生まれてはじめて
夏の放課後はまだ日も傾かず明るいままだ。
下駄箱を多くの人が通り過ぎる。これから帰る者、屋外の班活動に向かう者。彼らは皆ほぼ必ず下駄箱で自分の靴を履き替えて、それぞれの場所に向かう。
下駄箱の位置は大抵の場合は所属する組ごとに分けられていて、登竜学園でもクラス替えの度にそれぞれの場所が変わる。
そして故に同じ組ならば、時間さえ同じになれば級友と顔を合わせるものだ。
「あ……」
ばったりと顔を合わせた白鳥と兎崎は、互いに気まずさにドキリとしながらも、互いに引き下がれずに、足を止めず自分の靴箱に手をかけた。
金属製のロッカーを開け、早々に兎崎は小さなローファーを取り出す。顔を合わせる度に小言を言われているような気がして、その面倒さに立ち去りたく足早になる。
やや遅れて白鳥も靴箱を開け、そして中の運動靴を手に持ちつつ、小さく呟いた。
「その……ごめんなさい」
「え?」
白鳥の視線は自分の靴箱を覗いたまま。兎崎は自分が何かを言われたのかと思い、無視をしようとしたものの、しかしいつもと違う調子に聞き返した。
「何度も突っかかって申し訳ありません。貴方が体育の授業をいつも見学しているのに腹が立っていたのは……私の、個人的な理由でしたわ」
つらつらと口にしながらゆっくりと、白鳥は兎崎に顔を向ける。
本当に申し訳なかった。許してもらおうなどとは思っていなかったが、しかしそれだけは言っておきたかった。自分の個人的な苛つきを何度もぶつけてしまっていた小さな級友に。
「そう」
ふうん、と無表情で兎崎は応える。正直慣れていることで、そして別に気にもしていなかった。どうでもいい、というのが正しいところだろうと自分でも思っていた。
白鳥の言葉は煩わしいだけで、それ以上なければ問題ないのだから。
今日白鳥は、目の前の少女に自分の姿を見ていたのだと知った。
目の前の兎崎は、運動が苦手なのだという。だから体育をいつも見学に回っていたのだという。
苦手で、嫌いなスポーツ。
そしてそれが自分にもあった。
他ならぬ、テニス。自分を孤独にして、それでいて人生から引き離せないもの。
兎崎が逃げているのだと思った。
自分と同じようにやらなければいけないのに、しかし苦手だからと立ち向かっていないのだと。
自分はやりたくはないテニスを、ずっと続けているのに。
ずるい、という子供の癇癪に似ていたのだと思う。
まるで苦手な野菜を食べさせられている子供のよう。隣の子供の皿に、嫌いなものが残されていてなお怒られていない状況だった、というような。
でも、もうテニスは嫌いではない。
テニスの練習など辛く苦しいものだ。そしてそうやって培った力を使えないのだから、ただひたすらの苦痛だったのだと思う。
けれど、練習が無駄ではなかった。努力が無駄ではなかった。
この苦痛が報われる瞬間を知ってしまったから。
「だから……」
白鳥の鞄の中で、スマートフォンがメッセージアプリの通知を鳴らす。
言いかけて、ちょっと待って、と兎崎を引き留めつつスマートフォンのスリープモードを解除すれば、そこには端的な文章が。
『かわいい。結婚しよ』
「へぁっ……!?」
ポニーテールを弾ませて、白鳥の肩が跳ねる。
「……?」
「い、今、今ですね、その、総一さんから、メッセージが送られてきて、ですね」
自身のスマートフォンを指さしながら、白鳥は兎崎に報告しようとする。
しかしその言葉は辿々しく、それに要領を得ない。その仕草に僅かに業を煮やし、兎崎が白鳥のスマートフォンを覗き込もうとすると、白鳥もそれに応えて画面を見せる。
「かかかか可愛いって、なな何のつもりなんでしょうかねぇ!」
「ああ、あんた、猫の写真送ったからでしょ」
どう考えてもお前のことではない。
アプリを開いてちゃんと読め。そう内心毒づきながら、兎崎は溜息をつく。
「え、あ、……ああ-、そう……」
止まっていた呼吸を強引に再開するように、白鳥もその言葉に我に返る。
そして詳しく読もうと開けば、やはり兎崎の言ったとおり。白鳥が共有した猫たちの写真集に対するコメントだった。
ふう、と落ち着いて考えれば、もちろん今自分が慌てたようなことはないと思える。
もし仮に白鳥のことを褒めたとしても、別にその程度今の時代のコミュニケーションとしては普通ではないかと思い直していた。
だが、そういえば。
「そう、そういえば」
「今度は何?」
いつもと違う白鳥の様子に若干また苛つきながら、それを全面に押し出して兎崎は眉を顰める。
もっと早く『じゃあね』と告げて帰ってしまえばよかったのに。そのタイミングを逸したようで、そのことについても腹が立った。
「今日の体育の授業中、何かお二人で妙なことを仰ってましたね」
「妙なこと?」
「その……えっと、兎崎さんを総一さんが庇ったとき、でしたっけ? ほら、あの……」
白鳥も、あの時はなんとも思っていなかった。けれども、今となっては少しだけ気になった。
気になってしまったのだから仕方がない。そして、それを総一には聞けない、と思いつつも。
「えっと、何か総一さんの言葉が何かの物語の引用だったのですか? えー、あー、あの……」
もじもじと身体を少しだけくねらせつつ。
言いたいことは自分ではわかっているつもりだ。しかしそれがなかなか口に出せず、意を決するように大きく息を吸った。
「何でしょうか? あの、総一さんが、私を、ええと、……好き、とか……」
「……あれは、そういう小説があるってだけの話よ」
何を期待しているのか知らないが、と兎崎は頭を痛めた様に掻く。
いや、何を期待しているのかはわかっているのだ。
そして同時に、馬鹿らしい、と思った。
「そ、そうなんですか」
まあ冷静に考えればそんなものだろう、と白鳥も納得する。
先ほどから自分は何を考えて、何を口走っているのだろう。
思い返すだけで、何となく顔が熱くなった。
「じゃ、じゃあ参考までに、それを読んでみたいんですが、なんていう本ですか? 図書館にありますか?」
「図書館にはあるわよ」
「誰の何という……?」
「…………」
おずおずと尋ねられ、そのどこか必死な様子の白鳥が可笑しくて、兎崎は意地の悪い笑みを浮かべた。
「教えない」
ヒントくらい出してみてもいいかもしれないが。
日本文学全集、その全九十七巻のどこかにあると。
(青春してるわ)
クツクツと自然と笑いがこみ上げる。
まだ食い下がろうとしている白鳥を躱しつつ、兎崎は思う。
どうやら目の前の女子生徒も青春に入ったらしい。青春、それは自分が自分の人生の主人公だと強く感じられる人生の一時期のこと。
多くの青少年がそうであるように、きっと今の彼女の物語も、恋物語なのだろう。
だが前途は多難だ。
その恋物語は敵が何人もいる。自分こそがと胸を張る主人公たちが。
その勝敗は未だわからず、天才少女兎崎とて予想はつかない。
白鳥が勝つかもしれないし、羊谷も強敵だ。更に勝者がその二人の内どちらかとは限らない。
最終的な結論はまだ導かれていない。
今はまだ、途中式を書いている最中であるし。
(……あたしも、嬉しかったんでしょうし)
彼にとってはただの暇つぶしだっただろうが。
「じゃあね」
「あ、待ってください!」
会話を打ち切るように挨拶をし、まだ靴を履いていない白鳥を置いて兎崎は歩き出す。
その先は外。電灯の照らす薄暗い校舎の中から、日の光の照らす明るい外へ。
玄関のガラス戸を引いて開く。
本の扉を開くように。




