無責任
どこかで小さな鳴き声がした。
帰り道、白鳥はそんなことを不意に思い、気のせいではないかと一時首を傾げた。
けれど、どこかでやはり声がする。高くか細い声は恐らく猫。盛りのついたようなものでもなく、困ったような。
ここは学校から家へと向かう道。商店街から出て少し歩いた住宅街。
自分の他に通行人はいるようだが、誰も気にしてはいないようで見回しても誰もそんな素振りは見えなかった。
しかし、やはりたしかに声はする。
気付いてみれば、ニャアニャアと恐らく二匹ほどの声。
だがどこから響いているのかわからず、長めのポニーテールを揺らして視線を巡らせた。
(どこかしら……)
単なる猫の声。普通なら特段気にすることもない。
けれどもそのときの白鳥はやけにそれが気になって、アスファルトで舗装された細い道、塀、下水道の蓋の中、と歩き回って探しにかかった。
そして、彼らはすぐに見つかることになる。
「え」
小さく声を上げて、白鳥は猫たちを見下ろした。
白鳥が立つのは先ほど渡ったところの橋。商店街と住宅街の境だ。そして見下ろした先は小さい用水路にかかったごく短い橋の下。
そんなに深いものでもない。大人の腰程度の深さの水が流れている水路であり、普段ならば特段気にもしない水の流れ。
猫がいたのはその川の中。
小さな木箱がゆっくりと流れていた。雑に汚れた毛布が敷かれた中には、やはり二匹の猫がいた。薄汚れた白と、もう一匹は白地に茶色い斑模様の。
生まれたばかりなのではないだろうか。人の拳大ほどの大きさもない小さな二匹の塊が、川の流れに沿ってゆっくりと移動していた。
どうしよう、と白鳥はガードレールに手をかけて覗き込む。
わからなかったはずだ。鳴き声は移動していた。水の流れで。
悲痛なはずだ。助けを求めているのだから。
知らなければよかった、と思った。
見てしまった以上、どうにかしなければいけないのだろうか。そんな責任感が去来した。
しかし見てしまった。どうにかしなければいけない。
白鳥はたしかにそう頷き、けれど、と躊躇した。
どうしようか。浅く小さいとはいえ川だ。誰かを呼ぶべきだろうか。それとも今すぐに……。
考えて、僅かに白鳥は唾を飲み込んだ。
流れている水の色は透明だが、何かどこか生臭い。どぶ川と言ってもいいその川の水に、出来れば触りたくはない。
……だが、自分以外に気付いている人間はいないのだ。
意を決して、白鳥はガードレールにかけた手に力を込めた。
そして込めたところで、「ほっ」という気の抜けたかけ声を聞いた。
じゃぶ、と水柱が上がる音がして、それから飛び込んだ誰かがいたということに白鳥は気がついた。自分のすぐ横。ガードレールを飛び越えて、直接。
「よしよし。だいじょぶだいじょぶ」
へらへらと笑いつつ、飛び込んだ少年が猫に近寄ってゆく。
ズボンが濡れるのも構わず、水の流れで歩きづらいのを手で水を掻いて補うようにしつつ。
少年が手に取った木の箱から水が滴る。
それから大股で少年が歩み寄ったのは用水路脇、コンクリートの細い岸。そこに置かれた猫は、まだニャアニャアと鳴いていた。
白鳥はその様を呆気にとられて見届けて、大きく息を吐いた。
去来したのは、よかった、という安堵。それに、なんとなしの恥ずかしさ。
ん? と少年――総一が見上げれば、白鳥と視線が交わる。
なんとなしの恥ずかしさを誤魔化すように白鳥は声を上げた。
「大丈夫ですか……?」
「あー、平気平気」
道路からは一段下がった水路の脇、一歩ほどもない細い岸に上った総一は、猫たちの横で靴を脱ぐ。ほとんど入っていない中の水を振って出し、また履く。そんなに意味がなかったな、と本人も感じつつ。
「捨て猫かぁ」
「どうしましょうか」
猫を入れたままの箱の横、しゃがみ込んで白鳥は言う。
ズボンから水を滴らせながら、立ったまま猫と女生徒を見下ろしていた総一は溜息をついた。
「放っておくしかないんだろうけども」
やだなぁ、と内心呟きつつ、総一は言う。
彼としてもそのようなことはしたくない。まだ恐らく親猫の必要な幼い猫だ。
総一の推測では、放っておいても、このまま野生で生きていく、ということは恐らく難しいだろう。早晩飢え死にするか、烏や他の動物の餌食になる運命。後味の悪い。
猫たちは媚びるように白鳥たちを見る。
だが白鳥はその猫たちに手を伸ばせなかった。触ってはいけない、という知識がどこかにあった。それが何故だかは忘れてしまっていて、今も当てはまるのかは知らないままに。
(会長なら飼い主探しでもするんだろうなぁ……)
ぼんやりと総一はそんなことを考える。あの真面目な生徒会長ならばそうするだろう。助けた責任がある、と誰か飼える人間を探す。もしくは自分が飼う、とでも言いかねない。道場で飼って門下生たちに世話させる、なども考えられる。
しかし自分はそのようなことを考える気はない。誰かを探す、程度ならばまだしも、それ以上の重荷を背負う気はない。何せ一人暮らしだ。確認していないが恐らくペットも禁止だろう、と眉を寄せた。
じっと白鳥は猫たちを見る。
細く高い声でニャアニャアと泣き続けている猫たちは、身を寄せ合うようにしてそれでも白鳥たちを見返していた。
「……うん」
そして、白鳥はそっと猫たちに手を伸ばした。水飛沫で僅かに湿った顔の毛並みを指先で撫でるようにして、くるくると弄ぶ。
猫たちはその手を怖がらず、ただされるがままに。
「私が連れ帰りますわ。家で飼えないかお父様たちに聞いてみます」
「え? まじ?」
そんな簡単に、と総一は聞き返す。
生き物を二匹。普通ならそんなことを親たちは許さないだろうに。
振り返った白鳥は青い目を細めて総一を見た。
「放ってはおけません。助けられなかった私ですから、せめてそれくらいは」
「いやいや、生き物なんだからもうちょっとちゃんと考えようぜ」
猫だ。家猫の寿命からすれば二十年やそれ以上を生きてもおかしくはない生物。もしも飼えるとしたら、その長い年月の付き合いを今この場で決めてしまうことになる。
「ここで出会ったのも何かの縁でしょう。うちはもう犬も猫もいますから、きっとお父様の許しももらえますわ」
「それなら……まあ、いいならいいけど」
後味の悪い結末は総一も望んではいない。
ならば、それで。
駄目なら学園長にでも押しつけよう。
「…………」
「……で、何?」
じゃあそうしよう、と話もまとまりかけた。
だが、白鳥はそのまま黙りこみ、総一を見上げ続けた。その視線に総一はたじろぎ、ほんの僅かに一歩下がる。
「……お名前、聞いていませんでしたわ。私は白鳥叶といいます」
「あ? ああ。俺、総一」
不思議な圧力も消え、なんだそんなことか、と総一は胸を撫で下ろして答える。
だが白鳥はまだ不満げに片眉を上げた。
「自己紹介というものは、姓名を名乗るものではなくて?」
「…………そうだな。俺は、……鳳、総一」
「そう。鳳さん。名字似ておりますね」
ふふ、と白鳥が笑う。それでも総一は笑えず、引きつるように口角を上げることが精一杯で。
「でも俺を呼ぶときは、総一でお願いします」
「それは何故?」
「その方が親しみ湧くじゃないですか」
親しみなどはいらない、と総一は思いつつも軽口のように口にする。
目の前の女性を見ればきっとその髪は目立つ。けれども今まで印象に残っていなかった以上、自分とは学校での活動圏内が違う。ネクタイの色から同じ二年生なのだろうし、廊下ですれ違う程度はしているのかもしれないが。
しかしそうであっても、入学から今まで一年以上付き合いがなかったのだ。ならばこれからの付き合いなどおそらくなく、だからこそ親しみもいらないだろう。
白鳥の視線を振り払うようにしゃがみ、その横に並ぶ。
視線を猫の箱に向け。
肩にかけていた鞄を背中に回し、総一は木箱に手をかける。揺れて中の猫がまた不安そうに総一を見上げた。
「で、じゃあ連れてくんだよな、この子ら」
「そこまでしてもらうわけには」
「いいって」
総一は言いながら不思議に思う。
何故だか子猫たちが放っておけなかった。
そして不思議でもないな、と思う。
無責任な飼い主に捨てられた誰かを、放っておけないことを。




