やらないか
登竜学園の昼休み。
十二時四十分から十三時四十分までの一時間は、皆が大抵の場合思い思いの場所で昼食を取る。
カフェテラスもある食堂で、もしくは家からの手弁当を教室で、班室で、限定的にだが火や調理器具も使える調理実習室で。
和気藹々と皆が親睦を深める時間。今日の授業の様子から、部活の成績の報告、放課後の遊びに至るまでの様々な話題を交換して、青春の日々を少しずつ拡大する時間。
無論、そういう者たちばかりでもない。身体や財布のダイエットのために昼食を抜いてただただ時間を潰す者。飯は流し込むように済ませ、空いた時間で足りないと感じている勉学や運動に励む者など、過ごし方に規定はなくそして様々だ。
班室で、一人サンドイッチを口に含む少女は、白鳥叶。
ファンの女子生徒の目から逃れ、一人で食べるのはいつものことだ。
ロッカーが並ぶ着替えの部屋。その部屋の隅に置かれた青いプラスチックのベンチに腰掛け、持ってきた弁当箱の包みを横に置く。
水筒の中に入る紅茶とハムサンドを交互に口に含みつつ、咀嚼し飲み込んで昼食を進める。
美味しくないわけではない。だが、味気のない食事。
皆に囲まれないことを選んだ自分の選択、その結果のことであるし、白鳥は特段気にしてはいなかったが。
腹ごなしのサッカーでもしているのだろう。
小屋の外、校庭からは誰かの声が響く。それも班活動などでみられる真剣なものでもない楽しむための遊びの声。
誰かが班室の横を歩いている。二人ほどで今日遊びに出る計画を話して。商店街にパンケーキの映える店が出来たらしい。
コンコン、とノックの音が響いた。
この女子テニス班の班室は、女子生徒の着替え用として使われていることが多い。
故に誰が中にいても基本的に鍵は閉めており、また誰であってもノックをして入るのが礼儀だった。
「はい」
白鳥は立ち上がってドアに歩み寄る。
「すんませーん」
そして聞こえてきた明らかな男子生徒の声に白鳥は眉を顰める。
習慣的に、また規則として、後ろ手に扉を覆い中の目隠しを果たすカーテンを閉めながら。
誰だ。
そう思いつつも扉を開く。
そして明るい外の光に一瞬目を眩ませながら、慣れた視界にいた男子生徒を見てその気を緩めた。
「あ、白鳥? 一応俺って入っちゃ駄目なんだよね。今暇?」
「暇ではありませんが、大丈夫です。……何か?」
おずおず、と白鳥は扉を押さえたまま首を傾げる。
目の前にいるのは鳳総一。何か自分に用があったのだろうか。
総一はおどけるようにしつつ、手をひらひらと見せた。
「いや、俺の方が何かないかと思って来たんだけど。何か一昨日生徒会室に俺訪ねてきたらしいじゃん」
「あっ、はい」
そうだ、そういえば、と白鳥は思い出した。
気にしていなかったわけではない。昨日は来ないだろうと兎崎の言葉で諦めていたが、しかし今日の放課後また会いに行こうと思っていた程度には。
「ちょっとお待ちいただけますか。お昼ご飯を片付けてきますので」
「いや別にそんな急がなくてもいいけど。何の用事だったん?」
「一昨昨日の猫が、上手くいきそうという話でして」
ちょっと待って、と重ねて言って、白鳥はカーテンの奥に引っ込む。
広げていて食べかけのサンドイッチを急ぎまたラップに包み、弁当箱を閉めて、スマートフォンを手に取る。彼に見せようと二日前から準備していたもの。いつもはそんなこともしないはずなのに、と母に不審がられながらも。
カーテンを出て、扉からも出る。
班室近くのベンチは木陰の中で、スマートフォンも見やすいだろう。
「まだちょっと前からいた猫とは慣れていないのですが、犬は認めてくれたみたいです」
「へー」
ベンチで並んで座り、二人で白鳥のスマートフォンを覗き込む。
そこに映されていた動画では、小さな猫たちが毛布に埋まるようにして寝ている箱を、スンスンと嗅いでいる犬の姿があった。
「食欲もあるみたいですし、今朝も元気よくミルクを飲んでくれました。下痢なんかもしていませんし、上手くいきそうで」
「気持ちよさそうに寝てら」
苦笑するように素直な感想を総一は吐く。そうか、助かったのか、あの猫たちは。
総一とて、たとえば『死んでしまいました』などというような訃報を聞けばさすがに気分が悪くなる。それもなく、また飼育などという面倒なことを白鳥がしてくれているのであれば万々歳だ。
「名前は? そろそろ決めたっしょ」
「こっちの茶色い斑点がイクラで、白い方がウニと名付けましたわ」
「……寿司ネタかな?」
また新しい動画を、とスワイプする白鳥は総一の言葉にうんと頷く。
特段犬猫としてはおかしな名前ではなく、白鳥としてもおかしな名前とは思っていない。先住猫はトロ、犬はコハダ。で、あるから。
イクラとウニが入った箱に対して遠巻きに威嚇するように尻尾を立ててる先住猫や、恐らく白鳥の母親だろう誰かの手でミルクを飲ませているウニの映像を微笑ましく総一たちは二人で見る。
白鳥にとっては自らの撮った映像だ。故に物珍しくもなく目新しいものでもなかった。なかったはずなのだが。
「元気に育つといいな」
「ええ、本当に」
映る猫たちや、見切れている犬たちが可愛いと改めて思う。そして言葉に同意し、隣にいる総一を見て、そして我に返ったようにびくりと身体を震わせて少しだけ後退るように尻をずらした。
「あ、と、話というのはそれだけだったんです。わざわざこんな場所まで来てもらってごめんなさい」
スマートフォンの電源ボタンを押せば、画面が暗くなる。そこに反射して映るのは、見たことのない自分の顔。
「いいいい、暇だから来ただけだし」
白鳥の丁寧すぎるような挨拶をケラケラと笑い飛ばした総一は、何も気にせずに。
白鳥はごく小さく咳払いをする。
「そういえば、一昨日から体調不良だったって」
「うん。熱が出ててさー。さすがにずっと寝てた」
「お大事にしてくださいね。夏場だって風邪引くんですし」
「ほんとマジ。お互いに気をつけようねー」
うんうん、と神妙に総一は頷く。
未だ病み上がりの身体。総一とて少々辛い。正直まだ本調子ではなく、今日の午前も保健室でベッドを借りて寝ていた程度には。
総一は立ち上がり、軽くその場で跳ぶ。
目眩はない。少しだけ身体のだるさが残っているが、しかしその他の不調は今のところないらしい。
言われてみれば、何となく自分の体調がどれほど戻っているか気になった。今朝よりは大分いいだろう、だが本調子と比べれば。
「白鳥ってテニス班なんだっけ」
総一は指で目の上に庇を作り、先ほど白鳥がいた班室に目を向ける。明るい中にある班室は、木陰の下からでは輝いて見える。
質問の形を取っているが、しかし質問ではなかった。
総一としても知っている。そもそもテニス班員でなければ原則班室に入ることは出来ないし、そして生徒会役員として覗ける名簿でも見たことがある。
中学校まではいくつもの大会での優勝常連。しかし高校に上がると、彼女のプロフィールから大会での記録が消えていた。
記録が芳しくなくなったわけではない。ただ単に、大会などに出ることがなくなっただけで。
総一と同じように。
パチクリと色素の薄い目を瞬かせ、白鳥は何を言うのかと首を傾げた。
「ええ、そうですけど」
「白鳥も飯食い終わったら、腹ごなしに運動付き合ってくんない? 俺もどれだけ体調が戻ってるか確認したくてさ」
それから総一が指さすのはテニスコート。
予備のボールも自由に使っていいラケットもある。ならば。
総一としては軽いお誘い。
言葉に裏はない。単に腹ごなしの軽い運動をしたいだけ。自分の身体の調子を確かめたいだけ。どちらが強いか、などに興味もなく、絶対に勝ちたい、とまでも思っていない。
『食後のレクリエーションをしましょう』。その程度の。
だが、何を言うのか、と身構えていた白鳥の眉が下がる。
立ち上がった総一を見上げていた視界が下がり、そして自嘲するように唇を歪めて俯いた。
「それは、やめておきましょう」
「そ?」
ふうん、と軽く総一は返す。特段強要する気もない。
身体の調子を確かめたければまた会長と追いかけっこでもすればいいし、そもそも本調子でないのはわかっているのだから。
理由を聞かれず、しかし白鳥は心の中でまた思う。
『だって、勝ってしまうから』。
目の前の男子生徒が、自分よりもテニスが上手とは思えない。彼の場合は兎崎と違い、運動神経はいいと特待生に関する噂で聞いたことがある気がする。
けれどそれでも。
暗転したスマートフォンの画面に、苦しそうな自分の顔が映り、白鳥は何故だか悲しくなる。
それから、少しばかりの笑みを浮かべて顔を上げた。
「テニスなんてつまらないですよ。あんな退屈な競技、やるものじゃないですわ」
「テニス班の人がそんなこと言うー?」
えー? と冗談じみた言葉に乗りつつ、総一は思う。
ならば何故まだ高校でもテニス班に所属しているのだろう。中学までは積極的に大会に出ていたのだろう。下手をすれば幼稚園時代から才能を見せていた白鳥は、何故。
そして一瞬だけ悩み、その悩みもすぐに消え去る。
どうせそんなもの人の勝手だ。個人の自由だし、詮索するほどのことでもない。
「ま、いいや。んじゃ飯の邪魔して悪かったな」
「いえ」
明るい笑顔を見せて総一は去ってゆく。
校舎に向かって小さくなってゆく背中。同時に白鳥の耳に、また音が戻ってくる。誰かが笑い声を上げて、誰かがどこかで歓声を上げる。それがきっと皆の青春の音。
ふと目を向けたのはテニスコート。
審判も選手も誰もいない静かな。
一つ誰かがしまい忘れたボールが、コートの隅に残る。
それを見て吐いた溜息に、少しだけ頬の温かさが移っている気がした。




