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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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教育者といふもの




 外の日も傾きつつある中、武道場は蛍光灯もつけずに自然光で薄暗い。

 到着した総一と糸子を出迎えたのは、壁に凭れて、もしくは息も絶え絶えに倒れ伏している恐らく拳道班員だろう生徒たち。それに新調された畳の上で、ガハハと笑いながら一人の生徒の突きや蹴りを捌き続ける小柄な老人の姿だった。


 老人は海馬源道。この学園の長であり、そして拳道班の顧問でもある当代随一の武人。撫でつけた白髪を乱れさせもせずに、相手の蹴りをいなし、突きを弾き、襟を取られれば逆にその腕を取って投げて背中から地面に叩きつける。

 そしてほとんど全員が倒れ伏したこの場で、唯一まだふらつきながらも動き続けている男子生徒は、二年生、染めた赤い髪が特徴的なエース。丑光雷太。無論、叩きのめされているのも。


「ぐ……!」

「ほりゃまた一本じゃぞー」

「っ!」

 咳き込むのを抑えつつ立ち上がった丑光に、笑顔で学園長がまた詰め寄る。

 それから学園長から出された手は突きか、もしくは襟を取りにくるのか、一瞬迷った丑光は突きと判断したが、ダッキングしたその奥襟を掴まれて脚を刈られたところでようやく投げられたのだと後悔した。


 跳ねた床が大きな音を立てる。

 床下に仕込まれたスプリングの効果で、畳が微振動を続けていた。


 転がる生徒たちは胴着の乱れを直せるような元気もなく。

 汗にまみれ、目も開けられないほどに衰弱し、ただ細く息を吐いて回復に努めていた。


「……やっぱやべえでしょ、この学園」

 まるで話に聞く昭和の運動部のようだ、と総一は思う。水を飲ませず、非効率的な鍛錬で身体に無理をさせ、苦しいことこそ正義なのだというような。

「この程度なら優しい方だろう」


 しごきにしても明らかにやり過ぎだと感じ、怖気だちつつその様を見て呟いた総一。しかし糸子は真顔でそう答える。

 その言葉の後に『うちの道場なら……』とつくのだろうな、と総一は予想し、渋い顔で軽口を飲み込んだ。



「おっと、来たか、総一。辰美も」


 丑光が突いてきた拳。その手首をとり、片手での小手返しから前方宙返りをさせるように丑光を投げ捨てる。まるで幼子をあやす父親のような学園長の軽い動作で丑光が背中から落ちて、また武道場全体が揺れた。

 その全てを片手間に行うように自身の視界の外で行った学園長の様子に、総一はまた引きつるような声を発した。


「く、そ……!」

 丑光がまた立ち上がり、総一たちに顔を向けた学園長に向かって短く跳ぶ。

 拳道の試合を取材してきた記者に『雷光』と名までつけられた超高校生級の速度のステッピングジャブ。彼が拳道の試合のほとんどで用い、そしてほとんどの試合でポイントを取る乾坤一擲の必殺技。

 こちらを見ていない今ならば。

 学園長が来客に気を取られている隙に。不意打ち、卑怯とは言うまい。

 散々投げつけられ、痛めつけられて苛つきも湧いてきていた丑光は、その拳を無遠慮に学園長の顎に向けて放つ。

「ではそろそろ、今日のところは終了でいいかの」


 だが学園長は、まだ丑光を見ることなくただ身体を屈めてその拳を躱した。体勢は丑光に対して横向きのまま、肩口から首の後ろにかけて滑らせるようにして拳を流し、そしてそのままの勢いで身体をやや斜めにし背中から丑光の胴体にぶち当たる。


「……! …………っ!!」


 カウンターで受けた体当たり。まるで胴体部分全てが押し潰されたかのような感覚。肺の空気が全て押し出され、そして戻ってこない感覚。咄嗟に筋肉を総動員して身体を固めたがその防御は意味をなさず、崩れ落ちた丑光はその場でのたうち回った。


「総一たちはちょっと待っとれ。おーい、今日の稽古を終わりにするぞっ! 挨拶っ!」


 丑光を見ることもなく、自身の胴着の赤い帯を握って学園長は武道場を見回す。探すのはいつも号令を行う男子拳道班の班長。

 学園長から視線を向けられた坊主頭の三年生は、壁から背中を引きはがし、よろよろと立ち上がって「みんな、並べぇ」とか細い声で周囲を促した。




 班員たちによる畳の掃き掃除と雑巾がけ。

 明らかに生気なくよろけながらも誠実に行う様はやはり体育会系故か。そんな光景を呆れつつ眺めていた総一に、胴着からいつもの袴姿に着替えてきた学園長が歩み寄る。

「呼び立ててすまんかったの」

 こんな遅くに来るとも思わなかったが、と学園長は苦笑しながら言う。これまでの総一ならば、放課後すぐに帰宅するためにこの時間まで学校に残っていたことはないのに。

「本当ですよ」

「まあまあ、……実は頼みがあってな」

「はあ」


 総一の気のない返事に口髭を歪めてから、学園長が辺りを見回す。

 そして見つけたのは、雑巾を固く絞り上げている丑光雷太。


「乱取りの稽古相手を頼みたいんじゃ。丑光の」

「…………はあ?」

 学園長の言葉に悩むようで、しかし否定的な語調で総一は返した。

「丑光は今年の大会、個人の部で出る予定での。恐らくどこかで辰美理織と当たるじゃろ。仮想辰美理織として……どうじゃろか」


 どうと言われても。

 態度としては必ず『否』だ。面倒ごとを増やされるのも大変に困る。

 しかし内心は、学園にいる間には、生徒の一人として学校には従おう。そう決めている総一に異はなかった。

 それでも、やだなぁ、と総一の脳裏に浮かび、そしていくつもの否定的な思考がよぎる。

 


 一応、とその否定的な思考を言葉にまとめていく。

「無理じゃないっすか。俺と弟君で似てるのは背格好くらいでしょ」

 その背格好……背も、もう抜かされていると思うのだが、と。二年前は自分よりも小さかったはずだが、いつの間にか大きくなっていたのは総一としても驚きだった。

 ね、と総一は糸子に視線を向けて同意を求める。

 糸子も悩みつつ、頷いた。


「柔道や剣道などならある程度わかりますが、しかし拳道ともなれば、戦い方も違う総一と理織は同じ扱いも出来ないのではないでしょうか」

 他のいくつかの競技では、そうすることも出来よう。体格が近く、そして使う技の傾向や構えを調整すればある程度似通うものではある。

 厳密に言えば、柔道や剣道も戦い方による個人の違いはもちろん出る。投げ技が強い者、寝技が強い者、竹刀を上段に構える者、竹刀を下段に構える者。それでも調整出来ないものではない。


 だがしかし、ルールが緩く自由度の高い拳道の場合は更に相違点が複雑化する。

 ボクシングの技術で戦う者と柔道の技術で戦う者が向かい合うこともある競技。傾向としては総合格闘技のようなものだ。

 辰美流柔術と総一の扱う技術も、同じ打撃中心の古武術であるという程度の類似点しかない。むしろその傾向としては真逆。一意専心を旨とする辰美流と、流動を旨とする咋神流。それこそたとえば空手とボクシング程度にはかけ離れた体系のはずだ。


「練習相手なら会長のほうがいいんでないっすか」

「まあな」


 そしてその方が、仮想辰美理織としては適しているはずだ。総一はそう糸子に向けて言い、糸子も腕を組んで頷き同意する。

 辰美理織の姉、辰美糸子。無論家伝である辰美流を修めており、そして才能も深度も理織よりも上。ならば。


 無論、納得しない男が一人そこにいたが。

「馬鹿もんが。男子がおなごに手を上げるなんぞ話にならんわ」

 そして学園長がそう言うのも、だろうな、と総一は肩を上げて応えた。

「そういうの時代錯誤らしいっすよ」

「知るか。この学園では儂の目の黒いうちにんなことさせるわけにはいかんぞ」

 総一の言葉が冗談であったとしても。薄々冗談と思いつつも、学園長は牽制する。

 男女同権。そういう風潮が世にあったとしても。

 女子供を大事にする。そんな自分の思想が男尊女卑に当たり家父長制と批判されるとしても。


 説教をする気はなかった。

 ゴホンと咳払いをして、学園長が仕切り直して空気を入れ換える。

「……まあ、仮想辰美理織は置いておいても、なんと言うかの、こう、マンネリ化しててのう」

「マンネリ化?」

「丑光だけではなく、儂のような超かっこいい超格上との乱取りに皆が慣れてきてしもうとるんじゃ。どうせ勝てないと早々に諦めよる。元気にいつまでも向かってくるのは丑光くらいでな」

 学園長はそう言って、深い溜息をついた。


 強くなろうとする気概、程度ならば皆が持っている。しかしその気概が甘い。

 それを胸に強敵に当たる。格上との乱取りとはそういうもので、そしてそこで死力を振り絞り勝ちに向かうからこそそれが力となるのに。

 勝ちにいかなければいけないのだ。圧倒的格上の隙を必死に探し、必殺の一撃を死に物狂いで防ごうと努力し、そしてその隙を縫って自身の最大の技を叩き込みにゆく。目が霞み、汗が尽きて、反吐を吐きつつ意識を朦朧とさせながらも力尽きるまで勝ちにゆく。自身と行うこの乱取りの意義とはそこにある。そう何度も説いたにも関わらず。

 

 今日も根性を見せたのは丑光くらいだ、と学園長は嘆く。

 他の者もきっとまだ立てるのに、まだ拳を握れるのに、まだ息が続くのに、しかし諦め転がってしまう。もう力がない、と思ってからが本番だというのに。


「贔屓はいかんというがな、なら応えてやりたいのが教育者というもんじゃろ」


 もうそれくらいで、というのならばそれくらいで。

 まだまだ、というならばまだまだ。

 求められた学びを、鍛錬を与えてやりたいというのが教育者というもの。


「……それで、俺です?」

「おう。同級生相手なら、また新鮮な気持ちで出来ると思ってな。お前相手なら、今の言葉で、……ええと、ワンチャン? あると思えるんじゃなかろうか?」

「なるほど」

「それに仮にお主に勝ち目が出てきたら、辰美理織相手にも勝ち目が出てくるという淡い期待もある」

「…………それは、どうっすかね」



 総一はぽつりと吐き捨てるように言う。

 『総一に勝てるなら理織にも』。それはどうかと思う。

 たしかに総一は、二年前までならば辰美理織と張り合えたと思っている。二年前の今よりもっと未熟な辰美理織と、二年前の拳道大会優勝常連だった自分とでは。

 けれども今の総一の中ではもはや序列は決まっている。二年前の大会の順位と同様。辰美理織は明確に総一の上におり、そしてその序列はきっとこれから生涯覆ることはない。



 既に知っている。

 無才の自分はここまでで、天才のあいつはどこまでも昇ってゆくのだ。



 一瞬だけ陰鬱になった空気を変えるように、総一はおどけて振る舞う。

「でわ、わかりました。で、それって勿論人助けのノルマに入るんですよね?」

「ん……ああ、そうじゃな。儂からの頼みじゃし」

「んじゃ明後日の放課後くらいから来ればいいっすか?」


 今日の稽古はもう終わりだろう。日も沈みかけ、時間も遅いし何より丑光他皆疲労困憊で、これ以上の練習は身体の害になる。

 そしてそれは、自分にもきっと当てはまる。

「明日からじゃいかんのか?」

「明日はテニスの約束があるんですよ。その後勉強会も予定してます」

「テニス……白鳥のか」


 なるほど。

 学園長は片目を瞑り、それでは難しいと同意する。

 学園長もちらりと見ていた。総一と白鳥の高レベルな試合。それはそれは疲れるだろう、という賛辞と共に。

「結構なことじゃ。うん。結構結構。その後の勉強会は羊谷との約束じゃな」

「そうですね」

「結構。大忙し大いに結構」


 青春とは忙しいものだ。勉強遊びにスポーツ恋愛、たまの大人の目を盗むいたずらも。

 悪い道に走るのでなければ、青春とは忙しければ忙しいほどよい。人生で最も若い貴重な時間を、自由に使えるこの時にしか出来ないことを。

 それは学園長の持論だ。


 だが、だから。


「では、総一、お主の予定は?」

「ですから、テニスに勉強会と大忙しです」

「……そうか」


 だから、目が離せないのだ。

 この一番危なっかしい特待生からは。





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― 新着の感想 ―
自分を見失いつつあるのかな 超かっこいい学園長、総一を攻略してくれ
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