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図書館の秘密授業

 


 雨の日は屋上が使えない。

 もともと嫌いな雨の日は、そんな実害も総一に与えていた。



 いつものように授業を聞き流し、終わると同時に席を立つ。だが、窓の外を見れば車軸を流したような雨。制限をされるわけではないので、濡れることさえ我慢すれば屋上に出ることは出来るのだが、総一は濡れた地面が大嫌いだった。

 サアア、という雨粒の弾ける音に、生温い湿気を帯びた風。埃臭い空気の匂いに、総一は顔を顰めた。


 今日はどうしようか。そう考える。

 生徒会の仕事をしようかとも思ったが、今日は糸子は拳道班の活動に忙しい。そうなれば恐らく生徒会室にいるのは兎崎一人なので、行かずとも咎められることはない。溜まった書類についてはあとで適当に誤魔化せばいい。そう思って、生徒会室に行くのは却下した。


 ならば、どうするか。雨の中を帰るのは論外だ。暗くなってからも止まないのであれば考えるが、先ほど教室のテレビを勝手に使って見た天気予報では夕方には止む。ならば、それまで時間を潰したほうがいい。

 適当に、何処か場所を探そう。

 そう決めた総一は、足が進む方向へ廊下を歩き始めた。 




 雨の日は憂鬱だ。その沈んでゆく気分に、総一の顔もわずかに暗くなる。それは長く付き合っていた者しかわからないほどの僅かな変化ではあるが、総一自身はそれを自覚していた。


 雨音と、外の車の音が混じると、いつも過去のことを思い出す。


 雨が嫌いになったあの日。

 あの日も、驟雨が降っていた。


『君はとても勇敢な男だ』

 そうあの時の女性は言っていた。その言葉は総一が自らの腕をその女性に見せればまた違ったものになったとは思うが、今となっては何も変えられない。

 そもそも、彼女に一切の責任は無いのだ。怪我をした、自分が悪い。彼女を庇い、自らの腕がしばらく使えなくなったのは、全て自分の責任だ。


 たとえその怪我のせいで、大事な武術大会の試合に負けたとしても、彼女を責める気は一切ない。

 その時に怪我を隠してしまったのは、ただのカッコつけだったのだから。





 総一の足が止まり、回想も止まる。どこへ着いたのか、それを確認するべく意識を前方に向けると、本棚が立ち並ぶ密閉度の高い部屋。まあ今日はそれでいいか、と総一も納得した。

 足が向いた先は図書館だった。


 普段静かなはずの図書館の中に足を踏み入れると、そこは少し賑わっている様子だった。

 何故だろうか、そう一瞬考えて、それから並ぶ机に座りシャープペンを走らせている生徒たちを見れば、すぐに総一も得心する。彼らは一様に参考書を開き、そのメモを取っていたのだから。

(そういえば、もうすぐ期末テストだったか)


 予習ともいえる学習は既に済ませており、仮に抜き打ちで今すぐ始まろうとも一切の問題のない総一に、テスト期間の概念は無い。故にすぐには思い至らず、彼らの意図を汲むことは出来なかった。



 まあ、テスト勉強をしているのであれば必要以上にうるさくはしないだろうし、席も空いている。何一ついつもと変わりはない。

 そう考えた総一は、とりあえず空いている窓際の席に静かに歩いていくと、そこに腰を下ろした。

 静かな環境に、座れる場所。それだけそろえば、あとはいらない。もう昼寝に入るだけである。

 あくびを一つ。


 そのすぐ横に座り、辞典のように分厚い参考書を何冊も積み上げている生徒に興味を示すまでは、寝る気も満々だった。


 茶髪に染めた痛んだ髪の毛を伸ばし、前髪は額を出すようにピンでとめている。夏であるにもかかわらず、夏服の上にこれまた茶色いカーディガンを羽織り、勉強に精を出している女生徒は、総一の興味を惹くのに充分な対象だった。

「……っかしーな……、しちしちごじゅうく、じゃねえのか?」

 そうした呟きが耳に入り、危うく総一は噴き出しそうになる。

 愉快なその言葉。ふざけているのかと一瞬考えたが、伸びた爪でがりがりと頭を掻いているその女子生徒があまりにも真剣な様子なので、珍しく総一は口を出してしまった。


「しちしちしじゅうく、ですぜ、旦那」

 旦那と呼ばれた彼女は一瞬自らに掛けられた言葉とは思わず、それからはじめて声を認識し、周囲を見渡して声の主を探した。そして見つけた声の主、総一に目を留める。

「……お、さんきゅ」

「いやいや」


 そう軽く返した総一は、彼女の顔を記憶から引っ張り出す。

 レッドブック(退学候補者)に載っていたその顔。一年A組の羊谷(ひつじや)(むぎ)だったか。


 成績不振と素行不良の両方が原因で、まだ入学して三ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず既に退学予備軍に入っている強者だった。


「……? あたしになんか用かよお前。っていうか誰だ?」

 その姿を眺めていた総一に、片眉を上げながら羊谷は尋ねる。素行不良者の共通点として、学校行事に姿を見せる総一を知らないというものがあるが、その顕著な例だった。


 羊谷の質問に首を横に振り、総一は応えた。

「んにゃ。ただ、意外そうな人が勉強してるなーと思ってな」

「意外ってなんだよ。あたしが勉強しちゃいけねえってのか」

 総一の言葉に羊谷は反駁した。だが、それにも総一は首を横に振った。

「いやいや、学校は勉強するところだろ。そりゃいけないわけがない」

 だけど、と言葉を継ぐと、羊谷の目が細くなる。

「そんなこと気にするタイプには見えなかったからな。悪い悪い」


 情報の更新が必要だ。そう総一は思った。別に知らずとも構わない種の情報であるが、脳内の知識が古く間違っているものとなってしまうことは、許せるものではなかった。

 その、今までの人生で培ってきた性格すら、総一自身許せるものでもないのだが。


「あたしだって、勉強くらいするよ。……っていうか何? 一方的にあたしのこと知ってるって気持ち悪いんですけど。すとーかーってやつ?」

「んなわけねえ。俺って全校生徒の資料見れるからさ、それでお前のことは見たことがあっただけ」

「すとーかーじゃねえか」

 少し引き気味に、羊谷は返す。その反応に無反応で返し、総一は羊谷の読んでいた参考書に目を移した。


「定期テスト目的なら、遅すぎねえ?」

「ああ?」

 ぽつりと総一は疑問を口に出す。期末テストは目前、なのに目の前の参考書の開いているページは、一学期の数学、その初歩も初歩。公式の展開や因数分解の段階だ。必要ないとは言わないまでも、もはやその段階は過ぎているはずだ。

「いや、だって期末だともうちょっと先っていうか……」

 それに加えて、先ほどの九九も考えれば、さらに違うことも浮かぶ。

「先に九九覚えたほうがいい……っていうか……ほら、……」

「かわいそうな子を見る目をするんじゃねえ!!」


 羊谷の大声に、図書館中の視線が集まる。司書教諭すらも、眉を顰めて羊谷を見ていた。

「……スンマセン」

 すごすごと一言謝ると、それだけで空気が元通りとなる。皆、必死なのだ。本来自分のことだけしか見えないほどに。


 頬を膨らませ、また果敢にも参考書を読み公式をノートに書き写していく羊谷。総一のことは無視することに決めて、貧乏ゆすりをしながらそれでも真面目に書き取っていった。

 その姿に、総一は目を細める。今のところ能力は無いものの、向上心があり、素直に謝れる心根もある。なのに何故、レッドリストなどに名前を連ねてしまったのか。中学までは、素行なども問題はなかったはずなのに。


 そんなことを一瞬考えて、そしてやめる。

 そうだ、そんなことは自らとは無関係だ。そう思い直し、それでもなお羊谷の姿を見つめていた。




 ふと総一の脳裏に、以前の光景が浮かぶ。

 屋上での子門へのフォーム指導。その時に得た感情。それはきっと、楽しかった、というものだった。

 多分名前を付けるのならばピュグマリオン効果などその辺りだろう。けれどもそれは、この無聊な日々を慰めるのに充分なものだ。


 それに、総一は今日の義務を果たしていない。

 総一の顔に、どう猛な笑みが浮かんだ。




「な、本当に何のために勉強してんだ?」

「……っせーな。明日小テストがあんだよ、タコ頭の数学の!」

 小声で、それでも得られた答えに総一は内心頷いた。タコ頭、とは数学の教師のあだ名だ。その名の通り毛一つない頭に、何故かねじり鉢巻きまでしている。休日には相撲観戦に出るのが趣味だったか。

 彼の授業は暗記が多いうえに退屈。それに、毎回授業が始まる前に前回の授業のおさらいとしてテストを行う。その結果が成績にダイレクトに響くのが厄介ではあった。

 総一は特待生資格を存分に使い、よく回避をしていたが。

「じゃあ、その結果が良くないと困るわけだ」

「そう、だけど……」

 先程までと比べて、少し楽しそうな表情を浮かべた総一に、面食らいながら羊谷は返す。

 確認は終わりだ。これからする『お楽しみ』は、確実に彼女のためになるだろう。

 いよいよ、総一が見方によっては邪悪な笑みを浮かべた。


「教えてやるよ。数ⅠAまで」

「……は?」

「喜べ。一夜漬けもいいところだし三日四日で忘れちまうだろうが、明日一日の間はいけるだろう。今日の放課後で、完璧に理解させてやる。しばらくお前は秀才だ」

「ちょ、ちょ、何言って……?」

 理解の追いつけない総一の行動。だが、隣にドカリと座り、ノートを覗き込んだ総一の近さに、一瞬羊谷は固まった。

「お前は教師でも何でもねえだろ!?」

「心配すんなって。家庭教師ならやったことがある」

「でも……」


 ノートの文字から、総一はその中身と書いた人物の能力を読み取ってゆく。

「試験範囲は……」

「ああ、いいよいいよ。言ったろ、数ⅠAまでって。一年の範囲全部やるから」

 ノートから目を離さず、総一の目が走る。脳裏には、その能力に応じた指導内容や必須事項が正確に組み立てられていった。

 呆気にとられて絶句する羊谷を尻目に、バタンとノートが閉じられる。

 それから自分を見た総一の笑みに、羊谷は全身の毛が逆立つのを感じた。






 次の日の一年、数学の時間。

 頬が僅かにコケて死んだ目をした羊谷が、スラスラと小テストを解いている姿が目撃された。

 タコ頭が戯れに出した、ポアンカレ予想。それを数式によって正確に解決する姿に、教室のざわめきは止まらなかったという。



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