=0
「え? つまり……何でこの数字は前に出たり後ろに出たり……?」
「だから、小さく書いてあるのと大きく書いてあるので扱いが違うのよ」
苛々してきた。
兎崎は自身の感情の変化がそうであるのだと感じ、そして羊谷も薄々それには感づいてきた。
二人は生徒会室の机で対角に座り半分向き合う形で同じノートを覗き込む。
ことの始まりは至極単純。今日は羊谷が、兎崎に勉強を乞うてきたというだけのこと。
放課後の生徒会室での勉強会はいつものことだった。
羊谷にとっては、今日の授業でわからなかったところを総一に聞いて復習する時間。
今日の化学はよくわからなかった。化学式という呪文のようなものを授業中教師に延々と唱えられ、混乱させられたのだとすら羊谷は思っていて、そしてその遅れを取り戻すための時間。
勉強会はいつものこと。
けれどもいつもと違うのは、その講師役が総一ではないこと。
羊谷とて、本音では総一から講義を受けたい。それはその勉強会を口実としてみたときの本音の話。
だが彼は今病で倒れている。今日はまた見舞いに様子を見に行く予定ではあるが、彼に講義を頼むのはさすがに羊谷とて避けたい。
そして勉強会で復習がしたいのは事実。その講師が総一でなかったとしても。
故に、そして総一の推薦と根回しもあり、今日羊谷は兎崎の講義を受けることが出来たということではあるが。
「大きな数字は化合物全体に対しての数。小さい文字はその前の元素がいくつかの数。わかる?」
「……? なんとなく……?」
兎崎が羊谷のノートに書き込みを入れる。丸で囲んだ『H』二つと『O』一つの図。一酸化二水素、いわゆる水の模式図を。
「周期表を覚えてれば酸化数もわかるけど。この場合、水素の酸化数が+1、酸素の酸化数が-2の単純な化合物よ」
「酸化……?」
「酸化数は原子が結合するときにいくつの電子を失うか、……っていうのは覚えてる?」
羊谷はこくりと頷く。そのようなことを聞いたことがある気がする。
きっと以前の授業で。どこかできっと。
けれどもそれを理解しているとは言い難く、そして今兎崎の講義を受けている最中も未だには。
「酸化還元反応なんて酸化数を0にして帳尻を合わせれば済むことよ。それを考えれば、こんな単純な問題見ればわかるでしょ」
授業中に出た化学の問題。そのどれもが高校一年生レベルの基礎のものだ。
それを考えれば、この程度出来ないわけがない。無意識に兎崎はそう考えて、ペンを指先で弄びながら視線を逸らす。次いでほとんど聞こえない小さな溜息。
溜息を聞いた羊谷は、びくりと肩を震わせたが。
「硫酸の化学式のうち、Sの酸化数は?」
「えっと、それが……」
「Hが+1、Oが-2。なら答えは6。簡単じゃない」
ノートに書かれた例題のうち、兎崎が読み上げたものは単純な計算問題だ。兎崎ならば、総一ならば、また多くの学生ならば見れば瞬時に導き出せるごくごく簡単な問題。
羊谷も簡単な計算問題だとは理解しつつも、しかし間違えてしまった問題。
「えっと、……水素とか酸素の酸化数は、固定なんですか?」
「そうね……そこから?」
そして兎崎はまた呆れるような視線を羊谷に向ける。
「基本的にはそうよ、例外はあるけれど。金属との化合では水素の酸化数は-1になることもあるし、過酸化物なら……たとえば過酸化水素なら酸素の酸化数は-1よ」
「じゃあさっきの式も何で」
「例外って言ったでしょ」
だから普通に考えて、先ほどの式では考えないのだ。
兎崎はそう内心結論付けるが、しかし羊谷の脳内ではまた困惑が広がっていった。
もちろん、兎崎が口にしたのは現在の羊谷には必要のない例外の知識。だがならばその例外は一般化出来ないのか、というのが羊谷の疑問。
普通に考えて、と兎崎は途中の説明を省き続ける。
総一ならば、積み上げるようにして基礎から必要なことを説明してゆくのだが。
「じゃあ、さっきの式の場合は? 1×2+(-2)×4で、……いいんですか?」
「そうね」
「えーと、なら、答えは-6……」
「なんでそうなるのよ。だ、か、ら、式は全体で酸化数0になるの」
兎崎は正確な式を書き上げ、羊谷の言った式に『=0』を書き足して、さらにその書き足した『=0』の下に何度も何度も強調線を引く。
何故わからないのか。
何故理解出来ないのか。
そんな感情がペン先に込められる。
こんな簡単なごくごく基礎的な問題、見ればわかるのに。
目の前の後輩は今までの授業を聞いてこなかったのだろうか。
一度でも聞けばわかるはずなのに。
勉強してこなかったのだろうか。
やれば、出来ないはずがないのに。
「だーぁって! わかんなかったんですもん!!」
放課後の兎崎との勉強会を終えて、夕方、総一の部屋で羊谷は半泣きになりつつ総一に詰め寄っていた。
熱は大分下がってきていた総一。しかし頭には冷却シートを貼ったまま、寝間着の上に半纏を着て、更に毛布に包まりつつ羊谷の話を机越しに聞いていた。
「あー、そりゃすまん」
今日の勉強会ではよくわからなかった、というような羊谷の報告を聞きつつ、総一は兎崎に勉強会を開いてもらったことを若干後悔していた。
兎崎の性格はよく知っている。人に勉強を教えるような性向ではないことも。
けれども下級生の勉強を見る、くらいならば出来ると思っていたし、さすがにそのときには対応程度考えるだろうと思っていたのだが。
「教えてもらった兎崎先輩のことを悪くは言いたくないんすけど、すみません、総一先輩元気になったらでいいんで、明日以降またどっかでお願い出来ますか?」
机に頬杖をついて、羊谷は真剣な目でそう口にする。
「……おうよ」
まあ、学校にいるときならば、と総一としても否はない。
後輩の勉強を見る。それだけすれば帰れるとなれば。
「まー、あいつ頭はいいんだけどなぁ」
「頭がいい人は馬鹿にも説明出来るって聞きますけど、全員が全員そうじゃないんすね」
「うーん」
唇を尖らせた羊谷の言葉に、総一は頭をがしがしと掻く。
昨日今日とシャワーも浴びていない垢じみた頭。
熱も下がったことだし、今日は湯船に湯を張って、ゆっくり浸かるのも良いだろう、と考えつつ。
「あいつの場合は、そうだねー、レベルの下げかたを知らないっていうかー」
一応今回もどうにか説明をしようと考えていたのだろう、と総一は思った。羊谷の話を聞く限り、説明する気はあったのだと思う。総一の頼みで嫌々教えていた、ということもあったからだろうが。
だが、気持ちがわからないのだ、とも総一は推察する。
兎崎には、出来ない人間がどこで躓くのか想像出来ない。どこがわからないのか、どこでどうやって考えて間違えてしまうのか、ということが。
問題Qに対する(A+B)C=D。
通常の人間が問題を解くときの思考を、Aという知識と、そこから推察されるBという情報、それら組み合わせCという規則に則り結論Dを導き出すとするならば。彼女はQ=Dと解く。問題Qを見た瞬間にDという結論を導き出す。
常人がDという結論が導けない理由がわからない。Aという知識が欠けているのか、Bという情報、はたまたCという規則が間違っているのか、それともDが出たことに気付いていないのか。
彼女とて、きちんと対話をしてその理由を探れば、羊谷を導くことも出来ただろうに。
「頭良すぎるんだよ。俺ちゃんと違って」
「先輩だって……なんか二人は特待生でずっとテスト順位一位二位って聞きますけど」
「そうだけど」
彼ら二人が常に特待生として特待生を維持するのに問題のない成績を取り続けている、というのは羊谷も学友の噂に聞いた。彼らは特待生の基準のうち、『常時中間・期末試験学年順位十位以内』というのを充分すぎるほどの成績でクリアし続けている。同率一位もよくあること。全教科の筆記試験、ほとんど常に満点を取り続けるという常人には出来ない方法で。
兎崎が頭が良いのなら、総一も。
羊谷は反射的に言い返した。総一はそれに苦笑で返したが、その意味は羊谷にはわからなかった。
「俺は単に百点を取ってるだけなんだな、これが。あいつと違ってさ」
筆記試験は百点を最高とする加点評価だから、もしくは百点をスタートとする減点評価だから。だからほぼ互角なだけなのだ、と総一は自嘲する。
「もし百点満点じゃなかったら、あいつは全教科三百点は軽いよ。百点満点だから俺とおんなじなだけで」
総一は既に個人的に全ての教科の大学卒業程度の勉強を終えている。だから故に、高校の勉強程度ならば百点は簡単に取れる。
だがたとえば、これが大学院などで求められる更に上級のものならば話は別だ。
精々自分は百十点程度を取っているだけなのに、兎崎は三百点の能力を過小評価されて百点にされている。
しかもほとんどの勉強などの努力も必要なく。教科書などから呼吸するように必要な知識を吸収し、応用を行う。
そんな才能の差をこの一年と少し、身近でまざまざと見せつけられて、総一は悔しさや羨ましさを覚えるよりも先に失笑する思いだった。自分がどれだけ努力しても追いつけない場所にいる天才に。
無才の自分の努力は無駄だったのだろう、と思わせてくれる天才に。
「ま、俺たちゃ落ちこぼれ同士。仲良くやろうぜー」
「先輩が落ちこぼれならあたしはどうなるんすか」
「天才から見たら同じようなもんだよ」
背中から掛けた毛布をかき寄せ、総一は顔だけ出してダルマのように包まる。
若干の寒気はまだ感じる。けれどももうほぼ下がった熱。明日には学校に出なければいけないだろうか。
総一の言葉を冗談と感じ、羊谷も大げさに苦笑した。
「うわあ、これが出来る奴の余裕ってやつ? あたしも言ってみたいもんですわ」
「そんならまずはちゃんと勉強しないとねー」
「はっはっは。してんすよ、これでも」
羊谷は嫌みだ、と怒ることも出来た。けれどもそんな気もせずに、わざとらしく笑う。
互いに嫌みとそれに対する抗議を冗談じみて行い、それだけで和やかに会話が進む。
ほんと、同じようなもんだよ。
しかしそんな中、総一は心中でまた、同じ言葉を繰り返していた。




