バッティング
休日の繁華街。石像の前。
白鳥はそこにいた。
白いワンピースにデニムのジャケットを重ねたその姿は、彼女なりの精一杯のお洒落である。
「Excuse me. I'm a bit lost. Could you point me in the direction of HIYOKO Cafe」
「え、あ、えっと」
突然だった。
大きなリュックを背負った金髪の男性に話しかけられ、白鳥は目を白黒とさせた。
英語は苦手ではないが得意でもない。英国人の父とは家では専ら日本語で会話をしているし、彼女は高校生の平均程度の英語力しか持ち合わせていなかった。
「えーと、hiyoko cafe?」
何となくそこだけは聞き取れた気がした。
近くにたしかにそのような名前の喫茶店はあったはず、だが……。
「It should be nearby,right?」
「たしかひよこカフェは、えっとですね、こっちで」
場所は分かる。だが、そこへの案内というのが白鳥にとっての大事業だ。
身振り手振りを交えて、どうにか方向を指し示そうとする。
けれどもその場所は何度か角を曲がらなければいけないはずであるし、地図でも描けばいいだろうか? と思いつつも頭が回らない。
「I'm not sure I understand your direction. Could you walk with me and show me the way?」
ハハハ、と男性が笑いつつ、白鳥の手首をそっと掴む。
突然の接触に少しばかり驚きつつも、その言葉の意味をなんとなく理解して白鳥は首を横に振った。
「すみません、I don't……Sorry,I don't unnderstand well」
「Oh, You need any help? I'll help you」
どうにかして、と拙い英語をそれなりに絞り出して答えていた白鳥の横から、元気よく男子の声が響く。
笑みを浮かべたその顔を見れば、やはり総一。
白鳥はわずかにほっと安堵し、男性の力が緩んだ隙に、掴まれた手首をするりと外した。
「あ、総一さん」
「んで、何だって? この人」
総一の登場で僅かに怯んだ風の男性が、大げさにまた両掌を天に向けて、『自分は困っているのだ』、とボディランゲージで主張する。
「ええと、ひよこカフェに行きたいんですって」
「ひよこカフェ? ……って、あのメイドカフェ?」
「だと思います」
ふうん、と総一は目を細め、男性を見た。
どこの国の人だろうか、という好奇心半分、本当にひよこカフェを目指しているのだろうか? という疑い半分で。
「Ah……HIYOKO Cafe? You're very close to it」
「That's great! How do I get there?」
「Just go straight down this street for about 200 meters」
「200 meters?」
「……Around 650 feet」
「I see」
「Then, you'll see a convenience store on the right-turn left at the intersection next to it. Walk about 160 feet, and HIYOKO Cafe will be on your right」
「Okey」
「Look for the sign――」
笑みを浮かべつつ、流暢に総一は説明を加え、そして言葉を止める。
目に込めるのは僅かな威嚇。警戒。そこまでする必要はないかもしれない、と自分でも思いつつも。
それから殊更に強調するように、ゆっくりと最後の言葉を吐く。
「――It's impossible to miss」
「That sound perfect! I really appreciate your help」
「No worries」
また、ハハハ、と笑いながら、そして腕ごと手を振りながら男性が歩き去って行く。
総一と白鳥は二人並んでそれを見送って、そして総一は鼻で溜息をついた。
「……さすが、総一さん、ありがとうございました」
「いやいや。待たせてすまん」
もう少し早く来ればよかった。総一はそう内心反省しつつも、まあ仕方ないな、と思う。
別に何があったわけでもないのだが、と自分を誤魔化しつつ。
白鳥は溜息をついて自身の頬を撫でる。
「どうにもやっぱり、私って外国の方に話しかけられやすいらしくて。やっぱり英語が話せそうって思われちゃうんですよね。お父様が一緒なら、お父様にお任せするんですが」
「うーん、まあ、さっきの人は英語関係ないと思うよ」
先ほどの男性が旅行客か何かだった、というのは総一もそうだと思う。金髪、碧眼、日本人離れした白鳥の見た目で声をかけた、というのはそうかもしれない。けれども、困っていた、というのは正直本当か分からない。
「どうしてですか?」
「道に迷ってるならスマホの地図とか見せてこない?」
一昔前ならばいざ知らず、今時誰でもスマートフォン程度は持っているものだ。海外旅行が出来る外国人ならば特に。もしくは行きたい場所があるならば、紙の地図やガイドブックなどそういうものも。
「あ、そういえば、使えばよかったですね、スマートフォン!」
白鳥は総一の言葉に、総一の意図と違う納得をする。
そういえばスマートフォンがあった。それならば地図も出せるし、翻訳アプリなどもあるのに。それを使えばよかった、という後悔と共に。
そういうことじゃないんだ、と総一は思い浮かべ、そしてそれ以上を言わなかった。
総一としても邪推に過ぎると思ったために。
「ま、白鳥がナンパされてるんじゃなくてよかったよ」
「ナンパって」
はは、と白鳥は笑う。
そんなことをされるわけがない。
そしてされたとしても、乗るわけがない。だって今日は。
「置いてけぼりにされたら俺泣いちゃうし」
「泣いた総一さんも見てみたくはありますわ」
フフ、と白鳥は笑う。だが絶対にそうはならないだろう。
せっかくの週末の彼との約束。破るわけにはいかないのだから。
ふと白鳥は総一の姿を眺めた。
いつも会うのは学校で、制服姿かもしくはジャージ。私服姿は何となく新鮮だと。
白い長袖のTシャツに、深緑のカーゴパンツ。簡素で、アクセサリーも柄もなく、飾り気もないけれど。
しかし、新鮮だ。私服姿というだけで。
自然と笑みがこぼれる。
「んじゃ、行く?」
聞いてはいるが、しかし実質行こうという誘い。もちろん白鳥に否はない。
「行きましょうか。ちょっと早いですけれど」
細い腕時計をちらりと見れば、まだ午前九時。映画の上映開始時刻十時半までは大分時間があるが。
二人は歩き出す。映画館に行くまでに、どこかで時間を潰そう……というのは二人が言葉にしない共通意見で。
「予定外に時間が出来てしまいましたわね」
「何でこんな早くにいたのさ」
「それはまあ……たまたまですわ」
今は九時。
待ち合わせは十時の予定だ。
カキン、と快音が響く。白球が総一の手元から勢いよく前方へと飛び、的を叩いてセンサーを反応させてパラララ、と音を立たせる。
「あの、お客様、そろそろ……」
「まだまだっす、あと十球はいける」
バッターボックスの後ろ、ネットの向こう側。総一の言葉にひい、と引きつるように笑みを浮かべたのは、ホームラン賞のプリベイトカードを束ねて持っている店員だった。
「総一さん、もう、勘弁してあげた方が」
さすがに可哀想になってきた、と白鳥は感じる。
ここは映画館近くにあったバッティングセンター。休日でもまばらに人がいる中で、適当に身体でも動かそうと二人で入った時間潰しの場所で。
多くのバッティングセンターは、ホームラン賞というものを設けている。バッターボックスから見て外野席側。多くの場合その上方に小さな的を設けて、そこに打球を当てた客に賞品を出そうという試みだ。
賞品は、そのバッティングセンターの無料券や景品の引換券というものが多い。
このバッティングセンターも例に漏れず、通常の球ならば一回三十球分、最高速度の設定ならば三回九十球分、無料券を進呈するという取り決めがあった。
そしてそんな取り決めがあると聞けば、総一の悪戯心が疼く。
「もう十五球連続じゃないですか」
「ハハハハハハッ! カッキーン!!」
わざとらしく笑いながら、また一球、総一が強く叩く。綺麗な放物線を描いた球は、ホームラン賞の的をかすめるように叩き、またアラームを鳴らした。
二人が店に入って、そして総一が打ち始めてすぐ。ホームランを打った、と気付いた店員は笑顔で総一たちのボックスにやってきた。
そして『彼女さんですか?』という店員のお世辞のような言葉に白鳥が真っ赤になりつつ、景品のバッティングセンターのプリベイトカードを差し出されていた最中。また、快音が響いたのだ。
十秒に一球程度放たれる球に、また響く快音。
三度目には、店員もおかしいなと思い始めていた。
四球目、五球目にはもう、まずい、と思っていた。
目の前の高校生らしき男子は、ホームランを狙って打っている。
そんなあり得ない光景を確信して。
プリベイトカードを常備していたカードケースから、打たれる度に三枚のカードを取り出す。三回目からは白鳥にすら渡さずに手元に留めておいたが、すでに店員の手にはカードの束が出来ている。
三十球目、最後の球が的の横を叩き、ケチが付けられたかのように総一は唇を尖らせた。
「ありゃあ……」
最後の球だけ外してしまった。逆ならばまだしも、なんとも自分らしい結末だ、と無念を浮かべて。
しょぼんと肩を落として、総一がバッターボックスの後ろの扉を開ける。
まるで一球も当てられなかったかのような落ち込みように、店員は苦笑いを浮かべた。
「……あの、……おめでとう、ございます……」
「あ、はい、あざっす」
差し出された賞品のカードは、白鳥に既に渡った分を除き八十一枚。カード一枚が二百円であるから、そこにあるだけで一万六千二百円分。それを両手で受け取ると、総一はそのまま賞状でも贈呈されたように頭を下げた。
それから総一はパラパラとトランプのようにカードをスプリングさせながら、白鳥に向かう。
「さあて、白鳥もやろうぜ。いっくらでも出来るよー!」
「……じゃあ、一回だけ……」
何となくの申し訳なさに、ちらりと白鳥が店員を見てから、カードを一枚だけ残して総一に渡す。
店員はもしや、と思い身震いする。目の前の男性にここまで荒らされた。ならば、目の前の女子は……。
「上手く当てられませんわね」
カン、と鈍い音が響く。それでも打たれた球は前方、外野席に見立てた緑色の壁まで届き、バチンと音を立てていた。
空振りこそないものの、総一とは違い、白鳥はホームランはなかなか出ない。先ほど一球だけ、あわやというボールはあったものの、的を掠めることもなく壁を叩いていたのだが。
店員も胸を撫で下ろす。もう一人は大丈夫らしい。ホームラン賞を何本も出すということもないようで、と何となく感覚が麻痺しながらも。
頭を下げて立ち去った店員を振り向かず、総一は囃し立てるように声を出す。
「いいよいいよー! 流れ来てる流れ来てる!」
「んー……」
思い通りにいかないことに若干むくれながらも、白鳥はまたバットを振る。けれどもジャストミートという感覚はなく、そしてやはりボールは外野席を弱く叩いた。
やはりテニスとは勝手が違う。
登竜学園の体育の方針は、あらゆるスポーツを一度は経験しておくというもの。それに則り、野球もソフトボールも経験済みなのに。
もしもバットではなくラケットならば。的がどこにあっても当てられただろうにと思いつつ、白鳥はまた外野席にボールを届けた。
もしもバットのように両手で振るのではなく。
野球のように振らないでよいのならば。テニスのように片手で振れたのなら。
三十球目、最後のボールを白鳥は片手で打つ。左手を離し、右手だけでバットを保持して。
鈍い音だがそれでも当たる。そしてボールはホームラン賞の的を綺麗に打ち抜く。
音に気がついた店員は、まさかと振り返り、どこの席から打たれたホームランかと確認して天を仰ぐ。
「ああ! もう!!」
もしもバットのように両手で振るのではなく。
野球のように振らないでよいのならば。テニスのように片手で振れたのなら。
こんなにも簡単に出来るのに!!
もう一回だけ、と総一から受け取ったカードを近くの機械に入れて、先ほどと同じく速度と球種を最高速のプロ選手並みに設定する。
それからのしのしと歩いてバッターボックスに入り、また鋭い眼光でボールの出所を見据えた。
「叶ちゃん、叶ちゃん、炊かないで」
「炊く? 苛ついてなんかいませ……」
小さな子に言い聞かせるようにゆっくりと口にした総一に、反射的に言い返そうとした白鳥は、ボールを見送るように背後を振り返った。
「…………」
同時に、彼らの席で初めて、ボールがキャッチャー代わりの革を叩く音が響いた。
「ほら球来てるよー」
「え、ああ、はい! はい!!」
名前で呼ばれたことに動揺しながら、またそれが総一がふざけて何の気なしに呼んだということにも感づいて自分に言い聞かせながら、白鳥はバットを改めて握りしめる。
だが今度は当てられず、当ててもゴロが精々で、白鳥は自分の身体が固くなっていることを自覚した。
「へーいピッチャー球走ってるっ!」
「……どちらを応援してるのですか!!」
そして固くなったその身体でも、怒りは球に伝わり、勢いよく外野席を叩かせた。
「その辺の子供たちにでも配ろっか」
「営業妨害になりますよ」
白鳥も気が済み、二人共に三回ほどのプレイを終えて。結局三百枚近くになったプリベイトカードを手で弄びながら、総一たちは打席から離れた休憩コーナーに入る。
もうそろそろいい時間だ。開演時間までもう少しあるが、けれども映画館でチケットを買う手間もあることだし、と立ち去る算段を付けていた。
「あれ、鳳?」
「んあ?」
白いプラスチックの簡素な椅子の背もたれ越しに声をかけられた総一は、ぶっきらぼうに振り返る。
呼ばれたくないその名。呼ぶとしたら、自分が注意をしたことがない生徒なのだが。しかし、注意をしたこともない関係の浅い誰かが、この街中で声をかけてくることなどないはずだと。
そこにいたのは、野球班の子門。やはり、一度しか話したこともない登竜学園の生徒の一人で。
少し前に屋上で、球の投げ方を指導した同級生だ。鳳と呼ぶなと言ったはずなのに。
「おーう、うぃっす」
「珍しいところで会うなぁ……え? 白鳥も?」
「おはようございます」
総一の言葉になっていない挨拶を無視し、子門は白鳥に注目する。
髪の色からも自分より目立つはずだが、と総一は思いつつも、足を投げ出し子門へと身体を向けた。
「俺たちゃ時間潰ししてるだけだよ。子門は練習か?」
「そう。毎週来てんだよ俺」
「ふーん」
ご苦労なこって。そう思いつつも口には出さずに、手で弄んでいたカードの束の使い道を思いついて頷いた。
「じゃ、これやるよ」
「これ?」
ん? と子門は差し出された塊を受け取りつつ首を傾げ、そして受け取った束の正体を確認して目を見開いた。
「え? 何でこんなに?」
「俺たちゃもう使わんからな」
また来ることもあるかもしれないが、けれどもその時はまた改めて買えばいい。そう思った総一は、気前よく差し出せる気分だった。
「え? そうじゃなくて、え? いや、買ったんしょ? 何で使わないんだよ」
「だって俺たちもうそろそろ出る時間だし」
「じゃあ、もらうっつーか買うけど……いくらだよこれ? 何枚あるんだよ。つーか何でこんなに買ったんだよ」
子門はここを訪れたとき、一回に十枚程度しか買うことはない。今日もそのつもりで、その程度の小遣いしか持ってきていないというのに。
この束は、いくら出せば。
「二百円でいいよ」
「それ一枚の値段だろ?」
「うん。買ったの一枚だけだし」
「ホームラン賞でいっぱいもらってしまいましたのよ」
「……ああ……」
もらった。その言葉に、手に持つカードの束が、子門には何か違う無価値なものに見えてきた。
そういえばこの鳳総一ならばそれくらい出来るのかもしれない。もしかしたら、横の白鳥も似たようなことが出来るのかもしれない。
この二人なら。
「あ-……、じゃあ、これはありがたくもらっておくとして」
「まいど」
財布から二百円を取り出して、子門は総一の手に落とす。ありがたくないわけではない。少ない小遣いから捻出していたこのバッティングセンター代、いくらか節約出来るのであれば。
……いくらか節約出来るとしても。
「いらないんなら返してやればいいじゃん?」
受け取ろうとした束から一枚だけカードを抜き取り、子門は総一に残りのカードの束を差し出す。
それを見て、総一はきょとんと目を丸くする。
「せっかくもらったのに?」
「何か申し訳なくなってきたんだよ、俺が」
「あらまあ奇特ー」
しかしまあ、たしかに、と総一も頷き、白鳥を見る。
総一のどうする? という視線に、白鳥も頷いて近くで作業をしていた先ほどの店員を見た。
自分もいらない。総一もいらない。配ってしまうのはバッティングセンターに迷惑だ。そう思ったのは白鳥もだ。
「んじゃ、そうすっかな、……すんませーん」
総一は素直に立ち上がり、店員に小走りで駆け寄ってゆく。
それを見送り、このバッティングセンターで一度もホームランを出したことのない子門は『羨ましいな』と目を細めた。
残った白鳥は、また手首の時計をちらりと見る。やはりもうそろそろ出なければ。
子門はその様子に何となく胸が騒ぐ。
そういえばこの二人は、どうしてここにいるのだろうか。
休日といえば当然だが、見れば二人とも制服ではない。
二人で街へと遊びに出る。ただ単に、そうだといえばそうだと思うのだが。
けれど、子門はあえてからかうように口に出した。
「で、デートっすか?」
「ででででででーと!? ちちちちちち違います違います!」
そしてからかっておきながら、白鳥の反応に、野球班、色恋沙汰から遠い人種の子門は困った。
どもりながら、また顔を赤くしながら、顔の前で必死に手を振って否定する同年代の女子の姿に。冷静に『違う』と一言で否定してくれると思ったのに。
「ただ二人で映画を見に来ただけです!!」
「はあ、そうなんすね」
それをデートというのではないだろうか。
同じクラスの女子の、普段は見せない反応に、子門は内心呟いた。
一人、もしくは複数人で映画を見た場合、多くの人間たちが直後行うことがある。
「本当に本当に……」
「うん、よかったよ」
喫茶店に入った総一と白鳥は、小さなテーブルの二人席で向かい合っていた。
頼んだメロンソーダとコーヒーは、総一のメロンソーダだけが減ってゆく。
「最初は、そう、ただの世話の対象だったんですわね。でもそれが、どんどん家族になっていって」
多くの人間の例に漏れず、彼らが行っているのは映画の内容を反芻する会。複数人で行うならば、感想を共有する会だ。
今日彼らが見た映画は、田舎のサラリーマンが一匹の野良犬を世話するという話。
野良犬ではあるがどこか昔の飼い主の存在を匂わせる犬と、都会から田舎へやってきたために生活に不満を持っていた動物嫌いのサラリーマンが互いに歩み寄ってゆくといういわゆる『動物もの』だ。
「私は、コハダは最初から家族でしたけど、あんな風に家族になれてるかって思ったら」
言いながら白鳥の声が涙ぐみ、また目から滴がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「動物だって言葉は喋れなくても、ちゃんと伝えてくれるんですわよね。考えてみればコハダもトロも目とか態度とか仕草で私に何か訴えてくることありますもの」
一度鼻水を啜り、先ほど街頭で貰ったポケットティッシュで鼻をかむ。
それにしても泣きすぎてやしないだろうか、と総一は半分呆れながらも、しかしその感動は分かるつもりだった。
まず、犬は可愛かった。薄汚れた野良犬の状態から、主人公の手で洗われてふさふさの毛並みを見せたシーンは総一とて頬が綻んだものだ。
そして犬と主人公が共に生活をするにつれて、互いに生活をすりあわせるようになっていった描写はなかなか上手だったと思う。
主人公の帰る時間が遅くなれば、餌の時間が変わってしまう。散歩の時間を作るために早起きになった。生活を犬に合わせるために、努力をしたのだ。動物嫌いだった主人公が。
そして犬側も。以前の飼い主と離ればなれになった境遇から、犬は最初主人公に対して無愛想を貫いていた。けれども主人公の存在を『認めた』という印として、今まで無関心だったおもちゃのボールを主人公に差し出したシーンは名場面の一つだろう。
犬と主人公。それぞれがそれぞれの『上手くいかない』生活をしていたのが。
主人公は犬に生活の時間を合わせたことで、嫌いだったはずの田舎の街の違う顔を見ることが出来て、関わる人間や環境が変化していった。
犬は主人公と出会ったことで、また人間を信頼することを思い出した。
互いに家族になった主人公と犬。
けれども犬が病気に倒れ、主人公は看病のために仕事に穴を開けることになる。
仕事の環境や生活環境のバランス。彼らを襲う諸々の試練。
そして主人公は犬のためにとある決断をする……というクライマックス。
よく出来た話だった、と総一は思う。
事実感動もしたし、『心に残る映画』だったのだろう。
「犬とか猫とかもちゃんと表情豊かで、なぁ」
うんうん、と総一も感想を述べる。
「映像も綺麗だし、うん、よかったよ」
「本当によかったですわ……!」
涙を拭いて、白鳥が冷めてきたコーヒーを一口含む。
「私も、コハダはもう子供の頃から付き合いのある家族ですし、そろそろ死んでしまうかもしれないとか、そういうことを考えてしまいましたわ」
「何歳くらいなん?」
「もう十八歳とか、それくらいで」
「長生き、ってくらいか」
たまにイクラやウニの写真に写る白鳥家の犬。総一も老犬だと思っていたが、思った以上の老犬だった。
「人間なら九十近いって映画でも言ってましたけど、いつかはお別れの時期が来るかと思うと……」
「うん」
「……別れたくないですわ!!」
また白鳥の目からどっと涙が噴き出して、白鳥は咄嗟にティッシュで拭う。
「決めました」
グス、と鼻水を啜りながら、白鳥は机の上の何もない空白を見つめて呟いた。
「もっともっと、コハダをかわいがってあげないと。トロもイクラもウニも、幸せにしてあげないと。一緒に暮らさせている人間の義務として!」
「うん」
「満足のいく一生を……送らせてあげたいですわ」
「んだな。それが一番だよ」
総一はストローを咥えて目を逸らす。
満足のいく一生を。それに異を唱える気はないし、また大賛成だ。
そしてそれは動物たちだけではなく、人間も。
……何歳まで生きればいい、などは動物それぞれ、人それぞれだと思うが。
そして自分のそれは……。
「飲み物だけだとなんだし、何か食う? このパンケーキとか美味そう」
「……頂きましょう」
「カップルで二つ頼むと半額だって。カップルのフリして頼んじゃうか?」
「カカカカカカカカカカップル!?」
嫌ならいいけど、と総一は笑いかけ、白鳥はそれにぶんぶんと首を横に振る。
白鳥の仕草に、そんなに食べたかったのか、と総一は手を上げて店員を呼んだ。
次の月曜日の昼休みに学園長からからかわれ、総一は驚愕することになる。
その原因は噂。
『鳳総一が喫茶店で彼女と別れ話をしていた』という話で。
事実無根だ、と最近の増える噂に頭を痛めた。




