二人力量に差はわずか
腰を落とし、泰然と理織が構える。
それに対し総一は右足を引き半身になり、腕を脱力したままごく軽く上下に跳び続ける。
その対照的な二人の姿を、丑光は焦れるように見ていた。
(動かねえ……のに空気が重い……)
丑光が無意識に唾を飲む。その緊張感は、自分も今まさに対峙しているかのようだ。
そう考え、いや、と丑光は僅かに首を振る。
今対峙しているかのように、ではある。だが、先ほどの自分が辰美理織と対峙したときよりも遙かに張り詰めた空気。
きっと二人はもう既に戦っているのだ。
総一と理織の息遣いだけが試合場に響いているような、そんな気がした。
緊張感に、理織の額に汗が垂れる。
瞬間、総一が動いた。
跳んで落下したその勢いを前方へと転換し、瞬時に前へと飛び込む。
理織が前にかざした左手。そのすぐ横、理織の懐まで迫った。
ようやく理織も反応する。
左腕を折り曲げ、捌くために拳を作っていた右手までを解く。
丑光がその後聞いたのは、パアンという乾いた音だけだった。
驚愕したのは、その動きの速さを目で追うことの出来なかった丑光。
そして、打った総一だった。
(固え……)
総一が理織の懐に飛び込み打った拳。その数は七。
だがその打ち込んだ拳のうち、四つは理織の左掌で叩き落とされ、一つは右手で弾かれる。そして、残り二つを腹筋にまともに受けて、なお理織は平静を保っていた。
ならもう一撃、と総一は下がりながら右の拳を準備する。
だが、そこまでも理織は読んでいた。
総一の右ストレートを左肘で押しのけながら、回転。全身を連動させたその力を右肘に集中し、背を向ける勢いでの肘打ち。
腹部に当たりそうだったそのカウンターに、かろうじて総一の腕が間に合う。
「…………っ!」
危うく顔をしかめそうになりながらも跳び退る総一の腕に、痺れに似た痛みが走った。
腕を軽く振り、痛みを誤魔化すように持ち上げて構える。ボクシングのような構えだが、ボクシングの技法をほとんど使わない総一にとっては大した意味はない。
「……大層な腹筋ですこと……」
「私語は慎んで下さい」
総一の軽口を審判が咎める。かといって余程のことがない限りそれによる指導や警告がないのは、この競技の欠陥だとよく言われていたが。
(……ならもう一度)
総一がもう一度飛び込む。ステッピングジャブの足。
その鋭さに、それを見ていた丑光の顔がわずかに強ばった。
(それはもう見てる!)
理織もその動きに丑光を連想し、左掌を僅かに上に持ち上げる。だが、その総一の口元までは見ていなかった。
出しかけていた左拳を戻し、その勢いで総一が仰け反る。
そして、右の足が鈍器のような重さで下から駆け上がり、理織の腹筋を貫いた。
(……っ!)
慌てて腹筋を固め、貫かれた痛みを無視して総一の足首を掴む。総一にとっては、想定外の出来事だった。
理織は総一の残った軸足、左足を刈りにかかる。
だが次の瞬間視界に入った総一の左足が顎を掠めそうになり、慌てて避けたときには既に総一は手の届かないところに立っていた。
(嘘だろ、おい……)
その一部始終を見守っていた丑光は、内心感嘆の息を吐く。
その内心が一部実際に漏れていたのを見て取り、学園長はにっこりと笑顔を作った。
総一がしたことは簡単だ。
理織に右脚を掴まれたまま、左脚での跳躍、そして空中での回し蹴り。
単純な動作。
だが、丑光は思う。自分にあれが出来るとは思えない。助走もなしに左脚だけで跳び、相手の顔面へ有効打と判定されるだけの蹴りを放つ体幹の筋力、バネ。それから一瞬だけ緩んだ理織の手を脱出するタイミングのはかり方。明らかに自分の領域より遙かに上にいる。
丑光の拳が握りしめられる。
一体どのような練習を積めばああなれるというのだろう。あの二人の領域に辿り着けるというのだろう。
今まで怠けていたつもりはない。なのに、それなのに。
丑光の内心を知らず、理織の右の口角が上がる。
目の前の総一の技量に感嘆し、そして喜びを覚えた。
やはり、そうでなくては。
中学時代、自分が唯一苦戦し、そして負けた相手。
それでこそ乗り越え甲斐がある。それでこそ、それでこそ。
溢れる喜びに拳が握られる。いつもよりも力強いと自分でも感じていた。
もっと強く、もっと頑強に。修行の成果をここに示せると、喜んで。
構えをとる。左手を前に構え、右手を腰の横。先程までと多少異なり、緩く開いた両の拳はどんな攻撃にも対応し、防ぎ、放たれる拳は相手の防御を貫く。
辰美流柔術の、基本にして究極の構えだった。
理織の喜びを感じ取り、総一は内心溜め息を繰り返していた。
(弟くん、やっぱ強くなってるって……)
だらりと下げている両の腕は理織の受け捌きと肘打ちで痛んでおり、特に肘打ちを受けた左腕は力を入れると酷い痛みを発した。
普通の打撃ならば、軽く受け流すことが出来る。中学の時も、それで片腕なりに善戦出来た。しかし、今では両腕を使いこれだ。
負けるのが嫌なわけではない。むしろ、別に負けてもいい。だが、そうしたところで理織が諦めてくれるかどうかはわからない。
実際、中学時代の試合では理織が勝っているのだ。なのに、自分は負けたと思い込み、そして総一にまた試合を挑んでいる。
もちろん、申し訳なくは思っている。
決勝戦の直前に腕を怪我し、本領を発揮出来なかったせいで勝ったはずの理織が燻っているのはわかる。『もしかしたらあの勝利はただのまぐれだったのかもしれない』と思ってしまうかもしれない要因を残したのは間違いなく総一だ。
だが、もういいだろう。もう構わないでほしい。もう、決着はついている。
再度拳を作った際に左腕が発した激痛に、総一は本気でそう思っていた。
理織が動く。
その動きに、丑光が反応し目を開いた。
(さっきの……!)
正拳突きの構え。丑光が受けようとし、そしてまともに直撃してしまった剛の拳。
次の瞬間には、それが総一へと迫る。
丑光は凌げなかった拳。それを総一は踏み込んで躱し、そして逆に左のフックを理織の肩に直撃させる。
総一も、理織の肩を狙ったわけではない。頭部を狙い、そして弾かれた。
正拳突きで出した右腕をそのまま使った理織の裏拳。その腕を体で抱えつつ、総一が腕ひしぎ十字固めを狙うも失敗。そのまま両者離れ、また近付きつつ打ち合う。
丑光は、今日何度目かもわからない驚愕を繰り返していた。
試合場に、肉を打つ鈍い音と服が風を切る鋭い音が鳴り響き続ける。
驚愕は、その内容に、でもある。だがそれ以上に、二人が『打ち合っている』ということ自体が驚きだった。
「……二人の動きを見て、何か気付くかのう?」
学園長の言葉が耳に届き、そこでようやく丑光は、二人の戦いに見入っていたことに気がついた。
学園長の横顔を見て、丑光は呟くように尋ね返した。
「何か、とは……」
「そうじゃの。二人力量に差はわずかなれど、戦い方は正反対じゃ。それは何故だと思う?」
「……戦い方……」
もう一度二人の方を向き、その攻防を確認する。そこから打ち合っていたのは三合ほどだったが、それで丑光の表情が僅かに明るくなる。
表情の変化に、気付いたと確信した学園長は、解説を加えるべく口を開いた。
「辰美理織の戦い方は素直なもんじゃな。辰美流柔術の特色でもあるが、メリハリの利いた気持ちのよい戦い方じゃわい」
丑光は理織が総一の連撃を防ぐ姿を見て、唾を飲む。自分ならば、三手ももたない素早く執拗な連打。それを、理織は危なげなく全段防いでいた。
「じゃが、それが弱点でもある」
「弱点?」
「攻めるときは攻め、守るときは守る。そう専心しているからこそ辰美の拳は強い。お主が、見えていても捌ききれなかったほどな」
わかってはいるが、それを学園長に蒸し返されて丑光の悔しさが顔に滲み出る。あれならばまだ、見えなかったから凌げなかったということの方がマシだと思いつつ。
「そして、守るときも同じじゃ。総一の連撃を防ぎ、捌き、叩き落とす。そう専念しているからこその強さじゃ。……わかったじゃろ?」
丑光はゆっくりと頷く。その瞬間、理織の下段蹴りを跳んで躱した総一のソバットが理織の頭部に当たる。有効だと審判も一瞬思ったが、かろうじて挟み込んだ腕で、理織はそれを凌いでいた。
「攻めているときは守らず、守るときは攻めない。故に、それぞれの腕前がそれ以下の総一に後れをとる」
「それ以下、って……」
丑光は学園長に抗議をする。総一の腕前が理織以下ならば、ならば自分は何なのだ。どちらも遙か高みにいる現在、どちらも貶されたくはなかった。
もちろん、学園長も貶したつもりはない。単なる言葉の綾だ。
「……総一の流儀を何と見た?」
「何ですかね……。先程はジークンドーかと思ったっすけど、左構えだから違いますし……骨法……じゃないし……」
ならばボクシング。とも思ったが、それも違う、キックボクシングやムエタイのような構えとも違う。システマなどとも似ている気がするが……。
一瞬悩んだ丑光に、学園長はあっけらかんと返した。
「ま、わからんわな! あれも、辰美流柔術と同じ古流柔術じゃ」
「…………」
丑光は内心学園長を睨む。ならばわかるわけがない。ポピュラーな流儀やその派生ならばまだしも、古流柔術は知られていない門派が多すぎる。一目見ただけでわかるのは、それこそ日本でも学園長くらいのものだろうと思った。
「咋神流……。古くは寺社で研鑽されてきたものらしいが、今じゃその技術も絶えてしまっていたようでのう。儂も、総一以外の使い手を見たのは一度しかない」
「……はあ……」
丑光は気のない返事を返す。それよりも、目の前の打ち合いの方が気にかかった。
「その動きの特色は、流動。常に攻防が激しく入れかわり、捌きながら打ち、打ちながら躱す。そういう意味では、攻防一体のコンビネーションを使い最短で勝負を終わらせるジークンドーと似てるのかもしれん」
丑光の気が離れてしまったのを感じ取り、学園長は取り戻そうとする。だが、丑光は既に話半分で聞いている有様だった。
ゴホンと咳払いをする。
「まあ、じゃからして、二人は今打ち合えておる。自分のペースならば完勝出来る辰美が、総一にペースをかき乱されている故にの。……そして、故に、もう勝敗は見えておる」
何十合と続く打ち合い。通常ならばもう有効打の一撃がでてもおかしくはないが、それでも未だに出ない白熱の戦い。
試合をしている双方の額に汗が垂れる。審判すら、手に汗を握る。
「一つの流派に専心し、極めつつある者たちの強さなんじゃよ、あれは」
宥めるような学園長の声音に、丑光はその顔を見る。励ますような、笑顔だった。
だがその笑顔に、つい反論してしまう。
「俺の、練習法がいけなかったということでしょうか」
一つの流派に、という言葉が胸に刺さる。ボクシングと合気道から学んだ技術を使う丑光を責めているかのような言葉に、ついつい言葉に怒気が混じった。
だがその怒りを、学園長は受け流す。
「んなわけなかろう。儂が拳道の団体を立ち上げたのは、ただ強さを追い求めるためじゃ。一つの流派に専心しようと、千の流儀を巧みに使い分けようともどうでもよいわ」
じゃが、と口髭を軽く捻り引っ張った。
「奴らの強みも弱みも、その流儀から来ているもんじゃ。多くの流儀を使えば、その弱点は補い合うことが出来るのに。その点、お主は負けてはおらん、まだまだ腐ることはない」
「しかし」
丑光は二人を見る。
そして僅かに、ズルい、と思った。
だが、その言葉の続きを発せないよう、学園長は続ける。その内心をもちろん読んで。
その『しかし』の言葉の続きは、出してしまえば彼への悪影響になるだろう。
「奴らもまだまだ未熟なんじゃよ。極めて強くなってしまえば相性なんぞ関係なくなる。流儀の弱点なんぞ消えて失せるのに。まだまだ、まだまだ青いのう!」
ハハハ、と笑う。だからまだ追いつける。丑光も、勝機はある。そう含んで、その会話を閉じた。
打ち合いに疲れてきた二人。
しかしながら、総一も理織もその拳の冴えは衰えない。
打ち込まれた理織の拳を壊れつつある左腕で迎え、弾きながら右拳を打ち付ける。
カウンターとして、理織の拳の威力を乗せて打ち込まれる総一の拳。だが、打ち込みを終えた理織がかろうじて反応しそれを左掌で弾く。
総一が次に狙うは、体を傾げながら、地面から顎へと上るような蹴りの一閃。
その軸足が滑る。
(………っ!!)
原因は汗。どちらのかはわからない。だが、左母趾の付け根がまるで氷に乗ったかのように総一は感じた。
理織が打つ。蹴りのし損じなど、全く意に介さず、冷徹な拳を、総一の胸に向ける。
どん、という鈍い音が響き、畳が揺れる。
「っ……一本!!」
見とれていた審判がようやく上げた声に、その趨勢が決したことをその場にいた人間は感じた。
ただ一人を除いて。




