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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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39/70

いい加減に




「さーてそれじゃ、稽古台になってくれって話なんだけど」


 放課後の武道場。その隅で、二人の少年が向かい合う。一人は総一。一人は赤く染めた髪の少年、丑光。向かい合うというよりも、丑光は総一の方を向くが、総一は半身になって斜に丑光の全身を眺めるように見ていた。

 二人共に柔道着に似た拳道着で身を包み、手背部にクッションの入った黒い手袋を纏う。


 二人から少しだけ離れた隣に立つのは学園長。今日も道着に袴を纏う稽古中の格好で。それに壁際には辰美糸子。拳道班の活動というよりも、ただ総一たちの稽古を見るためにここを訪れていた。

 総一は学園長に向けて尋ねる。細かい話は聞いていない。武道場を訪れてすぐ、着替えてこいと言われて着替えてきたままに。

 そして更衣室から道場に戻ってくれば、既にそこには準備を済ませた丑光がいたということで。


マス(マススパーリング)でいいっすよね?」

「何言っとるんじゃ。稽古ってのは肉を震わせ骨を軋ませてやるもんじゃろ」

「きっつぅ……」


 学園長の返答に、うへえ、と総一が顔を歪める。

 学園長は呆れるように答えたが、どちらかといえば自分が呆れているのが正当だろう、と総一は思いつつ。


 ならば、と改めて総一は丑光に向く。

「お互い怪我しないように緩くやらない?」

 練習だし、と総一は重ねて言った。稽古台、ということはこれは稽古。つまりこれは練習で、実戦ではない。本番の試合ならばまだしも、ここで怪我をすることはないだろう。お互いに。

「……この前の様子じゃ、まだ怪我すんのは俺だけだろ。なら、関係ねーよ」

「あらま殊勝な人ね」

 丑光は真剣な顔で答える。総一は思わず茶化したが、しかし丑光は真剣な顔を崩さずにじっと総一を見つめた。

 自身の帯を握りしめ、学園長も厳しく二人を睨むように見る。

「時間は無制限じゃ。丑光、儂相手と同じく、気合いを入れろ。総一、手加減は構わんが、手を抜くな。一本も取られることないようにな」

「へーい」


 もうこの二人には何を言っても無駄だろう。

 上意下達、上下関係の厳守。自身の怪我、また自己の軽視。

 体育会系の悪いところが出てるよ、と総一は内心で呟くが、声に出さないのはせめてもの礼儀だった。

 

 まあいいさ、と諦めて肩を回してから、総一は構える。左前半身になって、爪先で小さく跳ぶようにしつつ、直立から僅かに腕を身体から離すようにして。

 応えるように丑光も構えた。左手を前に、右手を顎の前に持ってくるオーソドックスなボクシングスタイル。

「悪いな、面倒なこと頼んでよ」

「気にすんなよ。いつもよりも大分楽だから」

 総一は軽く応えた。まあいいだろう。体力的には、それこそいつものテニスよりはきっと楽に違いない、と思いつつ。

 相手が相手だ。拳道で丑光と。ならば、白鳥にテニスで、よりもきっと。

 向かい合う二人の距離は五歩程度。

「開始の合図どーぞ」


「はじめ!」


 学園長の気合いの入った声が道場に響く。

 サンドバッグを叩いていた者、掛かり稽古を続けていた者、稽古をしている皆が思わずその声の元を見てしまう。

 そして開始の声と同時に飛び出したはずの丑光は、気付かぬうちに顎先に衝撃を受けて膝をついた。


「一本?」

「~~~!?」


 膝から崩れ落ちた丑光から離れるよう、総一は短く後ろに跳ぶ。

 丑光は畳に手をついて、愕然と目を開く。


(今の何だ? 何が起きた?)


 それから目眩などがないことを確認しつつ、丑光は自問する。脳震盪などはないか緩いものらしい。衝撃は顎だけ、出血は無し。

 分析を終えて歯を食いしばって立ち上がった丑光は、構え直して長い息を吐いた。


 何をされたのかわからなかった。

 丑光が行ったのは、試合開始直後の自身の黄金パターン、いつものステッピングジャブ、通称『雷光』。

 遠間からでも通常のジャブと同じ速度で届く打撃。辰美理織には弾かれたが、しかし総一には……?

 自身の必殺技を迎えたのは、防御ではなく正体のわからない攻撃。

 必死に自らの記憶と感触から今の総一の攻撃の正体を丑光は探る。そして見つけた一つは、左肘の上辺りに擦られたような感触が残っていたというものだった。


(……カウンター……か?)

 考えられるのは、おそらくそれ。自身の左ジャブに合わせ、腕の上を滑るように放たれた総一の右拳。それが顎に当たった……と丑光は確信出来ないまでも推測する。

 試合でも何度か経験はある。黄金パターン故に対策が確立されていて、それに合わせるようクロスカウンターを狙われること。

 けれども一度もそれを成功されたことはなく、ほぼ必ず自分の拳が相手の顎に届いて決着を見ているというのに。



 壁際で二人を見ていた糸子も、その総一の反撃に目を細めて感心する。

(見事なカウンターだな。それも(せん)(せん)をとった二重構えの)

 この場でそれを理解したのは、糸子と学園長だけだろう。遠目に見つめていた拳道班員たちは、理解出来てもカウンターまでのみ。


 総一が行ったのは、ごく簡単なことだ。

 先の先、つまり相手よりも先に動いたということ。

 総一が狙ったのは、まさしく丑光のステッピングジャブ。その重心が爪先に乗ったのとほぼ同時に、総一も自らの重心を右に移動させた。

 その時点では、総一の重心の移動は狙われているであろう頭部や上半身を動かすものではない。総一が行ったのは、動かないままの自身の加速。居合いの刀が鞘の内で加速を終えているかの如く、助走を付けるためのもの。

 そして丑光がジャブを放つと同時に、ようやく総一は右に頭一つ分移動。丑光は自身の移動に伴う歪んだ視界のために、また総一の急加速についていけず、総一が一瞬前までいたはずの場所に拳を向かわせた。

 つまりその時点で丑光の攻撃は総一に当たるはずのないものとなって失敗に終わっており、それが糸子の考える一つ目の構え。

 更に二つ目が、無防備な丑光に対するクロスカウンター。当たれば儲け、当たらずとも構わないもの。今回顎先に当てるだけで打ち抜くことをしなかったのは、それこそ手加減というものだろう。


 

 まだ交わした拳は僅か一撃。

 そして時間は始まって十秒も経っていない。


 だが向かい合う丑光は、その濃密さに額に汗を浮かべた。

 何をされたのかはっきりとはわからない。けれどもそれはきっと偶然でも奇跡でもなく、総一の狙い澄ませたもの。それを行うに足る技術の結晶。

(同い年だぞ……マジかよ……)

 拳道の経験が浅い、というのは仕方のないことだと丑光も思う。小学生から頭角を現していた総一とは違い、所詮自分は中学までは拳道の素人だ。

 けれどもそれまでに、自分は別の経験をしている。合気道やボクシング、無論アマチュアのものだが、しかしきっと同年代よりは真剣に打ち込んできただろう。

 なのに。


 構えた拳を殊更にきつく握り、それから力を抜く。

 ボクシングの基本。速度を乗せるため、打ち込むまでは開いた拳、また腕の脱力。それを忠実に作り、丑光は『もう一度』と自身を鼓舞する。

 足りないものがあるのならばそれを知ろう。足りないものが知れたならば補えばいい。

 自分の目標は辰美理織。鳳総一は、そこに至る壁を打ち砕くため、学園長が用意してくれた鍛錬相手。

 今の互いの一太刀で理解した。自分はまだ、足りないものがきっとある。

 ならば、全力で立ち向かわなければ――



「ぐぇ……!?」


 丑光は、腹部に何か硬いものが突き刺さったように思えた。

 鋼のように硬く、丸太のように重く、そして刃のように鋭い。

 気付けば、斜め横に総一の姿がある。ボクシングでいえば、ボディフックのような鉤突き。丑光の足は畳を離れ、息は全て吐き出され、身体をくの字に折り曲げて布団のように総一の腕にまとわりつく。


 総一が行ったのは、丑光のステッピングジャブに対する返報のような遠間からの一撃。

 反応出来ず、腹筋を固めることすらも出来ずに丑光はまともに受けてしまう。


(……やべ! 強すぎた!!)


 最初の手加減は上手くいったのに、と総一は後悔しつつもその手を引こうとする。

 だが息が切れ、小さく咳をしつつも、しかし丑光はその引かれる左手を取った。

 視界の端が白くなりつつも、狙うのは飛びついての腕ひしぎ十字固め。学園長のしごきに耐えて培われた防衛本能的な動きではあるが、意表を突くには充分なもの。

 総一にしても、予期していたものではなかった。

 もっとも、総一と丑光の力の差を考えれば、予期などせずとも。


「っ!」

 取られた腕をそのままに、総一が丑光の足を蹴りじみた速度で払う。

 飛びつこうとした丑光の足はほとんど無防備に刈られ、飛びつくための跳躍も出来ないままに身体が仰向けに宙を舞う。

 取られるはずだった手をそのまま丑光の胸部から首に押し当てて、そのまま自身も背中から倒れ込むようにして、受け身の代わりに丑光の身体を背中から畳に叩きつけた。


「………………!!!」


 受け身を取れずに悶絶する丑光を確認して、そっと総一はまた立ち上がって丑光を見下ろす。

「えーと、……すまん」

 今のは同体か、もしくは相手をきちんとコントロールしていない投げ技。いずれにしろ拳道のルール上は一本にならない取り直しのものだろう、と後悔しつつ。無論、ダメージは一方的なものだったが。


 一応ルールに則って、立ち上がるまで待つか。

 そう思い、咳と荒い呼吸をどうにかして治めようとする丑光を見下ろしたまま、自身もふうと溜息をついた。

 だが、そこに学園長の叱責が飛ぶ。

「総一! 手を緩めるな!!」

「え、こわ」

 真顔のまま総一は学園長の言葉を茶化すようにして、自身の動きをわざと止める。目の前には四つん這いになり立ち上がろうとしている丑光。さすがにここに何かしらの攻撃は加えられない、と考えつつも。

 それに、拳道のルール上、どちらかの一本奪取から再開までは三十秒の休憩が認められているはずだ。


「つづ……き……を……やんぞ……」

 なのに、丑光から発された言葉に総一は耳を疑った。

 まだ息を切らしたまま。痛みに対する興奮で紅潮した顔、生理現象で涙が滲む目。なのに、目の前の同級生は闘志を滲ませるようにこちらを睨んで構え直した。

(うええ)

 渋い顔を隠しもせず、総一もまた構え直す。腕を下ろしてほとんど脱力したまま、半身になるだけの簡単なもの。

(そこまでしてやらんでもいいだろうに)

 それから向かってくる丑光の拳は、先ほどよりも大分鈍い。総一はその拳を手の甲で払いつつ一歩前進し、払った手をそのまま拳として丑光の胸に叩きつけた。


 胸を打ったからというわけではないが、総一としても若干胸が痛い。

 校則違反や法令違反をしている生徒へ、鎮圧として拳を振るうのは構わない。けれども、何の咎もない同級生に対して苦しめるようにいたぶるような真似をするのは心苦しさがある。

 いくつもの打撃が丑光から放たれるが、総一はその全てを躱し、逸らしてそのまま丑光の顎や腕、胸や腹に打撃を叩き込む。

 乱打戦、とも呼ばれる様相だが、しかし打たれる肉の音は全て丑光のものである。


 幾度も打撃を与え、更に投げ、それでも立ち上がる丑光。

 だがその姿を見て、総一は内心溜息をついた。


(気絶させちゃっていいかな? いいよな?)

 総一のふくらはぎを狙う丑光の蹴りを踵で受けつつ、荒行、という言葉が総一の脳裏に浮かんだ。


 この昭和以前の前時代的なしごき。効果がないとは言わないが、しかしこの時代にはやりすぎというものではないだろうか。

 勿論自分とて、咋神(くいのかみ)流古武術というものを近所にいた老人に教わった際に苦しい思いはしている。まだ小学校にも上がる前のこと。何かの切っ掛けで拳道の大会というものを知って、その大会には参加資格などがほとんど設けられていないということを知って、そこで勝つために近所にあった道場の師範に頼み込んで学び始めた際には。


 当時の総一は、咋神流の厳しく苦しく、そしてなにより退屈な鍛錬をこなしたものだ。

 けれども、人生において武術など必要ないのだ、と今の総一は思っている。どこかの危険が溢れる国や世界ならばいざ知らず、この平和な日本では、自衛隊や警察などそういう職業でもなければ使う機会などない。

 故にきっと、今ならば耐えることは出来ない。


 拳道とて、武道ではあるが所詮スポーツの一環だ。『失われつつある純粋な強さを取り戻す』という創始者海馬源道の心意気は知っていても、しかしこの平和な日本で一定のルールに従って競い合う以上は。

 

 どれだけ苦しい思いをして強くなろうとも、どれだけ厳しい修行を経て強さを手にしようとも、手に入るのはちっぽけなトロフィーだけなのに。

 拳道はスポーツの一環だが、プロ化はされていない。精々それを後の人生に活かすなら、道場主にでもなって教室として収入を得るしかない。

 そして怪我が絶えない拳道は、子供の親たちには人気はない。たとえ拳道経験者であっても、その場合はむしろその恐怖を知っているからこそ、親ともなれば子供の身を守るために近づけさせないことも多い。

 

 将来のためにはならない。

 無駄な鍛錬。無駄な経験。

 そこでこんなに苦しい思いをするのは間違いではないだろうか。



 カーフキックを防がれて、またその脛を逆に打たれて怯んだ丑光に、ゆるりと総一は身を沈めて踏み込む。

 遠目から見れば緩い動き。けれども丑光にとっては瞬間移動の如く目の前に現れた総一の姿に、伸びた手を打撃のために戻すことすらも出来なかった。

(は……!?)

(金的はなし、と)

 自身の手が丑光の股間に伸びないように懸命に堪えつつ、総一は自身の身体に向けて『気絶させろ』と命令する。

 その命令を瞬時に理解した拳や足は、ほぼ一瞬の間に正中線を含む急所八カ所に向けて打撃を放った。


「あ……」


 熱さを感じる間もなく、糸が切れたように丑光は崩れ落ちる。

 痛みによる苦痛ではない。どこか温かい何かに抱きしめられるような、快感のようなものが全身を包み、やや冷たい畳の感触を頬に感じてついに視界が暗転した。





「三分ほどか。大分持ったほうじゃの」

 学園長は道場の壁に掛けられた時計を見て呟いた。

「やっぱ俺、しごくのとかって向いてないっすよ」

 やっぱ無理、と総一は顔の前で手を振る。学園長と糸子、それから総一の目の前で眠るように目を閉じているのは丑光。

 「氷!」とマネージャーに呼びかけたのは近くにいた拳道班員。慣れたその仕草に、この程度日常茶飯事なのだな、と総一は納得するように見ていた。


 ふむ、と学園長も頷く。

「……やはり、お主も手加減は苦手なようじゃの」

「やはりって、わかっててやらせたんすか」

「無論、それが咋神流の術理じゃろうからなぁ」


 カラカラと笑う学園長に、総一は溜息をつく。糸子もそれを見て呆れるように口をぽかりと開けた。

「まったく、事故が起こりそうでヒヤヒヤしました」

「おう、辰美もそうか。儂もいつ止めようかと思ったものよ」

「なら早く止めてくだされば」

「いやいや、丑光にとっても貴重な経験じゃろう。それにあの程度、越えられなければ辰美理織には到底勝てん」


 学園長は氷嚢をいくつも身体に乗せられた丑光を見てまた溜息をつく。

 未熟。そんな言葉しか浮かばない。

 ブランクを無視しても、手加減した総一は二年前の辰美理織にも劣るものだろう。

 それに手も足も出なかったという事実。力の差を埋めて、あと一月もない大会に間に合わせるのは厳しいだろう。


「ぅ……」

 氷嚢でほとんど顔が隠れた下で、丑光が呻き声を上げる。

 それからぼんやりと目を開けたのが見えて、糸子が眉を上げた。

「起きたな」


 まああの程度ならこれくらいか、と学園長と同じく気絶した門下生を多く見ている糸子は納得の声を出す。

「ぅ……あ……!? 辰美会長!?」

 その声に、丑光は跳ね起きる。話したこともなく、学年も違い接点すらない相手。けれどもその姿は全校集会などで見ているし、それになにより、その凜とした佇まいはいつも丑光の目を引いていたものだ。

 端的に言えば、憧れていたものだ。

 その社交辞令的な笑みにも、総一の視界の中と違って花がちりばめて見える。

「元気がいいな。骨は大丈夫そうか?」


 糸子の問いに、ん? と一瞬戸惑ったものの、丑光はその戸惑いを無視して素直に自身の身体の痛みを検分する。

「多分、大丈夫みたいです」

「それは何より。ならまだ戦えるか」

 うんうん、と糸子は頷く。事故が起きていないか、と危ぶんではいたが、しかしまだまだ大丈夫らしい。これならばこの調子で続けても大丈夫だろう。

 自分が聞きたいことを聞いてくれた。そう感じた学園長は、糸子に視線を送る。糸子もその視線を受けて、また頷いた。


「あの、俺、すんません、お見苦しいところを……」

「いやいや。総一相手によく食い下がったと思うぞ。次はもう少し長く持つように頑張れ」

「え?」

「ほら、総一。位置に付け。丑光もだ」

「あらあら」


 おどけるようにして乾いた笑いを発した総一は、おとなしく言うとおりにする。

 ああ、この二人は似たもの同士なのだな、と以前から知っていたことにまた少しばかり納得しつつ。


「……会長に良いとこ見せなくちゃね」

 仕切り直して向かい合う総一と丑光。苦笑しながら、囃し立てるように総一が発した言葉。

 その言葉に丑光は一度びくりと肩を震わせて、拳に力を入れて構える。

「おっしゃ行くぞ!」

「あー、うん」

 返された言葉に、現金だなぁ、と総一は感じたが、それを指摘せずに軽く跳ぶ。

 見据えるのは腫れ始めた丑光の顔。

(力入りすぎー)

 学園長の、始め、のかけ声と共に総一が丑光に迫る。今度は反応出来ずに、先ほどよりも大分短い時間で気を失った丑光。

 丑光は次に起きたとき、糸子の顔をまともに見ることが出来なかった。





 班活動も終わり、お疲れ様でしたー、と口々に皆が帰ってゆく下校時間。

 外も暗くなりはじめ、総一たちも例外ではない。やはりテニスよりはマシだったな、という感想を浮かべ、総一は着替えをすべく武道場を立ち去った。

 拳道班員は、片付けと掃除の仕事が残る。今日も疲れた、とばかりに鈍い動きで掃除用具の準備を始める班員たちの中で、総一を見送った丑光は動けずにいた。


「今夜は湯船に浸かって温まって、全身に膏薬を塗ることじゃな。今日は必要なだけ備品の湿布使ってもいいぞ」

「あざっす」

 敬意を払うべき学園長に対しても、もはや敬語を取り繕えることすら出来ない。全身余すことなく打たれ、叩きつけられた痛み。耐えるよう、横向きに倒れたまま唇から零すように言葉を発していた。

 それでも、と懸命に起き上がりどうにかして座る。それも、足を投げ出して。



「……どうしたら勝てるんすか、あれ」

「どうしたら、かぁ」


 んー、と学園長は言葉を濁す。

 何度も何度もたたき伏せられて、しかし今日一本も丑光は総一から取れなかった。

 突きや蹴りが偶然掠った程度はあったものの、力の差は歴然だった。

 突きは見えず、蹴りは避けられず、投げられれば受け身も取れない。突けば打たれ、蹴れば迎え打たれ、投げればいつの間にか投げられている。

 人間の能力とは、大抵の場合それほどの差はない。それもボクシングなどの打撃系の種目ならば尚更だ。素人でもプロを相手にラッキーパンチを打てることがあるし、何千何万試合のうち一試合程度ならばそれによって勝利することもあるだろう。

 なのに、丑光は総一に勝てる気がしない。それは辰美理織相手と同じく。

 

 丑光が感じたその印象は、学園長からしても変わりない。

 未熟。


 そして未熟とは、悪いものではない。

「では、それがわかるまで何度か稽古台を頼もうかの」

 まだ熟す余地がある。まだ成長出来る余地がある。未熟とは即ち、秘めた可能性のこと。

「というわけで、しばらく総一を借りるからのう」

 生徒会の仕事はさせられないかもしれないが。そう学園長は糸子に呼びかける。反対はしない、と糸子も頷いた。

「では私も邪魔になるので、これでそろそろ」

「おう」

 総一との合流は更衣室前でいいだろうか。今日は一緒に帰ろう。そう言ってみようかと糸子は考えつつ、頭を下げる。

 それから立ち去る糸子に、学園長は何も考えず笑みを向ける。


 

 歩き出した糸子。

「…………あんなに強えのに……」

 不意に背後から聞こえてきた誰にも向けていない独り言。丑光の声だと糸子が気付くのは少しだけ遅れてしまった。

 学園長は丑光の言葉に目を細める。その言葉の続きが予想出来てしまって。

「……なんで、試合に出なくなったんですかね……?」

「…………」


 背後では無言の静寂。

 それは、と答えようとして、しかし答えられずに糸子は聞こえないふりをしてそのまま道場を出た。





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