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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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16/70

大人も子供もわかっちゃくれない




「おはよ」


 朝。自室を出て、木の階段を降りた羊谷は、居間に入り家族に声をかけた。

 居間のダイニングテーブルについているのは、新聞を読んでいる父と、料理の皿を並べ終えて自分の分の食パンにバターを塗っている母の二人。

「おはよう」

 ばさりと新聞を振り、羊谷に挨拶を返して父はまた新聞に目を戻した。

 銀行員の父が読む経済新聞。それもまた、羊谷にとっては理解不能のものだった。


 席に着き、もそもそと羊谷がパンを囓る。制服に着替えつつも、髪の毛はまだまとまらずにメイクすらしていない顔は、男子には見せられないな、と考えつつ。

 湯気の立つコーヒーを一口啜り、父は新聞で顔半分を隠しつつ羊谷に目を向ける。


「…………」

「ん?」


 トマトサラダに混じるキュウリにフォークを刺しつつ、羊谷はその視線に問いかける。

 父が何か言いたいことがあるときにとる仕草。あまり会話のない父からすれば、それすらも珍しいことだった。


「……昨日、随分と遅くまで電気がついていたな」


 視線も合わせず、何していた? とまでは口にも出さず、父は言う。

 文句を言いたいわけではなかった。ただ、心配だった。高校に上がってから髪を染め、素行も悪くなりつつあると感じる娘のことが。


「うん」

「何していたの? ってお父さんは言っているのよ」

 最近目尻の皺が気になり始めた若い母。彼女も物静かで、あまり娘に口出しをするタイプではない。けれども、彼女に関しては文句だった。

 娘、麦。悪い仲間と付き合ってはいないか。この年代ではよくあることだと。


「…………」

 羊谷は、答えようとして言葉に詰まる。

 答えは簡単。勉強をしていただけ。昨日の授業の復習と、今日の授業の簡単な予習と。

 正直にそのまま口にすればいいのだ。悪いことをしているわけではない、と自分でも思いつつも。けれどもそれを素直に口には出せなかった。

「別にいいじゃん。高校生にもなったんだし、夜更かしくらい」

「別にお母さんは何も言わないわよ。でも、お父さんが、ね?」

「…………」

 返答の代わりに、バサリと父が新聞を振る。


「夜更かしもかまわん。スマホで友達と連絡を取り合うのもいいだろう。だが、勉強はしておけ」

「はいはい」

「成績はどのくらいなんだ? 学校の勉強にはついていけてるのか?」

「心配ないよ」

 目を合わせず、羊谷はもそもそと囓っていたパンをオレンジジュースで流し込む。

「あたしだって、勉強してるし」


 ぽつりと羊谷が呟く。

 けれども誰もそれには応えず、部屋には沈黙が満ちた。

 

 その沈黙を破ったのは、母の溜息。

 どうせそんなことはしていないだろう、と。


「その茶色い髪もどうにかならないの? 学校でいいって言われてるからって、大学行くなら推薦とか気にしないといけないでしょ?」

「まだ一年生だし。今から考えることじゃなくない?」

「麦、お母さんはお前の将来のことを考えて……」

「ごちそうさま」

「麦!」


 残りのサラダとパンを強引に口の中に押し込んで、それを口の端に寄せてオレンジジュースを一気に飲み込む。

 机を蹴るように立ち上がった羊谷は、忌々しいものを認識したというように、両親の方へは視線を向けなかった。





 羊谷が学校に着いたのは、始業の鐘が鳴る直前のことだった。

 家を遅く出たわけではない。いつもならば始業の三十分前には席に着かないまでも教室にいる彼女ではある。

 だが、今日は理由があった。それは歩きつつ眼前に広げていた英語の単語帳。長細い紙に、英単語が書かれ、その裏に和訳が書かれたありふれたもの。まるで受験勉強をするように、それを読みつつ歩いてきただけだ。


 同時に二つのことが出来ない。そう自身の欠点を自覚しつつ、羊谷は校門をくぐる。

 急げ、と名も知らぬ教員が声をかけるのに適当に返して羊谷は自身の下駄箱を覗き込んだ。

 しかし。

「あれ?」


 そこには何も入っていない。外履きと内履きを交換し、入れるための小さなロッカー。けれどもそこは今ガランとしていて、金属の冷たい空気がひんやりと溢れた。

 困る。

 誰かが間違えて履いていってしまったのだろうか。そう軽く考え、上下左右のロッカーを開くが、どれも外履きの靴が入っている。ならば自分のだけ?

「んー?」

 ぽりぽりと後頭部を掻きながら、羊谷は立ち尽くす。

 どうすればいいのだろうか。とりあえず、このまま靴下のまま歩いて、……購買部で買えばいいのだろうか?


 そもそもなくなったのは何故だ。

 そうほんの僅かな違和感を覚えつつ、羊谷は歩きだす。冷たい床が白い靴下越しに足を冷やす。

 彼女の頭に降り注ぐように、予鈴の鐘が鳴った。




 誰かから嫌がらせをされている。


 そう気付いたのはその日の午後だった。昼休みの後、教室の自分の席にかけてあったカーディガン。それを羽織ったときのこと。背筋にちくりとした痛みが走った。

 見れば、いつの間にかそこに仕込まれていたのは、頭が青いまち針。刺さるまではいかなかったものの、肌を引っ掻いた嫌な感覚が背筋に残る。


 誰かが間違えたわけではないだろう。上履きに関しては、まだ間違えの可能性も残らなくはない。しかしそれとも違う明らかな悪意。

 なんだろうこれ、と午後の授業には身が入らなかった。


 嫌がらせをしているのは『誰か』ではない、と気付いたのは放課後入ってすぐのことだった。

 使った英語の教科書を鞄にまとめている最中。いつものように犬上や猿渡に誘われるかと思ったが、今日はそうではなかった。逆に催促するわけでもないが、ちらりとそちらを窺えば、彼女らもこちらを窺っているように見えた。


 羊谷は、何となく嫌な予感がした。

 明確な根拠があったわけでもない。なのに疑うのは罪悪感もあった。けれども、そのクスクスと笑うような仕草に、何となく不自然に思って一瞬動きを止めた。

 癖のように頭を掻く。その指に残る不自然な感触。ぼろぼろと小さい塊が指の先に当たって落ちた。


 床に落ちて、また指先に一つ残ったものを見れば、それは灰色の消しゴムのカス。

 その小さな塊を見て、何だこれ、と一瞬悩んだ羊谷に犬上と猿渡が歩み寄る。

「うわ、汚れてんじゃん。勉強してると身体から出てくんのかな」

「……え……?」

 嘲笑しながら、猿渡が羊谷の後頭部と背中を優しく払う。髪の毛からも背中からも、パラパラとゴミが落ちる。

 ありがとう、と一応礼を言おうと羊谷が口を開くが、それよりも先に猿渡が羊谷の顔を回り込むように覗き込んだ。


「まあ仕方ないよね。麦はおベンキョー頑張ってるもんねー?」


 目は笑わず、口は嘲りに歪む。

 言葉に込められた悪意を読み取り、羊谷は何を言えばいいかわからず立ち竦む。寒々とした空気が背中を撫でる。


「あ、あの……」

「麦はおべんきょ頑張ってね。うちらは青春を楽しんでくっから」


 ケラケラと笑いつつ、二人は教室を出てゆく。

 それを見送り、羊谷はしばらく動けなかった。




 次の日も、それは続く。


 上履きはなくならなかった。しかし、その代わりにあったことは。

「…………っ!」

 昼休みの終わった後、最初の授業が始まる直前。何の気なしに開いた鞄の中。

 わずかな化粧品や小物が入っていたはずの鞄の中には、黒い粉がぶちまけられていた。砕かれた、もしくは削られたシャープペンシルの芯だとはすぐにわかった。

 指先にくっついた黒い何かに、思わず羊谷は猿渡と犬上を振り返る。だが彼女らは、羊谷を見て、クスクスと口元を隠して笑うだけだった。


 無論、休み時間には抗議をしようとする。

 教科書とノートを机に置くという準備を済ませた二人は、ほんの僅かな休み時間でも互いの机のどちらかで駄弁ることが常だ。

 近寄りがたい、と羊谷は感じた。以前ならば、そこに普通に混ざることが出来たのに。


 唾を飲んで、足に力を入れる。

 一歩近づけば、二人も羊谷に気付き、揃って彼女を窺った。


「あ、あの!」


 意図せず少しだけ大きな声を出してしまったが、休み時間中の教室ではさして目立つものではない。がやがやとした生徒たちの声に紛れて消えたその声には、誰も応えなかった。

 呼びかけられた二人すらも。


 少しだけ間を置いて、不快さを隠さずに眉を顰めて猿渡が口を開いた。

「………………何?」


 羊谷は、自分が悪いことをしていると思ってはいない。

 これは正当な抗議だ。おそらく嫌がらせをしているのは二人で、自分はそれを止めたいだけ。

 そう思いつつも、続く勇ましい声が出ない。

 猫撫で声のように、媚びを売るような声しか。


「あ、あたしの鞄さ……触った?」

「は? 何言ってんの?」

 猿渡と犬上が顔を見合わせる。猿渡が「わけわかんない」と呟けば、その言葉に犬上は笑った。


 ガラリと豪快な音を立てて扉を開け、日本史の教員が教室に入ってくる。

 まだ開始の鐘が鳴る前。けれどもその教員を見て、猿渡は顎で示した。

「ほら、授業始まるって。早く席に戻りなよ」

「……何で」


 腕時計を見つつ、席に着けー、と教員が叫ぶ。

 教員がトントンと揃えるレジュメの音とその声に急かされるよう、羊谷は急ぎ席に戻ろうとする。けれども視線が、物理的な圧力を持って後ろから追ってきているように感じた。





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