仰げば尊し
「あー、空が青……くはねえな」
もうそろそろ夕方という時分。日の長い夏とて少しばかりは空も黄ばむ。
屋上、温かいコンクリートの床に寝転び、総一は空を見上げていた。
帰ろうかと思った。稽古も今日はもうなく、学校での用事は終わった。だからいつものように帰って、いつものように夕食をとり、いつものように早くに寝てしまおうと思った。
けれども何か消化不良で、何かがまだ足りない、という気がした。
それがなんなのか総一には分からない。けれども、それでも、まだなんとなく帰る気にはなれなかった。
先ほどまで頬に残っていた感触は既にない。
そもそも丑光の突きは総一の頬を捉えてはいたが、芯を食うような打撃ではなかった。丑光としても半信半疑のまま打ったもので、避けることは出来なかった総一でも身体を引いて緩める程度は出来た。
しかし、軽くさすればどこか熱が残っている気がする。腫れてなどはいないだろう、と推測して総一は手をぱたりと落とす。
気にしているのは、丑光を相手に事故を起こすところだった、ということではない。
負けた。
その言葉が、頭のどこかからするりと姿を見せる。
実際には負けではない。拳道の試合は三本先取で勝利となり、一撃ではまだただの一本だ。それにそれが一本と数えられるなら、自分はその前に幾度となくポイントを取っている。
更に、軽い打撃だった。総一も無反応で通すことは可能で、そうすれば有効打でもなく試合場も一本ですらない。
けれども、負けた、と総一は思う。
恐らく丑光だけの力ではないだろう。その直前の休憩時間に、学園長から丑光へと何かを話していた。ならば、そこで何かしらの作戦を伝えられたのだろうと推測は出来る。それにそもそも何百回と繰り返した打撃の応酬のうち、たった一回だ。偶然という線もあろう。
それでも丑光の打撃は当たったのだ。
学園長の助言からか、それとも執念からの偶然か、その両方か。そんな要因があるにせよ、間違いなく丑光の打撃は総一を捉えた。
ならばもう、追いつかれつつあるのだろう、と総一は思った。
意外と早かったな、と総一は苦笑した。
前に糸子と話したこと。誰かを倒す練習をするならば、その『誰か』と練習試合を繰り返せばいい。辰美理織に勝ちたければ、辰美理織を練習相手とすればいい。
そして、思えばそれは自分にも当てはまるのだ。
丑光は達成した。
総一という相手に対し、総一を練習相手にして勝利したのだ。
実際にはまだ勝利していない。けれどもそれは遠い日ではあるまい。
結局のところ、総一の使っている技術・咋神流は全てがカウンターで、更にその数には限りがある。
無論丑光相手に使っていないものも含めて動きにはまだ幾通りも存在するが、しかし続けていけばどれもいずれは攻略されてしまうことも想像に難くない。
だから反対したのだ。
自分は辰美理織相手の代わりにはなれない、と。
屋上は、周囲の音がよく聞こえてくる。
運動場からは靴がボールを叩く音やバットから響く快音。吹奏楽の練習の音色に、全く関係ないどこかの飼い犬が反応して遠吠えを上げる。
その音を、総一は嫌いではない。全てが自分と無関係であるから。
総一はその音を聞いて、少しだけうとうとと眠気に襲われる。
瞬きをする度に雲の形が変わる。きっと時間が過ぎているのだろうが。
下界から届くBGMは、ずっと変わらない。
運動場で誰かが『行くぞー』と声を上げれば、それ以外の声で『おー』と返事がある。
校舎の外でランニングをしている一団もいるのだろう。『ファイト』と声を揃えて幾人もが移動を続けている。
ずっとこうだ、と総一は思う。
自分と他人はいつも違う。いつだって皆の輪に入ることは出来ず、自分は外からそれを眺めていた。
入る気がしなかった。皆の輪の中には、自分が望んでいたものがなかったから。
『貴方はお父さんそっくりよ』
母親は自分を叱るとき、必ずそう口にしていた。
父親がどのような存在だったか、というのは総一の記憶の中にない。ごく小さなときにはそういった誰かがいた気もするが、それも幼少期の曖昧な記憶の中だ。きちんとした記憶が残る年の頃には周囲にはそういう存在はおらず、死んだのか、生きているのか、それすらも母親の口から確かめることは出来なかった。
『奏多はお利口さんね』
母親の笑顔の記憶を思い返すと、それは必ず横顔だった。
褒め言葉には枕詞のように妹の名前が必ず上がり、そしてその手は妹の頭を撫でていた。
得意げに笑う妹の手には通知表やテストの答案、素人の作った紙製の賞状が握られている。そして自分の手にしたものよりもだいぶ質の低いものだった、というのはあとになって思い返したことだ。
小学校では級友から『ガリ勉』とあだ名されていた。
奇妙な子供だっただろう、と自分でも思う。
休み時間に校庭に出て遊ぶこともなく、必ず教科書を読んで予習復習を欠かさない。たまに出たと思えば、何かのスポーツの一人練習。
小さな子供の頃というのは、友達というのはわりかし簡単に作れるものだ。
難しいことを考えずとも、ただ近くにいればいい。挨拶を交えて話しかけ、何かで遊べば誰とでもすぐに仲良くもなれる。
けれども、小学校に上がる頃から、総一は友達というものをどんどんと失っていった。
そんなことよりも重要なものがある、と勉学や身体作りに励み続けた。
小学校中学年の頃には中学生の参考書を読んで。高学年の頃には拳道で大人にも勝てるようになって。
妹に負けたくなかった。国語のテストで妹が六十点を取るなら、自分は百点を。妹の通知表の三角が三割しかなかったのなら、自分は全て二重丸を。町内会の写生大会で佳作をとるのなら、自分は県の展覧会で金賞を。
サッカークラブに入って、エースとして活躍する。拳道の大会で優勝する。
何かの分野で駄目なら次を。それでも駄目ならまたその次を。
そうやって頑張れば、いつか母親は笑って自分を褒めてくれると思っていたのに。
そして、頑張り続ける中で、総一はあることに気がついた。
どんな分野でも、勝てない相手がいるのだ。
勝てない相手、というだけではない。それは大抵の場合、少し前には自分よりも劣っていた誰かで、彼らはどこかの時点で自分を追い越して更に先へと進んでゆくのだ。
『貴方には才能がないのよ』
それも、市のマラソン大会で二位の賞状を持ち帰ったときに母に言われたことだ。
今となっては、さもありなん、と総一も思う。
努力をし続ければ、大抵の場合能力というものは伸びてゆく。昨日わからなかったことがわかるようになり、昨日出来なかったことが出来るようになる。
だが、どんなものにも限界がある。
その限界は人によって変わり、そしてそれが人の『才能』というものを表す一つ。
笑える、と総一は口元を緩める。
自分は人よりも優れている。人よりも才能がある。そう思い込んでいた小学生の自分に向けて。
目を閉じれば瞼の裏が赤黒い闇に映る。このまま昼寝してしまってもいいかもしれない、と思いつつも、昔そうやって守衛のお世話になったことを思い出してやめておこうと思った。
瞼の裏、夢のように思い返すのは小学校の頃。
総一は、小学生の時には流暢に英語を操ることは出来た。スラングまでは理解出来ずとも、日常会話に困らない程度には。
その時は、教師から褒め称えられたものだ。自分にも才能があるのだと何となく思えたものだ。
漢字や数学の検定も小学生の時に全て取り終えた。通知表には教師からのお褒めの言葉も書かれ、そして級友には誰もそんな者がいないと得意げだった。
しかしそれはつまり、井の中の蛙。
自分以上の者はそういない。
そう思えていたのは、小学生の頃まで。
中学に入り、衝撃を受けたものだ。
相手はハーフの帰国子女だったと総一は朧気ながらに記憶している。
自分以上に流暢に英語を操る者。やはり『日本訛り』とでも呼ぶべき自分のような発音の違和感もなく、また日本語も自分と同じように喋るその姿。自分は名乗り出なかったが、英語のテストで満点を取った二人のうちの一人だった。
同じように、国語も。数学となった算数も。ぽつぽつと自分と並び、もしくは自分以上の者が出始める様を見て、愕然とした。
井の中の蛙、という言葉を実感したのはその頃だった。
彼らだけではない。
明らかに成績が振るわなかった同級生が、点数を伸ばし始めた。自分しか出来なかった体操技を出来る者が増えていた。
そんな状況に、少年総一は打ちのめされつつあった。
気付いたのは、国語の時間、教師が雑談のように紹介した言葉を聞いたときだ。
『十で神童。十五で天才。二十過ぎればただの人』
ああ、そうだったのか、と総一は思った。
今まで自分は人よりも出来ていた。周りの誰よりも頭がよかったし、周りの誰よりも運動神経も優れていたと思っていた。
それが、今となっては互角の者たちがいる。上の者たちがいる。その理由が、全て説明がついたと思った。
自分が優れていたのは、ただ『やって』いたからだ。
勉強をしていた。運動練習をしていた。絵の練習も、ピアノの練習も、全て、全て。
まだ幼く、誰もしてこなかったことだったから。だから、勝てていたのだ。だから、上にいたのだ。ただそれだけの話で。
もう一つ気がついたのは、その上達速度。
テストの点数を伸ばす速度。運動の上達の速度。
周囲を見渡しても、自分以下の者はいない。教科書を読んで、ノートにとって、それだけで自分が理解した以上のことを理解していく。柔道の授業の時間、『へたくそ』と言われていた同級生は、明らかに自分以下の練習量で同経験の自分以上の上達を見せた。
才能というのは、能力の最大値。そして、上達の速度。
もしも才能というものを数値化し、順位をつけたとしたら、きっと自分はその底辺にいるのだろう。
そう実感するには充分な光景だった。
中学に入る頃から何となく気がついていた。
練習しても、ボールの扱いが上達しない。訓練しても、計算速度は上がらない。鍛錬しても拳の速度は上がらない。記憶力も発想力も、何となくの変化が見られない。
自分は天才でも秀才でもない。きっと単なる早熟で、もはやその成長も止まってしまった。
才能の限界。
もう自分に伸びしろはない。どんな能力も、鍛え終わってしまった、ということに。
『明日やろうとする愚か者。今日でさえ遅いのだ。賢者は昨日済ませている』という格言の通り。
だから、自分は全て済ませてしまった。
勉強をしてきた。運動の練習もしてきた。芸事も磨いてきた。小学校に上がる前から、脇目も振らずにずっと。
それで済んでしまった。自分はここまでだ。自分の才能というものはここまでしか運んできてくれず、そして才能ある者はどんどんと次へと進んでゆく。
今日、丑光は自分に勝った。勝つ足がかりを得た。
ならば、今は未熟でも、きっとこれから自分の先へと行くだろう。それ以上の才能を持つ辰美理織に勝てるかどうかは分からないが、才能のない自分よりは。
「……いいなぁ……」
「何がっすか?」
ふと、自分以外の声が響いて総一は目を開ける。
そこには、髪の毛を垂らし見下ろすように覗き込む羊谷の姿。
気がつかなかった。やはり半ば寝ていたのかもしれない、と総一は溜息をついた。
「屋上って一応生徒会役員以外は立ち入り禁止なんですけど」
「いいじゃないっすか、前入れてくれるって言ったっしょ」
にこにこと微笑む羊谷に、総一はぼんやりとしつつ長い瞬きで応える。
それから、一言。
「水色」
「あん? 何が……っ!?」
総一の言葉の意味が一瞬分からなかった。けれども、見上げているのは総一、見上げられているのは自分。そこまで考えてようやく理解し、スカートの前を押さえながら。
「何で見えた!?」
「見えてないけどその反応当たりか」
ケタケタと笑う総一を、羊谷がジトッとした目で睨む。
下着を見られたというのが勘違いでも、鎌をかけられて引っかかった、ということを恥ずかしく思いつつ。
「…………なんすか? セクハラキャラに転向っすか」
「驚かされた仕返ししただけ」
「最近先輩そういう噂ばっかなんで、私が『パンツ見られた』って騒げばみんな信じますよ」
「あ、うん、ごめん」
勘弁してくれ、と総一は素直に謝った。
『パソコン室でエロゲーをやっていた』や『美術室で女子生徒に卑猥な絵を描かせていた』というのに加え、『喫茶店で別れ話をしていた』という話。更にその他にも、普段の素行不良を合わせた噂は数限りない。
何故そんなに面白がっているのだろう、と不思議に思いつつも、気持ちの良いものではなかった。
一往復の応酬で気は済んだ羊谷が、寝転んだ総一の隣にどかりと座る。一応とばかりに腰に巻いたカーディガンでスカートの裾を抑えつつ。
「で、何が羨ましいんですか?」
「何が?」
「さっき先輩がなんか薄笑いしながら言った言葉っすよ」
「…………なんだっけ。寝言じゃね?」
覚えていつつも、総一は知らないふりをした。
羊谷に話すようなことではない。
そして、それでも。
「ねえねえ羊谷ちゃん」
「なんだよ気持ち悪いな」
甘えるような総一の口調に、羊谷は、うえ、と頬を引きつらせる。無論、双方共に冗談だと分かっていつつ。
総一は苦笑し、それから空を見上げたまま呟くように尋ねる。
「よく俺とかと勉強会とか開いてるけど、勉強って楽しいもん?」
「なんすか急に。『青春十五時』みたいな」
『青春十五時』は、羊谷がよく見ているドキュメンタリー番組だ。
課外活動に勤しむ学生を取材して、青少年の悩みをありのままに映すという。
「そんな感じ、そんな感じ」
総一は見たことがない。
「…………」
羊谷は持っていたペットボトルからお茶を一口飲んで、「あー」と濁った声を上げつつ考えをまとめる。別に何か深い意味もないだろうと楽観的に。
「ま、楽しいっすよ。次のテストのために、ってのもありますけど、なんつーか? ちてきこうきしんってやつっすかね? わかんなかったことがわかるようになるってまーまー楽しいっす」
それに、その時には大抵の場合総一が教師役だ。近くにいるだけで、声を聞けるだけでも。
だから。
「まー、あたしにとっちゃチャンスっすからね。ほら、言うじゃないっすか、チャンスの神様は髪の毛がないって」
「それはただのハゲじゃね?」
「だからこう、がしっと……いいじゃないっすか、細かいことは」
総一の茶々に、唇を尖らせる羊谷。
「ちょっと知的なこと言いたくなったんすよ」
まあいいけど、と総一も僅かに噴き出すように笑いつつ言う。そして口にした羊谷も、この話題を続けたくないと気がついた。
「で? チャンス?」
「ほら、あれっすよ、あの」
羊谷の口にした『チャンス』。
それは、教師役が総一だということ。
テニスの他、なんと映画までこの前一緒に行ったという接点の多い白鳥に対する、自分のアドバンテージ。青春のチャンス。
そしてだから、言えない。
「ほら、学園長もよく言ってるじゃないですか。『これからの人生で今が一番若い』って。だから何でもやってみるべきって」
内心あたふたとしながら、乙女は理由を取り繕う。
「若いときの方が覚えもいいってパパも言ってたし、ほら、チャンスっしょ」
ね? と誤魔化すように羊谷は総一に言い含めるように重ねた。
総一は苦笑する。
羊谷の反応にではない。その言葉に。
「ま、チャンスだわな」
「……なんか、悩み事です?」
総一の返答を訝しみ、羊谷が目を細めてまた総一の顔を見る。
そこで初めて気がついた。見慣れていた先輩の顔。しかし、見慣れない徴。
「あれ、先輩、ほっぺ怪我してません?」
「ああ、うん。さっき拳道の試合でやられた」
打撃が当たったとはいえ、今日の総一の頬に腫れなどはほとんど存在しない。
あるとしても、きっと誰が見ても気付かない程度の腫れ。
きっと誰が見ても気付かない。きっと、親すらも。
「え? あのボッコボコにしてたっていう相手に? とうとう復讐されたんすか!?」
「そうなの。俺負けたの」
「うっわ、カッコ悪」
「さすがに言いすぎじゃない?」
羊谷の笑みに、総一は苦笑で応える。
どちらかといえば、羊谷は安心していた。目の前の常人離れした先輩が、自分と同じく怪我をするということに対して。
そして一応の励ましの言葉も。
「でも次は勝てるっしょ。先輩の方が絶対強いし」
羊谷は総一の試合を見たことはなく。
「どうかなー。向こうはまだまだ若いしねー、若いときの方が覚えもいいしねー」
「あんたら同い歳じゃないっすか」
総一の言葉を冗談と信じて、羊谷は笑う。
総一はそれ以上応えず、空を見上げた。
そうだ。同じ歳だ。
けれども、その状況も才能も違う。
丑光はこれからも強くなる。自分よりも強くなるか、それとも弱いままで終わるかはわからないが。
だが、自分は変わらない。それよりも、むしろ衰えていくだろう。
『人生で一番若いのは今』。
素晴らしい言葉だと総一も思う。何かを始めるのに遅いことはない、という励ましの言葉。
だが、人生で一番若いのは今なのだ、とも思う。それはつまり、これからは必ず老いていくということ。
一般的に人間の能力は、学習能力や運動能力を引っくるめて、総合的に二十歳から二十五歳がピークといわれている。
能力の成長や維持が出来るのはそこまで。それからは、衰退を出来る限り遅くするという悲しい撤退戦が始まるのだと。
そして総一は、自分のピークはもう来ているのだと信じている。
今は十七歳。これからきっと自分は二十代半ばまでこの能力を維持出来るのだろうが、きっとそれからは衰えていくのだと。
『明日やろうとする愚か者。今日でさえ遅いのだ。賢者は昨日済ませている』
賢者はもう済ませてしまった。
勉強も運動も芸事も、全てを酷く乏しい才能の限界まで極めてしまった。
そしてそれでも望むものは手に入らなかった。
皆の輪から外れ、研鑽を続けても、それでも何も掴めず掌からは全てがこぼれ落ちた。
これから、隣にいる皆は高みへと行くのだろう。
丑光は強くなる。白鳥も世界へと羽ばたく。兎崎もきっと自分には及びもつかないどこかで何かを為すのだろう。
それをただ見送るのは、もうこれでたくさんだ。
「羊谷は長生きしろよ」
「何すかさっきから。誰か死んだんすか?」
「いや誰も」
また変なことをいう、と羊谷は総一をあしらう。この先輩の奇行はいつものことだと。
総一は、ただ真面目なことを隠しつつ。
賢者はもう済ませてしまった。
勉強も運動も芸事も、全てを酷く乏しい才能の限界まで極めてしまった。
そしてそれでも望むものは手に入らなかった。
もう何もない。これから衰えていくばかり。
それをもう知っているからこそ。
衰えていくばかり、三十代最初の誕生日には。
賢者は死ぬと決めているのだ。




