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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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坂道発進




 授業終わりの鐘が鳴る。

 今日の分の授業範囲を既に終えていた日本史の教師は、時間を潰すための雑談を止めて時計を見た。鐘が鳴った以上、既に無意味な行動だったが。

「じゃあ今日はこれで終わり。次の講義は続きからやるからなー」


 起立も礼も号令なく、ざわざわと動き出した生徒たちを尻目に、カツカツと踵を鳴らして教師が出ていく。

 六限目の授業の終わり。これで放課後が始まる、と皆が教科書を廊下に備え付けられたそれぞれのロッカーに放り込むために立ち上がった。


 今までは羊谷麦もその例外ではなかった。

 日本史は苦手だ。源氏や平家の家系図など覚える気にもなれず、その後の対立や南北朝の樹立など単なる呪文にしか聞こえない彼女。

 覚えなければならない、と知ってはいながらも、今の自分たちには一切の関わりがない理解も把握も出来ない遙か昔の出来事。

 そのよくわからない文字の羅列された教科書と呼ばれる紙の束などロッカーの中にうっちゃって、楽しい放課後が始まる、というのがいつものことだった。


 けれど、と羊谷は立ち止まる。

 今日やった教科。情報に数学、化学、現代文、保健体育、日本史。体育は除いても、他の五教科。それくらいは、家に持ち帰り読み直すべきだろう。ノートに記したメモ書きに目を通し、その意味を把握しておくべきだろう。

 それが復習というもので、頭の良い者は皆やっていることだ、と羊谷は信じている。ましてや出来の悪い自分のこと、それくらいしなければもうついていけない、とすら思っている。もちろん、それは多くの場合真実で、そして実際必要なことだったが。


 化粧品や小物を入れた鞄の中に詰め込むようにしてノートと教科書を入れる。ノートは全教科共通のものを使っているため一冊で済むが、資料集まで入れた教科書七冊がやけに嵩張って入れるのに苦労した。


「ねえぇ、麦い……」

「んー?」


 後ろから声をかけてきたのは、いつも遊んでいた友達だった。犬上しおり。猿渡と仲が良く、髪型と色を揃えた双子コーデをしている女子だ。

 見咎めるようにすらせず、指をくわえて興味深げに見ているのは、膨らんだ羊谷の鞄だ。その中に押し込まれてひしゃげた教科書類は、彼女の印象にそぐわない。


「また勉強? 付き合い悪いって七瀬も最近愚痴こぼしてんだけど」

「ああ、うん」

 

 私は言ってないよ、と言外に加えつつ、犬上が上目遣いに羊谷を見る。

 いつからか付き合い悪く、遊ばなくなった友達。友達だった女子。無表情に近い惚けた顔で犬上は羊谷を見て、首を傾げた。


「親がうるさいんだよね。たまには良い点取れってさぁ」

「何それ。毒親」


 クスクスと笑う犬上に、何故だか羊谷は罪悪感が湧く。

 もっとも、その罪悪感と、謝りたい感覚はここにいない誰かに向けたものだったが。


「だから……」


 そして、視界の端で開いている扉から、見慣れた金髪がちらりと見えた。今目の前にいる犬上と同じ髪の色、髪型ということまでもすぐにわかった。

 急ぐように羊谷は鞄のジッパーを閉めて、肩にかける。


「だ、だから、また総一先輩のところでもいってお勉強しようってさ」

「ふうん」


 まだ入ってきた猿渡の存在に気付いていない犬上に向かい、羊谷は精一杯の笑みを向ける。

「だからごめーん。しばらくは遊ばないって決めてんだよね」


 んじゃ、と羊谷も猿渡に気付かないふりをしつつ、猿渡が入ってきた方ではない扉を目指して歩き出す。

 『絡まれては厄介だ』。そう、一瞬浮かんでしまった言葉に、更に罪悪感を覚えつつ。

 逃げるように足早に、羊谷は歩を進める。避けているわけではない、と自分で自分に言い聞かせつつ。


 廊下へと出たところ。

 後ろから自分の名前を呼ばれた気がして、それが聞こえなかったふりをしつつ。





「おお! 麦さんお久しぶりです! おっすおっす!!」

 そして玄関口近く。見たことがあるその顔に、羊谷は全力で顔を顰めた。

「ども」


 ぺこりと一応頭を下げながら、その男には挨拶を返す。鳳総一、どうも、出会ってからあまりしっくりこない思い出しかない先輩。

 その彼は今、生徒会長辰美糸子に首根っこを掴まれて、足を投げ出して引きずられていたのだが。

「……何やったんすか?」

「いやさ、ちょっと前に武道場の床壊すところに遭遇しちゃってさ、その解体の手伝いしろって言われてさ。なんか? せっかくだから全面改修するために、工事するから荷物運び出すの手伝えってさ」

「お前の試合中だろうが」

 呆れたように糸子が言う。それはたしかに、とも総一は思う。たしかに自分の試合中に武道場は壊れてしまい、当事者の一人である、といえるかもしれない。

 けれども、言い分はある。

「壊したの会長の弟さんじゃないですか」

「……む…………」

 武道場。柔道場に似た床が、下のスプリングまで含めてクレーター状に陥没しはじけ飛んだ。けれどもそれをやったのは糸子の弟辰美理織だ。

 更に自分は壊す気もなく、壊すのにも荷担した覚えはない。むしろやめろと言ったのだ。


「そもそも業者がそういうのやってくれるでしょう。そういうのも含めての工事業者でしょ? ねぇ?」

 

 ねえ? と聞かれて羊谷は返答に困った。

 事情がさっぱりわからない。武道場の床が壊れた、というのはどういうことだろう。ましてやそれが試合中に起こったこと、と言われても羊谷には想像もつかない出来事だ。


 そしてまあ、たしかに、とも思う。

 修理に工事の業者が入るという。ならばそういったことは、業者の、またはその荷物の持ち主の仕事ではないだろうか。


「たまには学園に対する奉仕の心というものをな」

「えー?」

 

 そして立ち止まり、説教を始めた会長と書記の二人。

 それを眺めつつ、自分には関係のないことだ、帰ろう、と溜息をついた羊谷は、背後から迫るような声を聞いた。


 誰の声、とはわからない。けれども廊下の曲がり角の奥、聞き慣れた声がした気がする。

 猿渡と犬上、それにいつも遊んでいる二人の男子の声がした気がする。


 まずい。

 早く、ここから去らなければ……。



「あ、あの」


 そして去らなければいけない、と思いつつも、思わず羊谷は総一と糸子に声をかけてしまう。かけた先は二人というよりも、総一だけだったのだが。

 説教の最中。二人の視線が羊谷を向く。

 続きは何だ、と視線が尋ねる。

 羊谷としては、ほとんど無意識だったので答えはない。


 だがそれも一瞬のこと。

 よく考えれば、これもいい考えだ。以前流れた噂話、それに自分の嘘。それを本当にすればいい。


「総一先輩、暇ならちょっと勉強教えてもらえないっすか。わから」

「はいよろこんで! わかりましたよろこんで!!」


 ないところが、とまで言わせず、糸子の拘束を外し、総一が羊谷の眼前へと飛び込む。

「いやあ、いいところにきてくれた。俺たち本当マブダチだよな。で、どこで? 図書館? 空き教室? 屋上? 生徒会権限と特待生権限でどこでも開けちゃうよ!」

 羊谷の肩を抱き、総一は笑顔を作る。

 もともと、今日のノルマは終えていないのだ。『他人のために何かをすること』。それが工事の手伝いで済むのだとも考えていたが、それ以外でそれより楽ならば申し分ない。



 それに。

 総一の耳にも届き始めた。猿渡たち、羊谷の悪友の声が。



「ど、どこでもいいんすけど……」

「そういうわけで会長! 俺は勉強熱心な後輩に勉強を教えるという仕事がありますんで! それでは!!」

「ぐ……」


 輝くような総一の笑顔。サムズアップ。

 けれども糸子は言い返せなかった。正論では、無理だと思った。


「じゃあ、それが終わったら……」

「そうだな、学外がいいよな。ファミレスは面倒だし俺んちでいい?」

 勉強会が終わったら手伝え。そう言いかけた糸子の機先を制するように、総一は羊谷の肩をバンバンと叩く。

 その剣幕と笑顔に、どう答えていいかわからずに羊谷は肩を竦ませた。

 しかしまあ、構わない。一度行った場所だ。ならば二度目も。


 何故だか唾を飲み込んで、羊谷は『構わない』と口にしようとする。

 けれども。


「か、かかってこい?」


 何故だか吐き出されたその言葉に、糸子の困惑の声と、総一のゲラゲラという笑い声が響いた。






 次の日の授業で。


「では、出席番号二十五から二十九まで」


 数学の教師、タコ頭の声で、がやがやと生徒たち五人が立ち上がる。彼の授業中、よくある風景だ。前回の授業で行ったこと、もしくは以前に学んだことの復習のため、テーマをまとめた問題を出す。

 そしてそれを、指名された適当な生徒がホワイトボードに書く。公式、または図示をして、精密に。


 今回立ち上がった中には、羊谷もいた。

 与えられた問題は、三角関数を用いた応用問題。今まで二辺が1の大きさを持つ二等辺三角形、もしくは1×√3の大きさを持つ直角三角形を用いて導いていた三角関数の定義を、単位円を用いて拡張した問題だ。


『△ABCにおいて、a=7,b=8,c=5 のとき、面積Sを求めよ』


「……? …………??」


 ホワイトボードの中、羊谷の分として割り当てられた空間。

 同様に壇上に上げられた四人は、それぞれ別の問題を迷いなくすらすらと解いている。ペンがホワイトボードを叩く音はやまず、一番早い者は既に書き終えて壇を降りた。


 一瞬、羊谷には問題の意味がわからなかった。

 震える手はペンをボードに当てるものの、意味のある文字は書けない。点がいくつも並んで、それでも何も出来ない。


 一人、二人、と壇を降りていく。

 それでも羊谷が見つめているのは綺麗に掃除された白い板。まるで自分の頭の中と同じ。


「どうしたー? 羊谷、わからないか?」

「い、い、いえ」


 応えながらも、いつものように頷きたい気分だった。

 何だっけ、これは。三角形ABC? 何だろうか、そのわけのわからない呪文は。

 

 悩む羊谷の背中を見て、一人の女生徒が声を押し殺して笑う。

 犬上は、袖で口元を隠しつつ窺い見ていた。

 覚えていたのは、愉悦と共に、安心感。


 しかし。


『まずは図を書いてみて、どっかでいいからsinとかcosとか出せるか考えてみる』


 ん? と何処かで聞いた声が耳に響いた気がした。

 何処かではない。そういえば昨日、まさに。

 羊谷が隣を見れば、苦戦中の一人がまだ残る。彼も、そして他の生徒も、確かにまず図を描いていた。


 ああ、なるほど。


 羊谷の指がするすると動きだす。

 そういえばそうだった。そうだ、こうだった。昨日習ったばかりのことではないだろうか。総一に軽い気持ちで頼んだ勉強で、今は五教科の分が頭にすり込まれている。

 そうだ。たしかに。

 そうだ、これは確か昨日やったはずだ。これとは違う、別の数字だったが。


「そうだ、8の辺と5の辺の間をAとして、cosAが40/80、約分して1/2……??」


 あってるか? と何度も考えつつ、羊谷は昨日の記憶を辿る。公式の難しい文字を覚えるのは辛かったが、覚えてしまえば楽、と何度も言われたことだ。

「そうするとsinAが……」


 すらすらと、ではない。けれども辿々しくも、羊谷の書いた式が答えを導き出す。

 手間取っていた男子生徒も回答を終えて壇を降りる。残るは羊谷だけ。残すは単純な計算のみ。


 高校一年で習うような、ごくごく単純な三角形の面積を求める問題。

 多くの人間が苦戦すらせず、ほとんど何も考えずとも答えを導き出せるような初級の問題。公式さえ覚えていれば、そこに当てはめるだけ。出来る人間は大抵の場合そう口にする。

 けれども出来ない人間もいる。数学など、と諦めてしまう人間も。


 問題の難易度としては、決して褒められるようなものではない。

 けれども羊谷にとっては、大きな一歩だ。



「っしゃ! 出来た!!」


 最後に、とS=の値を書き込みつつ、大げさに羊谷ははしゃぐ。

 基礎的な問題だ。クラスの人間、一部を除きほぼ全員が間違わないほどの。

 それでも初めてだと思った。ホワイトボードに描かれた数式を写し、言われるがままに数字を当てはめて解く……ではなく、自分が自分の頭で解いたのは。

 実際には総一の授業の中で、何度もやっていたことなのだが。



「おう、じゃあ席に戻れ」


 タコ頭がせかすように羊谷に告げる。その嬉しさがわからないように。事実、わからずに。

 そして席に戻った羊谷の目に映る数学の教科書は、もはや意味のわからない文字の羅列ではない。

 突然の変化にも感じたが、それは今はどうでもよかった。

 

(……なんか、読めるようになった気がする……あたし実は天才じゃね?!!)


 誰にもわからないけれど、一歩を踏み出せた。

 ほんの僅かなきっかけ、変化と実感。頬が綻ぶ。

 羊谷にとって、初めて、勉強が楽しいと思えた瞬間だった。





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