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一書店の言霊師  作者: 手羽先すずめ
第二章 夢幻に沈む月
9/24

悪夢


 漆黒の扉をこじ開けて強行突破した先にあったのは、どこかの学校だった。


 俺の目の前には築何十年かは経っているであろう古くておもむきのある校舎が聳え立ち、一番高い位置に備え付けられた時計が時を刻んでいる。


 辺りを見渡せば、ちょうど俺の肩くらいの位置まで高さのある塀が学校の敷地内を囲んでおり。その内側には地面に根を下ろした若木や、レンガで囲われた花壇が窺え、穏やかな雰囲気を醸し出している。


 そんな学校のグラウンドに俺は一人ぽつんと立って居た。


「此処は……春風高校じゃあねーな」


 仕事柄、春風高校の図書室に何度か御呼ばれしたことがあったが、その時に見た春風高校の校舎とはまるで違う。外観も構造も配置も年季も異なっている、そもそも建てられた時期が大幅にずれているんだろう。


 春風高校は建てられてまだ幼い、子供みたいなもんで新校舎だったからな。コンクリートに無数のひびが走っているような、そんな古い校舎じゃあなかった筈だ。


「となると、此処は浮夜ちゃんが既に卒業した小学校か中学校かのどちらかだな。普通に考えれば」


 閑散としたグラウンドを見据えながら、特に異常も違和感もない世界に対しての疑問を解いていく。


 俺が住んでいる地域に、こんなに古い小学校か中学校があったのか。心当たりがないか記憶の引き出しを探ってはみるのだけれど、どうにも該当するものが見付からない。まぁ、母校でもない限り、他の学校のことなんて知らないほうが自然だ。


 受験のために偏差値だの立地条件だのを調べまわる高校と違って、小中学生の頃には他の学校のことを調べる必要がまるでないからな。たまに他校との交流とかいって触れ合う機会はあるが、そんなものは記憶の片隅にも残らない。


 まぁ、世の中には幼稚園児の頃から受験戦争に身を投じている猛者もいるから、そいつ等は例外なんだろうがな。


「んんん、躍起になって調べる必要もないか。此処が何という名前の学校だろうと、夢の中じゃあ意味をなさないし」


 この学校の名前は浮夜ちゃんが目を覚ました時にでも直接聞けば良い。唯名も多分、知っていることだろうし、今絶対に知らなければならないことでもない。


「さーてと、早いとこ浮夜ちゃんを見つけ出さないとな」


 まず第一に調べるべきは校舎の中だな。


 俺は衣服に付着した土を手で払いながら、校舎に爪先を向けて歩みを進める。


 土を踏み締める感触がやけに久しく感じるな。草原とか、ビルの側面とか、良く分からない獏の食べ残しの上ばかり歩いてきたからか、なんてことないことが懐かしい。んんん、それだけじゃあないな。この夢の世界は何処か理由のない懐かしさがある、ずっと此処で暮らしていたいとさえ思う、そんな懐かしさが。


「やっぱり、人っ子一人いないな」


 校舎の中に入ってみても、今までいた世界と同様に生徒や教師といった人間は一人もいなかった。


 色が狂っている訳でも、総てが横向きになっている訳でもないのに、黒板の前に立って授業を進める教師も、机に向かってノートに鉛筆を走らせる子供の姿もない。教室も廊下も静まり返った、静寂に包まれた学校。静か過ぎて気味が悪いと思うのに、どうしてこうも懐かしいんだ?


 不可思議な懐かしさを胸に抱きながら校舎の一回から屋上までを見て周り。その結果、俺はこの学校には誰もいない事を再確認した。


「此処にも浮夜ちゃんは居ないのか。そうとう避けられてるな」


 学校の屋上からグラウンドを眺めながら、手すりに肘を置いて体重を預ける。


「恐らく、この学校は浮夜ちゃんの母校。だから、此処にいる可能性が高いと踏んだんだが……、不味いな。あんなに大きな獏だ、掛けた御業が何時なんどき解けても不思議じゃあない。早く浮夜ちゃんを見つけないと」


 こうして高いところから下を見据えていれば、ひょっとしたら浮夜ちゃんが見つかるかもとか、淡い希望を持ってはいたけれど。残念ながらそんな事はなく、広いグラウンドを駆け回っているのは風だけだ。ほかには誰もいない。


 屋上から人探しをするのは諦めて、今度は学校の外を探しに行こうとした、その直後だった。鐘が音を鳴らしたかのような大きな音が響き渡り、俺の足をその場に縫い付けたのは。


「これは、チャイムか?」


 登下校の際に、授業の終了時や開始時、開始五分前になるチャイム。さっきの音はまさにそれだった。


「誰もいない学校でチャイムが鳴るってのも不気味な話だな。それで? これは何のチャイムだ?」


 このチャイムを口火に、大勢の小学生または中学生がわらわらとグラウンドに現れてくれりゃあ、願ったり叶ったりなんだが。しかし、世の中そんなに甘くは出来ていないようで、何があるかもと思って暫く屋上から下を眺めていても現状は何も変わらなかった。


「ダメか、仕様がない」


 今度こそ屋上から出るためにドアまで言ってドアノブを捻る。


「わっ!?」


「わ?」


 捻ったと同時にドアの向こう側から可愛らしい声が聞え、俺は間髪入れずにドアノブを手前に引く。


「あっ……えっと……こんにちは」


「はい、こんにちは?」


 ドアの向こう側に居たのは、現世にいる彼女よりもかなり幼い彼女の姿だった。


 どうやら此処は中学校みたいだな、身長はかなり低いが流石に小学生と中学生を見間違えたりしないだろう。ふむ、じゃあやっぱり此処は浮夜ちゃんの母校である中学校ってことで決定だな。なにせ此処には。


「うっ、浮夜ちゃん。屋上に大人の人がいるよ」


 中学生の唯名がいるのだから。



「貴方はどうして此処に?」


「俺は浮夜ちゃんの夢の中に入り込んだんだよ。だから此処にいる」


「そうですか」


 結局、屋上から場所を移すこともなく。俺はさっきと同じように手すりに体重を掛けて、隣にいる中学生姿の浮夜ちゃんと会話を交わしていた。


 因みに、中学生姿の唯名は俺達と少し離れた位置で、ちらちらと此方を窺いながら、弁当をもそもそ食べている。そういえば、この時期ではまだ唯名の祖母ちゃんは生きていたんだよな。


「驚かないんだな」


「えぇ、あの幾つもの動物を繋ぎ合せたような化物がいるんですから、人の夢の中に入ってくる男の人がいても不思議ではないかと」


「そうか」


 獏自体の存在は知っているみたいだな、流石にその正体が一体なんなのかまでは分かっていないようだが。


 それにしても少々物分りが良すぎるのが引っ掛かるな。もともと達観していて鋭い感性を持っていると俺は思っていたが、これほどまでじゃあなかった筈なんだけれど。


「此処は、この世界は、私の過去なんです」


「そうか。まぁ、そうなんだろうな」


「はい、まだ唯名のお祖母さんもご健在で、唯名の性格が変わる前の世界です」


 唯名の性格が変わる前か。そういえば、唯名はあれから学校で上手くやっているんだろうか? ここ二週間、バイトとして働く唯名は特にストレスを抱え込んでいる風には見えなかった。でも、俺の思い違いかも知れないしな。


 ふむ、今気にしても仕方がないか。


「この世界が浮夜ちゃんの過去なんだとしたら、どうして他の生徒が何処にもいないんだ? 一通り学校の中は見回ったが、誰もいなかったぞ」


「さぁ、それは私にも分かりません。けれど、見当はつきます」


「ほー」


「この世界は恐らく、私の過去で、そして私の色濃い記憶を映し出しているんです」


 浮夜ちゃんの色濃い記憶が世界に影響を及ぼしている。なるほど、夢の中ならではの、此処でしか出来ない芸当だな。


「私がここにいる間、色々なことがありました。入学式、宿泊訓練、修学旅行、文化祭、運動会、卒業式。どれもこれも姿を現したのは唯名だけでした。だからきっとそうです。可笑しいですね、私の色濃い記憶は唯名に関することだけだなんて」


 浮夜ちゃんの話から推測するに、この夢の中では時間が早く進むみたいだな。


 入学式と卒業式を体験したというのなら間違いない、確実に現世と夢の中で時間の流れに差異が生じている。それも中学を卒業すると同時にまた入学式の時点まで戻されているな。でなきゃあ、浮夜ちゃんが今ここで学生服を着ているはずもない。


 時間が巻き戻るのは、目覚めるのを妨害している獏が夢の中でループし続けるよう仕向けたためか?


「そういえば、まだ理由を聞いていませんでしたね」


「理由?」


「えぇ、貴方がどうして私の夢の中に入って来たかです」


 俺は手すりに体重を掛けるのを止めて、浮夜ちゃんと向かい合う。


「そりゃあ、浮夜ちゃんをこの夢の中から連れ戻すためだよ」


「そうですか。なら、無駄足でしたね」


「なに?」


「私は、この夢の中から出るつもりはありません」


 俺から視線を逸らすように視線を唯名に向けて、そのまま俺から距離を置いた浮夜ちゃん。唯名の側まで歩みよって立ち止まり、そっと手を伸ばす。唯名の頭に向けて。


「此処ならずっと変わらずに居られる、変わらずにずっとあの時のままでいられる。だから、私はここから出て行くつもりはありません」


「……」


「確か、貴方は本屋でしたよね? そういう事ですから、潔く諦めて帰ってください。私から、夢を奪わないでください」


 あぁでも、と浮夜ちゃんは続ける。


「その前に、もうこの夢はいりませんね」


 浮夜ちゃんは言う。なんの躊躇も戸惑いもなく、あたかもその行為に慣れているかのように、何にも引っ掛かることなく、すんなりと浮夜ちゃんは言葉を吐く。伸ばした手で唯名に触れて、存在を消し飛ばしながら。


「この夢を、獏に上げます」


 硝子が粉々に砕け散ったような音が轟く。


 虚無に支配された隣の世界から空間を喰い破り、獏が此方の世界にやってきた音だ。


「なるほどな。つまり、浮夜ちゃんは惚けたことを言いつつ最初から分かっていて、目覚める気なんてなかった訳だ。目覚めないのではなく、目覚めようとしない。だから、夢の中にずっと引きこもっている。獏が目覚めを妨害しているだなんて、的外れもいい所だな」


 獏の大口が世界を喰らう下品な響きを聞きながら、俺は今一度、手すりに背中から凭れ掛かり体重を掛ける。


「夢の中とは言え、なんでも自由自在に出来るとも限らない。今こうして俺が現れたように、さっき消し飛ばした唯名もこれまで何かしらイレギュラーを起こして来たんだろう、今と過去の記憶が混同した形で夢に反映されるから。だから、そうした夢を都合の悪い悪夢にして、何度も何度も獏に喰わせて来た。だから獏があんなに大きく成長した」


「えぇ、その通りです」


 悪びれることもなく、平然と肯定する浮夜ちゃん。あんなに大きな獏を、どうにかすることなんて出来ないと高を括っている。そんな表情だ。


「上手くやったもんだな。自分は夢を見続けていられるし、イレギュラーがあれば獏に喰わせてリセットできる。一方で獏のほうは安定して餌をもらえるし、夢を喰い尽くして餌場を無くしてしまうこともない。まったくもってやりくり上手だ。でも、今回という今回は学校って場所が良くなかったな。浮夜ちゃん」


「え?」


「学校って所にはさ、かならず教科書があるだろ? そんでもって教科書には、特に国語の教科書なんかには大抵の文字や漢字が書かれているもんだ。それはもう数え切れないほど沢山な」


「それが何だって言うんですか」


「何だって? こう言うことだってことさ」


 学校の総ての窓を突き破って溢れ出るは、教科書やノートから抜き出た数える事すら億劫に思えるほどの無数の文字。御業によって教科書から抜き出た文字の羅列は絶えることなく溢れ続け、生物のようにうねり、漂い、脈打ち、流れ、幾重にもなって壁となり、この校舎を取り囲む。


 余程、驚いたのだろう。唇に手を当てて、浮夜ちゃんは目を丸くする。


「なっ、なんですか……、これは。こんな夢、私は知らないっ」


「申し送れたな。俺は一書店の言霊師、一一だ。まぁ、簡単に言えば俺は文字を操れるんだよ」


「文字を……操る?」


「そう、例えばこんな風にな」


 校舎の周りをぐるぐると回り続ける文字の羅列から、必要な文字の幾つかを独立させて獏に放つ。


 放つ文字は、縛、拘、封、拒、その他もろもろの漢字達だ。これは先程使った応用版とは訳が違う。どんなに図体が大きくても決して抗えない物量で獏の進行を妨げ、身体の表面に張り付き効力を発揮した文字達が完全に動きを喰い止める。


 文字によって縛られ、拘束され、封じられ、拒絶された獏に出来ることはもう何もない。あるとすれば、それはただ生きることだけだ。例え、死ぬことだって勝手は許されない。


「そんな……」


「もう夢の時間は終わりだ。目を開けて現実を直視する時が来たんだよ」


「いっ、嫌っ! 嫌よ!」


 じりじりと後退り、声を荒げながら俺から距離を取る浮夜ちゃん。


「どうしてっ! どうして私の邪魔をするのよっ! 私はただ変わらずにいてくれればそれで良かったのにっ! どうして余計なことをするのよっ! 嫌よっ、絶対に嫌っ。また何もかもが変わってしまう世界に戻るなんて、私は嫌っ! 私はこの世界に居たいっ、この不変の世界でずっと暮らしていたいのよ!」


「不変なものなんてこの世にはねーよ」


 俺は取られた距離を取り戻すように、一歩踏み込む。


「確かに周りの状況が何も変わらない世界は、お前にとって優しい世界なんだろう。だがな、残念ながら世の中にそんな都合のいい人間も、物質も、時間も、概念もない。みんながみんな、ゆっくりと長い時間を掛けて少しずつ変わっていくんだよ」


「それでもっ! それでも此処なら変わらずに居られるっ! この夢の世界なら私は永遠に中学生のまま、ずっと性格の変わらない唯名と一緒に居られるのよっ!」


「唯名と一緒にいられる? おいおい、笑わせてくれるなよ。この夢の世界に唯名なんていない、居るのはお前と俺と獏だけだ。お前が変わらないと言い張る中学校も、世界も、そして唯名も、所詮はお前の記憶から作り上げられた幻想だ」


 限界まで身を下げ、背中に手すりが当たったことにより、もうこれ以上後退できないことを理解する浮夜ちゃん。俺はそんな追い詰められた状況に陥った目の前の少女に対して執拗に、追い込むように言葉を並べながら、距離を詰めるべく足を踏み入れた。


「それでも……私は」


「お前は、一体どっちが良いんだ?」


「え?」


「同じ所で同じ相手とずっと足踏みを続けるのか、それとも移り変わる場所で移り変わる相手と共に歩み続けるのか。お前はどっちを望んでいるんだ?」


「私は……」


 完全に沈黙し、何も喋らなくなった。


 今の成す術がなくなった状況と、投げ掛けられた質問に対しての自問自答、そうして浮かんできた正反対の何か。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って考えが纏まらなくなり、自分でも何を望んでいるのかはっきりと分からなくなったんだろう。


 大人びていても、子供は子供ということだ。大人はちゃんと、子供の考えを見抜けるもんだ。


「なら、質問を変えよう。お前は、浮夜ちゃんは偽者の唯名と本物の唯名、どっちと一緒に居たい?」


「それは……」


「唯名はな。お前が目を覚まさないと知ってから、イの一番に俺のところまで来た。浮夜ちゃんを助けてくださいってな。学校を抜け出して、全速力で駆け付けて、俺に事情を説明し終わったら浮夜ちゃんのいる病院までまた全力疾走だ。くたくたになって弱音も吐いていたが、一度たりとも唯名は足を止めたりしなかったぞ。浮夜ちゃんを助けたい、その一心で唯名は今でも浮夜ちゃんが眠るベッドの前で立っているんだ」


「ゆい……な……」


「浮夜ちゃん。浮夜ちゃんが今やっていることは、そんな唯名の気持ちを踏み躙る行為だ。それだけは理解して答を決めろ。俺はもうこれ以上、何も言わないから」


 変わることを望んだ少女と、変わらないことを望んだ少女。


 その二人の純粋で、それ故に危うい友情が今試されている。浮夜ちゃんが欲に負ければそれまでだ、もう誰が何を言っても、どうしようと浮夜ちゃんは目を覚まさない。例え、獏が居なくなっても夢を見続けるだろう。


 大切なのは己の欲か友情か、それを決めるのは他の誰でもない彼女自身だ。俺は来るべき時を、ただ黙して待つのみ。


「……唯名は、高校生になった途端に別人のように変わってしまった。友達は私しかいなかったのに、どんどん新しい友達を作って、明るくなって。そんな唯名を見た私は、何時か唯名に見放されるのではないかと怖くなった」


 自分自身を抱き締めながら、搾り出すように彼女は言葉を吐き出していく。


「でも、ある日からそんな唯名の性格がふと昔に戻ってくれた。唯名のぎこちなく会話を交わす姿を見て私は安心した、これで私が見放されることはないと。でも、それは希望的観測に過ぎなかった」


 気持ちを吐き出していく。


「昔に戻った唯名は、それでも明るく振舞って、また新しい友達と過ごすことが多くなった。私と会話する時間はみるみる減って、会う機会も減って、こんな事になるなら高校生になんてならなければ良かったと思った。ずっと中学生のままでいられたら、私達の関係は永遠に変わらずにいられると思った。だから、だからっ」


 だから、夢の中で獏と出逢った浮夜ちゃんは、それを切っ掛けとして夢の中に引きこもった。


 変わってしまった関係を修復するように、中学生の頃の思い出を夢見て自ら夢幻に沈んでいった。沈みながら何度も同じ思い出を繰り返し、決して変わることのない偽者の唯名を作り上げた。そしてそれで満足してしまった。


「でも、もう終わりにしなければいけませんね。眠っている私の側に唯名が居てくれているのなら、私は目覚めない訳にはいきません。本屋さん、唯名のことを伝えてくださってありがとう御座いました。お陰で目が覚めました。私はもう大丈夫です、ちゃんと幻想ではなく現実の唯名と向き合います」


「そうか。ちゃんと答が出せて良かったな」


 これで俺が獏を喰い止める必要もなくなったな。


 身体の表面に張り付いた文字の御業を解いて、獏の拘束を解除して好きに行動できるようにしてやる。身動きが取れるようになった獏は、暫くの間、浮夜ちゃんを見詰めていたかと思うと、徐に踵を返して何処かへと去っていった。


 もともと悪夢しか喰わない獏だ、悪夢がなくなれば姿を消す。前例があったとはいえ、悪夢だけでなく夢まで喰っていると勘違いしていたのは、獏に対して悪いことをしたな。あらゆる状況を想定できていないあたり、やっぱり俺はまだ爪が甘い子供らしい。


「浮夜ちゃん。俺は帰るから、きちんと目を覚ますんだぞ」


「はい」


「それじゃあな。現世で会おう」


 俺は御業を使って出の文字に秘められた効果を使い、夢の中から脱出する。夢幻に沈んだ月が、無事に夜空へと浮かんで行くのを確信しながら。



 気が付くと、俺は病室に帰って来ていた。


 あたりは夢の中に入り込む前と同じまま何一つ変わっておらず、浮夜ちゃんの母親もまだ帰って来てはいないようだった。やはり短時間では何も変わらないか、変わるには長い時間が掛かるということを暗示しているみたいだな。


「ふぁー。疲れた、身体じゃあなくて心の疲れが酷いぞ、これは」


「なっ、なに暢気なことを言っているんですか! 浮夜ちゃんを早く助けてくださいよ!」


「んあ? ……あー、そういうことか」


 浮夜ちゃんの母親が居ない時点で、そんなに時間が経っていないことは予測していたが。まさかそこまで時間の経過が少ないとは思いもしなかったな。恐らく、唯名の視点では俺が浮夜ちゃんの額に手を置いて、数秒も経っていないんだろう。


 いや、でも不思議はないのか。浮夜ちゃんはたった三日で、何年もの時間を過ごしたんだから。


「ちょっとトイレ行って来る」


「えぇっ!? じゃっ、じゃあ早くしてくださいね!」


「あぁ、善処する。あぁ、そうそう唯名」


「はい?」


「今の内に泣く準備をしておけよ。泣き損ねるぞ」


「はじめさん。さっきと言っていることが正反対ですよ?」


「そうか? まぁ、言う通りにしておけ。損はしないからさ」


 小首を傾げてきょとんとする唯名を背に、俺は三日月浮夜と書かれたネームプレイトが設置された個室を出る。


 ま、後はお若い二人に任せて、大人は退散するとしますか。浮夜ちゃんが目を覚まして唯名と泣き崩れる頃には、浮夜ちゃんの母親も帰ってくるだろう。そしたらもう一度、洗面所に向かわなくちゃあならないな。


 こんどは嬉し涙を洗い流すために。

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