特待生
「あー、暇ですなぁ」
「そう思ったら手を動かせ。決裁書類がまだ山ほど残っているんだ」
総一の呟きに、積まれた書類の向こう側にいる生徒会長が反応する。会長に言われたはずなのに、書類の山に言われたような感覚に総一は囚われた。
仕方ない。確かに、今の自分は生徒会の一員だ。そして、今目の前で声を掛けてきたはずの少女、その肩程までの黒髪をハーフアップでまとめた辰美糸子は、生徒会を束ねているから生徒会長というのだ。手伝うのも当然かもしれない。
総一は溜め息を吐き、とりあえず立ち上がると、その書類の山から一束をひょいと持ち上げる。そしてそのままくるりとターン。読書を決め込む隣の少女の前に積み上げた。
「だってさ。少しは手伝えって」
「言われたのは、あんたよ」
一切本からは目を離さず、淡々とそう返す彼女は兎崎玉緒。総一と同じく二年一組に属する文学少女である。
小柄で細身のその体型を誤魔化すように、腰まであるウェーブのかかった髪の毛をまとめもせずに垂らしている。見た目通り運動はあまり得意ではないが、その分、その小さな頭脳は他に類を見ない密度を誇っていた。
ぺらりとページをめくりながら、兎崎は続けた。
「あたしは忙しいの。今日中にこの本読まなくちゃいけないから」
「……そうかい。頑張れ」
総一は、兎崎の持っている本の題名をチラリと見る。そこには『物理学大全』と書かれていた。その辞典のような分厚さに、ページを埋め尽くす米粒のように小さく書かれた文字、それだけで総一は頭が痛くなる程だった。
「ああ、その本ちょっと古いよな。十五ページ後にポリウォーターとか出てくるし」
「……まだそこまで読んでない」
「そりゃそうだ」
適当な返事を返し、総一は先程の書類に目を通し始める。班活動予算の増額申請や、活動報告書。その誤字や脱字、書式の間違いを精査し、訂正させ、場合によっては却下する。そのための作業だ。
「本当だ。もう否定されてるのに……。……どうして知ってるの?」
兎崎は総一に問いかける。その間違いがあったことを今確認した彼女は、ふと気になって顔を上げた。
今度は、書類から総一が目を離さない番だ。淀みない手つきで書類を片付けていく総一は、兎崎のほうを見ずに答えた。
「そりゃあ、まあ、読んだことあるからな」
「……そう」
図書館で借りた、新品同然のこの本。自分以外が読んだことがあると聞き、兎崎は少し嬉しく思った。
「総一、話すのは結構だが、進んでいるか?」
「ええ、もう……」
紙の束の端を摘まみ、ビッと弾く。
「二十四件の申請と報告書、チェック終わりました。上三件が教員へ、中五件が訂正の必要あり、残り十六件が却下です」
「ほう」
その束を受け取った辰美は捲りながらそれを確認する。もっとも、その判断を覆す気は一切無いが。
「では、次にこちらの……」
「……はいはい」
辰美が言い切る前に、溜め息交じりに総一は書類を受け取る。他の者の頼みであれば即座に断わるこの男も、辰美には弱かった。
その受け取った書類を見て、総一は僅かに顔を歪める。それは、その書類の種類を見ての判断だったが、誰もその顔を見てはいなかった。
「来年の特待生候補、ですか」
「ああ。こちらは応募要件のチェックと、誤字脱字の確認を頼む。誤字脱字も評価対象に入るから、それは赤で囲んでおいてくれ」
「……酔狂な奴らですね、こいつらも」
「まあ、そう言うな。学費無料はそれだけ魅力的なんだ。お前もその口だろう?」
「俺は特待生権利なんて、放棄できるならしたいんですけどね」
総一と辰美、双方ともに視線は書類に固定され、腕はそれぞれの作業に没頭している。二人の手は止まるところを知らず、書類の上を踊り続ける。まるで大ざっぱなその動きは、それでも精密に書類を処理していった。
総一が特待生制度について苦言を呈するのには理由があった。
登竜学園において、特待生には様々な権限が与えられる。それは前述の学費の免除に始まり、通常は強制である班活動の免除、学食の割引、他学年他クラスの授業へ参加できる、そして進路の優遇など、その他多岐にわたる。
その権限は魅力的なものが多いだろう。一般生と比べて時間が自由に使え、そして学業に関わる費用も大幅に少なくなるのだから。
しかし、魅力ばかりではない。権利が増える分、当然のように義務が発生するのだ。
その義務のうち、大きなものが二つある。まず、優秀な成績をとり続けること。一学年二百人以上の中、定期テストで上位十位以内に必ず入る必要がある。それも、科目別に、である。不得意な科目は許されない。たとえ他の科目で全て一位をとろうとも、ある科目が十一位となれば、特待生の権利を喪失してしまうのだ。
運動の苦手な兎崎が特待生でいられるのは、定期テストに体育が無いから、の一点につきるだろう。
そしてもう一つが、総一が特待生を希望する者に対して酔狂と評する理由だった。
特待生には義務が課される。そしてそれは、画一的なものではないのだ。
特待生は、選ばれた時点で学園長に一つ義務を定められる。そしてそれを、毎日達成しなければいけない。
たとえば、朝の玄関掃除。これを定められた者は、休祝日や特別な日を除き全ての朝に玄関を綺麗に掃き清めなければならない。弁当を作ってくること。それを定められた者は、毎日自らの弁当を作ってこなければならない。
玄関掃除は片付けが苦手だった特待生に、弁当は料理が苦手だった特待生に課された義務だった。
それは学園長が狙って決めたものではない。ただ、適当に一つ言い渡すのだ。それは個人の能力や性格など、考慮されることは少ない。
事実、文学少女である兎崎に課されているのは『一日一冊本を読むこと』だ。今日読んでいるのは物理学の本ではあるが、別にその辺りに制約はない。彼女の好きな、恋愛小説だろうとなんだろうと構わないのである。
義務の達成自体は、特待生に選ばれた彼らならば難しいことではない。
問題は、それらの義務が達成されなかった場合。その処置が、苛烈なのだ。
義務が達成されなかった場合、特待生資格がはく奪される。そして理由の如何に問わず、特待生が特待生でなくなったとき、『より優れた者への罰は、より重くなるべきである』という学園長の考えのもと、学生にとって一番大きな処置が行われる。
即ち退学。義務不達成の場合は幾度かの猶予はあるし、ときたま行われるチェックに引っ掛からなければ問題にはならないものの、続けばそれは避けられない事態となってしまうのだ。
『滝流れ』といわれたその処置は、総一にとっても避けるべき面倒なことだった。
「俺と……っていうか、会長もですけど、ここにいる三人とも入学の時に強制じゃないですか? 勝手すぎるでしょ、特待生じゃなくなったら退学とか」
「ん……まあ、そういった意見もあるとは思うが……」
勝手に権利と義務を与え、それを辞退すれば退学となる。それは、入学時の成績によって特待生枠に『入ってしまった』総一には、酷く不平等なものと思えた。
「だが、考えによってはとても良いものだぞ? この学園のモットーはなんだ?」
「『鯉が滝を越えて竜となるように、生徒諸君も学校生活を越えて竜となれ』、でしょう」
「その滝を、学園長は作ってくださっているのだ。ありがたく越えていかねば!」
無い胸を張って、辰美はそう言い切った。その体育系のノリも、総一は不服だというのに。
そのとき、生徒会室の扉が叩かれる。軽いノックというよりも、繰り返されるそれは焦っているようだ。しかし廊下を走る音がしなかったことからも、中の三人には、叩いた者の真面目さが感じ取れた。
「どうぞー」
総一が代表して声を出す。気の抜けたその声に反応して、扉の向こうの人物は力強く扉を開けた。
「あ、あの、すいません!!」
扉を開けた生徒は野球のユニフォームを身に纏い、ランニングの途中だったのだろう、上気した顔に汗が滲んでいた。
「何です? ええと、陳情にはまず所属する班とクラスとあと名前を……」
ユニフォームを見れば野球班の人間であることは一目瞭然であったが、総一は決まり文句を口にしようとした。しかし総一のその言葉を遮り、入ってきた野球班員は叫ぶように言う。
「野球班二年四組、子門たたらです! すいません、風紀委員のほうにと思ったんですが、こちらのほうが近かったので!!」
真面目そうな声に、部屋の三人の視線が集まる。その視線にも動じず、子門は総一を見て続けた。
「体育館裏で、煙草吸ってるやつらがいるんです!! 止めてくださいお願いします!!」
必死にそう言いながら、頭を下げる。その剣幕に、三人は納得した。今は初夏、もうすぐ甲子園の地区予選が始まるというのに。この様子では、吸っているのは野球部員なのだろう。
広まってはまずい事態。ならばこそ、風紀委員や生徒会に駆け込んでくることなどせずに、自らで注意すればよかったのに。自らで注意して、逆上して喧嘩ともなればさらに大ごとになってしまう。それを気にしたのだろうか。いや、それは違うか。この目の前の男の雰囲気からすれば、ただきっと真面目だったのだ。
総一はそう思考を巡らせる。
だが、その思考に意味はない。
「はいはい。んじゃ、会長、行ってきます」
「ああ。なるべく怪我させないようにな」
「はーい」
軽い足取りで、総一は席を立つ。
辰美も兎崎も、心配など一欠けらもしていなかった。
体育館裏にいた不良たちは、やはり野球のユニフォームを身に纏っていた。しゃがみこんで空き缶を灰皿にして、紫煙をくゆらせる彼らはまさに今の野球班にとっては忌むべき者たちだ。
そこに、すたすたと買い物でも行くように姿を現した総一。その明らかな異物に向かって、不良たちの視線が襲い掛かった。
「ああ? んだテメエ」
「……え? 俺の顔をご存じない? おかしいな、結構……って、お前ら行事とかに出てないもんな」
言いながら、総一は一人で納得する。体育館裏でバカ話に興じていた彼らの顔は、見たことがあった。教員と生徒会のメンバーのみが見ることのできる、素行の悪い者や成績が振るわない者が載っている書類。通称レッドブックで、彼らの顔は見たことがあったのだ。
不良生徒四人は立ち上がり、総一の顔を睨み付ける。やがてリーダー格の男が一人総一の目の前まで歩み寄ると、その顔を数センチメートルのところまで近づけた。
「俺は知ってんぞ? 生徒会の書記だっけ? いい子ちゃんしてる特待生様だよなぁ?」
「覚えてくれてるのはいいんだけど、顔近くて気持ち悪いんだけど」
「でぇ? 何の用ですかぁ?」
総一の言葉など耳を傾けようともせず、リーダーは凄む。もともと身長は頭一つ分違ってはいるものの、腰を曲げて上から見下ろしているリーダーは、身長差以上の圧力を総一に与えていた。圧力を、総一が感じ取るかは別として。
「ここは校内なので、煙草禁止です。あと、野球班なのでどこでも煙草禁止です。というか普通に、未成年なんで煙草禁止です。今すぐ片付けて、退学になりたくなければ卒業するまで二度と吸わないでください」
迫力を出すために見開かれたリーダーの目を、いつもと変わらない目で平然と見返す総一は、そう淡々と言った。
だが、その言葉が素直に受け入れられないのも知っている。この手の輩がそういった言葉をおとなしく聞いたことなど、ただの一度もないからだ。
「馬鹿じゃねえの? 痛い目見たくなかったら、くるっと回ってとっとと帰れよ」
「一応、皆さんに痛い目を見せて、やめていただくっていう選択肢もあるんだけど」
だからこそ、挑発を返す。その頃ようやく、一歩も引かずに睨みつけても変化なく佇む総一に、不良たちが困惑を感じ始めた。
しかし、遅い。一度吐いた唾は飲み込めない。不良たちのリーダーは、他の者の前で弱い姿を見せてはいけない。彼らは自らのメンツを保つためならば、手段を選べないのだ。
「……やってみろよ! いい子ちゃんの特待生さん、んなことしたら、お前も問題になんだろ」
それをわかっているからこそ、リーダーの手が総一のブレザーの襟を掴む。反抗の気勢を示さなければ、舎弟たちに示しがつかないのだ。
そして、襟を掴まれたことを確認した総一は、わずかに顔を逸らして溜息を吐いた。
「……舐めてんじゃねえ……!」
リーダーは、総一の態度に侮りを感じた。発作的に、その襟を掴んでいないほうの腕が振りかぶられる。そして吸い込まれるように総一の腹部にその拳が突き刺さろうとしたそのとき。
総一が、襟を掴んでいるリーダーの手首を握る。
「は?」
困惑の叫びが響いた。
総一は手首をリーダーのほうへ押し返しただけである。少なくとも、ギャラリーにはそう見えた。
だがその動きで、叩きつけるようにリーダーが両膝を地面につく。上半身は背筋を伸ばしたように直立し、総一の腹部を打ち据えようとしていた拳は空を切り、襟から手も離れていた。
不良たちに広がる一瞬の困惑。仲間内で一番腕っぷしの強い男に、何が起きたというのか。
瞬間、総一の拳が煌めく。
一発の打撃音。肉が歪む低い音が体育館裏に響いた。
総一の胸の前あたりに来ていたリーダーの目が、ぐるりと上を向く。
顎、喉、そして胸。総一の打撃が正確に三つの急所を射抜き、リーダーを戦闘不能へと導いたのだ。
「うちの学園のモットーって知ってる?」
総一は、残った三人に問いかける。その声は冷淡に響き、今まさに顔面から地面へと崩れ落ちたリーダーなど、一顧だにしていなかった。
「まあ、知らないか。いくつもあるんだけど、その一つに『拳は言葉と変わらぬ言語』ってあるんだよ。本当、学園長って脳筋だよな」
言葉にしていない説明を察し、不良たちの顔が青く染まる。彼らにとって必要な、自分よりも強いものを見分けるその目は、ここに至ってようやく機能していた。
「まあ、そんなわけで。少なくとも、風紀を乱す輩への、軽い暴力は問題にならないんだ。……わかったら、とっとと吸殻片づけて帰ってくれるとありがたいんだけど」
「……!」
舌打ちをしながら持っていたビニール袋に空き缶を放り込み、三人は総一を睨み付ける。
だがその視線も、総一がただ見返しただけでばつが悪そうに逸らしてしまった。
「あー、ちゃんとこいつ連れて帰ってなー」
そのまま立ち去ろうとする不良たちを呼び止めて、総一は叫ぶ。その声に反応した者は一人。慌てて駆け寄ると、リーダーの一方の腕を引き上げようとした。だが、意識を失ったものは重たい。その努力むなしく、リーダーを移動させることは出来なかった。
「えー……」
総一の、呆れの声が響く。その声に嫌悪感を露わにして不良生徒が振り返った。だが、総一はそんなことを気にしない。
「そうじゃなくて、まずはこうやって足を交差させてだな……」
始まるのは、救急時の人間の運び方。要救助者に、腕を組ませて足を交差させて引きずる方法の講習だ。
結局、総一の指導の下、リーダーは不良生徒の一人に引きずられてその場を去ってゆくのだった。
見送った総一は、ノルマ達成による虚脱感に深い溜息を吐いた。
ここに来た理由は、義侠心や良心など、いわゆる正義の心などではないのだ。
行くか行かないかはもうすでに決まっていた。何せ、特待生である総一に課せられた義務は、『一日一回、人のために何かをする』というものだったからだ。
利己的なこの男が、人のために何事かをする機会などそう多くない。いつも適当に済ませているこの面倒な儀式、する機会があれば迷いなくするのである。本人の意思にはかかわらず。
「さてと、あいつらの指導、学園長に頼んでおかないと」
とりあえず今日の分は終わり、と背伸びをする。
そして頭の片隅で、以前見た元不良を思い浮かべた。学園長の指導を受けた後、『もう一生煙草は吸いません』と丸坊主で宣言した彼。
……指導って、何をされるんだろうか。
頼むことは多いものの、見たことのないそれを想像し、総一はわずかに体を震わせた。