

「そう」


 後頭部へ向けた言葉への、素っ気ない対応はいつものこと。

 会話が成り立つだけ今日は機嫌がいいらしい、と総一は推測する。そしてそれ以上の言葉が飛んでこないことを確認して、道着を入れたバッグを床に置く間もなく自室へと歩き出した。


 労ってほしかったわけではない。


 フローリングの床を、靴下のまま滑らないように歩く。ぱたぱたと音を立てつつ廊下を進めば、数歩で総一の部屋がある。

 そしてその横には、妹の部屋も。


 木の扉が開いて、少女が姿を見せる。

「あ、兄貴、お帰り」

「ただいま」

 総一よりも母親似の少女は十四歳。総一よりも一つ下で、女性らしく総一よりも小さい。

 けれども栄養状態の差か、もしくはそれこそ女性らしさか、太っているという範疇ではないものの、総一よりも少しだけふくよかに育っていた。


「大会、どうだったの? また優勝?」

 兄貴としてはいつものことだ。そう妹・奏多はどこか呆れるような雰囲気の声で尋ねる。きっと『そうだよ』とでもいつものように返ってくるのだろうと考えつつ。

 けれどもどうしたことだろう。兄の雰囲気がいつもと違う。これは、まさか。


「優勝は出来なかった。負けてきたよ」

「…………あ、そう」


 笑みを浮かべつつ総一は言う。

 その言葉が少しばかり意外で、奏多はかける言葉に一瞬戸惑った。それから目を細め、絞り出すように喉を開く。

「……中学最後の大会なのに」

「ま、仕方ない。相手が強かった」

 口を開けば言葉の代わりに涙が出そうになり、総一は懸命に堪える。負けたのだ、と妹の言葉にまた実感した。


「お母さんには言った?」

「言ってない」

 総一は、いつもは何かの報告をまず母に行う。

 だが今日はいつもとは違う。いつもは『勝った』や『賞を取れた』という報告なのに。

 その事実が総一の口を重くする。

 無論、今回の結果も最善ではないが悪くはない。今回出たのは中学生の全国大会。そこで準優勝ということは、少なくとも同年代のうちでは、拳道の強さで全国で二位ということが認められたということだ。

 だが、優勝ではなかった。

 そのことで、総一は母親の反応がもう知れているのだとすら思っていた。


「代わりに言ってあげよっか」

「いいよ」


 どうせ興味ないし、と総一は心の中で呟く。

 小学生の頃、また幼い日の期待はもう十五にもなればもう擦り切れている。今日の賞状を母親に見せても、きっと一顧だにもしまい。

 総一の部屋の隅に乱雑に並べられたトロフィーも、紙束のようにしか見えない賞状も、この家では誰も興味を持たないガラクタだ。

 少なくとも毎日それを視界の隅に収めている総一は、もうそうとしか思えなかった。

 

 そんな兄を見て、奏多の悪戯心が疼く。

 鞄からはみ出た筒。賞状の収められたその外装は、もう明日には燃えるゴミとして出されるのだろうが。

 するりとその筒を鞄から抜き取り、また蓋を外して賞状を手に取る。 

 その賞状を眺めるように見て、「へえ、準優勝」と小さく呟いた。


「返せって」

「ま、いいじゃん」


 へらへらと笑う奏多。

 取り返すことは簡単だ。男女という性差や年齢差を考えずとも、奏多よりも今のところは総一の運動能力は優れている。だが総一は、それでもすぐに手を出せなかった。

 踏み出せなかった自分。けれども、妹ならば踏み出せるのだと心のどこかで思った。

 それはまだ僅かに残っていた、期待。


 賞状を手にしたままとことこと歩き、奏多は居間へと向かう。

 ドラマの音声の中に足を踏み入れる妹をすれ違うように見送り、総一は壁の陰に隠れるよう足を止める。自身は廊下の奥を見つめて。

 後ろから響くのは、楽しげな妹の声。


「お母さん、これ見て」

「何を?」

「兄貴が今日出た大会の賞状」


 総一の耳に、ぺらりと紙が捲られるような音が響く。

 それでも足が動かない。部屋に入るべきか、それとも踵を返して妹の横に並ぶべきか、戸惑うように。


「優勝は出来なかったみたいだけど」

「あらそう」


 奏多の言葉もきっと意味は理解していないだろう。その耳はドラマの俳優の声に夢中で、その上その俳優の言葉の意味も捉えていないだろう。そう総一が推測するには充分な無機質な声音。


「でも準優……」

 言い募ろうとする娘を無視し、母は深い溜息をつき。

「どうしてあの子はあんなに出来が悪いのかしら。まったく、お父さんにばかり似て。奏多は見習っちゃ駄目よ」




「…………」


 声だけを聞いていた総一は、少しだけ目眩を覚えた。

 やはり、とは思った。予想している以上で、これはもう知っている、と言った方が正しい。

 けれども、ほんの少しだけ、やはり期待していたのだと強く自覚した。


 準優勝だ。

 優勝したわけではない。

 だが結果は最良ではないが悪くはない。全国の頂点には及ばなかったものの、その一歩手前、という程度のこと。

 

 よろよろと、何かに押されたように総一は廊下を奥へと進む。

 自分の部屋。空間と僅かな衣服以外、全てを自分で揃えた自分のものしかない部屋。

 部屋へと入り、しかし扉を閉められず、背中をつけて体重をかけてようやく閉じる。それから腰が抜けたようにずるずると背中を扉に預けてしゃがみ込んだ。


「そんなことより奏多。お母さん、今日の夕ご飯作る気が出ないんだけど。宅配でいい?」

「また?」

「今日も疲れちゃったのよ」


 耳には小さくリビングからの会話が届く。総一も乾いた笑い声を上げる。

 『そんなこと』らしい。

 自分の息子が全国の強豪たちと戦い、勝ち取ってきた賞は、妹の晩ご飯よりも小さなことらしい。


 期待をしていたわけではない。

 そう思いたくても、もう思えずに総一は手で顔を覆う。ズキリと肘が痛む。



 まだ自分は期待をしていたのだ。

 準優勝だ。敢闘に、少しは労ってくれるかもしれないと思った。

 決勝敗退だ。惜敗に、少しは慰めてくれるかもしれないと思った。


 自分は辰美理織の姉を恨むべきだろうか。

 肘の怪我さえなければ決勝も勝てていたかもしれない。優勝出来ればもう少し母親の態度もよかったかもしれない。


 肘の怪我さえなければ。

 そう一瞬だけ脳裏によぎり、けれどもそれが総一には酷く惨めに思えた。


 たしかに、怪我がなければまだあの天才にも勝てたかもしれない。優勝出来ていたかもしれない。

 けれどももう試合は終わった。今更何を言ってももう遅く、結果を変えることなど出来はしない。


 そしてまた仮に結果を変えたとしても。

 優勝しても、母が自分への対応を変えるとは思えない。


 電気もつけていない暗い部屋の中。手の中の闇はなお暗い。


 一番など、今までの人生で数限りなく取ってきた。メダル、トロフィー、賞状。指の隙間から部屋の隅に目を向ければ、暗闇の中に浮かび上がるように、無駄な輝きがいくつも目に入る。

 それでも自分が望んだものは、手に入っただろうか。


 暗闇の中で誰かが首を横に振る。


 いいや。きっと、どうせ。


「…………もういいや」



 全部捨てる。

 全部いらない。

 もう誰にも期待しない。メダルもトロフィーも賞状もいらない。

 もう今まで得たもので充分だ。

 何も得られなかったけれど。

 

 どうでもよくなった。

 そう感じて、総一は手を解き、暗闇の中で顔を上げる。溜息をつけば、今まで得た力が全て抜けていった気がする。


 もうどうでもいい。

 だから、もう頑張るのはやめよう。



「そう思ったんだよね、お前は」






 総一が目を開けてまず見えたのは、自分の部屋の天井だった。

 生まれ育った家ではない。高校に上がるため、自身の貯金をはたき、また母親の印鑑などを拝借し契約したアパートの一室だ。

 初夏ももう過ぎ去る頃、かけていたタオルケットが汗を吸う。


「……うん、まあ、そうだよ」


 夢の中の自分に返事をするが、それ以上の返答はない。

 何を責めているわけでもないただの事実文。

 あの日、自分が死ぬ日を決めた一連の出来事はたしかにそのようなものだった。

 

 良いことなのだろう、と何故だか未だにそうは思う。

 人はいつか必ず死ぬが、その日がわからないというのは一種の苦痛だ。苦痛から自分は解放されている。

『永遠に生きるか如くに夢を持ち、今日死ぬかのように生きよう』。そういう言葉があるが、自分は三十で死ぬように生きるのだから。三十年も生きれば充分だろうと思う。もう人生の結論は出ているだろう。


 小さく伸びをして、起き上がれば意識ははっきりとしている。

 目覚めもよく、身体も快調。

 あとは歯磨きをして、朝食を取って、学校へと行く準備を。

 時計を見れば少々早起きらしい。ならばシャワーを浴びてからにするのもいいかもしれない。寝汗で肌もべとついていることだし。


「今日の予定は……ベーコンエッグだっけ」


 言ってからあくびをすれば、先ほどの悪夢が溶けて消えていく気がいた。






「まだまだっ!!」

「…………っっ!」


 ダカ、とテニスラケットで球を強く叩く音が響く。

 白鳥はまさしく鳥のように軽やかに自コート内を動き、総一の返球にまた笑みを浮かべて鋭い返球を見せる。もはや今となっては白鳥に手加減はない。超高校生級の球はレシーブでもサーブ以上の重さと速さを持ち、総一にとって最も打ってほしくないところに飛んでくる。

 今回もかろうじて追いついた総一は、白鳥の球を受けて広がる腕の痺れに思わず息を吐いた。

(くっそっ……)

 顔を弱気に歪めぬよう、努めて表情を作り総一は白鳥を見る。打ってからのリターンも異常に素早く、コート後方で返球したにもかかわらず既に自コート中央でどっしりと構えて総一の球を待っている白鳥を。


 どこに打っても返される、という予感。

 無論、全く返ってこないのもそれはそれで寂しいものだ。そのようなつまらない事態は総一とて望んでいない。

 だが、まるで大きな壁に向かって打ち込んでいるようだ、とも思った。

 

 全ての球が返ってくる。しかもその球は超高速と回転により砲丸のような重さを帯びており、見えていても返すには途方もない労力がいる。

 そしてそもそもに、至近距離ではもうほとんど球の軌跡を確認出来ずにいる。


 総一とて、もうほとんど無意識のままだ。

 思考の介在などはほとんどない。返球は全て身体に任せて打つだけの『勘』や『経験』とも呼ぶべき何かに頼ったもので、それもただ今までの努力によって作り上げた力。

 

 白鳥とのテニス試合も余裕がなくなってきた、と総一自身感じていた。

 あまりにも急激な変化だ、と総一は自嘲する。その原因が彼我のどちらにあるのか、考えても意味のないことだと思いつつ。



 やがて、総一の背後で金網が鳴り、勝負がついたことを双方が知る。

「……ゲーム ウォン バイ 白鳥」

「ふへええ」

 白鳥が自分で自身の勝利を呟いて判定し、総一も異論はなく座り込んだ。

「ありがとうございました」

 ネットを超えて、総一に白鳥は歩み寄る。昼の短い時間にも関わらずジャージに着替えているのは、総一との試合をお座なりにしたくなかったからだ。

 握手をするように手を差し出された総一は、その手に掴まって立ち上がった。


「昼休みに三セットマッチってもう腹ごなしのレベルじゃないよう……」

「でもちょうどいい時間ですわね」

 何をそのような泣き言を。白鳥は笑って、きらきらとした汗を袖で拭いつつ、近くの壁にあった時計を見る。

 結局は白鳥の二セット先取のストレート勝ち。それなりに早く終わったのだから尚更だ、と総一に同意を求めた。


「それにしても、今日はどうされました? 何か動きが悪かったみたいですけど?」

「あ、やっぱり?」

 慰められているのか、それとも本当のことなのか。総一は一瞬どちらか判別出来ず、そして白鳥はどちらかというと前者はしない、と判断した。

 テニスに関しては、白鳥を総一は信用している。自分よりも、また教師よりもすら。

 そして聞いた総一は肩を回し、また飛び跳ねて感触を確かめる。もっともそうしても、その判別も今は出来ていないようだなと再確認出来ただけなのだが。

「なんだろうな、そんなつもりはないんだけど」


 だが白鳥が言うのならばそうなのだろう。

 始めは白鳥がただ上達したのだと思っていた。その豊かで純粋なテニスの才能に任せて、よりテニスを極めたのだろうかと。

 総一にとっては勿論それもあるのだと思うのだが、けれども白鳥がそう言うのなら。

「なんだろ。調子悪いのかな?」

「この前風邪引いたばかりですものね。ぶり返すと困りますしお大事にしてくださいな」

「ありがとう。叶ちゃんは優しいねぇ……」


 しみじみと総一は言って、涙代わりに目の下の汗を指で拭う。あわあわと震えるように固まる白鳥を無視して。

 それから改めて時計を見る。もうすぐ予鈴が鳴るだろう。


「でもこんな時間だし早く着替えちゃいな。俺と違って白鳥には授業もあるし」

「そそ、そうですわね! ではそろそろ」

 白鳥は敬礼をするように手を上げて、コート脇にあった荷物を拾い上げる。

「またやりましょうね」

「うん。気が向いたらね」


 総一の言葉を同意と受け取り、白鳥は笑みを一度向けてから走り出した。

 午後の一時間目は古文の予定だ。そのままでも授業は受けられるが、けれども汗のびちゃびちゃに染みたジャージで受けるのは乙女心として難しい。それにそもそも、そのままではクーラーの効いた室内は寒い。

 兎にも角にもまず着替えなければ。そう、脇目も振らずに駆けてゆく。


 元気だ、と総一はその姿を見送り、それに反する自分の足のだるさも自覚して笑った。


「気が向いたらね」


 今日はどこで昼寝をしようか。

 屋上がいい。誰も来ないから。みんなが来ない場所だから。

 放課後が来るまでゆっくり寝よう。


 そうしたら早く帰ろう。

 帰ってゆっくり寝て休もう。


 今朝は嫌な夢を見て疲れてるから。

 今日はきっと疲れてるから。




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