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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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12/70

責任は儂が持つ




 長い髪を踊らせ、教室前の廊下を女生徒が走る。

 足音はほとんどせず、それでいてその速度は陸上班のエースにも劣らない。頭頂部でまとめられた髪は棚引くようになびき、前傾姿勢の走る姿まで美しく彩っていた。


 当然のように、登竜学園でも廊下を走ることは禁じられている。

 走っている女生徒、辰美糸子。本来、走る生徒を指導するのは彼女の方である。

 だが、今日ばかりはそうとも言っていられない。


 他校に通っている弟がこの学校に訪ねてきたから。

 そうともいえる。だが、それでは足りない。



 生徒会の仕事を大急ぎで終えた彼女は、酷く焦っていた。

(試合は、今、どんな……!)

 疾走中に窓から見えた武道場。その姿に、糸子は決意する。これほどまでに急いでいるのは、二年前に弟の拳道の試合を観戦した以来だったかもしれない。

 その緊迫感に似た感情は糸子のいつもの自制心を大いに低下させていた。


「おぇ!?」

 窓の横にいた男子生徒が驚きの声を発する。

「御免!!」

 だがその姿を省みることなく、糸子はその身を窓から投げ出した。

 ここは三階。その先は中庭、下はアスファルト。


 傍から見れば自殺行為だが、糸子にとっては三階という高さは少しの段差に過ぎない。

 スカートを揺らさず、真っ直ぐに下へ。

 そして、軽やかに着地する。辰美流柔術の免状を持つ彼女の着地はまるで羽のよう。


 そして走り出す。

 今度は総一にも書類を分担させなければ、などと考えつつ、武道場へ走った。




 糸子が赤く塗られた鉄の扉を開いたそのとき、目の前にあったのは、総一が倒れ理織が見下ろす光景だった。


 倒れていた総一が転がりながら身を起こす。その左胸を押さえて、眉を顰めながら。

「痛ちちち……」

 擦る手当ては、心理的なものを除き痛みを軽減するのに何の効果もないものの、それでもそうしてしまうのは人の性というものだ。

 理織の下段突きは確実に総一の胸を捉え、試合場の畳に跳ねさせるようにその体を叩きつけていた。


 上半身を起こしたまま総一は動かない。

 だが、拳道のルール上はそれも認められている。乱れた衣服、受けたダメージ、その他の精神状態。それらを整えるため、一本が決まった後には三十秒の休憩が認められいる。

 双方の合意があれば休憩時間などはなくなるが、どちらかが急ぎ、どちらかがゆっくりと準備するというのが通例だった。

 急ぎ準備し相手を急かし、プレッシャーを与えるという戦術。相手を焦らし、平静さを失わせながら自らのダメージを少しでも回復させるという戦術。それはどちらも認められているし、特に敗者はせっかく得た時間を有効に使おうとするものだ。

 今回の総一は後者。理織を焦らしにかかっていた。もちろん、その体に残るダメージが深刻という切実な理由が主なのだが。


 

 観戦していた学園長の背後から進み出て、糸子は並び立ち、尋ねる。

「……負けたんですか?」

「おう。一本目じゃがな。お主の弟が一本先取じゃ」

 学園長は、その言葉の主語に気付かず理織の優勢を報告した。その言葉に塗りつぶされた糸子の言葉を察することが出来る者がここにいないことは、彼女にとって幸運だったが。


 学園長の言葉を受けて、糸子は弟を見る。


 二年前、片腕しか使わなかった総一に理織は辛勝した。両腕を使う総一に勝てるようになったのは素晴らしい進歩だ。

 そこまで考えて、糸子は拳を握りしめる。固唾をのんで、弟の様子を見守っていた。

 内心で、励ます言葉が溢れ出る。


 気を抜くな。今は上手くいっていても、相手が相手だ。

 気を抜けば食らいつかれる。蛇のように狡猾に、虎のように激しく。


(……頑張れ)

 その視界に入っている()()へ、糸子は声に出さずエールを送った。




 二十秒が経ち、休憩時間も残り十秒。

 総一がようやく立ち上がり、理織と向かい合うべく顔を上げ、肩を一度上げて、下げる。

 もう一度。これが一戦目という気持ちで。そう自分を元気づけて気合いの息を吐く。

 

 だが、理織は構えをとらなかった。


 その姿を糸子は不審に思い、審判すら時間のカウントを忘れた。

 審判には、その理織の感情がわからなかった。何かを我慢しているかのように唇を結び、視線をやや下に向ける。

 

 学園長も、丑光もわからない。

 だが、糸子は、糸子だけは見慣れた弟の顔から少しだけ感情を読み取った。

 その感情は、落胆。


 ぽつりと理織が呟く。

「何故、加減したんですか」

「…………?」

 総一もその意図がわからず、ただ黙って理織の言葉の続きを待つ。それでも理織の表情に、何故だか少しだけ胸がざわついた。


「本気でやって下さいとお願いしたはずです。なのに、……先程の下段突きは、貴方なら躱せたはずなのに……!」

 そこでようやく総一も理織の心中が読み取れた。

 だが、それは違うと総一は思う。

 

 首を振る。一抹の寂しさを胸に抱きながら。

「んにゃ、あれは躱せなかった。俺はずっと本気だよ」

 それは真実だった。汗の滴に足を滑らせた総一にはもはや為す術がなく、体勢が崩れたまま理織の拳を迎えるしかなかった。そのコンクリートブロックを容易く砕く下段突きの威力を殺したのもまた、総一の技量の為せる技だったが。


 そして、その一撃を受けたのは偶然ではない。

 そう総一は信じていた。

「俺は本気、弟くんが……」

「……どこまでも、はぐらかすんですね」


 総一の言葉を遮り、理織が今度は構えをとる。その雰囲気が、先程の真剣さともまた違っているのを感じ取り、総一は眉を上げた。


「わかりました。俺が本気を出します」

「……ああ、なるほど」

 総一の頬に冷や汗が垂れる。この『本気』は、先程までの『本気』とはまた違う意味合いの言葉だ。

 その真剣さ、そして殺気ともとれる鋭い視線が総一を射貫く。


「……理織! そこまでだ!」

 その様子に糸子が叫ぶ。双方を気遣うためのその言葉は、理織の耳には入らなかったが。


「お姉ちゃん、やめとけってさ」

「今回ばかりは姉さんの言葉でも、聞けません」

「俺もやめておいた方がいいと思うけど。結構な安普請だよ?」

 


 総一が渋い顔を作る。

 その顔に、雰囲気が理解出来ていなかった丑光がようやく学園長に尋ねることを思い立った。

「さっきまでのは本気じゃなかったんすか?」

「本気じゃろうなぁ。辰美理織にとっても、総一にとっても」

 学園長は楽しげに髭をしごく。教育者として止めるべきか、武道家として続行させるべきか。相反する感情が、胸の内でせめぎ合っていた。

 

 だがその逡巡も一瞬で終わり、学園長は笑みを浮かべる。

「……武道にはの、競技化してしまうと、消えてしまう技術が存在するんじゃよ」

「はあ……?」

「いわゆる秘伝や奥義、秘奥と呼ばれるもんじゃな。技術体系の基本を発展させたものが多いんじゃが、その多くが、武術から武道へと変化するにつれて失われてしまう」

 

 その理由は単純だ。『必要ないから』もしくは、『危険だから』。

 秘伝や奥義は、その流儀のうちの独立した技術ではない。多くはその基本的な修練を続けていけば自然と身につくものであるし、むしろ修練とはその奥義を身につけるまでの過程であることも多い。

 一撃必倒の正拳突きも、精密技巧のクロスカウンターも、全ては基本から繋がるものだ。

「じゃが、そういったものこそ、競技化してしまった武道に足りないもんだと儂は思うぞ」

 

 全ては基本から始まる。そして覚えた奥義こそ、その者の誇れる一本柱になるというのに。

 指先での突きは危険。関節技は体に悪い。

 だからなんだというのだろう、と学園長は考える。


 武術とはそういうものではなかったのだろうか。強さを求め鍛え上げ、固めた拳で相手を貫くのが本意ではなかっただろうか。

 安全に、誰でも出来る競技。そんなもの、体を鍛えることは出来ても、ものの役には立ちはしない。

 競技化してしまった武道には『奥義』はない。

 つまらない。それが、心底つまらない。学園長は、そう信じていた。

 

「やれやれーい! 責任は儂が持つ! 辰美理織!! 思いっきりやれーい!!」


 わはーと笑顔を作りながら学園長は叫ぶ。

 培った技術は、使わなければ無駄になる。本気で何かをすることを制限して、何が教育者か。嘘ではないが、そんな言い訳じみた思考が次々に浮かび上がる。

 その実、ただ単に辰美流の秘技を見たいと思ったからなのだが。




 あの爺はまったく……。

 総一はそう内心呟き、それからまた理織を見る。

 気炎が上がっているかのような雰囲気。真剣な眼差し。その体が、鎧に覆われている気さえした。

(……しゃーない)

 総一は合わせるように、また軽く跳ぶ。

 何度も跳び、この畳とその下の感触を確かめているからこそ、理織の本気が無駄になると思ってはいたが、それでも備えて集中する。

 

 審判が、気を取り直し手を掲げる。少しのアクシデントはあったし、休憩時間も超過していたがそんなことはどうでもよかった。

 変わった空気に唾を飲む。何が起きるのか予想がつかず、審判も内心期待をしていた。

 この二人の試合をまだ見ることが出来る。ならば、誰も気付かないルールへの抵触など自分の裁量でスルーしよう。そう考えた。


「……本当に、やめといた方がいいと思うけど」

「言葉は、もう充分です」

 総一の最後の忠告に、理織は耳を貸さない。それほどまでに待たせてしまった総一にも責任の一端があるのだが。

 


 審判の手が振り下ろされる。

「始めっ!!」


 その瞬間。

 試合場に、轟音が響いた。




 捲れ上がる畳。

 木で作られた土台が割れ、備えられていた緩衝用のスプリングがはじけ飛ぶ。

 ()()()()()()()()()()()()理織を中心に、形作られたクレーター。

 

 試合場が、窪地状の残骸に変わった瞬間だった。



 パラ、と砂礫が畳に落ちる。屋根から落ちた埃までもが理織を責めるように。


「……ほら?」


 審判員を引きずり、比較的損傷の少ない場所まで移動させていた総一が、一声だけ発する。

 その声に我に返った学園長は、

「しょ、勝負なし!! なし!! やめやめ!!」

 大きな声で両手を振り、試合の中止を宣告した。





「申し訳ありませんでした!!」

 理織が頭を下げて大きな声で謝る。糸子も横で頭を下げて、学園長は彼らの謝罪を天を見上げて迎え入れた。

「いいんじゃよ……せ、責任を、取るといったのは儂じゃもん……。はは、はははは……」

 涙を堪えながらそう言うが、辰美姉弟はその仕草に更に罪悪感を覚えた。

「試合場も、ほら、そろそろ整備しとかんといけんかったのに、しなかったのは儂じゃて。……はははははは……」

「土台が大分痛んでましたしねー」

「総一ぃ!! 知っとったんなら何故っ……!?」

「俺、何回も止めましたけど」

 他人事のように話す総一に向けて怒鳴るも、ただ一言で返される。たしかに、そうだったが、と言い募ろうとするが、そう言い募ったところで返される言葉は明白だった。


 糸子も止めた。総一も止めた。一番の責任者である学園長が煽らなければ、理織も辰美流の秘奥の一端を見せることはなかったかもしれないのに。

 学園長自身がそう思っているからこそ、言い返せない。


 試合場の整備はこの学園の責任、ひいては学園長自身の責任だ。

 もちろん無茶な使い方をしたとして、今回の破壊については理織にほとんどの責任がある。それでも、学園長はその責任を追及する気はなかった。


「……今日はもう帰るがよい……。今後のことは、辰美糸子を通じて伝えるから……」

 蹲り、顔を両手で押さえてしくしくと泣きながらそう学園長は諭す。

 コミカルな演技はいつものことだと気にしない総一を除く三人は、沈痛な面持ちでそれを見下ろした。


 



 修理などは明日以降。そう学園長が宣言し、各々が解散の準備を始める。

 丑光は明日以降の稽古について悩みながら武道場を立ち去り、それを見送るように理織が立った。

「……大会、頑張ります。優勝したら、試合の続きをしてもらえますか?」

 理織が、背後にいる総一に向けてそう呟く。

 またそれか。総一も少しばかりげんなりとしながら、笑って返した。

「続きは必要ない。俺は本気だったよ。そう思えないとするなら、弟くんが強くなったんだ」

「そうだぞ。理織、総一から一本を取るなんてまぐれじゃありえない!」

 総一の言葉に糸子も追従するが、理織は振り返って無言で首を振った。


「俺、帰ります」

「じゃあな」

「ああ、待て、理織! 私も荷物持ってくるから!」

 糸子が走り出したのを見送り、校門で待つ、とその後ろ姿に向けて理織は叫ぶ。

 そして総一を見て、頭を一度下げて歩き出した。



 

 人が減る。

 背後にあるのは鉄球を落とされたかのよう割れた試合場。

 そこを総一が振り返ると、落ち込んでいた学園長と目が合った。


「……総一……」

「じゃ、俺はお役御免ですね! 拳道着は洗って返しますんで!」


 これ以上絡まれては仕方がない。そう察した総一は、学園長に一方的に挨拶を投げつける。

 それから大股に一歩踏み出したところで、めげなかった学園長が言葉を投げ返した。

「楽しくなかったかの」

 また何か面倒なことを。そう思った総一だったが、学園長の真面目な声音に驚き、ゆっくりと振り返る。

 そこには、教育者としての威厳を持つ学園長が立っていた。


 総一は、それでもペースを巻き込まれぬように半笑いを保つ。

「こんな痛いの楽しいわけないでしょ」

「……そうか」

 ぼそりと呟かれるような言葉が耳に染みる。

 それから学園長はいつもの笑顔に戻り、歯を見せて笑った。

「拳道着に関しては待っとらんからゆっくりでいいぞい。ついでに血のシミも消しておいてくれると助かる」

「過激なことやってんですね……」

 総一の借りていた備品の拳道着。その左肘の辺りに付着した大きな血のシミ。以前誰かがつけたようで、よく見なければわからないほどにはなっているが、それでも確かに気になっていた。


「明日も学校に来るんじゃぞ」

「それはもちろん。高校生ですから」


 高校生のうちは真面目に出る。特待生ということで、授業に出なくてもよかったのは幸運だったが。そしていつか行くことになるだろう大学にも、出席はする。

 そう決めていた総一は即答し、その答えに学園長は困ったように笑った。




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