鉄拳制裁
「悪い、遅くなった」
「……………」
文句の言葉は出なかった。ただ、羊谷は涙を滲ませ、コクコクと頷く。それは同意でも譴責でもなく。
「……だず……げで……」
ただ涙で震える声で、そう伝えるだけが精一杯で。
総一も、応えて頷く。
わかっている。そのために来た。ここまでとは思わず、またこんなに早くとも思っていなかった己の認識不足を恥じながら。
そしてその上で、『出る幕はないかな』と目の前に立つ糸子を見て思った。
背中からも気炎が見える。
羊谷のシャツを引き千切りにかかっていたショウゴが手を離し、溜息をつく。
「……あーあ」
面倒くせー、という言葉を溜息と共に吐き出しつつ、一歩前に出る。
「立てるか? ダイキ」
そして声を掛けるのは、たった今糸子が『交通事故』に遭わせた猪狩。けれども猪狩は未だ床に転がって身体を丸めたまま、静かにただ呻いていた。
ショウゴが糸子に歩み寄り、目の前に立つ。
巨漢ではないが大柄の男子の前に立てば、細身に近い糸子は一回り小さく映る。ショウゴも威嚇のために殊更に糸子を見下ろして睨んだ。
「会長だかなんだか知りませんけどよぉ。やりすぎじゃないっすか」
「鉄拳制裁は躾の一環。学園長の方針だ」
「それでもさぁ、…………」
睨むショウゴの目が睨み返す糸子の目から下に下がる。折り目よく、行儀良くきっちりと身につけられたワイシャツにブレザー、その下の膝下まであるスカートまで。
今まさに羊谷の身体に向けていたショウゴの情欲が糸子に向いただけで深い意味はなかったが、糸子はその視線に不快さを覚えた。
糸子はショウゴを目を細めて睨んだまま、総一に向けて口を開く。
「総一、こいつらの名前は?」
「……目の前にいるのが亥下省吾、一年のサッカー班です。奥にいるのは、右が猿渡七瀬、左が犬上しおり、手芸班。さっき会長がぶっとばしたのが猪狩大輝、野球班ですね。会長がぶっとばしたのが」
「そうか」
ふと糸子が顎を上げ、ショウゴに向けて見上げたまま見下す視線を作る。
「羊谷を離して、教員が来るまで大人しくしろ。今ならここで私の鉄拳制裁は与えないでやる」
「はぁ? 鉄拳制裁? 俺に?」
ぷ、とショウゴが噴き出す。可笑しかった。目の前にいるのは目測で体重50kgもないであろう細身の女子。大して自分は80kgを超える男子。間違いなく暴力では自分に分があるし、そもそも自分も喧嘩が出来ないわけではない。
もちろん、今生徒会役員二人の後ろに転がっている猪狩を飛ばしたのはショウゴも見ている。
けれども、その程度は出来ないわけではない。普通の女子とて、全力疾走から全体重を乗せて突き飛ばせば、男子一人程度ならば飛ぶのではないだろうか、という甘い目算があった。
「上等だよ、やってみろよ」
ショウゴが半笑いで糸子のワイシャツの襟を掴む。
その視界の外で、糸子が右腕に力を込めたのを知らぬままに。
ドム、という奇妙な音がした。
人を拳で叩くような音ではない。サンドバッグを叩くような音でもない。
「……ぐ、ぅぇぇ……」
「警告はしたぞ」
まるで金属バットでタイヤを叩いたような音の後、ショウゴが膝をついて腹を押さえて崩れ落ちる。
糸子がショウゴの腹に当てたのは単なるアッパー。ただし、その威力はサンドバッグならば後ろが弾けて中の布が溢れる程度の。
強大な衝撃に襲われたショウゴの口からは胃液が朝食だった菓子パンの残渣と共に溢れ出し、頬と彼のズボンを濡らした。
「ショウゴ……! てめ……!?」
冷たい目でショウゴを見下ろしていた糸子が、叫んだ猿渡を見る。
猿渡が見返したが、糸子のその目に怒りは見えなかった。ただ事務的で、無感情にこちらを見ている冷たい目。
その目に恐怖した猿渡が、手に持った裁ちばさみの冷たい刃先を糸子に向けた。
反射的な行動だったが、その金属が視界の中に現れて何故だか勇気が湧いた気がした。
湧いた勇気のままに、喉に力を入れる。
「ち、近づくなよっ!? 刺すからな! 本気で!!」
「…………」
猿渡が叫んだ。
しかしそんな言葉を気にもせず、一歩、一歩とゆっくりと糸子が猿渡に歩み寄る。
糸子の実家は辰美流柔術を教える道場だ。組み手などこそあるものの、近代の柔道などとは違い競技ではなく実戦に主眼が向けられている類いの。素手の柔術故に自身が刃物を扱うことはないが、対刃物の修練は積んでいる。
故に、刃物は見慣れている。
しかし今自分を捉えている震える刃先に、糸子は彼女も刃物を扱ったことがないのだろう、と確信した。
また一歩、猿渡に糸子が近づく。
そして、自分に向けられている裁ちばさみの刃を、左手の人差し指と薬指の背側、それと中指の腹側で挟んだ。
「この鋏の使い方を知らないのか?」
糸子が左手に力を入れる。
そして猿渡は、目の前の光景に戦慄した。
糸子の指先で裁ちばさみの刃がまるで飴細工のように曲げられる。
刃に使われているのは、元々そこまで弾力のある金属ではない。曲げられた刃は、限界を迎えて高い音と共に二つに分かれて床に零れた。
「これは裁ちばさみ、というんだ。私でも知っている。布を切るための鋏で、人を刺すためのものではないな?」
言い聞かせるように口にしながら、糸子が猿渡に手を伸ばす。持ち手しか残っていない鋏を糸子に向けたまま、猿渡は震えて固まった。
「だっ……」
猿渡の言葉の最中に、糸子は猿渡の顎に人差し指を添えるようにひたりと当てる。
その次の瞬間、犬上と羊谷には糸子の右腕が消えたように見えた。それと同時に、猿渡の頭が奇妙に急激に横向きに傾く。
振り切られた糸子の指先に、猿渡の頭部が糸子によって弾かれたのだと気付くのには些か時間がかかった。
頭部を急激に動かされたことによる脳震蕩。
糸が切れたように猿渡もまた崩れ落ちる。尻餅をつくように倒れそうになりながらも、もはや意識がなく受け身もとれない。
それを知っていた糸子は、着崩されたブレザーの前を掴むように受け止めて優しく地面へと倒した。
仲間がみんな倒れてしまった。
呻く男子二人に、意識のない女子一人。それを今更ながらに知った犬上は、羽交い締めにした羊谷の拘束を更にきつくする。
そこからの展望があったわけではない。彼女を人質に逃げることや、また交渉をする、なども一切考えてはいない。単に無意識に。
真相としては、どちらかというと羊谷に縋るように、犬上は腕に力を入れた。
お前は? と糸子は犬上を見る。
「…………っ!?」
だが犬上は言葉も発せなかった。どう繕っても、言い訳が出来そうになかった。
近づくな、と言っても、目の前の女は遠慮なく足を踏み出すだろう。喧嘩では勝てそうにない。今目の前で、三人を相手に一歩も引かずに行動不能にした手際は犬上もしっかりと見ている。
つまりもう何も、取れる手立てはないのだ。
「こ、こ降参しまーす」
羊谷を捕らえていた手をするりと抜き、犬上が両手を挙げる。
せめてもの諂いにと口を無理矢理笑みに変え、震えた声で宣言する。
解放された羊谷は一歩前に押し出されたように蹈鞴を踏み、目の前にいる糸子を見た。
振り返りも出来ず、その姿に息を飲む。
無表情に近い冷淡な顔。勿論自分を睨んでいるようではなかったが、不機嫌さに自分すらも怯えるほど。
「羊谷は、総一のところへ」
「…………!」
言われ、弾かれるように転ぶように足を縺れさせつつ、総一のところへと数歩駆ける。
飛び込むように総一の下へと辿り着いた羊谷は、俯いたまま無意識に総一のブレザーの裾を掴んでいた。
犬上も糸子も、その二人は視界にも入らず、そして入れない。
「……賢明な判断だ」
犬上に向かい、褒めるように口にしながらまた糸子は手を伸ばす。
「な……」
反射的に犬上は両手を固める。叩かれることを察知した幼児のように、背中を丸めて顎を引き、頭の周囲に両腕をかざす。
だがそのガードをすり抜けるように、糸子の手は犬上の耳を掴んだ。
掴まれた耳を引かれ、犬上の顔が糸子に寄る。
「痛っ……、やめ、なんで……!?」
「お前たちに対して、私以上に怒っている奴がいる。私がこれだけで済ませてやったことを幸運に思うんだな」
囁かれ、糸子の整った顔を間近に見て、そしてその言葉にようやく犬上にも見えた。糸子に漂う怒気。自分の負の感情をそのまま周囲に見せることは行儀が悪いと押さえ付けていた激情。
まるで火山の噴火が近いと噴煙から察するように。その怒りが、今まで見えていなかったからこそ恐怖を感じる。その中の怒りが、どれだけ噴出しようとして糸子の中で暴れたいたかをようやく察知する。
「……ぁぅ……」
血の気が引き、耳から手を離され、身体の力が抜けて犬上がへたり込む。
尻餅をつき、笑みに顔を固めたまま糸子を見上げる。その尻がじわりと温かくなったのを、彼女だけが感じた。
「お疲れ様でーす」
パチパチーと口で擬音をつけながら、総一は踵を返した糸子に気のない拍手を打つ。
「いやー、さっすが会長。俺なんかよりずっと鮮やかなお手並みで」
「羊谷、大丈夫か?」
へらへらと賛美の言葉を吐く総一を無視して、糸子は羊谷に問いかけた。
羊谷は無言で頷く。それから礼の言葉を吐こうとしたが、声が上手く出ずに吐息のような声しか出なかった。
糸子はその羊谷の手の先に目を留めて、軽く息を吐いた。
「教員を呼んできてくれ、と言いたいところだが無理そうだな。総一、羊谷を保健室に送っていってから誰か呼んでこい」
「俺がっすか」
「お前以外にいないだろう」
私が羊谷を送っていくのは本人が嫌だろうし、と糸子は内心付け足す。まずこの場で気遣うべきは羊谷で、安心出来るならばその方がいいだろう。
「羊谷は、保健室で少し休んで……可能ならば四時限目から授業に出てもいいと思うが、無理はするな」
「…………」
「事情は後でこいつらから教員が聞くだろう……が、どうせ自分たちに都合のいいことしか喋らないだろう。後で羊谷からも色々と話さなくてはならない。それもいいか?」
「…………」
糸子の問いに、無言で俯いたまま羊谷はどうにかして頷いた。震えるような首肯だが、それでも意味はその場にいる二人には伝わっていた。
「じゃあ……」
早く行け、と糸子が口にしようとし、言葉を切る。
同時に気が付いた総一も、その羊谷の様子に目を留めた。
安心させるように、クス、と総一が笑う。
「だよなー、怖かったよな-、あのゴリラ会長。人が飛ぶんだぜ人が」
視線の先には、大粒の涙を零す羊谷。顎まで涙が垂れて、そこで初めて目を袖で拭った。
糸子も意識してゆっくりと、笑みを作る。総一に倣って。
「大丈夫だからな、羊谷。もう大丈夫だ。それと総一、あとで一発殴る」
「慰めっすよ慰め」
「それでも、言っていいことと悪いことがある」
「うーい」
羊谷の様子は変わらず、涙をこぼし続ける。
「でもまあ、よく頑張った」
その羊谷の肩に手を置いて、総一は言い聞かせるように言う。
「あとはゴリラ会長に任せて、俺たちは退散しようぜ」
「二発」
だがボロボロと涙をこぼし続ける羊谷は応えず、それから猪狩が壁に叩きつけられた轟音を聞きつけて教員が飛んでくるまでの間、その場で泣き続けた。




