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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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43/70

見たまま感じたまま




 眼鏡の女子生徒が、シャッシャッと鉛筆を動かして、キャンバスに留められた白い紙に灰色がかった線を引く。

 そこに描かれていくのは立てられた空のワインボトルと、野球のボール。不細工というわけではないが、特段目を引くようなものでもないデッサン。素人なりには均整の取れている、というべきだろうか。


 キャンバスに向かっている里来アイを更に後ろから、総一は退屈を感じつつもデッサンごと眺めていた。

「こうやっぱりなんか、見られていると緊張しますなぁ」

「講評だけされたいんすか?」

 へへ、と笑う里来に総一は応える。総一としてもそれは構わない。けれども、『そもそも何をどうやって描けばいいかわからない』と恥ずかしげに里来が言ってきたから、問題点を見るためにこうやっているのに。


 『今まで描いた絵は見せられない』、『そもそも絵とはどのように練習すればいいのかわからない』などという前提で、糸子経由で『上手になりたい』と相談された。故に総一も、『とりあえず描いてみて』と言うしかなかったのだが。


 ここは美術班の班室の隣の空き教室。

 ボクシング班への出稽古に出た丑光とのスパーリングもなくなり、予定が空いた総一は、今日のノルマを達成すべく面倒に思いつつも里来の一挙手一投足に目を光らせていた。


「いやでもさすが特待生ですな。糸ちゃんの話じゃ絵画のコンクールで賞まで取ってるんですって?」

「昔の話っすけど」

「完璧超人過ぎて呆れるほどですよぅ」

「たまたま取れただけじゃないっすか」


 総一は椅子の座面に両手をついて目を伏せる。

 昔の話だ。子供が出展する県の絵画コンクール。金賞は取れなかったが、『技巧賞』などという賞を取ったこと。

 何週間かの展示のあとに帰ってきたピエロの人形の静物画と賞状は、今でも家に残っているだろうか。それとももう母親に捨てられてしまっているだろうか。

 ……記憶の片隅にもないのは確実だろうが。


「やっぱり、絵が上手くなるにはデッサンが必要なんですかね」

「絶対に必要ってわけでもないと思いますけど、デッサンが上手いに越したことはないでしょ。そもそもどういう絵が描きたいんですか?」

「どういう絵って……」

「上手になりたいって漠然としてるので、方向性があったほうが何かと言いやすいんですけど」

「そりゃまあ……えーと」


 里来は手を止めずに、紙から目を離さずに言い淀む。

 言えないのはデッサンに集中しているからだ、と言い訳をするように。

 

 里来は、最近趣味でイラストを始めた。ノートの隅に描く模写が精々だった彼女は、いつしか自分でも『神絵師』と呼ばれたいと思い始めて。

 故に、でもないが答えは決まっている。

 描きたいのはイラスト。リアル調でもないアニメ調で、なおかつ人体だ。


 だが、言えない。言おうとすると口が回らなくなる。声が出なくなる。

 何も恥ずかしいことはないと本人も自分に言い聞かせているのに。

 そこで言えないのが一番の問題なのだとも知らずに。


 故に本意でもないが全部は言えない。

 嘘でもないのだけれど。

「なんかこう、『凄い絵』ですね。こうSNSで流れてきたら『うおー!』ってなるやつ」

「また漠然としてらぁ……」


 総一は呆れて溜息をつく。

 総一としては、何となく里来のその本心はわかっている。言い淀む姿から想像はついている。

 彼女は絵が上手くなりたいというわけではない。上手いに越したことはないのだが、しかしというよりは何かの漫画やアニメやゲームの絵を描きたいのだろう。里来の好みを考えれば、自ずとその方向性も見えてくるのだが。



 そしてその方向ならば答えは一つ見えている。

 答えは、やはり模写。

 その好きな作品を、穴の空くまで見つつ丁寧に描き写せばいい。それも毎日。

 漫画ならばランダムな一話全てを、背景から小物に至るまで。アニメならば一分に一枚程度の停止画を、これまた一話分程度。画材は色鉛筆でもデジタルでもなんでもいい。線の省略や簡略化もせず、また手を抜かなければ。一ヶ月も続ければ、また遅くとも三ヶ月もすれば、必ず効果はあるだろう。

 

 そうすれば『上手い絵』はひとまず描けるようになる。

 初心者が最初に躓く一番の問題点は、線が思い通りに描けないこと。真っ直ぐに描こうとして曲がってしまい、また滑らかなカーブを真っ直ぐにしてしまう。それが解消出来るだけでも『上手く』はなるだろう。

 『凄く』なるのはまたその次の話。

 『凄い』のは構図の問題か、もしくは絵柄の問題か、表現力の問題か、はたまた画材の使い方などの別の問題だ。しかしそのような点は見る側見られる側両方の感じ方の個人差でもあるのだから、それから研鑽しても遅くはない。


 様々な考え方もあるだろうが、総一にとってはまず初心者は『線』の描き方を身につけるべきだ、と考える。もしくは『形状』の。



 ふぇええ、と思い通りにならないことを内心嘆きつつも、ワインボトルの透け感や机に落ちた明暗のある影を塗っていた里来。

 子供の落書きレベルだ、と何となく情けなくなった。

 自分の頭の中には、描きたいものがあるのだ……と思う。きちんとワインボトルを見て、そこに重なるように置かれた野球ボールを見て、写真のように映像は頭の中にあるのだと思う。視界の中には勿論その図が見える。キャンバスの横に目を移せばそれがそこにあるのだから、それをそのまま描き写せばいいのに。


 『最近イラストの練習してるんだけど……』

 授業中の居眠りを見咎められ、眠いその原因を尋ねられ、里来は糸子にその夜更かしの原因を軽い気持ちで語った。

 最近趣味でイラストを描き始めた彼女。人物の絵を描こうとしても左を向いた顔と骨が折れたような身体しか描けなかったことに悩み、動画サイトなどで練習した。

 けれども独学では上手くいかない、と気付き始めたのはここ一週間ほどの話。やはり自分には才能がないのだろうか、と思いつつも、何となく続けていた練習。


 SNSを見れば、妬ましいほどに綺麗な絵を描く年下がいる。投稿サイトでは絵上げた瞬間にランキングを駆け上がる絵師がいる。中学生で漫画雑誌に連載を始めるような猛者もいる。

 彼らの絵を見て、『こんな絵ぐらい少し練習すれば自分でも描けらい』とばかりに思えたのは最初の頃だけだった。


 次第に、もう無理だ、と内心感じるようになった。

 きっと彼らと自分の頭は何かが違っていて、きっと自分の頭にはそういう機能がついていないのだろう。

 いくら練習しても自分は無理かもしれない。

 いつまで経っても幼稚園児が描いたような絵で、きっと……。


 

「こんな感じでどうですかぁ……」


 へへ、と誤魔化すような薄ら笑いを浮かべつつ、里来はおずおずと振り返る。

 そこには椅子に腰掛けたまま片膝を立てて、頬杖をついて自分をじっと見つめていた総一の姿があった。

 総一は、里来とキャンバスを見つめたまま少しだけ言葉を考える。

 二十分ほどをかけて描き上げた簡易的なデッサンは、きっとよく言えば『味がある』とでもいえるだろう。もっと簡単に言えば、『歪んでいる』とも。


 にへ、と総一は里来に負けない笑顔を作る。明るく、満面の笑みで。

「出来てないところから聞きたいっすか? それとも直すべきところから聞きたいっすか?」

「どっちも同じじゃないですかぁ!!」

「むしろ俺が褒めるところを聞きたい」

 溜息をつきつつ、総一は立ち上がる。それから「ちょっとずれて」と里来を動かし、使っていた鉛筆と消しゴムを手に取る。


「消しますけどいいっすかね」

「…………必要なら」

「り」


 言いつつ、まずはと総一は鉛筆で軽くワインボトルの下部と肩をそれぞれ丸く囲む。

「まず全体的に平面的すぎますね。奥行きが何にも表現されてない」

「うぐ」

「視点がばらばら。机は俯瞰してるのに、ワインボトルは真横からみたいに見えます。これは首と肩が変に繋がってるから。あと、そうすると底はもっと丸みがつきますよね」

 その言葉に続いて、総一は描かれているワインボトルを一部擦って消す。それから修正するように描き直し、馴染ませるように濃淡を軽く付けた。

「影の形はいいんですけど、影の中にも明暗が付いてるのをもうちょっとしっかりつけましょう。影の中の明るいところを表現するためには暗いところをもっと暗く」

 ガシガシと音がするほどに鉛筆を擦りつければ、紙から鉛筆の粉がこぼれ落ちるほどだった。

「野球ボールの形も違う」

「ええ? でも、丸ですよ?」

「丸っていうか球体ですね」

「丸ってどこからみても同じじゃないんですか?」

「真球ならね」


 じ、と総一はモチーフの野球ボールを見て、身体を動かしてその位置を確認する。確認するのは形。縫い目と傷、それとキャンバスやワインボトルとの位置関係。

「そもそも縫い目に起伏がありますし、使われてるボールなんで、至る所に傷もあります。へこみもあります。ちゃんと見ました?」

「……ちゃんと見てますけどぉ……」

「影は授業でやったからっすかね、きちんと反射光まで描いてあるのに。形は違うけど」

 むしろ、やはり画一的だ。光は左斜め後ろ、やや上方から当たっていて、なおかつ影はそのようにきちんとなっている。しかしまるで左から光が当たっているかのような反射光。

 問題点が見えてきて、総一は『やっぱり』と内心納得した。



 絵の指摘をしつつ、総一は静かに絵を描き直し続ける。

 そうしてほとんどの線が描き直され、濃淡は塗り直され、里来の描いた出来損ないの絵は写真のように本物に忠実な写実画として変化していた。


 出来上がった絵を前に、里来は肩を落とす。

 自分の描いたデッサンと何もかもが違う。同じものを描いたはずなのに、手直しをされた後と前とは雲泥の差。

 里来は眼鏡の奥の目をしょぼんとさせ、笑いたくて笑えないような震えを隠せずにいた。


 総一はキャンバスの端に消しゴムと鉛筆を置いて、無意味に手を叩いて払った。

「ま、こんなもんでしょ」

「ふぁい」


 やはりと里来も思う。

 絵が上手い人間と、そうでない人間の差を如実に見せつけられた。

 そんな気がした。


 そしてそれが許せない。


「……もー! 何この差!? 総一君の頭の中って高性能のグラボか何か入ってないですか!?」

「そうです実はこの前買い換えたばっかなんすよ」

「どこで売ってるっていうのそれ!!」

「秘密でーす」


 吠える里来の言葉を軽く流しつつ、総一は先ほどのワインボトルに目を戻す。

 モチーフは恐らく同じでいい。日の向きのせいで僅かに影の形が変わっているが、それもまたちょうどいいだろう。


「じゃあ次に、もう一回同じもん描いてもらいましょうか」

「もう一回? ええ? これもう一回やるんですか?」

「うっす」


 頷き、惚けたように唇を尖らせそれ以上何も言わない総一に向けて、里来も同じように唇を尖らせる。

 なんだろうか。全く同じことをやらせて、きっと何も変わらないのに。何かの根性論だろうか。


 そして無論、総一は根性論が嫌いだ。

 学びは効率的に、効果的に。


「ただし、色々心がけてもらいたいことがあって」

「そういうの、そういうの待ってました!! 総一君イケメン! 大統領!!」

 ヒューヒュー、と吹けてない口笛を口で言いながら、里来が足をばたばたと地面に打ち鳴らす。はいはい、と総一も応えるように手で音頭を取った。


「まず、描くものをきちんと見ましょう」

「ちゃんと見てますけど?」

「見てねっす。この野球ボールも覚えてます?」

「描き直されたところ?」

「形が違うって俺言いましたよね」


 総一は先ほどのボールのデッサンの横に、単純な球体を描く。ただの丸、という程度の簡素なものを。

「次に描かなくちゃいけないのはボールじゃないです」

「ボールでしょ?」

「まずは、ボールってことを忘れましょ。そっすね、野球ボールってことを言わないで、俺が見えてないってことにして、見えてるそれがどんな形か説明してもらえます?」

「……丸い?」

「だけじゃないっしょ?」

「傷があって……、えっと、革で……」

「革もいったん忘れて。材質じゃなくて形っすよ」


 質感も重要だが、今聞きたいのは形状だ。

 もう恐らく出てこない。そう考えた総一は言葉を続ける。


「歪んだ円形。小さな赤く盛り上がっているものが断続的にくっついている。こちら側から見て左側下部に斜めに傷、下向きのわずかなささくれ。表面は赤色の構造物で区切られた箇所で僅かに尖るように変形している。黒色の汚れが……」

「え、待って、待って」

 つらつらと言葉を並べ始めた総一に面食らい、里来は止める。

 言葉を止めて総一はにへらと笑った。


「ね? 描くのはボールじゃないんです。ボールってものをいったん忘れて、それがどんなものか、どういう形なのか忠実に見て描く。それがデッサンに必要な『模写』っす」

「……つまり?」

 もっと噛み砕いて話せ。光沢のないはずの眼鏡の縁を光らせ、里来はもう一度聞き返す。

 総一は、仕方ないな、と溜息を隠しながら口を改めて開く。……羊谷ならばここまで説明しなくてもいいのに。

「里来先輩は模写出来てないんですよ。そこにあるって知ってる『ワインボトル』と『野球ボール』を描こうとしてる。違うんすよ。描かなくちゃいけないのは、そこにあるもの。んでもってそこにあるのは、『透き通ったガラス質のもの。筒みたいな形で上が細くなってる円柱状のもの』と、『光沢の鈍い白色の球。所々尖るように歪んで傷がついているもの』です」

「…………?」

「たとえばっすね……」


 ええと、と総一は紙の余白に鉛筆を走らせる。

 あたりもなく迷い線もなくすらすらと描かれたのは、この前見た里来のやっていたゲームのスチルの一部。

 つまり、半裸の男性。さすがに線画の状態ではあるが。


「おおっ!」

 里来が思わず声を上げてしまう。

 これだ、こういうのが描きたくて相談しているのに! と。


「よく見てください。たとえばこの鼻」

「鼻?」

 言われて見ても、里来はなんの話かわからない。

 ただその話の続きを総一に求め、強く視線を向けた。


「よく見てくださいよ。くの字に線引いただけでしょ」

「そりゃ、そうですが」

「でも自分の鼻ってそんな形してます?」

「……してないけど」

「じゃあこれは何を描いてると思います」


 総一はまたその横に、単なる線を引く。くの字に曲がった線を。

「……ただの線?」

「そう、ただの線っす」

 言いながら、総一はまたその横にまたすらすらといくつもの線を重ねて起伏ある何かを描く。

「これは……にんにく……じゃなくて鼻よねぇ」

「本当に鼻を描くっていったら、こういうもんでしょ?」


 そこまで言って、総一は「ああ」と声を上げる。

「勘違いしないでほしいのは、これがいけないってわけじゃないんです。今回の『模写』についての話なんで」

「話がまだ見えないんですけど……?」

「里来先輩は、見えてるものじゃなくて、自分の頭の中のものを描いているんですよ。さっきはそこに見えてるワインボトルを描いてたんじゃなくて、知ってるワインボトルを描いてた。野球ボールも、そこにあるボールじゃなくて、簡略化したデザインを描いてたようなもんで」


 ささっと、小さく総一はまたワインボトルと野球ボールを小さく描く。

 ただし今度は簡略化され、デフォルメされた記号のような形で。


「これでも充分何があるかわかるけど、見えてるもんとは全然違うじゃないですか?」

「なんとなくわかってきたような、わかってないような……」

「横着しないでってことですね。これはデッサンだけじゃなくて絵を描くコツですけど」


 『自分の頭の中のものに頼らない』。それが模写のコツで、基本的なことで、そして最も大事なことだ。

 人は先入観に頼り、視界や記憶を補正する。また、デフォルメされたものの『意味』を読み取ろうとする。極端な話、三角の下に四角、また下の四角の中に二つも四角を並べて描けば人はそれを『家』の絵だと認識する。特定の形に並んだ点が三つあればそれを人は顔と認識する、というシミュラクラ現象などもその類いだろう。

 野球のボールは球形。その通りだが、そのほとんど全てが真球ではない。傷もあれば歪みもある。

 模写というものは、見たもの全てを見たままに描くものだ。けっして、こうであると決めつけてかかってはいけない。真っ直ぐなものを真っ直ぐに、曲がったものを曲がったままに、歪んだものを歪んだままに描く。


 里来は今現在まだそれが出来ていない。

 ならば、イラストを上達しようとして、模写を繰り返してもほとんど無駄だろう。人体を描こうとして解剖学を学ぶ、また服の構造などを学ぶ、などは尚更だ。



 特にそこを改善するための練習法はいくつかある、と自らもその道を通った総一は知っている。

 ぐちゃぐちゃに絡まったケーブルを模写する、もしくは丸めた紙を模写する。自身の身体の皺を模写する。どれも簡単にいえば、無作為で規則性も見出だせない『無意味』なものを模写するという手法だ。

 だが、この短い付き合いでも、この先輩がそのようなこの場では達成感のない『無意味』なことを丁寧に出来るとは思えない。

 羊谷や丑光とは違うなぁ……と総一はしみじみと考えた。


「だから、……たとえばさっきのゲームキャラの絵を模写したかったら、あのくの字は鼻と思っちゃいけません。あれは、ただの、線です」

 言い聞かせるようにゆっくりと総一は言う。

「…………」


 少しだけ考えて、ぐしゃぐしゃ、と自らの頭を掻いてから、言葉を選びつつ里来は口を開く。

「ええと、つまり、こういうことですか?」

「?」

「アイスキャンディーを食べてるイケメンキャラの絵を模写しようとしたら、『棒状で汁が垂れるなにを咥えてる雄』を描けということですか?」

「あんまり間違えてないけどその言い方はやめましょうか」


 ふへ、と笑いつつ、持ち上げた里来の眼鏡の縁が光る。

 その様に苦笑いを浮かべて、もういいからさっさと始めろ、と総一は手で促した。


 



「そういえば」

「なんすか?」

 里来を見守るのに総一も飽きて、適当な紙へ落書きを手慰みに行い始めていた頃。

 鉛筆を止めずに里来が口を開く。本来集中してほしいが、けれどそれも限界か、と総一は注意もせずに応えた。

「一昨日の話とか、噂になってますよね。武道場で拳道班の人をボッコボコにしてるって」

「本当にひっでえ風評被害だ。なんだよ学園長だってやってんじゃん」

「そんなに強いんだったら、今度の大会に出ないんですか?」

「…………」


 里来からすれば何の気なしの言葉。

 けれども総一は、その言葉に僅かに苛つきつつ、それを出さぬように努めた。

「出ねっす。そもそも俺拳道班じゃないんで」

 言いつつも、正当な理由だと自分でも思った。

 生徒会長であり、女子拳道班所属でもある辰美糸子はもちろん出場する。出場して、今年も簡単に個人の部の全国大会優勝トロフィーを持ち帰ってくるだろう。

 けれども、総一はそうする謂われはない。過去に拳道大会に出場していたのは事実でも、高校に入ってからは触りもせず、今現在は班活動にも参加せずにいるのだから。


「今年も会長と弟君の姉弟優勝間違いなし。そう決まってますし」

「そこで糸ちゃんと総一君のダブル優勝っていうのは~?」

「ねっす。勝てねえっすもん、弟君には」


 総一は即答する。

 決して、そうであると決めつけているわけではないと自身では思っていた。

 だが勝てないだろう。それが現時点での実力差だ。この前の試合と、二年前の試合、その両方で感じたことを感じたままに捉えれば。


「リベンジとかは考えてないんですか?」

「ないっすね」


 この話はやめよう、と総一は言わずに話を打ち切る。

 立ち上がり、里来の前に置かれた紙を見ればもうほとんど完成だ。

 本当ならば完成してからの方がよいのだが、と思いつつも、ここまで集中が切れているならこれ以上は無駄だろう。


 それに、この話が続けばまた思ってしまうかもしれない。

 考えてしまうかもしれない。考えたくないと思いつつ、蓋をしてきた思考に。


 勝てたかもしれない。

 まだ辰美理織が今より弱かった二年前なら。

 勝てたかもしれない。

 二年前のあの日、試合の直前に肘を痛めなければ。


 そうすれば……。



「じゃ、次の課題です」

「え? もう?」

「その絵の講評は無しでいきましょ。日付書いて取っとくといいですよ。上手くなるためのモチベになりますし、見返して上達確かめたり出来るんで」


 見れば、ほんの僅かだが上達している。

 同じモチーフを使い、先ほどよりも『慣れた』というのが大部分の要因だろうが、しかし位置関係なども先ほどよりはきちんと捉えられている。

 そう確認した総一は里来のキャンバスに新しい紙を、キャンバスの隣に小さなスタンドを置いて、またそこに一枚の絵を置いた。


「これは?」

「さっきの絵の完成品。こっちはまた講評するので逆さのままで描き写してくださいね」


 上下逆さまに置いたのは先ほど総一が記憶のままに描いた半裸の男性二人の絡み合う絵。

 鉛筆で付けた陰影だけなので色なども正確ではなく、また記憶頼りのためゲーム画面と全く同じというわけではないが、総一の絵心によりデッサンの狂いもないお手本のような裸体絵になっていた。


「ふひょー! やっぱ総一君上手い!」

「自分の顔を横に倒したりもしないこと……聞いてます?」

「いやぁ、本当はこういうの描きたかったんですよ……って言っちゃった! まあいいか、アハハハハハ!」


 退屈なデッサン画からの解放に先ほどよりは高揚しながら、ええと、と里来は絵に目を走らせ始める。

 それを見つつ、まあいいか、と総一は放っておくことに決めて視線を外した。



 手に取ったのは、今里来がほとんど描き上げたデッサン。

 本当に少しだけだが上達した絵心が見て取れる絵。本当に少しだけだが。

 一応先ほどの指導は心がけてくれたらしい。これで今日の親切は終わってもいいだろう。


 これを続けていけばきっと里来の絵心は少しずつレベルアップする。

 もっともこれは初歩の初歩であるし、レベルも0から1になる過程なだけで。

 レベル1から上へと行きたくば、今度は本当に『イラストの練習』なり『絵の練習』なりをする必要があるのだが。


 ただ、本当はこういうことは教師の仕事ではないだろうか、とも総一は思う。

 この学校とてきちんと美術の教師はいる。教務室には彼の手が空いた時間に作られた彫刻が並ぶ。美術大学時代の専門はやはり彫刻らしいが、勿論絵画の指導も出来る。人格的にも能力的にも何か欠陥があるわけではなく、今日も美術班ではきちんとした指導が行われているはずだ。


 里来にせよ、かつての羊谷にせよ、レベル0で放置していいものではないだろうし、それを放置しないのが学校という義務教育機関だろうに。

 やるべきだったのだ。誰かが。




 空き教室に先ほどよりも元気な鉛筆の音が響く。

 それから一時間ほど後のこと。


「総一ぃ!!」


 『鳳総一が空き教室で女子生徒に卑猥な絵を描かせている』。

 そんな話を美術班員から聞いた糸子が総一たちのいた空き教室に怒鳴り込んでくることになる。

 反論する言葉もなく総一は、「やべ」と一言だけ口にして、逃げるように三階の窓から飛び降りていった。





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ナチュラルに3階から飛び降りる超人 更新ありがとうございます。
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