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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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19/70

学校へ行こう




 朝、いつものように羊谷は自室で目を覚ます。

 見上げる天井はいつもの白いもの。目覚まし時計よりも先に目を覚ますのもいつものことで、羊谷はそっと枕元にあったデジタル式の時計の横のスイッチを滑らせアラーム機能を止めた。


 一瞬、ぼんやりとした思考が、自分が何をすればいいのかと行き先をなくした。

 長い瞬きをして、横たわったまま無意識に伸びをすれば、今が朝だということにようやく気付く。

 そうだ。起きなければ。身体を起こして、足をベッドから下ろして、床を踏みしめて立ち上がらなければ。

 決意するように決めた道筋通り、羊谷はのろのろと身体を動かす。

 けれども、身体は鉛のように重く、空気は水中のようにどろどろと抵抗感を増している。


 やっとの思いでフローリングの床に素足をつけてヒンヤリとした感覚を覚えても、まだベッドから尻が離れない。

 それから、学校行きたくないな、と素直に溜息をついた。




 制服にも着替えずパジャマのまま、もそもそと囓るサラダに味はない。

 喉の奥に何かが詰まっている気がする。両親と顔を合わせなければいけない、楽しくない食卓の時間、それが更に強まっているのだと羊谷は感じた。

 斜め前に座る父親。コーヒーを片手に新聞を広げて、黙っている。

 前に座る母親。テレビの男性ニュースアナウンサーに夢中で食事の手が止まっている。

 

 何が違うのだろう。昔は『そう』ではなかったのに。

 羊谷はごく小さな子供の頃を何故だか思い出し、また小さく隠して溜息をついた。



「ごちそうさまでした」


 味のしない食事を終え、最後に甘みのない紅茶を飲み込む。

 テレビの右上、表示されている時計を見ればいつもよりも数分遅い時間。学校に行く準備をしなければ。

 そう思いつつも、羊谷は動かない。動けなかった。


「今日は遅いのね」

 食事を終えた皿を重ねながら、母が言う。

 その言葉の裏には『早く学校に行きなさい』という意図が透けて見えた。言わずとも。

「今日は……」

 羊谷が、頭の後ろを掻きながら口を開こうとする。まだ梳かしてもいない傷んだ髪が指の先で絡む。

 今日は休みたい。

 思い浮かべるのは、猿渡や犬上に、遊んでいた男子たち。

 昨日彼らと仲直りをしようと意を決したものの、それは叶わなかった。彼らの仲間に戻るための万引きという犯罪行為。それをする機を逸し、そして自分にはその勇気がなかった。

 

 今日行けば、彼らになんと言われるのだろう。

 昨日出来なかったことを責められ、また強要されるのだろうか。それともまた別の何かをさせられるのだろうか。

 それとも。

 今度は無視されるのだろうか。友達なんかじゃない、と。


「やす……」

 体調が悪いから。そんな理由でもつければ、休むことは可能だろう。そう思いつつ、そして実際に口を開いた瞬間のこと。

 玄関のチャイムが鳴った。


「はーい」


 外に聞こえる音量ではないが、小声で母が応えつつ玄関へと向かう。

 誰だこんな朝早くに。そう文句を口にするように、父は新聞をバサリと鳴らして玄関にちらりと目を向けた。


「朝早くに申し訳ありません。登竜学園二年生の鳳総一と申します、……」


 そして玄関から声が聞こえた。

 父は知らない声、それも男子……男性の。その声に僅かに眉を顰めつつ、娘に目を向ければ娘も目を丸くして驚いているように父には見えた。


 羊谷にとっては最近多く聞いた声。

 だが、おかしい。こんな朝早くに、それも自宅で聞く声ではない。そして何故だろう、いつもと声の感じが違う。

 まるで客の前の母の声、ワントーン高いよそ行きの声で。


「……知り合いか?」

「…………うん」

 

 聞き間違えるはずがない、とまでは言わないが、聞き間違えさせるようなものではない。

 そう確認した羊谷が、父の問いにこくりと頷いて答える。


「麦さんとお約束しておりまして」

「あら、そうなんですか」


 ほほほ、と応える母の声音もいつもより高い。

 それに総一の口調もいつもとはまるで違う。まるで営業マンのような丁寧さで、母と腰低く話している。


 渋々と羊谷が立ち上がり、玄関へと向かう。後頭部を掻き毟りながら。

 そこにいた母と、総一の姿に何故だか恥ずかしさと怒りが湧いてきた気がした。


「どうしたんすか、総一先輩」

「麦、貴方まだそんな格好で」

 まだメイクもしていない、どころか制服にも普段着にも着替えてすらいない。青と白の縦縞のパジャマのまま人前に現れた羊谷を母が咎める。

 だが、羊谷は自分でも何故だかわからず、その言葉には怯まなかった。無視するように総一に目を向ければ、いつもとは違う出で立ちに面食らう思いだったが。


 羊谷に目を向けられた総一は、ハハハと快活に笑う。黒縁の眼鏡の縁に手をかけて、一度ずれを直した。

「麦さんおはようございます」

「…………」

 髪の毛も、今日は整えているらしい。いつもの短い癖毛を適当に直しただけの髪ではなく、アイロンを当てたかのようなまっすぐな髪。

 『真面目な好青年』。そういう印象を与えるような装いに、羊谷は挨拶を返せなかった。


 羊谷に構わず、総一は僅かな手振りを見せて困った風に笑う。

「始業前の時間でいいから、英語教えてほしいって話で約束してたじゃないですか。テスト近いし」

「んな約束……」

 した覚えはない。唇を尖らせながら、麦は反論しようとするが、それに被せるように総一は口を開いた。

「あれ、じゃあ僕が間違えましたかね」

 うん? と真剣に悩むよう、口元に手をやり目を細める。それから一瞬の後、母を見てまた笑みを強めた。


「申し訳ありません。私が期日を勘違いしたみたいです。朝早くに本当に申し訳ありません」

 折り目正しく総一が頭を下げる。

 羊谷にはそれが不気味に見えたが、母はそうは思わずこちらが申し訳なくなる思いだった。

「いえいえ、こちらこそ。娘が忘れちゃってたのかもしれませんし……どうせ学校に行くんですし、変わりませんよ」

 そして母は羊谷によそ向けの笑みを見せ、小声で口だけで「早く準備してきなさい」と命令する。


「ごめんなさい、まだ準備できてなくて……中でお待ちいただきますか?」

 おずおずと母が申し出るが、それは社交辞令だ。それも総一は分かっていて、笑顔で返す。

「ああ、いえ、ご迷惑でなければ玄関先で待たせていただいてもよろしいでしょうか?」

「もちろんです、ごめんなさいね」


 ふふ、と母はよそ行きの表情で応えて、また二、三の受け答えをして扉を閉める。その奥で、眼鏡をかけた総一が浮かべる人好きのする笑みに僅かに好感を抱きながら。

 パタパタとほんの僅かな小走りで、母が羊谷のところへ戻ってくる。


「麦、あんまり待たせちゃかわいそうよ」

「……はーい」


 すっかり騙されてしまっているのだろうか。母の表情に羊谷はそう思ったが、何となく指摘できずに踵を返す。着替えて、最低限のメイクだけを早くしなければ。

 バサリと新聞紙を鳴らし、父が母に視線を向ける。


「誰だ?」

「学校の先輩だって。鳳君。生徒会の書記だって名乗ってたわ」

「…………そうか」


 実際には何の意味もない肩書き。嘘で固めた態度。

 両親はそこから何も読み取れなかったのか、あの先輩の本性を、……と何故だか少しだけ楽しい気分で、羊谷は自室へ向かう階段を上がっていく。

 自分もいつの間にか学校へと出て行く気になっていた、と気付いたのは、玄関を出て総一の顔を見た直後だった。





「何で来たんすか?」

 歩きつつ、羊谷は伊達眼鏡の総一に問いかける。いつの間にか自分も、という事実に気付いた不愉快さのまま、唇を尖らせて。

「言ったじゃん。英語教えてやろうってさ」

 そして総一も羊谷の母に向けていた真面目さは形を潜め、笑みもまたどこか享楽的なものに変わっていた。

「あたしそんな約束した覚えないんですけど」

「まあまあ」


 くつくつと総一は笑う。

「俺もこうすることにより、学園長から怒られなくて済む。お前は成績が上がる。いいことずくめじゃん」

「あたしの意思全無視じゃん」

「……まあ、やりたくないならいいけど、じゃん」


 もともと、こうして羊谷を連れ出せたことにより総一の目的は達成している。

 思った通りだった。

 訪ねた際、羊谷はまだ寝間着の姿だった。それはおかしなことではない。家を出る時間など人による。時間ぎりぎりに走っていく者はぎりぎりまで着替えないこともあるし、逆の場合もある。どのような姿であれ、納得は出来る。

 しかし母親も、『まだ』と口にしていた。つまり、いつもならば着替えているはずの時間だった。

 こうして話している姿にも、体調不良のようなものは見えない。……元気はいつもよりも幾分なさげだが。


 お節介がすぎる、と自分でも総一は思いつつも、何故だか放っておけない自分に苦笑した。

 

「でも英単語の暗記頑張ってんだろ? その成果を見せてみろよ、俺に」

「何であんたに……つーか何で英単語」

「昨日ポッケから単語帳見えてた」

「すとーかーじゃねえか」

 

 前もこんな話をしたな、と羊谷は少し前のことを思い出す。

 それも随分と懐かしい気がした。図書館で、彼と始めてあったときのこと。


 羊谷は後頭部を軽く掻く。

「……そもそも、なんかどう勉強したらいいかわかんないんすよね」

「ほう?」

 片目を丸くし、総一は続きを促した。

「参考書を見て文法とか? 書いてあっても、『へー、そうなんだー』で終わっちゃうというか」

「まあそれは覚えるしかないわな」

 

 本当に、勉強とはひたすら続く暗記でしかないな、と総一は思いつつ同意する。


 勉強とは暗記だ。数学ならば、古くは九九から、更に数式を覚えるようになる。国語ならば、漢字からまた文法、それから古典に至っては読む順序や活用など。化学ならば、元素記号からイオン化傾向、元素の性質から反応に付随する現象まで。

 英語もそれこそ英単語を覚え、またそれを当てはめる文法を覚えなければならない。


 本当は、実際に誰もがそれを扱えないわけではない。

 国語など、たとえば日本語は勉強などせずとも多くの日本人が普通に扱っているはずだし、仮に少し間違えていても大抵の場合意味は通る。

 たとえば地理なども、行ったことのある場所ならば海が多かった山が多かった、土産屋にはどのようなものが並び、名所はこんな場所がある、と把握するものだ。

 

 だが、勉強ならば覚えなければならない。

 いつも使っている言葉をわざわざ分解、再構築しその要素を暗記する。行ったこともなく見たこともない土地の風土を覚え、関わりもないどこかの地名を暗記する。


 勉強とは、暗記なのだ。

 苦手な人間にとっては、味のないクッキーをひたすら口に詰め込む作業に似る。もちろんそこに面白さを見いだす者もいるだろうが、総一はそうではなく、また羊谷もそうだ。


 だからこその勉強の苦痛。それを、羊谷は知らずに総一と共有していた。



「なんか秘訣とかないんすか?」

「秘訣、ねえ?」

 羊谷の質問に、総一は目を閉じて思考する。

 ただ、暗記に関しても、総一の知る中では一つだけたしかにその『秘訣』があった。それを教えてもいいが、そのまま教えても面白くないし効果は出ないな、と思っているだけで。


 だがまあいいだろう。総一の中でそう決着し、口を開く。

「I require you to respond in English」

「あん?」

「Should I say it again?」

 総一の口から呪文のようなものが叩きつけられ、羊谷はたじろぐ。

 羊谷の耳には確かに届いていた音。……しかし、これは、えいご?

「いきなりなんだよ」

「秘訣だよ。意味分かるだろ、答えろよ」

「……もう一回お願いします」

「もういいや。英語で答えてね」


 『require』、『respond』、それらは高校一年生で習う単語である。羊谷が単語帳を目にし覚えていれば答えられるだろう、と総一は考えていたが、僅かに当てが外れて落胆した。

「今日のネイルも綺麗ですね」

「は?」

「どうやって整えてるんですかぁ?」

「なんか苛つくんだけど」

 両手を組んで、きらきらした目で総一は羊谷を上目遣いに見る。羊谷はその仕草に一瞬腹が立ったものの、質問の方に意識を移した。

「どうやってって、下地を整えて、……え、これ英語で?」

「まずは適当に関係がありそうな単語を言ってけ」

「は、あ……ん……?」

 関係がありそうな単語。そう問われて、羊谷はいくつも考える。苦手な英単語、そうそう浮かぶはずがない、と思いつつも。

 だが。


「えっと? nail、shape……」

「爪の形を整える? なら、その単語だけでOK.正しくは、『Shape the nails』」

「しぇいぷざねいるす?」

「うん」

 補足し、そして続けろ、と総一は促す。

「cut,scrape……face?」

「顔?」

「あ、faceは顔か。いや、顔じゃなくて、……表面って何だ?」

「surface」

 総一が答えると、律儀にも羊谷は口の中でその単語を繰り返す。辿々しくも、健気に。

 そして悩む羊谷に、総一は笑みを浮かべて口を開いた。

「爪を切って表面を削る、で『Cut the nails and scrape the surface.』」


 口語体ではまた違うかもしれないが、と総一は内心付け足した。それを羊谷に伝えてしまえば、また混乱を招くだろう。

 羊谷には英会話を教えたいわけではない。ましてや、きちんとした文法を教えたいわけでもない。

 狙うのはまずは英単語で文章を作れるようにすること。

 またそれ以前に、その苦手意識をなくすこと。

 家庭教師として総一が、多くの小学生を難関中学に入れるために行っていたごく簡単なメソッドだ。


「で、こういう話が出ると思って、そういうのを踏まえて、ちょっと作ってみました」

「用意周到すぎね?」

 総一は、えーとね、と呟きつつ自身のポケットを探る。

 羊谷は一言ふざけるように「気持ち悪」呟き、慌てて口を噤む。口をついて出たその言葉に罪悪感を覚えつつ、それでも気にしていない素振りの総一に胸をなで下ろしつつ。


 そして取り出されたごく小さなメモ帳。総一の開いたページには、四十行ほどの細い一行にみっしりとアルファベットが書き連ねてあった。

 受け取って、羊谷はその文字に目を細める。

「なんすか? これ」

「読んでみ」

「ええと……」


『First,shape the nails. Soak the nails in hot water to soften them』


「ふぃー、ふぁー……すと」

 まず一行目。書き連ねてある文章のほんの最初の文字の羅列。しかしそこからして発音すら危うく、羊谷は目を細めた上で更に眉を顰める。

 まるでいつもと同じだ、と思った。いつもの英語の授業の時間。教師の口から読み上げられる読経や犬の鳴き声と同じような意味の分からない唸り声。


 だが。


「じゃ、読まないでいいから訳してみ」

「ふぁーすと、最初に……しぇいぷ何とかはさっきの奴だよな。ええと、最初に爪の形を整えます……?」

「そ」

 辿々しく、羊谷の目が文章を追う。歩く度に揺れる小さな文字を目を凝らして見つめるようにして、いつもの通り象形文字を見つめるような心持ちで。

 しかし今日はそうではない。


「hot water……温かい水……お湯? お湯につけて爪を柔らかくします。それから爪の先を切っていきます。ここではニッパータイプを使いましょう、爪が割れるのを防ぐことが出来ます」

 続く文章は全て英語で綴られている。

 流暢ではないものの、しかし羊谷には何故だかその文章が読める気がした。そして実際読めている。分からない単語はまま出てくるものの、それすらも無視して。


「読めるじゃん?」

 ね、と総一は笑顔で羊谷の顔を覗き込む。

 その得意げな顔に何となく腹が立ったものの、それよりも何かの異変が自分の頭を襲っているようで困惑していた。

「……なんだこれ? 催眠術?」

 羊谷は訝しげに隣に立つ先輩を見る。数々の突拍子もない行動をとるこの先輩ならば、それくらい出来てもおかしくはないのではないだろうか、などと考えて。

 だが総一はそれを笑い飛ばす。

「んなわけねーだろ。お前が知ってることだから読めるってだけだよ」


 羊谷が読めているのは所々の単語にすぎない。

 実際には、そこに出てくる英単語のほとんどを知ってはいない。

 けれども、読める。いくつかの単語を読み取ることが出来て、更にその文章の流れを既に知っているならば。

 それはありふれた現象でもある。英語など不得意であるはずの者、たとえば数学者が、数学の英語論文を読むことが可能であったり。化学者が、化学の英語論文をすらすらと読めたりなど。


「さっきだって、俺が『解説して?』って可愛く頼んだら、いくつもすらすら出てきたじゃん」

 勿論今回実際には、すらすらと、ではない。

 だが総一は、煽てるようにそれを強調する。羊谷の勢いを消さないように。

「可愛くはなかった」

「そこマジレスされても困るんだが」

 そしてその気遣いも無駄だったようで、それを総一は察して「まあ」とまとめた。


「暗記ってのは大抵嫌なもんだけど、興味あることなら何となく覚えてるもんなんだよ。いるじゃん、勉強苦手なのに、ゲームのおかげで全国のお土産になる名産品だけ覚えてる奴とか」

「桃太郎のあれっすか?」

「あれっす」

 まあそれだけではないだろうが、と総一は内心付け足す。戦国武将の出てくるシミュレーションでもそうなるし、スマホや携帯ゲーム機の位置情報ゲームでもそうなるだろう。

 

 そして、その上でもやはり。

「まあでも最終的には覚えなくちゃいけないことばっかだからな。じゃあまずはここから、そのメモ帳の文章の単語をSVOCに分類してこっか」

「だー、やっぱそこからわかんねえー……、あれじゃん、三単現のsとかそういうなんかそういうやつだろ?」

「それは活用の話だねー」

 それ以前の問題だ。そう思いつつも、総一は羊谷に肩を寄せて思考に付き合う。

 学校に到着するまであと五分程度。

 まるでクイズ番組で早押しクイズをするように、何となく羊谷はその時間を楽しんでいた。




「何だ、また二人一緒か」

「おやおや会長、それに兎崎、おはようございます」

「おはよう」

「おはよ」

 校門をくぐる前のこと。すぐに二人は糸子と兎崎と遭遇した。普段は別の道から登校する四人がごくたまたま登校時間が揃っただけのことである。だが糸子としては、珍しい、と眉を上げた。

「なんか、その……最近お前ら仲がいいな」

「え、あっ!」

 言われて、羊谷は総一が横ごく近くを寄り添うように歩いていたことに今更ながら気が付く。

 総一としては他意もなく、羊谷が持っているメモ帳を一緒に覗き込んでいたからだったし、羊谷としても今の今までは当然のことだろうと気にもせず受け入れていたのだが。

 何となく一歩距離をとる。体温まで感じそうだった二人の間に、涼しい風が通った気がした。

「後輩に、登校時間中に次のテストに向けて英語を教えてましてね」

 

 総一が、クイ、と伊達眼鏡の弦を指で持ち上げる。得意げな顔が、いつものにやけ顔と混じっていた。

「お任せ下さい、会長。私が彼女を立派な英会話サイボーグに仕立てて差し上げましょう」

「やめてくれ。お前には前科がある」

 そういえば、その被害に遭ったのも目の前の後輩女子だったはずだ。……なのにまた総一を頼るとは、どういうことなのだろうか。そう糸子は訝しむ。実際には総一が押しかけただけで、今回は羊谷が頼ったわけでもないのだが。


「大丈夫ですよ、会長。前回は詰め込みでしたが、今回は正攻法で伸ばしていこうと思います」

「ならいいが……」

 総一としても反省はしている。以前図書館で羊谷に数学を教えたときには、詰め込みの局地だった。故に次の日には既にほとんど記憶が残っておらず、何の実にもならなかったのだ。

 今回はせめて、きちんと記憶に残るように。……でないと、面白くない。


 もちろん、そこに異を唱えるのは本人だが。

「え、あの、別にあたしは教えてもらおうなんて……」

 そもそも英語を教えてほしいなどと今回言った覚えなどない。突然家に押しかけてこられ、そして登校中の会話の流れでそうなってしまっただけだ。

 だが断ろうとすると、総一が両肩に手を乗せる。優しくも力強く。

「何を言う羊谷殿! 安心して私めに勉強を教えさせてくだされ。今日はこれで私のノルマは達成しましたので明日からになりまするが、ちゃんと毎日チラッとそんな感じの話をしますので、どうかそんな感じの親切を私にさせていただけるとありがとうございまする」

「そうすれば、終業の鐘が鳴ると同時に帰れるから」

「そう」


 ぼそ、と兎崎が言うと、笑顔で総一はそれに同意する。

 『一日一つ、学内で人のために親切をする』。一日一善とも呼べるそのノルマは、総一が退学をしないために毎日行わなければならないもの。利己的な総一にとっては苦痛のもの。それをこんな簡単に達成出来るならば、総一にとっては望むべくもないことだ。

 

 そしてその言葉に糸子は溜息をつく。

「総一」

「はい? 真面目で勤勉に学校生活を送る私めに何の用でございますか? 会長」

 つまり今日はもう学内で糸子の命で何かしらの手伝いをさせられることはないのだ。そう油断している総一は、軽口混じりに返した。しかし。

「残念ながら、ここはまだ学内じゃないぞ」


「あ」


 つまりまだノルマは残っているのだ。

 そう告げられた総一は、「やり損だ畜生!」と地団駄を踏んで叫んだ。






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