青春時代
「ちゃうちゃう。ここは、受動形だから過去分詞に変わるんだよ」
「過去……??」
生徒会室の椅子で本を読んでいた兎崎は、背中で聞こえる声に僅かにうんざりしていた。
話し声は二人分。背中側にあるソファーはコの字型に組まれ、そこに挟まるように机が置かれている。
机を囲んでいる二人の男女は見知った顔。
一人は兎崎と同じ生徒会役員、鳳総一。そしてもう一人は、もう兎崎も何度も顔を合わせていた羊谷麦だ。
総一の言葉に従って羊谷は単語帳を開く。英語の動詞というものは様々な活用形があり、そしてその全てを覚えることは当然羊谷には難しかった。
「ええと……eaten……?」
「それ」
そしてそれはやはり全て暗記になるものだし、と総一は何度も羊谷に伝えていた。英語圏の人間ならば感覚でわかるのだろうが、しかし日本語圏の自分たちはひたすらに覚えるしかないのだと。
ペンを細い指の先で回しつつ、ん、と羊谷は噛みしめるようにその単語を目に焼き付ける。今日覚えたことを百とするならば、きっと家に持ち帰れるのは三十がいいところだろう、と半ば諦めつつも。
兎崎にとって、その二人が発する音声は慣れたものだ。
毎日ではないが、ここ最近頻繁に開催される勉強会。三日間の停学処分の分、と羊谷が総一に頼み込み始まったそれは、もはや放課後の恒例行事となっている。
既に三日分は大きく超えているのに。
その羊谷の意図を何となく察しつつ、兎崎は少しだけ鬱陶しく感じる。
聞こえてくる音声は、ほとんどがきちんと勉強の質問。羊谷なりに節度は持っているらしい、と思いつつもその内容は高校一年生の範囲……よりも少しだけ遅れていて、今更、と兎崎に感じさせた。
中学生で習ったはずの英文法。おそらく羊谷は知らないふりをしているわけでもなく、本当にわからないのだろう。
だが、しかしそれは高校生ならば理解していて当然の類いのもので、それは自分が優秀だから感じる鬱陶しさではないはずだ。
ぺらりと兎崎が読んでいた小説のページをめくる。
ジャンルでいえば恋愛小説の本はその最終盤を迎え、主人公と彼が慕うヒロインとの別れが進んでいた。
そんな中でも、後ろからは声が聞こえてくる。
邪魔するようではない。
けれども、兎崎や、それこそ指導している総一にとっては今更のような話を延々と繰り返すように。
『総一は嫌にならないのだろうか』、と兎崎は思う。
二日前は化学。その前の日は日本史。どれもがまだ基礎的な暗記と、もしくはその単純な応用で理解出来るもの。
そのどれもが、兎崎や総一にとっては読めばわかる。見ればわかる。
単純な計算問題と変わらない。一桁の足し算を延々と尋ねられているようなものだ。
無論、彼が快く引き受ける理由は知っている。
学園長が彼に課した『一日一助』ともいうべきノルマを達成するためにやっていることなのだとは知っている。
勉学に励む後輩を助けるため、と言えば生徒会長である辰美が総一に適当な用事を言いつけることが出来なくなるから、ということも知っている。
だがそれでも、彼ならば嫌々済ませるものではないだろうか。
退屈ならば退屈と、適当なところで早々に切り上げて帰るのではないだろうか。
まるで教員の代わりをしているように、親切丁寧に後輩に指導する姿。
その着崩したような制服とは相反する真面目な姿。
何故だろうか。
苛々する、と兎崎は思った。
静かに本を読みたいのに響いている話し声も。
聞こえてくる幼稚な内容も。不真面目な特待生の真面目な姿も。
文章を追わず、最後のページを画像として記憶して、兎崎は本を閉じる。
文庫本。栞紐は最初のページに直しつつ。
それから本を鞄に放り込んだ。図書館への返却は明日でいいだろう。
「じゃあ、私は帰るから」
「……おう、お疲れー」
「お疲れ様です!」
席を立った兎崎は、部屋を出て扉を閉める。
また部屋の中から聞こえてきた声が鬱陶しい。
白い壁と扉が並ぶ廊下の先、どこかから運動班の声が聞こえてきた。方角からすると体育館から。声を揃えた太い声と、それからホイッスルの高い音と。
音楽室からは管楽器の音合わせの長い音。
ウェーブのかかった腰まである髪を揺らしながら、音に包まれ兎崎は歩く。
「みんな、青春してるわ」
ぽつりと呟く言葉は皮肉。それも本人はわかっていて。
本当に、皆楽しそうで何よりだ、と兎崎は思った。
楽しそうで、きっと輝いている。
きっと今が彼らの青春時代。
彼らの。
私以外の。
その日。
白鳥叶はいつものように運動場脇のベンチに腰掛けてぼんやりと目の前の光景を見つめていた。
いくつものテニスコートで、パポン、パポン、とリズムよく音が響く。ラケットがテニスボールを叩き、ボールがコートを叩き、そして迎えたラケットがまたボールを叩く。テニスコートで行われている練習試合の一幕。
もう見ていられない。退屈だ、と親譲りの色素の薄い瞳を瞼で隠すように彼女は目を伏せる。もういいだろう。稚拙で、何ら複雑さも熱もない試合など、自分が見る価値もないのだろう。
「ありがとうございました」
練習試合といえども、班の方針として一応の礼儀がある。
ちょうど白鳥の目の前のコートで健闘を称えた両者は、運動着で汗を拭った両手をネットの上で交わす。
そしてそのまま審判へと代わり、次の組、と視線を巡らせた。
視線を受けた白鳥はしぶしぶと立ち上がる。
どうせ楽しくない試合。相手が誰だろうと構わず、相手に会釈もせず黙ってラケットを持ってコートに立った。
それを待っていた。
コートの外から、いくつもの声援が上がる。
ジャージ姿であっても長身の白鳥は目立つ。
イギリス人の父の血を引く白い肌。日本人であれども日本人離れしたその容姿は整って見える。
彼女を目当てに集まったファンの女子生徒である。
白鳥の練習試合の相手として立ち上がった女子生徒は、苦々しく彼女の姿を見た。
周囲のテニス班員の目が女子生徒に集まる。それも女子生徒が目を引いたわけではない。目を引いたのは、『白鳥の相手』ということ一点で。
気の毒に、という視線。可哀想に、という視線。自分がそのような視線を受けていることを自覚しながらも、『相手への敬意を』という班の題目通りに女子生徒は逃げずにコートに立った。
そして女子生徒自身、白鳥を見つめて苦々しく思う。
それは白鳥の不敵な態度に、というわけではない。ファンが出来るほどの容姿に、というわけでもない。ただ、これから自分が受けるだろう責め苦を予想してのことである。
テニスというのは簡単な競技だ、と白鳥は思う。
やることは単純。ただ来た球を打ち返し、相手のコートに入れればいい。
「……っ……!」
力を入れる度に不意に漏れる息。その度に、鋭い打球が白鳥のラケットから相手のコートに放たれる。
女子生徒のサーブから始まったラリーは二十回を超え、未だ両者一点も入らず続いている。
拮抗しているように見える戦い。
事実、事情を知らない他の運動班の生徒が見れば、きっとその試合は拮抗して見えているだろう。
この日白鳥の相手となった女子生徒とて、テニス班の選抜選手の一人である。白鳥の腕前が少々良かろうが、単純な返球を打ち返せないわけがない。
だが、少々以上であれば。
(……重っ……!!)
打ち返す度に女子生徒の顔が歪む。汗が額からどっと噴き出す。
白鳥の打球は女子の域を超えている。男子の球よりも威力ある球。速い球。
最初は女子生徒とて打ち返せていた。けれどもすぐに生じたのは軋むような腕の痛み。続くラリーに女子生徒の腕が痺れ始めた。
女子生徒の返球に遅れが出始める。
だがラリーは終わらない。
「ふっ!」
女子生徒の持っていたラケットにボールが当たる。
跳ね返ったボールが白鳥のコートに入る。
まだ両者失点のない試合。
白鳥の試合ではいつもこうだ、と彼女らを見ていた皆が思う。
試合は終わらず続いていく。白鳥が飽きるまで。もしくは相手がラケットを掲げられなくなるか、倒れ伏すか、ラケットを自分の身体で隠すまで。
「痛っ……!」
また女子生徒のラケットにボールが当たる。女子生徒が痛みに顔を歪める。
けれどもそのラケットは、女子生徒の意思で出したものではない。
(もう終わりですの……?)
今回は早かった、と白鳥は思う。
既に四十球は超えたラリー。けれども途中から、それは女子生徒の意思によるものではなかった。
白鳥のボールコントロールは完璧だ。
コートを10×10以上に分割し、好きな場所へ好きな角度で好きな速度で打ち込めるほどに。
そしてラリーを行うとき、白鳥が打ち込むのは相手コートではない。
相手の構える、ラケットである。
「…………っ!!」
白鳥のスマッシュが相手の女子生徒のラケットに当たり跳ね返る。相手の抜けた力も計算に入れて、自分の元へと戻ってくるように調整した球。
自分のコートに戻ってきた球をまた打ち返し、相手のラケットに当てる。
いつものことだ。簡単な作業だ、と白鳥は思う。
また相手が打ち返してこなくなった。
打ち返してくれなくなった。
ここからは単純な作業だ、と白鳥は内心肩を落とす。
そして苛々する。
テニスというのは簡単な競技だ、と白鳥は思う。
やることは単純。ただ来た球を打ち返し、相手のコートに入れればいい。
何でこんな退屈なことをしているのだろう。
苛々する。
何十球か、何百球か、打ち続けた球はついに返ってこなくなった。
相手の女子生徒が息を切らして座り込む。ラケットを地面に置いて、俯いて。ボールは彼女の目の前で高く跳ねてコートの外へと飛んでいく。
まるで格闘技の試合で負けた選手のような姿。
ようやく一点が入ったにも関わらず、審判はコールをしない。
『やりすぎだ』という視線だけをただ白鳥に向けて。
白鳥はその視線を受けて、溜息をつく。
そして踵を返し、コートを出た。
「……ありがとうございました」
誰にも視線を向けずにそう口にして、自分の荷物を拾い上げる。
いつものこと。試合などまともに出来ない。
金網の扉を開けて外へ出れば、ファンの女子生徒が彼女を囲む。
「もう終わりなんですかー?」
「ええ。相手の方が疲れてしまったみたいですから」
愛想もなくファンに答えてそのまま白鳥は運動場から立ち去る。
何が楽しいのか、と思いつつ。
ぼんやりと見ている視界の中、どこかから他の運動班の声が聞こえてきた。運動場の方からはバットが奏でる高い音が。それに、歓声が。
音楽室からは野球の試合の応援曲だろう勇壮な曲が。
金に近い茶色の髪を揺らして、白鳥は更衣室に向かって歩く。
その途中でも聞こえてくるのは、どこかの運動班の声援、楽しそうな。
楽しそうで、きっと輝いている。
彼らは。
私以外は。




