目隠し
健全な身体には健全な魂が宿らないとおかしい。
それが学園長の方針だ。
わいわいと皆が走り回るのは校庭。今は登竜学園二年B組の保健体育の時間である。
学園長の方針の下、この学園では体育の時間が週に二回ほどある。更にその教育課程は一年間をかけて屋外の野球場やサッカーコート、体育館ではバレーにバドミントン、バスケットボールなど武道を含めた様々な種目を一通り触らせるもの。
『真に運動音痴の者などこの世にはいない』というのは学園長の言葉。きっとそうとされている彼らは自分に向いた運動や指導法に出会っていないだけで、だから苦手意識を持ち、もしくは嫌いなだけ。故に本当は誰しもに可能性があるのだと学園長は信じていた。
そして今二年B組が興じているのはアソシエーションフットボール。いわゆるサッカーである。それもクラス内でいくつかチームを作るため、男女別で概ね五人一組になっているため呼び名としてはフットサルが相応しい。
そしてそのチームに入らず、サッカーコートの端でフェンスにもたれて芝生へと座り込んでいるのは、兎崎玉緒である。
(あっつ……)
長袖のジャージは出来るだけ日に当たらないため。それでもそれ故に籠もる熱気が身体を焼く。
日陰に入ろうとも逃れられぬ暑さに、兎崎も辟易していた。
本来登竜学園で定められた特待生に、授業への出席義務はない。授業を邪魔しない限りは好きな時間好きな場所にいることが許され、総一のように屋上に出て昼寝をすることも、糸子のように自身の所属するクラスの教室で真面目に授業を受けることも自由だ。兎崎もまた、生徒会室や図書室で時間を潰すことも多い。
彼らの他、現在七人ほどいる特待生の多くは、自分の興味ある授業や、もしくは自分が不得手だと思っている教科を教室を移動することで年次の垣根なく受けている。無論、それが学園長の想定した本来の権利の使い方なのだが。
しかし体育の授業だけは別だ。
所属などほとんど関係ないはずの彼ら特待生にも便宜上の所属クラスがある。
総一は二年A組。兎崎は二年B組。座学の授業ではほとんど関係ないその規定はこのためにある。
体調不良などでなければ、保健体育の授業だけは、学園長の方針で出ることが強制されている。
勉強などの学び直しは人生いつでも出来る。実技は置いておいても、座学は教材を本屋などで入手し、時間を作ればどうにか出来る。
けれど、運動はそれよりも少しだけとりかかるのに障害が大きい。ボールなどの機材がない。場所がない。相手が必要なこともある。それに人生というものは徐々に体力が失われてゆく。
せっかくの学生時代、せっかくほぼ強制的にこのような設備がある場所に集められたのだ。
ならば体験しなければもったいない。あわよくば、それで何かしら自分に合うスポーツや武道を見つけられたら。見つけられずとも、卒業後の人生何かしらの糧にしてくれれば。
そう願う学園長の方針である。
暑さと目の前の暑苦しさと。
その両方に溜息をついて、兎崎は天を仰いだ。
学園長の方針は兎崎も知っている。
けれども、その上で思う。
好きになどなるわけがないのだ。
こんなつまらないこと、やって何になるのだ。
兎崎は運動が苦手だ。小柄な身体はグラウンド一周すれば倒れ込むほどに体力はなく、その細い足は見た目通りに速く走れず、その細い腕は見た目の通り球を遠くに飛ばせない。
級友がバットで叩いた球が飛んでこようが、その球の落下地点に追いつけず、またその球はグラブに掠りもしない。キャッチボールは誰にも受け取られない。
柔道は受け身をすれば咳が止まらず、相手を投げようとしようものならそのまま潰される。
仮に、何かのとっかかりがあればもしかしたら楽しいのかもしれない。
キャッチボールとて、出来ればきっと楽しいものだろう。だが自分は別だ。
上手く出来ないことを好きになれなど無理がある。
学園長も無駄なことを考えるものだ。
「…………」
「……ール行ったぞーっ!!!」
「あ」
そしてふと兎崎がグラウンドに目を戻した瞬間のこと。
誰かが注意をした声が聞こえた気がした。しかしそれよりも激しく兎崎に対して主張したのは目の前の光景だった。
視界の中で、激しく動く点がある。点どころではない、球形のもの。
それは激しく回転しながら明らかに自分に向かって飛んできており、もう一秒もなく自分の顔面辺りに突き刺さるだろう。
このままではボールが当たる。
「…………っ!!」
反射的に目を瞑り、咄嗟に身を縮まらせ腕を僅かに上げる。
充分なものとは言えないが、しかし彼女にとってはよく出来た方の防御姿勢。
数瞬のうち、暗闇の中で衝撃を待つ。
けれども覚悟していた衝撃は来なかった。
それと同時に、ボールが運動靴かどこかを叩いたようなドム、という音がした。
そのまた次の瞬間の、数人の「わあ」という歓声のような声。
兎崎が恐る恐ると目を開ければ、そこにはまた軽くボールをコートに戻すべく蹴る姿。
後ろ姿に茶色いポニーテールが閃く。
ボールを蹴った彼女は、少しだけ上がった息を整えながら兎崎を振り返った。
「ボーッとしてると危ないですよ」
「それは……ごめん」
白鳥に注意され、ばつが悪く兎崎は答える。
白鳥はわずかに動きを止め、兎崎を見た。
二人の間にほんの数瞬時が流れる。
けれどもそれ以上を言わなかった兎崎に、白鳥は目を細めた。
「…………。お礼も言わないのね」
小さく嫌みのように吐き捨てて、白鳥はコートへと走って戻っていく。
それを見送った兎崎には白鳥の言葉は聞こえていなかったが、何かを言ったのはわかった。そしてそれをきっと何かの自分への罵倒だろうと当たりを付けた。
またわいわいと駆け回る皆の元へ白鳥が戻り、他の生徒と見分けがつかなくなるのを待って、兎崎はまたフェンスに背中を付けた。
罵倒だろうと思った。しかし、それで何かしらの感傷を帯びることもなかった。
慣れている。体育の授業でそういうことを言われるのは慣れている。
小学生の時も、中学生の時も、そうだった。
体育の授業は凡人たちにとって自分を馬鹿にする絶好の場だ。
頭では勝てないから身体で。凡人たちはそう考え、その浅はかな希望に縋るのだ。
それくらいいいだろう、と兎崎は思う。それくらいさせてやろうではないか。それでいじめなど、重大な問題に発展しないのであれば。
空にぷかりと浮かんだ雲を見て兎崎は思う。
だから体育は嫌いなのだ。運動は嫌いなのだ。
こんなつまらないもの、上手く出来るわけがない。
こんな上手く出来ないもの、つまらないに決まっている。
スポーツなんてこの世から消え去ってしまえばいい。
また本を読んでいたい。綺麗な自分だけの物語に浸っていたい。
早くこの時間が終わらないかな。
そう願い、自分のチームの勝敗を聞くまで空を見上げて時間を潰した。
「ほーん」
今日は体育の授業があったから。
生徒会室で妙に疲れている兎崎を見て声をかけた総一にそう説明したところ、総一は軽い返事をしつつ兎崎と背中合わせのようにソファーにもたれ掛かった。
「あんたもそうでしょ。7五香打」
「まあA組もあったけどさ」
本から目を離さず、背中越しに兎崎は指摘する。
この登竜学園は、同じ年次であれば基本的に同じ日に同じ教科の授業がある。教員や場所の都合もあり時間は前後するものの、兎崎のクラスがあったのならば総一のクラスもあったはずだ。
「……あんたは、体育楽しい?」
「んあ?」
総一は聞き返し、その最中に今し方聞こえた音声を反芻する。
聞こえていなかったわけではない。反射的に聞き返しただけで。
それから聞こえていた質問に対し、んー、と悩んだ。
「どうだろうな。退屈しのぎにはなるよ。8六玉」
「そ。あんたは何でも出来るもんね。8五歩」
「練習したからな。9五玉」
ふふん、と誇るように総一は言う。指先で持っていたクッキーを弄びながら。
総一もサッカーの練習は大分したものだ。
河川敷にあった橋の下で。平坦な壁を相手に的を作り、蹴って、受け止めて、蹴り返して、蹴り上げて、叩いて、跳ねさせて、投げて、……。サッカーに限らず野球やバレーボールやバスケットボールなど、他の競技に通用するよう完全なボールコントロールが出来るようになるまで。通算でおそらく五千時間以上は。
戦術書も読み込んだ。チームメイトの上達にも力を注いだ。
全ては所属しているクラブチームを勝たせるために。勝ってその輝かしい賞状とトロフィーを、母親に見せるために。
「あんたみたいなのでも練習するんだ。9四歩打」
へえ、と兎崎は感心するように言う。
彼女は総一が何でも出来るものと思っていた。何でも最初から出来たものだと思っていた。
勉強に関する自分のように。運動に関する自分のような者とは違って。
そして、当たり前だろ、と総一は苦笑した。
「最初っから何でもは出来るわけねえもん。8五玉」
ましてや、何も出来ない自分には、まず練習が不可欠だった。
最初は球を投げれば飛ばず、もしくは明後日の方向へと飛んでいく。蹴っても前にすら飛ばない日々。それが少しずつ的へ近づき、ある日蹴った球が的へと当たるようになり、いずれ全力で蹴った球を的に当てられるようになった。
総一にとって、全てはその繰り返しだった。勉強も運動も何もかも。
そして、苦痛の日々だった。
もう二度とやりたくないと思えるほどには。
「あたしも練習すれば上手くなれるのかしらね。8四銀打」
「出来るんじゃね? 同玉」
「まあ、嫌なんだけど。9三角打」
「だろうね。8三玉」
兎崎は言って、総一は同意する。
まあそうだろうと両者ともに思う。
意味がない、と二人共に思う。
スポーツが上手くてなんになる、と兎崎は。
意味などなかった、と実感を込めて総一も。
「それと、気がついていると思うけど」
「うん」
「8二銀打で王手、三手詰みよ」
「だよねーっ!」
出来ない運動よりも、結果の出ない運動の練習よりも。
出来る方が。勝てる方が。
少なくとも、この方がずっと楽しい。
兎崎は総一との目隠し将棋の余韻を引き延ばすように、ちょうど読み終わった恋愛小説を勢いよく閉じた。




