無理しすぎ
「何で黒潮っていうんです?」
「単純に黒く見えるから。栄養が少なくてプランクトンが少ないから透き通って黒っぽく見えるんだよ」
最近の生徒会室は賑やかだ。
そう、ぼんやりと辰美糸子は考える。
「こんにちは。総一さんはいらっしゃいますか」
主な要因は二人の女子生徒。そしてその二人の放課後の予定に付き合わされている生徒会書記、鳳総一。
いや今はまだ、付き合わされることになりそうな、と言えるのかもしれないが。
ノックの音と共に扉が開いて、外から顔を覗かせた一人の女子生徒がその原因の一人。
「でー、上から流れてくるこの親潮が-……ってちょっと待って、白鳥」
社会学における地理。その初歩。
中学校でほとんど学ぶはずの知識が抜けているために、政治や経済の予備知識として使えないことを危惧した総一が、一年生羊谷麦に対して説明している最中、来客があった。
無論、総一による羊谷への講義だけでも賑やかだ。夏までは皆黙々と書類の片付けや読書に勤しんでいたこの静かな生徒会室も、話し声があるというだけで何となく人の気配が増している気がする。
糸子としてもその邪魔をする気はあまりなかった。
学校というのは生徒や学生たちにとっての社会であり、その社会との関わりを学ぶ重要な情操教育の場。更にその上、所属する者は勉学に励むのが当然のことであり、そして自らの足りないところを補おうとしている、ということで羊谷の態度自体には糸子は好感を持っている。
だが何故だろう。
このどこか感じるもやもやは。
糸子は生徒会長としての職務、書類を片付けながらその手が止まりそうになるのを感じた。
「さーせん、今日はあたしの勉強会やってもらってるんすよ」
へへ、と上目遣いに羊谷が弁明をした相手は、白鳥叶。テニス班で、ここ数日ほとんど毎日生徒会室を訪れている。
「ま、そういうことで。今日はテニス付き合えないわ、すまんな」
総一も軽く手を挙げて笑う。
きっと助かった、とも思っているのだろうが。
彼としても疲れるのだろう、と糸子は思う。少し前、羊谷との予定がない日はいつもならばすぐさま帰宅しようとする総一が、放課後生徒会室の椅子でぐったりと寝ていたことがある。その原因が白鳥とのテニスの試合であると糸子は聞いて、テニスの試合程度でと笑い、その程度毎日でも付き合ってやればいい、と最初は思っていた。しかし、二日後の放課後観戦した二人の試合を見て、嫌がるのも仕方ないな、と思い直していた。
テニスなどそれこそ授業でしかやったことがない糸子とて、二人の試合を見て感じたのだ。
いつにもまして真剣な総一の態度と動きに。
あいつはテニスも人並み以上に出来るのか、と感心したのも束の間、それ以上の腕を以てその相手をしている白鳥に。
詳しくはないが、しかし球を打つ度に何かしらの高度なやりとりをしていることはよくわかった。
達人は達人を知る。辰美流柔術の達人である糸子からしても、まるで自分たちが乱取り稽古をしている最中、一つ一つの動作を真剣にこなしているような緊迫感が見て取れた。
なるほど疲れるはずだ、と文句は言えなかった。
真剣勝負という表現があるが、仮に真剣を用いて剣術勝負をするようなことがあれば、人はものの数分で疲労困憊になるだろう。道具の重たさによるものではない。自分の動作を制御し、相手の動作を測り、失敗すれば障害を負うような緊張感のもとでタイミングを計るという連続故に。
テニスの試合というのは、場合によってはそれが時間単位で続く。
無論命には関わらないが、一球、一点のやりとりを大事に行えばそのようなもの。
何の競技であれ、もしくは鍛錬であれ、全力で行えばそうなるもの。
一日一度ならばいいのかもしれない。一日一度、何か一つそれだけを全力で振り絞るようにして限界まで行い、そして残りの時間全力で身体を休める。それが出来るとなればたしかに鍛錬としては最上級のものであるとも思うし、それが数ヶ月も続けられればめきめきとその『何か』は上達してゆくものだろう。
だが、総一と白鳥、二人の試合を見ていた糸子は同時に感じていた。
それは二人の試合での表情。
二人共に苦しそうだった。それはそうだろう。テニスというのは断続的な無酸素運動が延々と続く。その最中に、ボールの行方や相手の癖などを分析して立ち回るという思考までも続けなければならない。
暑い気温も相俟って、二人共が汗を滝のように流しながら息を切らせて向かい合っていた。
けれども、白鳥は感じていただろうか、とも糸子は思う。
白鳥は苦しくとも、楽しそうだった。見ていてとても楽しそうに思えて、そして後に評判を聞いても納得出来た。
常勝無敗のテニス女王。きっと彼女は退屈だったのだろう。その練習して高めた腕を振るえる相手を探していて、出会えずにいて、そしてようやく巡り会ったのだ。
ボールを一つ打つ度に、どうだ、と見せつけるような気迫があった。
他の人間との白鳥の試合も見たが、やはり動きは違う。総一の前で行うのは、手加減や遠慮もない素直な動き。
まるで幼子が無邪気に遊ぶように。一打一打と楽しむように受けて打ち返していた。
だが総一は。
苦しそうだった総一の表情には、糸子はそのようなものが見つけられなかった。
苦行というわけではない。いつものへらへらとした笑みに、スポーツとして楽しんでいたのだとは思う。
しかし総一はどちらかというとただただ必死で、まるで追い縋るように食らいついていたようにも見えた。前をいく誰かに置いていかれないように、必死に。
まるで二年前の拳道の全国大会。
糸子の弟、理織と戦った決勝の試合のときのように。
まあ今日はテニスには行かなくてもいいだろう。
羊谷の味方をするわけではないが、しかし糸子はそう思う。
羊谷より先に白鳥がここを訪れたとき、もしくは廊下で羊谷よりも先に白鳥が総一に出会った際には、総一はテニス場に連れられてゆく。その逆ならば、今日のように羊谷が勉強会である、と主張する。
ここ数日、その二つのどちらかが行われていることが多い。
そして今日は羊谷の勝利。先約があるならば仕方がないだろう。どちらも総一の連絡先を知っているので、約束をしておくこと程度出来るはずなのだが。
「……じゃあ仕方ないですわ」
む、と僅かに頬を膨らませて白鳥が納得するように呟く。
「明日の放課後また付き合ってくださる?」
では予約を、というノリで白鳥は尋ねる。
総一は悩むフリで、ん、と言い淀むが、羊谷が代わるように明るく口を開いた。
「そーっすね、総一先輩、あたし明日の放課後は遠慮しますよ。その代わり明日の夜、先輩の部屋でいっすか?」
「えー……、また俺の夕飯の時間ずれ込むじゃん」
「総一さんの部屋……、……総一さんの部屋? また?」
白鳥が眉を顰めて羊谷を詰問し、羊谷はどこか勝ち誇るようにして白鳥を見る。
「あ、うん、最近たまに来るんだよね、こいつ。俺の夕飯目当てに」
「手料理!? 夜!?」
本を開いて、背中でそのような会話を兎崎も聞いている。彼女は、いつものことだ、と無反応で通しているように糸子には見えた。
正確には、通そうとしているように。
糸子は、そういえばと一つ思い出してふと微笑む。
楽しげな雰囲気に何となく居心地の悪さを覚えつつも。
その居心地の悪さを更に増すような結果になりそうなことも考えつつ。
まるで助け船を出すようだ、と思った。
その助け船が誰に対してのものかはわからなかったが。
「そういえば総一」
「はい?」
声を上げた糸子に、総一が顔を向ける。それにつられるように全員の視線が自分の方を向いたので更に居心地が悪くなったが、しかし胸のもやもやがそれで吐き出せるようで言葉を止める気にはなれなかった。
「昼に聞いていて忘れていた。学園長が放課後顔を出せと言っていたぞ」
「……何でまた?」
総一は怪訝に思い眉を上げる。
「さあな。多分今日はずっと武道場にいるだろう。時間は指定されてなかったからあとでいいと思うが」
「うーい」
夏休み中に行われる拳道の都大会。それに備えて拳道班は徐々に練習を厳しくする期間だ。
故にその顧問でもある海馬源道学園長は自校の班活動に顔を出す機会も増えて、練習を厳しくし、指導を激しく行いはじめる時期でもあった。
だから今、武道場にいるのはよくあること。
そして学園長を訪ねてこいということは、つまり武道場に来いということ。
また何を考えているのだろうか、あの爺さんは。
総一はそう考えつつ、羊谷への勉強会に使っている資料とノートに目を戻した。
しかし、ならば急がなければならない。一応班活動が終わるとされる時間まで、あと三時間ほど。
「しゃーない。じゃ、羊谷、俺に用事も出来たことだしちゃっちゃと進めるよー。あと二時間ちょいで中学のやつ全部理解してもらおっかね」
「え、それは無理しすぎじゃないっすか?」
「ちょっと無理してもらうっす」
ケラケラと笑う総一。
やっぱりテニスの方へ行ってもらえないかな。
あわあわと羊谷は白鳥に目を向けるが、白鳥は不敵に微笑んで応えた。
総一は脳内で今日のカリキュラムを組み立て直す。
元々休憩時間も含めてあと三時間の予定で組み上げていた地理の復習だ。少々詰め込みになるが、省ける説明は省略して分量を調節すれば充分間に合う。それは以前家庭教師で小遣いを稼いでいたときの経験と勘。
それに明日の夜に今日の時間の復習を加えれば、詰め込みとも言えない授業に出来るだろう。
よし、と涼しげに総一は頷き、勉強会は再開される。
二時間後、勉強会が終了した羊谷は机に突っ伏し、「耳から、耳から文字が零れてく……」と魘されるように呟き続けていた。




