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怪我に備えた

 


 放課後の午後四時。総一の姿はいつもの屋上にあり、そしていつものように遅めの昼寝をしていた。

 カラッとした晴れの日、涼しげな風が頬を撫で、総一の疲れた体を包んでゆく。

 無意識の耳で、遠くから聞こえる猫たちの喧嘩の声を拾ったのか、総一は猫に囲まれて昼寝をするという本人にとって幸せな夢を見ていた。幸せというものが長くは続かないと、本人も知っているのだが。



 かちゃりと音を忍ばせ、屋上の扉が開く。

 屋上は生徒会の役員のみが入れる場所であり、基本的に生徒の立ち入りは禁止である。なので、総一も一応ここにいるときには侵入者に警戒を払っていた。


 総一の右目が開く。頭の後ろで手を組んで、くつろぎ寝ているようにも見えるその体は、今警戒心でいっぱいだった。

 飛び起きようと思えばすぐに跳ね起きることが出来、そしてすぐに臨戦態勢に入れるような、そんな心構え。


 その正体に、総一は思考を巡らせる。

 かすかに聞こえる足音からして、二人組。ここを覗き込んでいるということは、屋上が立ち入り禁止だと理解して、なおかつ入る権利のない者。

 ……ならば、注意をするべきだ。寝起きで重たい体を持ち上げて、総一は振り向く。

 やはり思った通り、屋上の扉から二人の男子が覗き込んでいた。そのうち一人の顔には見覚えがある。そこには数日前、野球班員の喫煙を止めるべく生徒会室に駆け込んできた子門たたらの顔が、自らを窺い見るようにあった。



「……あの」

「ここは生徒会役員と教員以外は立ち入り禁止なので、取り合えず出てってください」

 一応丁寧語で注意をする。機械的なその言葉は、生徒会役員などもやりたくないのにやらされている、という不満を表していた。


「え、あいや、ちょっと聞きたいことがあってさ」

 子門が慌てたように姿を見せる。出てってくれと言ったはずなのに。総一は内心溜息を吐いた。

「……何?」

「一週間くらい前、ここからボールを投げた人を探しているんだけど、それ、鳳君ですか?」

 ボールを投げた人。その言葉を聞いて、面倒くさそうに対応していた総一は一転して眉を顰める。そして厄介ごとの匂いに焦りを感じると、不自然なほどの笑みを子門に向けた。

「知りません」

「いや、でもいつも放課後ここで寝てるって……」

「知りません」

「ここは生徒会しか使えないのに、ここから投げ込まれて……」

「知りません」

「この一年が、鳳君の顔を見たと……」

「知りま……ああ」

 子門が連れてきていたもう一人の男子生徒、その顔を示す。総一はその顔を覗き込むように確認して、また一つ溜息を吐いた。

「……ッス! 鳳さんですよね!!」

 元気よく、そう叫んだ男子生徒は、たしかにその時外野を守っていた坊主頭だった。


 観念し、舌打ちをした総一は、ジトっとした目を二人に向けて口を開いた。

「おー、そうだけど、何か用ですかぁ」

「いや、用というほどじゃないんだけ……ですけど……」

 総一の様子の変わりように、少し慌てた風にとりなす子門。一年生はその様子を、胸を張って黙って見ていた。

 総一は息を吐く。先ほどまでの面倒臭げなものではなく、取り繕うのをやめた、という仕草だ。

「別に同じ二年なんだしタメ口で構わないよ。それと、俺を呼ぶときは苗字禁止な」

「ええと、いや、それは……」

 だが、子門は口調を崩そうとしない。そして意を決したように拳を握った。

「いや、頼みがあるんだ」

「お断り……、いや、聞かなくちゃダメか……」

 またも繰り返した溜息を隠そうともせず、総一は顔を顰めて続きを促した。今日はまだ人のために何一つしていない総一にとって、その頼み事は半分強制となるからだ。


「この前の球の投げ方、教えてくれ」

「別に、普通に投げただけだけど」

 だが、子門が口を開いて出したその言葉に、総一は落胆する。


 そう、総一にとっては特別なことは何もしていない。ただ単に、ボールを投げただけ。

 理想的なフォーム、理想的な力の配分、そして理想的なタイミング。鍛え上げられた体でその全てを完璧にこなしただけ。ただそれだけのことで、教えられることなど何もない。そうは思ったのだが。


「その普通の投げ方を、教えてください!」

 子門は頭を下げる。その必死な姿に、総一は一瞬戸惑い、そして納得して頷いた。

「そっか、野球班の顧問って、野球経験者じゃないもんな」

「そうなんだよ、最近伸び悩みっていうか、もう、スランプっていうか……」


 そう、この学校の野球班、というよりもほとんどの運動班には、経験者の顧問がついていない。

 当然コーチなどいるはずもなく、皆自己流で練習を続けているのだ。

 学園長が自ら顧問を務める拳道班はその限りではないが、それは数少ない例外だった。


「でも確か……『子門たたら』といえば、……えーっと……『二年生唯一のベンチ入りピッチャー、内角を抉る鋭い速球が大きな武器』だったよな。必要ないんじゃないの?」

 総一は、脳内に浮かべた『子門たたら』の資料を読み上げる。以前、個人的にふざけて作った全校生徒のプロフィールが役に立った瞬間だった。その時は生徒会権力の乱用だとして辰見に叱られていたが、未だに総一の中に反省など微塵も無い。

「え、そうなの……んですか? いやいや、そうじゃなくて、ですね」

「どうして? 伸び悩んでいるって言ってっけど、伸びる必要もないじゃん、もう」


 二年生唯一のベンチ入りピッチャー。ということは、三年が引退すればもう次にはエースとなりうる存在である。その能力の維持は必要だろうが、もはや伸ばす必要はない。

 そう総一が考えてしまうのは、自らに伸び代がもう残っていないのを自覚しているからだ。


 だが、その総一に子門は反論する。

「……夏の大会があるんだよ」

「知ってる」

 子門の口から出た『夏の大会』。それは全国の高校球児が、いや、球児でなくとも多くの高校生に周知されている野球の大会のことだった。

「そこで投げるのは勿論三年生なんだけど、でもエースが怪我でもしたら俺が投げることになる……じゃないですか」

 勢いよく吐き出された反論は、徐々に失速してゆく。伏せられた子門の目を、総一の無関心な冷めた瞳が見つめていた。

「だから、そこで俺がふんばれないと、三年生に申し訳ないなぁ……なんて……」

「そうなったんなら、それはその怪我をした三年生の責任だろ」

 子門の責任ではない、という言葉を飲み込みながら、総一は立ち上がる。

 断られた、とそう子門は思った。


「んじゃ、見てやるからその一年に向けて投げてみろよ。ボール持ってる?」

「え、いいの……んですか?」

 だが、総一の言葉に子門は拍子抜けした。

「いーから早くやってみろって」

 促されるままに子門と一年生は構える。総一はじっとその姿を見守っていた。


 屋上で球を扱う。それは本来避けるべきことではあるが、総一の気が変わるのを避けるために、子門は止めることが出来ない。もとより今回の頼まれごとを総一は断る気はないのだが、それを子門は知らなかった。


 総一たちがいる屋上の端から端。マウンドは無いが、ちょうど投手捕手間の距離だ。

 じっと子門が見つめるのは、キャッチャーミットに見立てた一年生のグラブ。単にフォームを見てもらうだけなのに、子門の体が緊張感に包まれる。


「……フッ…………!!!!」

 全身を大きく動かす力強いフォーム。その豪快な投法に、その力強い息が合わさり、球が大きくぶれながらグラブに突き刺さった。



 一連の動作を、総一はじっと見つめる。その一挙手一投足、細かい関節の動きや重心の移動、指先への力の入り具合に至るまで、全て精細に。

 そんな緊張感溢れる二人とは対照的に、軽い動作で一年生は球を返す。そもそも指導を頼まれてすらいないそちらの動きに、総一は目を向けることすらなかった。


「も一回投げてみ」

「え、あ、はい!」

 一歩だけ子門に近づいた総一は、力の抜けた声で子門を促す。その声の意図が分からずとも、また子門の腕に力がこもった。

 白球がギシリと音を立てようかというほど力強く握られ、構えられたグラブに照準が向けられる。

 ゆっくりとその腕が持ち上がり、子門が振りかぶる。


「ストップ」

 そしてその腕が引き絞られるようにグラブから離れたその時、総一から静止の声がかかる。そして動きの途中で止められた子門の腕に手を添え、注釈をつけていく。

「ここでそんなに前腕の力はいらん。肘から先は力を抜くくらいでいい」

「あ、ああ」

 いきなりかけられた具体的なアドバイスに沿うように、もう一度子門は構え直す。それからまた投げようとして、肩を押さえて総一に止められた。

「重心飛び出しすぎ。ザトペックじゃないんだから」

「い、いやでもその方が球に重さが乗るし……」

「その意図はわかるけど、体のほうに力が逃げてるからお前の体格じゃ意味が無いな」


 

 投げようとしては修正、またもう一度始めから。そんなことが続いていく。


「足先の向きはもう少し内側に」

「はい!」


「もうちょっと体が開いてから腕を前に……」

「はい」


「手首はもう少し柔らかく……」

「……はい……」


 夕日が沈みかけるほどまで、長時間行われる指導。だんだんと元気のなくなっていく子門。

 付き合っていた一年生ですら嫌気が差してきていた。



 夕日が半分沈み、辺りが橙色の暗闇に包まれ始めたころ、ようやく子門の待ち望んでいた言葉が総一の口から放たれた。

「じゃ、一回通して投げてみそ」

「……はい!!」

 その言葉に、萎えていた気力が復活する。一年生も気合を入れ直し、バシバシとグラブの中を叩いていた。

 復活した気力に、もちろん受けていた指導も忘れてはいない。修正されたフォームを、出来るだけ正確になぞる。屋上を訪れたときとほとんど変わらず、それでいて全く違う形。不慣れなその投げ方だが、それは恐るべき効果を発揮した。


「フッ……!」

  力強い腕の振りはそのままに、伝達される力をその先に集めることによって球の速さを増す。頭の振りは小さくなり、狙いを幾分かつけやすくなった。足回りの力は無駄なく体を支え、その体の動き全てを補強する。


 スパン! という鋭い音。

 こんな短期間で劇的な改善などするはずがない。子門も一年もそう思っていた。


 だが、違っていた。


 まるで羽化した蛹のように、子門の肩は羽根を得る。投げた本人、受けた一年、それぞれの目が丸くなり、その驚きを総一に伝えていた。

 総一は彼らの胸中など意に介すことなく、その結果を見て頷いていたが。

「いい感じじゃんか。これなら今のエースにもタメ張れるだろ」

「た、タメ張れるどころか……!」

 明らかに球速が伸びている。そして、投げやすい。指導というものは、こうも人を変えるのだろうかと、子門は人ごとのように感じていた。


 その振れ幅は、投げた子門よりも受けた一年生のほうが強く感じている。

 まるでそれは、プロの球。実際に受けたことは無いが、近くのバッティングセンターでそういう触れ込みの球を遊び半分で打った時のあの球、もしくはそれ以上だった。


「うおおお! 先輩スゲー!! これ地区予選も先発で出たほうがいいんじゃないですか!?」

 興奮のままに叫ぶ一年生。子門も興奮のままにそれに同意しようとしたが、その言葉が喉から出る前に押し留めた。

 年功序列。運動班の宿命である。今回の大会は三年生の晴れ舞台。それを二年生の自分が汚すわけにはいかないのだ。そう考えて。



 

「ま、今の感じで頑張れよ」

 総一はそう言いながら、子門の肩をポンと叩く。そしてそのまま、屋上の扉に向かってゆっくりと歩き始める。

「あの、どこへ……」

「いや、もう帰るんだよ。今日のお務めは今ので終わったもんでな」

 唐突な動作に戸惑う子門は、その言葉の意味を捉えきれずに首を傾げる。だが、総一が帰ろうとしている、それはわかった。

 というか、それもそうだ。もはや日は沈み、ナイター設備のないこの学校では野外での班活動は厳しい。実際、野球班すらもはや撤収を始めている。……大会が近いというのに。


 校庭を見下ろす子門に構わず、総一は階段を下りていく。その規則的な足音にハッとして、子門は見えなくなった後ろ姿に頭を下げる。

「指導! ありがとうございました!!」


  総一はその声に微笑むと、誰にも見えていない階段で、ただ軽く手を挙げて応えた。






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