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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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28/70

美味しい栄養




「うわ、まじか」


 総一はベッドに横たわったまま、掲げた体温計の表示を見る。

 液晶画面に無感情に浮かぶ文字は『38.5℃』。明らかな平熱を超えて、もはや高熱に近しい数字。


 道理でだるいはずだ、と大きく息を吐く。

 朝、起きると目眩がした。足下がおぼつかず、いつものように朝食を作ろうとする手がやけにぼやけた。そこで初めて自身の額に手を当てて、あれ、と異変に気がついた。


 無論、総一とて人間だ。怪我もすれば病気もする。

 まだ朝早い時間、寝間着のパジャマから着替えてもいないまま、ベッドに倒れ込んでどうにか体温計を脇に挟んで数分後。

 体温計が示していたのは、明らかな体調不良だった。


(昨日水に飛び込んだせいかぁ……?)


 昨日総一は、猫を助けるためにどぶ川に飛び込んだ。

 けれど、浸かっていたのはごく短時間、しかもほぼ下半身だけだ。それも今は夏。少々濡れようが身体を冷やすということもないはずだが。

 水の質が悪さをしたか。

 そんな適当な推測をしつつ、また溜息をつく。


 とりあえず学校へと連絡をしなければ。登竜学園の特待生は欠席が許されないといっても、さすがに体調不良では考慮される。

 何度か咳払いをして声の調子を確かめつつ、一応喉の痛みはないな、と確認しつつ、総一は学校の電話番号をスマートフォンに表示させた。

 本当ならこういうものは、保護者がやってくれるのだろうが、と自嘲しつつ。

 そんなことは一度もなかったな、と苦笑しつつ。




 備蓄していた冷却シートは固く使い物にならなくなっていた。安物は駄目だな、と諦めた後、総一はとりあえずコップ二杯の水で風邪薬を流し込んでベッドに戻った。

 自身の高熱を自覚してしまえば、朝食を作る元気もなくなるものだ。スポーツドリンクやレトルト食品の買い置きなどもなく、まあとりあえず昼頃まで寝れば少しは動く気力が出るだろうと高をくくって。

 そして自覚をすればやはり身体が熱い。普段のタオルケットに毛布を追加したこともあり、自分の体温の高さがわかる。そして相反して徐々に広がっていく悪寒は首筋から耳元をくすぐるように音を立てている。

 

 時計の秒針の音がやけに響く。

 その音だけに集中していたところ、一瞬だけ寝ていたらしい。汗が噴き出している感触を背中に覚えて気持ち悪くなり、時計を見れば、既に時間は九時を回り、本来ならば学校にいるべき時間だった。


 スマートフォンが鳴っていた気がする。気が遠くなっていた中で、そう感じていた総一は無意識に枕元のスマートフォンに手を伸ばした。

 暗証番号を入力し、いつものトップ画面に。

 

 けれど、そこには総一宛の連絡はない。ただプリセットされたニュースアプリが通知を飛ばしていただけで、いつものように何も。


(あー、まあ、ないな)


 何故開いたのだろう。何故連絡があると思ったのだろう。

 そう疑問を浮かべて次の瞬間にはその疑問も忘れてしまった。


 とりあえず今は休むべきだ。

 なんとなしの胸騒ぎは悪寒との混同だろう。そう分析してぱたりと手を落とし、総一はまた目を閉じる。

 


 しかし、今度は眠れる気がしない。

 昔はこういうときにも、眠ることはしなかったな、と懐かしく思った。




 必死だったと思う。

 大人にとっての一日はそう貴重とも思えないものだが、しかし幼い子供にとっては一日一日が貴重なものだ。

 小学生の頃、中学生の頃、やはり総一にはこういう日があった。喉の痛みと酷い咳が出る日や、やはり高熱を出してしまう日。嘔吐が続く日、腹が下りっぱなしの日。

 そういう日に心配になるのは、総一にとっては学業の遅れだった。

 一日授業を学ばなければ、一日他の同年代よりも遅れることになる。小学生の時には既に個人的に高校の授業程度の勉学はこなしていた総一だが、しかし今学校で行っている授業では総一の知らないことを教えているかもしれない。そんな焦りが止まらなかった。

 故にそういう日は、体調不良を認めながらも自分の部屋の机に齧り付くようにむしろ勉学に励んだものだ。

 身体を動かすのはさすがに難しい。だからせめて、頭の中は磨かなければ、と。

 

 国語のテストで満点を取りたかった。実際、取り続けた。

 数学のテストで満点を取りたかった。実際、取り続けていた。

 地学も日本史も英語も技術も、全部、全部。

 妹に負けないように、妹に勝ち続けたい。

 兄の意地や矜持、そういうものではない。ただ、妹が羨ましくて。


 高熱が出て指先がおぼつかない中で、机に広げた紙に描いたピアノの鍵盤を叩き続けた。

 トイレから離れられない中で、唸るように英単語を暗記、暗唱し続けた。


 妹に負けたくなかった。

 勝ちたかった。勝って、勝ち取りたかった。

 勝ち取りたかったのは、それは。





 チャイムの音が鳴った。

 玄関から聞こえたその音に総一が目を開ける。何度か瞬きをしてぼやけた視界が晴れると、視界の中にあった時計が四時過ぎを指していた。

 午後か、それとも午前か。

 午前四時ということはあるまい。閉じたカーテンの隙間から漏れてくる光は朝の四時としても明るすぎる。では昼の四時。

 そう納得した総一は、一瞬自分の目を覚ましたチャイムの音を忘れかけていた。


 そしてもう一度チャイムが鳴る。今度は誰かの声を伴って。


「すいませーん! 起きてますー!?」


 ゴンゴン、と金属製の扉が拳で軽く叩かれている。

 誰だ、と思うこともなく、総一はその声の主に思い至った。ならばこのまま寝てしまってもいいのかもしれない。さすがに今、相手をするのは少し辛い。


 だが、目を閉じた総一の耳に、またチャイムの音が入り込んでくる。


 …………。

「あー、もう!」


 ぼやくように言って、総一は自分の喉が渇いていることに気がついた。

 貼り付くような喉はあまり違和感がないが、声は変わっていないだろうか。

 起き上がって足下の感触を確かめて、冷たいフローリングがしっかりと感じられるのは朝と変わったことだ。


 いつもよりも長く感じる廊下を腹立たしく思いつつドカドカと歩き、総一は乱暴に、しかし力なく扉を開ける。

「……はい……?」

「うわ、元気なさそー……」

 そして総一の顔色を見た羊谷は、開口一番苦笑しつつそう口にした。




「お見舞いと差し入れっす」

 いつものようにカーディガンの端から指をちょこんと出して、その指に引っかけていたビニール袋の中身。それを羊谷は総一の部屋の机の上に広げて並べる。

 まずは冷却シートと風邪薬。それにのど飴とスポーツドリンク。

「あんたこんな高いもの……」

「お金くれるって言ったらもらいますけど、別にいいっすよ、このくらい」

 ぐったりと肩を落としたまま、一応ベッドから降りて座ったまま、総一はその品を見て思わず口にする。

 たしかに欲しいものではある。余裕があったら買いに出たいところだったものでもある。

 

「これは様子見て来いっていう学園長から。おやつに持ってきたものだったから代金はいいらしいっす」

 まだある、と自分の鞄から一口大にカットされてプラスチックの容器に入ったスイカを取り出して、羊谷はまだ物が入っているビニール袋をまとめて持った。


「で、熱はどんなもんなんすか?」

「測ってないな。朝は八度五分」

「結構あるじゃないですか」

 きょろきょろと羊谷は部屋を見渡し、枕元に置きっ放しだった体温計を掴んで総一に押しつける。今も測っておけ、ということだろう。総一はおとなしくまたスイッチを入れて脇に挟んだ。

「食欲とかは? ちゃんと食べてるんですか?」

「そういや何も食べてないな。これ食べていい?」

 総一はスイカを指して聞き返す。見舞いの品なのだから当然だとも思いつつも。

 

 とりあえず食器を出さなければ。……一応羊谷の分もだろうか?

 そう考え立ち上がろうとした総一を、羊谷は制した。


「ああ、大丈夫っす。勝手にやるんで」

「…………?」

 勝手に、という意味がわからず総一はぼんやりとした頭を傾げた。

 そして立ち上がった羊谷が台所に立つ。

「どこにあります?」

「……流しの左側の引き出しの中」


 総一は、今まで気付かなかったことに今になって気がついた。

 羊谷の持ってきていた見舞いのビニール袋の中身がまだまだ残っていることを。

 流し台の横、台の上に置かれたビニール袋が、どちゃりと音を立てたことを。


 そしてフォークを一つ総一の前に置いた後、また台所に戻る羊谷が、鞄の中から取りだしたエプロンを着用しようとしていることを。


「いやあ、ねえ? さすがにそろそろ許してもらおうかな、なんてねぇ?」

 立てかけてあったまな板に、流し台で水を流す。『たしかこの辺に』などと呟きつつ開けた戸棚から、小さい鍋を取り出して。

 ビニール袋から取り出した刻みネギや卵のパックを開けて、家から持ってきた炊けた飯をザルに開ける。鶏肉を前にきらりと光るのは総一所有のよく研がれた包丁。


 呆気にとられてそれを見ていた総一は、気を取り直すようにスイカを一つ囓った。

 口の中で砕ける果実。久しぶりと感じる水分。甘い。

 体温計が鳴る。38.4℃。少し下がったが誤差のようなもの。


 何を言えばいいのか。

 どこから突っ込みを入れればいいのか。曇った頭でそんなことをぼんやりとまとまりなく考えながら総一はそれを眺め続けて。


「先輩って嫌いなもんありますー?」

「……強いて挙げれば大葉かな……」

「あっぶね」


 悪寒を覆うようにパジャマの上に被ったタオルケットを被り直すこと数度。

 総一の前に置かれた茶碗には、鶏肉と長ネギの雑炊がたっぷりと満たされ。


「どぞ。あたしが風邪引いたときにいつもママが作ってくれたやつっす」


 ご相伴に預かるように、別の皿に取ってあった自分の分の雑炊と匙とを置いて、羊谷は机の対面に座る。

 生姜と醤油の微かな匂いが、湯気に混じって総一の鼻をくすぐった。




 まだ熱い雑炊を匙で掬い、ずず、と羊谷は口に含む。

 我ながらいい出来だ。母の作ったものには及ばないし、材料も一つ抜いてあるため少しだけ味は違うものだが。けれども、不味くはない。放課後の小腹が空いた今、とても美味しく感じられるほどに。


 これで炒飯の件は水に流してほしい。罪悪感というほどではないが心のどこかに引っかかっている負い目を解消するために、羊谷が今日作ろうと決めていたもの。

 さて、総一の反応は如何に。

 そうちらりと総一を窺うが、しかし羊谷の視線の先、総一は匙を取らずに雑炊をただ眺めていた。


「……あたしが勝手に作ったんで、やっぱ食欲がないなら無理しなくていいっすよ。温め直しも出来るんで、明日とかに食べてもらえば」

「…………いや、食欲はあるんだけどさ」


 ゆっくりと、総一は匙を取る。取ろうとする。けれども何故だか重たく感じて、指先で摘まむだけでは落としそうになった。

 先ほどのスイカを食べたときに、総一は空腹を自覚していた。食欲がないわけではない。お腹が空いた。音が鳴りそうなほど。

 匂いも美味しそうに感じる。鼻の粘膜はやられていないらしい、と思いつつ、ならば舌は、と上顎を舌で擦って確かめて。


 しかし総一は、匙を伸ばすのに躊躇した。

 それが何故だかは自身でもわからない。不味そう、ではない。不潔そう、でもない。使われている材料は全て食べられるもの。傷んでいるというようなわけでもなく、そして、食べたい、のに。


 一口分を匙で掬う。

 茶色っぽいのは醤油と出汁の色。鰹節がひらひらと踊っているのは先ほどまぶしたからだろう。

 匙を唇に付ける。もう一息、吸い込めば口に入る。


 けれど、それをしていいのか、と躊躇した。

 逡巡。それが何故だか総一にはわからないまでも。

 

 それから一つだけ考えていたことを理解出来た気がした。


 つまりこれは、自分が食べてもいいものなのだろうか。



「…………」

 一瞬だけ動きを止めて、総一はゆっくりと雑炊を口の中に含む。

 まず入ってきたのは醤油出汁。それから舌に触ったのは、やわらかい飯の粒、そして中に含まれたしっかりとしているネギ。

 ゆっくりと咀嚼すれば飯粒もネギも卵も全て砕けて出汁と混ざり、どこからか染み出してきたような旨味が口の中に満ちる。鶏肉の脂の匂い。


 わかっている、と総一は内心で自分を説得する。

 ネギは既に切ってあるパックのもの。鶏肉は恐らく安い外国産。卵も一番安いパックのものだろう。出汁は顆粒。

 材料としては単純で、手もかからないはずだ。

 手がかかるとしたら生姜を刻み鶏肉を切る程度のこと。あとは分量を気にして火加減に気をつける、程度だろう。

 きっと同じ材料で自分が作っても味は変わらない。いや、まだ自分の方が上手なのではないだろうか。鶏肉は切れずに皮が繋がっているところもあるし、生姜の刻み方も均一ではない。


 だが、きっと自分が作っても。


「…………美味い」



 総一の一言に、羊谷はにんまりと笑う。「っしょ?」と口の中だけで呟いて、自分も雑炊を口に運ぶ。

 自作補正、という言葉がある。自分で作ったものはある程度どんなものでも美味しいというもの。

 しかしそんな少しばかりの不安が溶けて消えた。


「じゃ、これで炒飯の件はチャラってことで。でもまた先輩のあれ食べたいっすね。今度作ってくださいよ」

「気が向いたらな」

 

 いつもなら断るのに。

 総一はそう思いつつも、それを言う理由を探さなかった。


「しかし美味いなこれ」

 掻き込むように茶碗を口に付け、総一は雑炊を頬張る。匂いも味も感じられる、ならば異常はないのだろう。もしくはこれでも味のいくつかを感じていないのかもしれないが。

「こんな簡単なレシピで美味く作れるってことは、私の腕が良いってことですよね」

「うんまあ」

 総一としてもそこに異はない。簡単なレシピだからこそ美味しく作れるのではないだろうか、と思いながらも。

 そんなことを言ってから、なんとなしに照れくさくなる。

「まあ俺の方が料理上手いけどな」


 そして照れ隠しの総一の軽口に、羊谷の笑顔が引きつる。

 羊谷としても、総一のそれが単なる軽口だと薄々理解しつつも。


「先輩には感謝の気持ちってもんがないんすか?」

「ありがとう。いやまじでありがとう」

「素直に言われるものなんかやだなぁ……」


 ふぅ、と小さく溜息をつきつつ、羊谷も自分の分を平らげにかかる。

 そんな羊谷を見て、総一は小さく、羊谷に聞こえない声量でまた呟いた。



「……でも本当、美味いよ」



 きっと自分が作っても。美味しくはならないだろう。

 上手にしか作れない自分には。



 総一が何かを言ったと羊谷は気付いたが、その内容までは聞き取れなかった。

 けれどもその表情はきっと悪いものではないだろう、と自身の中で消化する。


 じゃああとは後片付けをして、寝かしつけて帰るとしよう。

 頬杖をついて総一の食べる様を見つめていた羊谷は、目を細めて微笑んだ。





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