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慎ましやかなノックの音が響く。
放課後の生徒会室。叩かれた扉の向こうの廊下で誰かが待っている。
それを確認した兎崎は、読んでいた本を閉じて溜息をついた。
「はい」
他に誰かいれば応対を任せたのに。こういう時にはいつも無駄に適当で明るい総一が頼りになるのに。
そんなことを考えつつ応えると、静かに丁寧に扉が開かれた。
「失礼します」
本を脇に置いて入り口を見れば、そこに立っているのはクラスメイトの女子高生。父親譲りの金髪が小さくまとまる。
「何か用?」
「鳳総一さんに用事があって参りました」
兎崎を見て一瞬眉を顰めてから、どこか毅然と言ったのは白鳥叶。
「いますか?」
「…………」
口を噤み、兎崎は白鳥の顔色を探るように見た。
この二人に接点などあったのか、という不審さと、それにどのような用事があるのか見当もつかず。
何故即答しないのか。そんなことに僅かに苛つきながら、白鳥は室内に視線を巡らせる。
だが一応と開かれた兎崎の口にまた視線が向いた。
「総一ならいない。今日は休みよ。体調不良だって」
「体調不良?」
「朝から熱が出てるらしいわ」
馬鹿も風邪引くのね、と考え兎崎は小さく溜息をつく。成績は馬鹿ではなくとも、しかしその行動はいつも馬鹿だ。馬鹿らしく明るいその仕草に、昨日は風邪の気配などなかったものだけれども。
「海馬先生から聞いた感じじゃ明日も休みでしょ。出てくるのは明後日以降だと思うけど、何の用? 伝言があるなら聞いておくわ」
「……いえ、それほど大事なものではないので……」
ならいいか、と白鳥は一歩引いた。
用件はただ昨日の猫たちのこと。結局やはり自分の家で引き受けることが出来たという報告がしたかっただけ。
先住猫とはまだ会わせていないが、きっと上手くやっていかせて見せるという決意も込めて。
「緊急でもないのでまたどこかで本人に直接伝えます」
「そう」
無表情で素っ気なく兎崎は応える。
表しているのは取り繕っているわけでもないただの本音だ。
今は用を足せない。ならば出て行ってほしい。自分も早く帰りたい。一応自分にも特待生としてのノルマがあって、今日はまだそれを済ませられていないのだから。
「…………」
会話は終わった。二人の間に沈黙が満ちる。
けれども白鳥は立ち去る様子を見せず、兎崎は一度本へと戻した視線をまた彼女に戻して視線を交わした。
「……まだ何かあるの?」
「いいえ?」
白鳥としても不本意な沈黙だった。
何かを言おうとしたわけではない。けれども、自分が何か言おうとしたのだと感じていた。
自分は何か言いたいことがあるのだろう。
けれども、それがどういうものか自分でもよくわからず、それを探るようにして立ち止まった。
それはきっと良いものではない。それはわかりつつも、胸の中が何かもやもやとした。
吐き出さなければ気が済まなかった、多分、と白鳥は胸の中で付け足して。
「……体育の授業、何故いつも見学しているんですか?」
「は?」
言いながら、そうだ、これだ、と白鳥は内心納得していた。
言葉を飾らずに言えば、白鳥は兎崎が嫌いだ。
理由がないわけではない。その質問自体が、一年以上同じクラスだった彼女の行動の目についたところ、そして嫌いなところ。
「特待生の待遇って羨ましいですわね、座学には出なくてもいいし、体育の時間でもそこにいるだけでいいんですから」
「残念ながら、体育の授業はお陰様で落第スレスレよ。羨ましいんなら貴方もそうすれば?」
兎崎も享受している特待生の優遇制度。そこには座学の授業への出席免除はあるものの、けれども体育だけは別だ。
体育への査定は他の生徒と同じように行われ、授業態度に技能を評価され成績が付けられる。
どの競技であってもほとんど見学で済ませている兎崎はほとんど出席点のみしか評価されておらず、故にいつも十段階評価で二が精々だ。
そしてその低評価に兎崎は何も感じない。
公正で納得のいく評価だ。
上手に出来た者には高評価を与えるべきだろう。真面目な者にも高評価を与えるべきだろう。故に出席はするもののほとんど参加しているとも言い難い自分が低評価なのは当たり前のことだろう。
そもそもに、出来ないのだ。
球技は苦手だ。ボールを投げて蹴ってとしたところでどこへ飛んでいくかもわからず、飛んできた球は受け取れない。
武道は苦手だ。型程度ならば真似出来ないわけでもないが、そこに鋭さもなく気迫も込められはしない。競技など以ての外。
踊りは苦手だ。形だけを真似しても、リズムには乗れずに両手両足がバラバラに動く。
走っても泳いでも跳んでも人並みにも出来ない身体。
生まれてから今まで、親や教師は頭でっかちだと笑われ続けてきた。
そんな『スポーツ』というものに参加しなければいけない、というのは苦痛で仕方ない。
低評価で結構。様々なスポーツに触れられるのは学校時代、若い時代の特権だと学園長は言う。だからこそ、ならば学校を卒業してしまえばもはやスポーツなどに関わらない人生だって送れるのだから。
どうせあと数年しか関わらない教科。低評価で結構だ。
「羨ましいわけじゃありません。貴方のその態度が、見てて不快です」
「いきなり何? 喧嘩売りに来たの? 貴方」
そして低評価で結構であるし、人になんと思われても構わない。
心の中で思っているだけならば構わない。けれども、言葉に出されてしまえば別だ。
苛つきに兎崎は眉を顰める。
その交わる視線に白鳥も目を細めつつ、自分の内心を測りかねていた。
白鳥自身も思う。
何故今、こんなことを言ったのだろう。
「……何か嫌なことがあって機嫌悪いのかもしれないけど、だったら私に喧嘩売るんじゃなくて他のことで発散してくれない? 私も暇じゃないの」
「…………そう。ごめんなさい。何でしょうか、機嫌が悪かったの私。忘れてください」
そして兎崎の言葉に少しだけ『何故』が晴れる。
機嫌が悪い、というわけではないが、しかし何かが心に刺さっている。思い浮かべるのは猫を拾ってから。いいや、その前の、猫を拾う前から。
「…………」
無言で白鳥は頭を下げる。それから小声で、「ごめんなさい」ともう一度繰り返した。
白鳥が出ていった生徒会室は、よりいっそう静かになった気がした。
そんなことを考えながら兎崎はポケットからスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを開く。
用件は聞けなかったが、きっと伝えておくべきことだろう。
総一を訪ねて白鳥叶が来た。それを伝えるべく文章を打つ。そしてそういえば、とついでに聞いておくべきことがあったと思い直した。
『生徒会室に白鳥叶が来た。用件は言わなかった。それと、元気?』
送信して、しばし待っても既読はつかない。今は寝ているのか、それとも気付いていないのか、はたまたスマートフォンを覗けないほど具合が悪いのか。
わからないが、しかし少しだけ待っていても動かないメッセージに、兎崎は溜息をついてスマートフォンを放り出す。
そして傍らの本を手に取った。まだ最後四分の一程度残っている。今日中に読むべきだろう、と思い直して。
総一のことは心配ないだろう。総一が一人暮らしなのは学園長も知っていて、そして学園長も様子を確認すると言っていたことだし……と自分をなだめて。
それから黙々と目を通すのは、今日たまたま手に取った学園ファンタジーのハードカバー。
熱血の主人公と、それを目の敵にするクールなライバル。主人公が恋する高嶺の花と、主人公に恋する後輩。物語は彼らの人間関係がこじれたり解決したりと進み、学園祭でライバルと雌雄を決し、ヒロインと一歩仲が深まった……かどうかわからない程度で物語は発行されるかどうかもわからない次巻に続く。
まあ王道の展開で、予測不能でもないが予想通りの予定調和でまあまあの出来だった、と内心感想を述べつつ兎崎が本を閉じたのは、読書を再開してから一時間も経たない頃。
閉じた本を抱え、鞄を持って生徒会室を出ようとしたところで、兎崎のスマートフォンが鳴る。
画面を覗けば、画面上に表示された通知には総一からのメッセージが断片だけ。
ようやく気付いたか、と通知をタップしてメッセージを開く。
『温かい雑炊食ったらめっちゃ元気になってきた! で、羊谷と学園長からはお見舞いの差し入れ来たけど、兎崎と会長からは? どしどしお待ちしてます(お願い)』
読んだ兎崎は、白鳥との会話中でも鳴らさなかった舌打ちをした。




