雪辱戦
「ふっ!!」
丑光の鋭いステッピングジャブ。大抵の相手ならばこれだけでも顎にヒットし、それだけで崩れ落ちる選手もいるほどの鋭い突き。
以前、雑誌に取り上げられたときに面白半分に雑誌記者がつけた『雷光』という技名を丑光は固辞したことがある。しかし実は本人もそれなりに気に入っていた。
丑光の攻撃は、一動作当たりの時間が極端に短い。故に、通常のジャブとほぼ同じ速度でステッピングジャブを放つことが出来た。
決め技にすらなる牽制技。その鋭い一撃が、理織に襲いかかる。
だが、理織はその雷光に反応した。
前に出した左の掌がふわりと回転する。
そこに衝突した丑光の拳が、弾かれるように軌道を変えた。
拳を弾かれた刹那、丑光は驚嘆する。
(近代スポーツの受けじゃねえ。さすが、辰美流柔術……)
初めて戦った相手ではあるが、強豪である理織の研究はそれなりにしたことがあった。
だがやはり、見ているだけと実際に体験するのは天と地ほどの差があるものだ。防ぐわけでもなく、弾くわけでもなく、方向をねじ曲げる。
難攻不落とも言われる辰美流の受けは、調査した丑光にとっても未だ未知数のままだった。
しかし。
「……しゃっ!!」
二の矢は残っている。
外向きに弾かれた左手を戻す前に、右手でのショートフック。
これも、丑光の常勝パターンでもある。一撃目のジャブで仕留め、出来なければフックで意識を刈り取る。今までの勝利の三分の一は、このパターンで築き上げてきたと言えよう。
だがそれも、理織はいなす。上向きにした左掌で払うように丑光の拳の軌道を変え、そして即座に追撃。
右拳を使っての打ち上げ。間合いの短いアッパーではあるが、それは勢いに乗り近づいてきていた丑光の体を正確に捉える。
その拳をかろうじて体との間に挟みこんだ左腕で止め、そのまま二人の動きが一瞬止まる。
「……!」
示し合わせたかのような、二人の後退。また距離をとり、睨み合う形に戻った。
丑光の左腕が痛む。
腕であろうとも、痛みに反応し表情を歪めてしまえばそれで一本だ。故に丑光はその痛みに反応しないよう、奥歯に懸命に力を込めていた。
理織が静かに口を開く。
「……前身はボクサー、でしょうか。いや、違うな、それにしてはステップに癖がある。それに、先ほどの葛は……」
そして呟くような推測。
だがその内容よりも、呟いたその行為に丑光の頭に血が上った。
「おしゃべりとか舐めんじゃねえ!!」
体を沈めるように、斜め下に滑り込ませる。
肩で当てるタックル。それすらも、拳道では認められている。
もちろん、丑光の攻撃はそれだけではない。
左肩を前に出し、理織が反応したとみるや体を反転、掌底でのかち上げに切り替える。
空気を裂くような音。
だが、理織の体には届かない。
理織はその間、ただ一歩だけ下がりその掌を空転させた。
「ボクサーかと思いましたが、違いますね。この足捌きは、合気道……? 掌底やら、打撃はまた違いますけど、……」
丑光の額に汗が垂れる。
バレた。そう思った。
拳をもう一度握りしめ、理織を睨む。そしてまた、自らの未熟さに腹が立った。
確かに丑光は、元々合気道家。そこにボクシングを足し、そして練り上げたものが彼の戦法だ。
だが今までは誰もそれに気付かなかったのに。目が肥えているはずの雑誌の記者すら、彼が純粋なボクシング出身だと思い込んでいたのに。
忸怩たる思いで理織を見る丑光。だが、その内心など理織には関係ないことだ。
肩を一度上げ、そして下げて、息を吐いて理織は宣告する。
「わかりました。もう充分です」
「……何が、充分だって?」
「……」
無言で理織が地面を蹴る。
低い軌道の回し蹴り。それが正確に丑光の左足首へと伸び、そしてそれが当たるとその場にいた誰もが思った。
もちろん、丑光本人すらも。
「合気道だからって、蹴られんのはわかってんだよ!!」
丑光は前足に意識を集中する。
柔道の自護体に似た立ち姿。だが、そこには対打撃用の丑光の工夫が詰まっていた。
もともと合気道家は、筋力に頼らずに関節を固定する訓練をする。そして、重心を移動させられる動きに強い。立ち姿からして稽古が始まっており、肩を押されても微動だにせず耐えるという行為は昇級試験にも含まれているほどだ。
熟練した者ならば、仮に突き飛ばされても、突き飛ばした側が飛ぶ。
ならば、蹴りに対してもそれが出来るはずだ。
突き飛ばしに来る蹴りに対し、耐える足。それを、彼は鍛えていた。
理織の蹴りが丑光の左足首外側に直撃する。
しかしその蹴りは、丑光の足をわずかに押しただけで終わった。
そして、安定した足はそのまま安定した軸となる。
左足を軸に、丑光が体を回転させる。
足を止めた相手に対するソバット。もしも甘い蹴りを打たれた際には打ち返そうと決めていた秘密兵器だった。
「っ…………」
理織が、初めて両手を使い攻撃を止める。重ねた腕で受け止めて、丸めた体、その中央の腹直筋が衝撃を吸収した。
七十キログラムを越えたその体が、衝撃で後ろに下がった。
理織が溜め息をつく。自らの油断を恥ずかしく思い。
「……いい動きですね」
「ほざけ」
「……ふふ」
今まで見せたことのない秘密兵器まで凌がれ、苦い顔を見せる丑光。だが、それとは反対に、理織は噴き出すように笑った。
丑光が可笑しかったわけではない。今の自分を省みて、自分で自分が滑稽だと思った。
油断した。そうだ、この学園にわざわざ足を運んだのは何故だったのか。
笑いながら、理織は現況を反芻する。
二年もの間、挑戦状を送り続けてきた相手にようやく承諾された試合。それを行いに来ているはずだ。
そして、そこで出会った『彼よりも格下の相手』に勝負を挑まれ、辰美家の家訓通りそれを受けた。
そうだ。目の前の男は、どう考えても総一よりは格下だ。
腕はある。辰美家の経営する道場でも、半分よりは上の位に置かれるほどだろう。
だが、それでも。
あの人よりは下だ。
海馬が眉を上げる。丑光も無意識に構えを整えた。
空気が変わった。見た目には何も変わらないはずの、理織から発せられる空気が。
試合開始時と変わらない構え。だがその右手がやや握り込まれているのを見て、丑光は鼻を鳴らした。
舐められている。またもそう思った。
その構え、重心、気配。次に繰り出すのは正拳突きだろう。そう簡単に予測できることからして、舐められているのだ。
次の自分の初手が何かを隠す気配すらない。
ふざけるな。丑光はそう思い、構えを変える。
左半身から左手を少し前に出し、右手を下げる。明らかな正拳突きに対する備え。だがそれを見ても、理織は一切構えを変えず、ただ佇んでいた。
そして、動く。
理織の両脚から伝えられた力が体を駆け上がり、腰、肩、肘、そして拳にまで伝えられる。
何の奇手でもない。本当に、単なる基本的な突き。それが、丑光の胸に伸びる。
丑光は、その動作をしっかりと把握していた。
左手を前に出しながら、自らの身体も前進させる。迎えるというよりも、迎え撃つ。理織の動作が始まってからの後の先を狙い、たしかにそれは成功していた。
胸突き小手返し。または小手下ろし。打たれる拳の甲を迎えて掴み、手首を固めて体を転がす合気道の基本的な技である。
このままならばそれが狙える。丑光は、確信していた。
だが、瞬間、理織は微笑んだ。
もはや丑光の対策を確認することもなく。
……この戦いは、鳳総一との試合の前哨戦。
ここで油断してどうする。苦戦してどうする。
手練手管もなくただまっすぐに、実力で勝てなければ総一の足元にも及ばない。
相手の狙いはわかっている。だからなんだ。
この程度押し通れずして、辰美の男子は名乗れない。
丑光は焦る。
予測よりも速い理織の突き。このままでは胸に直撃する。
(転換……、出来ねえ……! ならこのまま当たった拳を固定、痛みを堪え……)
丑光の脳内で、高速で思考が展開される。足捌きで躱すことも出来ない。ならば、せめて関節を固めて無様でも投げれば……。
そう思った。
しかし。
(よし、掴めたこのまま押し返し……)
ドスン、と、膨らんだ肉を叩く鈍い音が響く。
「ぐ……ぇ……」
痛みに顔をしかめた丑光が崩れ落ち、膝をつく。手首は掴んだ。だが、そこから押し戻すことも躱すことも出来ずに直撃した正拳突き。
痛みに顔をしかめ、崩れ落ちる。
言い訳の出来ない、誰が見ても確実な一本だった。
「一本!」
審判の腕が上がる。振り上げられた腕はそのまま理織に向けて振り下ろされ、その一本目の勝利を確定させた。
「……まじ、かよ……」
膝をついたまま丑光は項垂れる。そこに一歩だけ歩み寄り、強者の余裕ともいえる笑みで理織は語りかけた。
「手合わせは初めてですけど、なかなかお強いですね。では、もう一本」
拳道は三本勝負。未だ勝負はついていない。
丑光が奥歯を噛みしめるのを無視して理織は開始位置に戻る。
振り返り、構えを整える。
だが丑光は、膝をついたまま歯を食いしばっていた。
すぐに準備も終わるだろう。
理織はそう考える。だが、俯いたままの丑光の口が微かに開き、静かに言葉を吐き出した。
「……参った」
理織が眉を上げる。それから構えを解くと、ようやく丑光も立ち上がり理織を真正面から見た。
「降参だ。俺の負け」
「……そうですか」
理織は少しだけ不思議に思った。突然の心変わりにも見えたその言葉に。
だが、勝負は勝負だ。二回連続のタップか、言葉による申告で降参は認められ、勝負はつく。理織の勝利は二本目を待つまでもなく確定した。
儀礼的な動作。
中央に向かい合い、礼をする。それから握手を交わすこともなく、丑光は振り返る。
そしてしずしずと試合場を出ると、視線を学園長と、その隣に向けた。
いつの間にかそこにいた胴着の男。恐らく、こいつが辰美理織の対戦相手だろう。そう気付いた。
そして目を細める。それに気付いた総一が両手でピースをするのを無視しながら。
身長も体重も自分とほとんど変わらないだろう男。
むしろ体格としては背もウェイトも自分の方が恵まれているだろう。
強いのだろうか。
いや、きっと強いのだろう。辰美理織が対戦を望んだ相手だ。
自分よりも、必ず。
握りしめた拳に痛みが走る。奥歯が盛大に音を鳴らす。
誰だかは知らない。だが、きっとそれでも辰美と並ぶ強者。
見ていろ。いつか必ず追いついてやる。
そう新たにした決意を胸に顔を上げた丑光の顔に、学園長も「ほう」と一声発した。
今度は貴方の番です。
理織からそう視線で告げられた総一は、深い溜め息をついて試合場へと上がる。この胴着の感触も久しぶりだ、などと考えつつ。
しかし、嫌な話だ。そんな考えに足が鈍る。自然とゆっくりとなる歩調に、重たく感じる空気。帰りたい。そう思った。
理織と向かい合えば、さらにその嫌気は増してくる。
理織の真っ直ぐな目。二年前も、この視線から試合が始まったのだ。観戦に来ていた糸子の応援を背に、胸を張り佇む姿が印象に残っている。
対して自分は、孤軍奮闘もいいところだったのに。
はは、と誰にも悟られぬよう総一は笑う。もう過ぎてしまったことだが、やはりまだ自分は気にしているのだ。もう何をどうしても、失われた時間や情熱は戻ってこないのに。
審判が唾を飲む。
彼は、両者ともに知っていた。試合も見たことがある。彼らが戦った決勝戦を。
そしてその両者ともに不本意に終わった結果についても。
あの試合の続きが見られる。それも、自分が審判をするここで。
そう気付いた審判の胸が高鳴った。
理織もゴクリと唾を飲む。
大会に誘い、野試合でも良いからと口説き続けた一年。どうにかしてと、策を練り続けた一年。そういう風に過ごした二年間。
それが、ようやく実るのだ。
それが学園長の鶴の一声と言うところは引っかかるが、それでも、そんなことはどうでもよかった。
二年前の雪辱。それを果たせるのなら。
向かい合う両者。
そして、試合場を降りた丑光は、学園長の隣で試合場を見守っていた。
「……潔いのう」
学園長が視線を丑光に向けずぽつりと呟く。だが丑光はその言葉に、僅かに屈辱を覚えた。
言葉には出しづらい。しかし自分でも内心認めているその事実は、真正面から向き合わなければいけないだろう。
「あれはまだ無理っす。勝てる道筋が全く見えませんでした」
同年代とは思えない力量差。大人と子供よりも更に差があるだろう。喩えるなら、猫に立ち向かう鼠。その気になれば、戦いではなく一方的な狩りとなる。本人はそう感じていた。
学園長は片眉を上げて笑みを作る。
丑光は負けを認めている。そこまでは正しいだろう。そしてその言葉尻は、きっと学園長の思ったとおりなのだろうと推測して。
「……『まだ』?」
「…………、ええ。まだ、です。今年の大会にはきっと」
丑光の握りしめた拳に、学園長は何度も頷く。
「期待しとるぞ」
そうだ。だからこそ、彼には目をかけてきた。通常よりも激しい稽古にも付き合ってきた。生徒の贔屓はいけないことであると、そう思いながらも、だからこそ学園長は丑光を気に入っていた。
「じゃが、ならばこの試合はお前の参考になるかもしれんな」
「あれ、誰なんです?」
丑光は総一を指し、そう尋ねる。彼に関しては学園の行事にきちんと参加はしているものの、糸子に見とれていることが多く総一のことを知らない。
もっとも、一応総一も檀上には上がっている上、前年の大会に関しても、前の年の優勝者ということで丑光も知っているはずだったのだが。
「鳳総一。知らんか? 生徒会報にはよく名前出とるけど」
「おお、とり……、……ああ、あの、鳳! 中学の時、辰美理織が参戦するまでは連続覇者だったあの……!」
思い至った名前。確かに過去の試合映像で見たことがある。高校から参戦した丑光は、その試合を生で見たことはないが。
いや、それよりも。丑光は眉を顰める。
知らなかったのではない。気付かなかったのだ。確かに見てみれば、鳳総一の面影はある。顔も姿もそのままだろう。だが、その雰囲気が……。
たじろいだように総一を見つめて思考を続けた丑光を無視し、学園長は続ける。
「そうじゃな。奴は連続優勝を果たし……、そして二年前、三連覇を目前にした試合であの辰美理織に負けた」
総一と理織。
向かい合った両者が視線を交わす。
「……本当にやるのか?」
「ええ。全力でお願いします」
ただ、審判の開始の声を待って。
学園長が、感慨深く呟く。名前を聞き、その雰囲気に困惑し、固唾をのんだ丑光に向けて。
「これは、王者辰美理織の、雪辱戦なんじゃよ」
「はじめ!」
審判が開始の声を振り絞る。
総一は溜め息をつき、つまさきで軽く跳んだ。