事故
「だーっ! 勝てねー!!」
その言葉とともに、胴着を着た赤髪の少年が畳の上に倒れ込む。
倒れたのは疲労半分、そして悔しさを堪えるために駄々をこねるの半分だった。
総一相手の稽古を開始してもう一時間というところだろう。
疲れて立ち上がることすら億劫になり始めた丑光の、次のラウンド前のほんの一時の安らぎとして。
見上げる天井は熱気を湛えていて、汗の臭いも充満している。
だがそんな熱も臭いも気にならない。そのごく一部だが、それは他ならぬ自分も加わり皆で発したものなのだから。
あの男と自分と、何が違うのだろうか。
総一の稽古台から学びを得て、丑光は三日間ボクシング班に出向いて練習に参加した。
外部から呼ばれたトレーナーにより、およそ三日、時間にすれば十時間と少しの指導を受けた。それと少しの個人練習。
無論それで全てどうにか出来るとは丑光も自分で思わない。ほんの僅かな修行で才能とやらが開花し、格上にも勝てるようになる、などはほぼありえないことだ。それが出来るのならば、きっと自分は格闘技の世界一の天才と称えられてもおかしくないほどの男だろう。そしてもしそうならば、既にこんな段階は飛び越えている。
だが、何かが変わるとは思っていた。
何かに期待していたのだ自分は。
結果は惨敗の一言だろう。
今日の稽古も、ほとんどなにも変わらない。相変わらず総一には触れられもせず、そして面白いように向こうの攻撃はこちらに当たる。
総一は、中学での引退以来、練習などはしていないという。
あの様子では、ランニング程度の運動もしていないだろう。
そして体力も技術も、向上させることをやめた途端に衰えていく。放っておいても維持は出来ない。一日の休みを取り戻すのには三日かかる、という格言はそういうものだ。
丑光は、じっと真面目な顔で天井を見つめる。
相手は衰えて、それ。自分は鍛え続けて、これ。
そうなってしまえばもはや、練習とは意味があることなのだろうかとも思ってしまう。
いつだって高みに立つのは『そういう奴ら』だ。
凡才の努力を軽々飛び越えて、天才たちは上へと昇る。鳳総一も、辰美理織も。
ふう、と深呼吸に似た溜息をついた丑光を見下ろし、学園長はふむと頷いた。
そろそろだろうか。
そろそろ目の前の男子は腐ってしまうだろう。当然だろう。ほとんど全ての分野において、何の努力も実らないことを人は続けることは出来ない。続けるには人の称賛などの外部的な要因か、もしくは自身の喜びという内部的な要因が必要となる。
だがだから、いまだから。
今喜びを与えれば、その苦労も翼に変わる。雌伏の時は終わり、雄飛の時が始まるように。
「丑光」
「……なんでしょうか」
学園長は、畳の隅で座り込んでいる総一をちらりと見る。
「総一に勝ちたいか?」
起き上がり、だが学園長を見ることは出来ずに丑光は畳を見つめる。
勝ちたい、と言いたかった。けれども、無理だ、という言葉が頭の中で薄く流れる。
その勝利を望めるような力が自分にはないのだ、と思い始めてしまった頃。
学園長は丑光の内心を想像して、また頷く。
誰にでもそういうときはあるものだ。上手くいかず、思うようにいかず、自分が出来ると思えなくなってしまうときが。そしてそこで、自分は出来ないと思ってしまうのは、青少年にとっての損失だ。
子供は現実を知らずに望みを心のままに口にするだろう。大人になれば現実を知って、身の程を知って不相応な望みを持てなくなるかもしれない。
だが子供から大人に変わる時期に。無理かもしれないと思いつつも、まだ諦められない望みに邁進することこそが。
成功したらそれもよし。失敗しても後の笑い話とすればいい。そんな挑戦が、それが大人になってからの彼らの豊かな財産になる。学園長はそう信じている。
だから学園長は、今歩みを止めてほしくはない。
丑光にも。総一にも。
「一つ、秘策を授けようかの」
「へ?」
「お主に一本を取らせてやろうというんじゃ」
目を丸くする丑光。
多分、一本だけじゃがな。
そう心の中で、学園長は呟いた。
休憩時間も終わり、改めて、と二人は向かう。
「よろしくお願いしまーす」
「お願いします」
両手両足をぴしりと揃え、殊更に礼儀正しく頭を下げるのは総一。
そしてそれに応えて丑光もいつものように頭を下げた。
学園長の見ている前で、丑光が構える。
左手を前に出したオーソドックスなボクシングの構え。先ほどまでと同じく、そして以前よりも堂に入っているその様は前よりも明らかに隙のないもの。
しかし、その上で。
(……なーんか気合いが違うなー……)
軽く上下に跳んでタイミングを図りながら、総一はその様を見る。
もう何日も見ていた姿。先ほどまでも見ていた姿。けれども、このラウンドは少しだけ丑光の気迫が違う。
いつものように、自分を倒そうとしている、ということはわかる。しかしいつもの『自分の力を出し切る』というような気迫の入り方ではない。
何かを狙っている。
総一にもそう推測出来る変わりよう。先ほど学園長とこそこそと話をしていたし、何かを狙って、作戦を立ててきたのだ、というような予想。
だがそれでも、総一のすることは変わらない。
出来ることは変わらない。
「では次始めるぞー」
学園長も丑光の気迫を見ていた。先ほど確認したその手順を、きちんと実行してくれるだろうか。
きっとこれならば実行してくれるだろうが。
丑光も緊張に唾を飲んだ。
鳳総一に勝つために。学園長の言うとおりに。言われた作戦通りに行えば、それで本当に勝てるのだろうか?
目の前の怪物に。勝てる道筋も見えない化け物に。
手にウォームアップのものでも暑さのものでもない汗が浮かぶ。
「始め」
だが、もう迷ってはいられない。なあに、失敗してもたかだかいつものように戻るだけだ。
そう決心した丑光が、いつものように足に力を込める。
繰り出す必殺技はいつものステッピングジャブ、『雷光』。狙うのはいつものように、総一の顎。総一が跳び、重心が空中へと移り、回避行動も難しいだろうその瞬間に。
自身の動きに合わせて掠れたように歪んだ視界。その先に、本来ならば狙うべき相手の急所がある。そしていつもならば、ない。総一の動きは丑光の神速の突きを上回り、そして丑光の反射速度を超えた速度でのカウンターが振るわれているはず。
無論、丑光とてそのカウンターに対策をしていなかったわけではなかった。
当てに来るのだからというガード、もしくは当てられても耐えてやるという食い縛り。当てられないようにすぐに引く。そんなことは何度も何度も打ちのめされている中で何度もやってきたものだ。
けれども、この対策はしたことがなかったな、と改めて思った。
左手の先からは、やはり感じられるべき感触がない。
気付けばいつものように視線の先には総一はおらず、自分は見失ったのだ、と思う。
思いつつも、発動させるのは学園長の秘策。
左手の先には何も感触がない。つまり、総一が掴んでもいない。
ならば。
ボクシングの基本のコンビネーションの一つに、ワンツーというものがある。
することは簡単。前手のリードパンチに続けて、同じ軌道で後ろ手でのストレートパンチを一呼吸で打つというもの。最初のジャブ、もしくはリードパンチと呼ばれる突きでタイミングと距離を測り、そこに相手と距離が大きく力を入れやすいストレートパンチを叩き込むという単純なものだ。
そして今、丑光は測った。
ジャブの先に総一はいない。掴まれてもいない、故にこれから総一が採るのは腕を掴んで行うカウンターではない。
ならば。
ほんの一呼吸。
端から見ればほとんど同時にすら見えるタイミングで、丑光はワンツーを放つ。
二つ目のストレートパンチも、ステッピングジャブのように跳ぶように。
ただし、狙うのは同じ軌道ではなく自身の左前。左右の前をスイッチするように。
そして更に、丑光にとってはほとんど同時に。
自身のこめかみを掠めるパンチがある。
その衝撃と全く同時に、右手の先から肉を打つ感触。
ゴ、というごく小さな鈍い音が、自分の身体から響いていない、というのは丑光にとって久しぶりの経験だった。
「……お……」
狙った顎先ではなく耳の下に、だが確実に捉えた総一の顎。
その感触を実感と共に感じたのは、更に次の瞬間で。
「やっ……」
当たったパンチを引く、もしくは打ち抜くべく更に力を入れる。
ボクシングや武道の基本の動作ではあるが、しかし丑光はどちらも取れずにいた。
当たった。
これは一本だろうか、総一は反応し、有効打になっただろうか。
そんな思考と、そして思いの外成功したという喜びとで一瞬動きが止まった。
「丑光! ガードッ!!」
学園長の声が響く。
丑光にはその言葉が理解出来ず、理解する前に自身の身体に走った衝撃のほうをつぶさに感じた。
顎、胸、腹。打たれた熱感の後、世界がぐるりと縦に回転して、背中を畳に打ち付けてから脚を刈られたのだと知った。
(やっべ、止まれ!)
総一はその打撃の最中、焦り自分の身体を止めようとする。
滑らかによどみなく動くその身体が行うのは、過去の修練で何度も行ってきた形、型。
そこで学園長も、まずい、と思った。
倒れた丑光。更に足をかけた低い姿勢から立ち上がりつつ、相反するように足を僅かに振り上げる総一の姿。
まずいと同時に、やはりと思う。
総一自身、危ない、と顔を歪めて、自身の身体を制動しているのだろうと思いつつも。
咄嗟に学園長が総一の胴にタックルを入れる。
重心が動き、丑光の首に入るはずだった踏みつけは代わりに軽くその横の畳を叩き、そして総一自身学園長に押し倒されるように畳に倒れた。
「……あっぶねえ……」
ふはぁ、と息を吐いたのは総一自身。受け身は完璧で、身体に異常はない。
その上で、そこまでする気はなかった、よくぞ止めてくれた、と学園長を見た。
学園長も深い息を吐いて、事故が起きなかったことに安堵した。
「……?」
半端な受け身から立ち上がった丑光は、咳をしながらも目の前の光景に首を傾げる。
まだ稽古の途中だったはずだ。そして自分は倒された。だが何故、目の前で学園長が総一を投げ倒したかのような形で止まっているのだろうか。
「あの……?」
「今日の稽古はここまでじゃな。すまんな、二人とも、儂の失敗じゃった」
学園長は立ち上がりつつ言う。
何が起きたのか分からない。丑光としてはそれだけだ。
理解しつつ、これは怒られるわ、と総一は肩を竦めた。
「総一はもう帰っていいぞ」
「あれ? 叱られるんじゃないっすか?」
「……?」
だから、何があったんだ、と丑光は総一に視線で問いかける。けれども、総一は珍しく、ばつが悪そうに肩を視線を逸らした。
「問題はわかっとる。原因もわかっとる。お主も反省しとる。それ以上に何か言うことがあるか?」
「……まあ……」
総一は頬を掻く。丑光に対して謝るべきかとも思ったが、しかし謝れなかった。
今起きたことは簡単だ。
丑光の想定外の攻撃に総一の身体は反応したというだけ。やはり衰えていたのかと総一も忸怩たる思いだった。
元々古武術というのは、大抵の場合肉体や精神を鍛錬するものというよりも、実戦で使われる技術体系だ。
そして実戦というのは、大抵の場合は戦。つまり、命の取り合い。
故に総一の修める咋神流も変わらずに。
咋神流を修めた総一の身体は想定外の衝撃に、目の前にいる丑光を『敵』だと判断した。
総一の身体が狙っていたのは倒れた丑光の首への踏みつけ。
決まっていれば致死的な。
やはり衰えていたのかと総一も忸怩たる思いだった。
衰えていたのは、身体能力や技術ではなく、抑える力。
無論、殺す技術を身につけたとて、それを振るうかどうかは技術者に任せられているはずだ。
辰美流柔術を身につけた辰美糸子は、人を殴るとて目を狙ったりなどはしないし、後遺症を残すことをあえてしたりはしない。自在天流剣術を身につけた学園長海馬源道も、稽古台として散々生徒たちを骨折をしない程度に痛めつけてきた。
だが、総一の修めた咋神流は。
『それ』をわかっているからこそ、学園長はそれ以上を言わなかった。
級友の命を、武道の練習中に奪うところだった。教育者として普通ならば叱るべきことだ。問題にすべきだ。謹慎などの罰も命じるべきだろう。
だが、総一の修めた流派が咋神流というもので、それを知っているからこそ。
「お前に任せた儂が悪い。反省する。そしてやりかけたお主も反省する。これでどうじゃろうか」
「取り返しのつかないことになりそうだったのに?」
「退学にでもなりたいのか?」
「…………」
そこまででもない、と総一は食い下がるのをやめた。
本当ならば大問題だろうに、と思いつつも。
「畳の上じゃ。事故はつきもの。お主も止めようとしたし、儂も止められた。問題はなかったんじゃ。それ以上言うとぶん殴るぞ」
はーい、と声を出す代わりに総一は両手を挙げる。
後に丑光にも説明を、と学園長は考えを巡らせる。総一がいないほうが説明をしやすいのだが、と。
丑光はまだ戸惑いの中で二人の間に視線を巡らせた。




