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ねばねば節

作者: きみこ

布団を敷こうと寝室に入ると、天井に黒い「ヤツ」がついている。

楕円で小さなママレードをそのまま黒くしたようなかたちだ。

ツヤツヤと光沢のある体が、何となく生命体のパワーを発しているようだ。

とりあえず落とそう。

そうは思ったものの、「ヤツ」をつついて落とす長い棒は無い。

独り暮らしを始めて4年目、日常生活に必要なものは勿論揃いきっているはずだが、まさか天井についている「ヤツ」を落とす状況は想定外だ。


直接つつかなくても、とりあえず落とせればいいか。

諦めるな。そうだ、ものを投げて落とそう。

とは言ってもスリッパを投げる気にならない。得体の知れない「黒マーマレード」に投げつける度胸は無い。正体によっては二度と履けなくなる。

さらに言えば新しいスリッパを買う予算も時間も今の自分に無い。

突然のこととは言え、スリッパを投げる以外に何も思いつかない自分の機転の無さにあきれてしまう。

何か何かと部屋中に目を泳がせると、部屋の隅に転がっているティッシュボックスが目に止まる。

そうだ、ティッシュを丸めて球がわりに投げるのは?

適当にティッシュを何枚かつかみ、ぐしゃぐしゃと丸める。

固く、固く、ぎゅっと。

ティッシュを丸めるのに、こんなに握力を費やしたことはない。

このまま普通に投げても空気抵抗を激しく受けそうだ。

ビュッと投げずにブワッと放ろう。

「ヤツ」にバンッと当てるのではなく、パラッとコソげ落とすようなイメージで。


「ヤツ」の真下へ立つ。テニスのサーブでトスを上げる要領で膝を曲げ、ティッシュボールを真上に放る。

卓球の玉一個分「ヤツ」からそれて、天井に当たってはね返ってしまった。

落ちたティッシュボールが、ヘナッと床にへばりついているように見える。


独りで住むにはやや広い賃貸アパートの部屋主から、ささいな襲撃を受けたのも気にしないのか「ヤツ」は動く気配を見せない。

相変わらず天井にピタッと吸いつくようにくっ付いている。


突然、隣のリビングから携帯電話の着信音が鳴り出す。一旦その場を離れ、通勤用の鞄に手を入れて携帯電話を取り出す。

画面を見ると、心当たりのない固定電話の番号からのようだ。

出るかどうか迷ったが、「出ろ、出ろ」といわんばかりに長く鳴り続けている。

「もしもし。」とりあえず当たり障りのない事務的な口調で出てみようとしたが、つい「こんな夜分にどなた?」と当惑を隠せない口調になってしまう。

「日向さんでしょうか?夜分遅く失礼します。井川医院の井川です。今日、レントゲン撮りましたよね?

簡単に所見を申し上げます。」

「はい・・・」

病院の先生が患者のひとりに直接電話することはあるものなのかと驚いたが、質問は聞き取れた。

確かにレントゲンを撮ったのを認める。

で、結果は?とドキドキする間が無かった。井川先生がたたみかけるように次のセリフに移ったためだ。

「見た所、異常はありません。ガンにもかかっていないようです。取り急ぎ知らせますね。」

「ありがとうございます・・・」

「ただ採血は出来なかったから、もし血液検査したかったら大学病院で。紹介状書きます。」

「考えておきます。また後日おうかがいするかもしれません。わざわざお電話ありがとうございます。」


電話を切った後、採血の時の先生の表情を思い出す。

冷静を装っているが、当惑を隠し切れない、そんな表情。

「血管細いですね。針が刺さらない・・・。」

元々血管が細く、採血の時は表情が険しくなったり、「細いですね~」と相手から何らかのリアクションをよくされるが採血不可だったことは一度も無い。


勤務先の営業部に配属されて2年が過ぎようとしている。

「今日は朝一に工場長から納期の確認をせ「ねば」・・・、お客さんの要望通りの納期に間に合うか・・・」「売買契約書のサインを今日の午前中までにもらわ「ねば」・・・、ノルマを達成できない」

次の日(正確には今日だが)の仕事の段取を組み、夜の12時過ぎに布団に入るようにしているが、朝の3時過ぎには目が醒めてしまう。何か興奮するような行事があると早く目が醒めると聞くが、勿論小学生の遠足といたワクワクからくる興奮の類ではない。


睡眠時間が短い分、カロリーを消費しているのだろうか、食欲は以前と変わらないが気が付いたら10kg痩せていた。ダイエットの意思は全く無く、寝る前か否かを問わずお腹が空いた時、普通に食べたいだけ食べているのだが。他部署の人から「痩せたね~」と言われてやっと気が付いた。

家に体重計は置いていない為、自分で気が付かなかったのだ。採血が非常に困難なぐらいに血管が細くなったのもこのせいか・・・。


更に良くないことに、ここ数か月、激しい動悸に襲われ続けている。

自分なりに振り返った所、何か至急やらなければならない且つ緊急度が高い仕事が出ると必ずなる。

たとえ家でくつろいでいる週末でも、仕事のことをふと思い出し、頭の中で「TO DO リスト」を組み立てるとアウトだ。椅子に座っていたとしても「ドッドッドッド・・・」、心臓だけがマラソンモードに入り、一定のリズムで波打つように動いているのを感じるのだ。


今の所は仕事に対するアドレナリンが勝っているらしく、集中するといつの間に動悸から開放されている。

作業が終わると、マラソンでゴールした時のような安堵と疲労感を一気に感じる。

仕事がある平日はこの繰り返しだ。今はまだ日常生活や仕事に致命的な差し障っていないが、悪化したらどうなるのだろう。病院に行く時間をつくるのが大変だったが、体重が10kg落ちて動悸頻発という症状が出る病気に身体的にかかっていないか、病院で診てもらうことにしたのだ。恐らく身体的な原因では無く、仕事のストレスによるものだろうが・・・。


1年半ぶりの有給(午後半休)を使い、会社から歩いて15分の小児科専門の個人病院へ行った。(大人相手の診察もしていた)自分の体をどうにかせ「ねば」と思ってはいるのだが、病院へ行く時間が惜しい。

小児科専門というのが引っかかるが、会社から歩いてすぐに行ける病院はここしかない。

待合室で診察を待つ親子の視線が少々痛かった。

何人かの子どもが「何でおっきなお姉さんがいるの~?」と言いたげな表情でこちらを見ている気がしたが、仕事の書類に目を落とし見て見ぬフリをした。


先生に自分の体に起こっている事をありのまま伝え、仕事に関しても質問された通りに答えた。

「どんなお仕事されていますか?」

「体にどんな違和感がありますか?」といった質問をされた。

既に尿検査が済んでおり、少なくとも糖尿病では無いことが分かっていた。

「まだレントゲンと血液検査してないのでハッキリとは言えませんが・・・仕事のストレスかもしれませんね・・・。」と先生は診断を下した。

身体的に問題が無いのであれば、それで良い。ストレス耐性をつければいいだけだ。方法は分からないけど。とにかく私にとって重要なのは、「仕事を続けられるかどうか」だ。

体と心のメンテナンスをしながら、今後何十年の耐久レースを走り続けるつもりだ。


「先生、私今のまま仕事続けて大丈夫ですよね?ストレスにさえ強くなれば問題ないのでしょう?」」

「あなたに仕事を続ける、という意思があれば続けられるでしょう。やや緊張し過ぎかもしれませんね・・・。常に動悸がするというのもツラいでしょう。あと睡眠不足も。

とりあえず緊張を少し和らげるお薬を処方しましょう。「少し」和らげる程度ですよ。眠れるようになります。」

「緊張を和らげる薬」とは具体的に何なのかはお互い深くは触れなかった。

映画や小説でたまに見る情緒不安定な人物が飲むアレなのだろうか、とふと思ったが、睡眠導入剤の一種と見なすことにした。


ぼんやりと病院での出来事を思い出していたが、我に返った。

携帯電話を鞄に戻し、自分が今何をしようとしていたのか思い出す。

あの黒い「ヤツ」を落とさ「ねば」・・・。


寝室に戻って天井を見上げる。

いない・・・。


ボールの形が崩れたティッシュだけが床に転がっている。

天井にはシミも影も見当たらない。まるで最初からいなかったかのように。

部屋主からの攻撃を逃れるため姿を消したのか。


床に転がっているデジタル時計が目にとまる。まだ20時30分。

午後は会社を休んだため夜が長い。

週末以外で夕飯も入浴も、この時間に終えるのはやはり1年半ぶりだ。

いつもなら、前のめりになってパソコンを凝視し、肩を張りながら仕事を続けている時間だ。

周囲の人がパラパラ帰宅する中、「オツカレサマデシター」のセリフを繰り返す。

いちいち顔を上げて誰が帰るのかは確かめない。


いやいや、仕事のことを思い出すのはやめよう。

せっかく夕食後に「緊張を和らげるお薬」を飲んだのだから・・・・・。


「薬を飲んだのだから??」

思わず目を張る。


そもそもあの得体の知れない「ヤツ」は一体何なのか考えようとしていなかった。

とにかく落として何とかしようとするのに注意がいっていた。

「ヤツ」は「存在していたのか?」


「ドッドッドッド・・・」動悸が始まる。

頭の中からサーっと血の気が引き、心臓の鼓動を感じる。



床にヘナッと転がっていたティッシュをゆっくりと拾い上げる。

片手でギュッと丸く固め直した。

「見つけ「ねば」。殺してやら「ねば」。今晩こそ何もなく、朝までグッスリ寝かせて・・・」

「ドッドッドッド・・・」をBGMにして、「ねばねば」節が再び始まるのであった。

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