疑念
疑念が拭えない。
自宅の板の間の道場で、辰美理織はゆるゆると身体を動かし続ける。
一人行う型稽古。武道における型稽古とは、その武道における正しい動作を身体に覚え込ませるための訓練だ。
踏み込む度に床がみしりと音を立てる。空を突く度に道着のたるみがばさばさと音を立てる。
優れたパントマイムの使い手はその動作で目の前の架空の壁を観客に見せつけるが、仮に今の理織の動作を見れば、誰もがその拳で打ち抜かれる人体を想像するだろう。
だが、理織自身はそうは思えない。
疑念が拭えない。
そう考えつつ、目の前に思い浮かべる姿は二年前の拳道全国大会、その決勝の相手。
大会に出た理由は、単なる自惚れだった。
幼い日から理織は辰美流柔術の道場で育った。
学校から帰れば道場へと向かい、門下生と鍛錬に励む日々。学校の長期休みには父に連れられ姉と共に山へと籠もり、心身を苛めて鍛え抜く。
幼い日は、それが異常だとは思っていなかった。少しだけ厳しいが、しかしどこの家でもそういうことは行われているのだと思っていた。
山でのキャンプ。海での海水浴。同級生たちの長期休みの自慢は、自分のものと同じようなことをしていると思っていた。
けれど、小学生高学年の頃、そうではないことを知った。
おかしいとは感じていた。体育の時間の同級生たちの動きはどれも鈍いと思った。自分のような体重操作もせず、長く走ればすぐに疲れる。そういった違いもそれまではやはり練習しているものの差だと思っていて、自分は武道、けれども他の同級生たちは何か違うことを家で学んでいるのだと自身を納得させていたはずなのに。
自分は強い。それを知ったのは中学に入って体育の授業に武道が入った時のこと。
理織の中学では、武道は『柔道』だった。
同級生たちの動きが、たんなるじゃれあいに見えた。ただ服を掴んで引っ張っているだけ。引っ張って畳に押さえつけているだけ。そんな風に見えて、理織にはそれがとてもつまらないものに感じた。理織と試合のようなものが僅かなりとも出来たのは、柔道部に入った者、もしくは習い事として柔道を習っていた者たちのみだけで。
そして、そこでも負けはなかった。
組み合えば当然自分が勝った。相手が投げようとしたところで、辰美流の教えを忠実に守る理織の身体は畳から離れない。中学生ながら当時100キログラムを超えていた同学年の猛者すらも、理織にかかれば簡単に投げることが出来た。
もしかして自分は強いのだろうか。
自分はその他の有象無象に負けない強さがあるのだろうか。
まだまだ姉や両親には勝てず、未熟と言われているこの身でも。
その時に知った。
『拳道』という競技。また、握った拳の熱。
井の中の蛙、という言葉がある。
誰しもが、一度は経験すること。何かしらの分野、狭い世界の中で最も優れた者は、きっと広い世界でも自分が通用する者だと思ってしまうということ。
大抵の場合は、外の世界に出れば自分の小ささを知る。
井戸の外に出た蛙は犬に食われるか、蛇に睨まれて井戸の中に逃げ帰るか、もしくは慎ましやかに隠れて暮らすことになる。
中学二年の時、拳道部に入った理織は個人の部で全国大会に出ることになる。
地区予選ではやはり全戦全勝。何の苦もなく勝ち進んだことで、理織は慢心の極みに達していた。
やはり、自分は強いのだ。
自分はその他の有象無象とは違っていて、この鋼のような身には『力』がある。
年上とも年下とも、自分よりも軽量級とも重量級とも戦い、苦はなかった。
ならば自分には敵がいないのだろうか。
無敵。最強。恐らく全ての人間が、幼い日より一度は憧れるもの。誰しもが憧れ、そしていつの間にか諦めるもの。もしかしたら自分はそうなれるのだろうか、とも思い始めていた。
十四歳の多感な時期の万能感。
きっとそれは、誰しもにある普通の話。
ただ問題は、理織は誰しもとは違っていたこと。
小さな蛙ではなかったこと。
犬を打ち負かし、蛇を睨み返し、そしてその身を誇示出来るほどに。
『一本!!』
地区予選を終えて、全国大会の決勝トーナメント試合会場で、理織は何の気なしに他の人間の試合を見ていた。
どうせ勝てる。どうせ自分よりも弱い。そう思い、敵情視察などとも思わずに、ただ眺めていただけだった。なのに。
目の前で繰り広げられていた試合。
両者力の差は明らかだった。恐らく片方は空手か何かを使う選手だったのだろう。理織にしてみれば興味もなく、後に調べることもしなかったのだが。注目したのは、もう片方の動き。
圧勝だった。
鳳総一。一本目は、素早い踏み込みで相手の懐に踏み込み、乱打を浴びせた。もう一本は、防御を固めた相手を軽々と宙を舞わせて放り投げた。
それが前回優勝者だったとはその場で顧問に聞いた。連覇しているのだとも苦々しい顔で呟いていた。だがしかし、そんな経歴なども理織にはどうでもよかった。
直感した。
自分は、彼に勝てるかどうかわからない。
きっと彼は他の有象無象とは違う。きっと自分と同じ。有象無象ではない『強い』人間なのだ。
そう確信して、高揚感に胸が沸いた。
自分は決勝戦まで勝ち上がるだろう。地区予選と同じく、なんの障害もなく。
そして彼も勝ち上がってくるだろう。有象無象の弱者を掻き分けて、まるで階段でも上るように簡単に。
自分は強いから。
自分たちは強いから。
そして決勝戦で相見えた自分たちは、そこでどちらが『強い』か決するのだ。
今まで蟻や芋虫を踏み潰すように試合に臨んできた。
部活の先輩に勝とうとも、地区予選の有力者と戦おうとも、自分がどれだけ強いのか、未だ確信出来ずにいた。
だが、見つけた。
彼を倒せるかはわからない。けれど彼を倒せば、きっと自分は強いのだと確信出来る。
鳳総一。
この試合会場にいる選手で唯一自分と肩を並べられる男。
決勝戦で待っている。
そう、彼との試合を楽しみに、トーナメントを勝ち進んだというのに。
雨の日だった。
昼の休憩を終えて、理織にとって午後の三試合目。
決勝戦。ここで、全てが決まるというのに。
「理織、油断するなよ」
「任せてよ」
既に高校一年生になっていた姉・糸子の声を軽く流しながら、理織は待っていた。
その時を。
両者が名前を呼ばれ、一段高い武道場へと足を踏み入れる前に、総一がぺこりと頭を下げる。
対角線に近い場所で自らも武道場に上がろうとしていた理織は、どこか彼の姿に違和感を覚えた。
緊張しているのか、それとも何か気にしているのか。
いつもと比べ、動きが少しだけぎこちない。彼の試合を何試合も見たわけでもないのに、そう直感が告げていた。
武道場中央で向かい合う。
道着に袴を着けた審判が横に立ち、理織と総一の気迫を確かめるよう両者の顔を何度も見た。
気合いは充分。
「よろしくお願いします」
「……お願いします」
静かに真面目に挨拶の言葉を吐いた総一に、理織はゆっくりと応える。
理織の目に映る総一の姿に違和感はあった。けれど、その気炎は変わりない。
(これに勝てば……)
杞憂だろう、と内心で自身を説き伏せ、半身になり小さく跳ね始めた総一に対して低く構える。
観客やスタッフは固唾を飲んで二人を見る。静かな、まるで決闘を行う前の二人を見やり。
「始めっ!」
審判のかけ声で、両者が動く。
先手を取ったのは理織。摺り足で前足を踏み切り、矢のように鋭く砲丸のように重い正拳突き。辰美流柔術の原則は一意専心。だから、遠慮も躊躇も出し惜しみもしない。攻めるときは攻める。ぶつけるのは全てを。
だが。
(…………っ!!!)
次の瞬間には総一の姿は眼前になく、理織の頭部に衝撃が走っていた。
原因は総一の蹴り。咋神流柔術の原則、流動。そして対の先。
通常はカウンターに使わない上段回し蹴りを正確に頭部に当てた総一の手腕。
(いいなっ!)
蹴りとは脚を使うものだ。そして脚は腕のおよそ三倍の筋力を持つとされる。補足すれば、腕を使う総一の突きは人体と同じ強度の巻藁を簡単にへし折れる。
そんな蹴りを頭部に受けながらも、たじろぎもせず、また体勢も崩さずに理織は総一の姿を見返した。内心で褒め称えながら。
理織のタフネスに審判は驚きつつ、一本のコールを途中で止める。これは有効打ではない、という違和感はあるが納得のいく心境で。
蹴り抜けず、また蹴りを引かず、総一も理織の頑丈さに舌を巻いた。
この堅さは今までの選手とはひと味違う。まるで地面から直接生えた大地の延長のような頑強な体幹に首の筋肉。よほど練り上げてきたのだろう。
だが、負けるわけにはいかない。
総一は、理織の上ってきた武道場端、そこで理織の応援をする女性の顔を見る。
負けるわけにはいかない。その女性の顔に、改めて気を引き締めた。
総一の攻撃を受けて、理織も返す。
武道場に何度も肉を打つ鈍い音が響き続けるのは、彼らの試合では珍しい。
均衡している、と誰もが思った。
初出場ながら決勝戦まで上り詰めた新鋭辰美理織の堂々たる戦いぶり。相手が防御をしても有効打を取れる重い一撃と、相手の攻撃を避けもせず全て受けきる鉄壁の防御。素人が見ても、その二つを巧みに使い分けていると理解出来るある種清々しい戦い方。
そして常勝、鳳総一。先の先をとり続け、相手の意識の隙間を狙い打ち、相手が自ら空振りをしているかのように立ち回る。
どちらが勝ってもおかしくない、と誰しもが思った。
けれども、幾人かが僅かに不審に思った。
鳳総一の戦い方に。それは、辰美理織も。
試合は一進一退で続き、双方共に一本を取る。一本目は総一、二本目は理織。
三本目の行方を皆が固唾を飲んで見守っていた中で。
やはり、均衡は破れる。
「……っ!」
総一が息を飲む。理織の右の鉄槌打ち。胸の辺りに迫るその攻撃はまるで巨大なハンマーのような迫力があった。
けれど、総一が息を飲んだのは、理織の鉄槌打ちに対してではなかった。
かろうじて胸と理織の拳の間に挟んだ腕に力はなく、その防御の意味を為さない。
左肘に走った鋭い痛み。力を入れられず。
踏ん張ることも出来ず、高速のバイクに衝突されたような重さの打撃に総一の身体が飛ぶ。 数メートルを動かされて跳ねるようにして倒れ込んだ姿に、審判も呆気にとられて一瞬判断が遅れた。
「…………っそ……」
「一本!!」
まだ負けてない。そう思ったわけではないが、反射的に必死に立ち上がろうとした総一の頭上から、遅れて審判の声が響く。
その瞬間、観客が沸いた。
勝者は決まった。王者辰美理織、誕生の瞬間で。
「…………っっ!!!」
状況を理解した総一の拳で叩かれた畳が、会場ごと揺れる。
鳳総一の、最後の試合が終わった瞬間だった。
総一が、食いしばった歯の隙間から荒い呼吸を繰り返す。
まだ納得がいっていない、というわけでもなく。納得して、理解したからこその激情。
負けたのだ。自分は、優勝出来なかったのだ。
その姿を間近で視界に入れながらも、理織はどこか遠くから見ている気がした。
実感が湧かない。自分は勝った。この強い男と試合を行い、戦って、勝ったはずなのに。
何故だろう、と納得がいかなかった。
自分は勝ったのだ。喜んでもいいはずなのだ。
この強さ比べは自分の勝ち。この強い男と戦い、勝ったからには、自分は強いはずだ。
自分は強いはず。強いのだ。
そう思いたいのに。
思えない原因。
試合中はっきりとわかっていたわけではないが、今確信した。
それは。
「左肘、怪我してるんですか?」
「…………」
立ち上がる最中に膝を突いたまま、頷きもせず、総一は睨むように理織を見返した。
返答はない。けれども、その姿がそうだと告げている。
試合中、鳳総一は左腕をほとんど使わなかった。
だからきっと、それは試合の前からで。
一度長い息を歯の隙間から出し切り、それから総一は咳き込むように笑う。
何かを哀れむように。
「双方、向かえ!」
審判に促されても、二人は動かない。
だが引き笑いのように、嗚咽のように総一はクスクスと笑いながら位置につこうと立ち上がった。理織はその姿に戸惑いながらも、一歩下がって自分の位置につく。
「勝者、辰美理織!」
拍手が響く。彼らを包み逃さぬように。
「……おめでとうございます」
笑顔を崩さず、総一は拍手に紛れるように理織に言う。理織の耳には、その言葉が悲鳴のようにはっきりと聞こえた。
「な」
「礼!」
総一に話しかけようとするも、審判のコールに反射的に理織は頭を下げた。
そして頭を上げたその時には、総一は踵を返していて、自分は顧問にハグされて身動きもとれず。
その後の授賞式でも理織は総一に話しかけられず、そして総一も誰とも話さずに、会場を後にしていった。
理織は後で姉から聞いた。
鳳総一は昼の休憩時に、自分のせいで路上で怪我をしたのだと。姉も、その怪我に決勝戦の最中ようやく気がついたのだと。そう、悔恨して口にしていた。
それきり、総一は試合に出なくなった。
たまたま姉の通っている高校に入ってきた、と聞いた理織は、何度も大会に出るように口説いたというのに。
だから、理織の疑念は拭えない。
理織は目の前に想像した対戦相手の突きを払い、蹴りを受け、その首をたたき折ろうと胸を貫こうと拳を振るう。真剣な型稽古。一人遊びの相手は総一。
自分はあの時、強さ比べをしたのだ。
強者たる鳳総一と。
そして勝ったのだ。強者たる鳳総一に。
だから自分は強いはずだ。自分は有象無象と違って強いはずだ。
強いはずだ。勝ったのだから。
けれど、理織の疑念は拭えない。
自分は本当に勝てたのだろうか。強者たるあの鳳総一に。
もしもあの日、鳳総一が怪我をしていなければ。万全の状態ならば。
ならば自分は勝てたのだろうか。
自分は本当に強いのだろうか。
拳を振るえども、いつでも空想上の鳳総一はそこにいる。自分の突きを悠々と捌き、捌けぬ突きを悠々と放つ。
疑念は拭えない。
一年前もまた、自分は全国大会で優勝した。
しかしそこに鳳総一の姿はなく、また自分は蟻を踏み潰すような作業をしただけだ。
疑念は拭えない。
自分は本当に強いのだろうか。
自分は本当は強いはず、なのに。
与えられた勝利は敗北よりも苦く。
強くなりたい。
強くなりたいのに。
勝てなかった。
自分はあの日から、立ち止まったままだ。




