依頼
Ⅰ
依頼を受けて貰うんだから、此処は俺が持つよ。旦那にそう言って貰ったので、俺は素直に財布を懐にしまったのだった。金に困っていたからというのもあるが、一番は旦那の心意気を無にしたくはなかったからだ。
「それじゃあ、宜しく頼むよ」
「あぁ、任せてくれ」
居酒屋の前で別れを惜しみながらも旦那と別れ、俺はその足で自宅へと向かう。上弦の月を見上げることもなく、星空を見詰めることもなく、ただ只管前を向いて帰路を歩く。蘇った記憶の余韻に浸ることもなく。
「にしても、狐憑きか」
狐憑きはかなり厄介だ、ある意味で唯名の時と状況が似ている。ただでさえ取り憑かれているというのに、下手に祓おうとすると憑かれた本人に危害が及ぶ。祓っている最中に暴れられでもしたら最悪だ、取り憑かれた本人も祓うがわも無傷じゃあ済まされない。
とりあえず、俺が今やるべきことは早く帰って眠ることだ。
酒を飲んだのだから、アルコールが抜けるまで御業を使う訳にはいかない。少しとはいえ酔ったまま使っていい力じゃあないことは百も承知している。それに酔っているのに流れる文字を読むことなんて出来ない。吐く。
だから、一刻も早く家に帰って風呂に入って寝る。そして早起きして狐憑きの復習をする。これがベストだ。
「絶対に成功させないとな」
そんな意気込みを人知れず口にしながら、俺は夜道を歩き切った。
Ⅱ
狐憑き。
主に精神の錯乱した人間をさす言葉で、昔の人々がそう行った精神状態に陥った人や急に人が変わった人をみて、こうなったのは狐の霊に取り付かれているからだと考えたため、このような概念が構築された。現代なら説明できるものでも昔は説明できなかったもの、それが妖怪や幽霊といった異形の者の発祥である。
この他にも有名なものに犬神憑き、心身を消耗する河童憑き、精神異常を引き起こす蛇神憑き、なんかがあるが一々説明していたら日が暮れるので、また別の機会があれば話すとしよう。
さて、この狐憑きの何が厄介なのかと言うと、こちら側が何も手を出せないことにある。
狐憑きでもなんでも霊に取り憑かれてしまった場合、身体ではなく心に霊が取り付いている状態にある。それ故に、幾ら俺達のような人間が外部から物理的な交渉に出ようと、それは無意味となる。もし無意味にならない物理的な交渉手段があるとすれば、それは取り憑かれてしまった本人を殺してしまうほかない。
そんな訳で俺が行うべき交渉手段は物理的なものではなく、非物理的な交渉手段でなければならない。
が、それはそれで問題があるのだった。
というのも、さっきも言ったように狐憑きは狐の霊が身体ではなく心に取り憑く。そうすることで精神を錯乱させたり、または別人のように性格を歪めてしまうので、俺が言霊師の御業で無理矢理引き剥がそうとすると少なからず、取り憑かれてしまった本人の心が傷付いてしまうのだ。
なら、どうするのか。それはもうお願いするか、自然に出て行ってもらうのを待つしかない。
誠心誠意、頭を深々と下げて、どうかこの人の身体から出ていって下さい、成仏してくださいとお願いするか、現状維持に努めて狐の霊自ら出て行ってくれるのを気長に待つ、たったそれだけ。まぁ、探せば他にも心を護りながら狐の霊を引き剥がす術もあるにはあるのだが、取り憑かれてしまった本人の安全を一番に考えると選択肢は自ずとこの方法二つに絞られる。
「はぁ……、こりゃあ長期戦になるかな」
自身の周りにぐるぐると漂わせていた文字の羅列たちを解散させ、元あるべき場所に戻るよう指示をした俺は、いい感じに軋む椅子に全体重を任せて深く凭れ掛かる。
とりあえず、朝六時に起きて顔を洗って歯を磨いた後、朝飯も喰わずに狐憑きについての復習をして、頭の中に浮かんだ対策は以下の通りだ。
一つ、狐の好物である揚げ物を大量に食べてもらって霊の機嫌をとり、気持ちよく成仏してもらう。ただし、そのまま居座られる可能性大。
二つ、狐の嫌いなもの、つまりは自然界にはない臭い食べ物を食べてもらい、居心地の悪さに耐えかねる形で出ていてもらう。ただし、狐憑きの影響である精神の錯乱、性格の歪みが酷くなる可能性大。
三つ、日常的に、以前に俺が蜻蛉に渡したような御札を持ち歩いてもらい、徐々に霊力を奪うことで狐の霊が自然消滅するのを待つ。ただし、言霊師としての主義に反し、しかもかなりの長期戦になると予想される。
こんなところだ。
「んー、どれもこれも一長一短か」
天井を見上げて考える。一体どれが一番いい選択なのか、果たしてこの中に最良の選択肢はあるのか、を。
「……腹へったな」
腹の虫が鳴き始めてしまったので、視線を古惚けた天井から時計に移し、時刻を確認する。
午前十一時二十七分。復習を始めたのが六時十分くらいだったから、もう五時間も文字と睨めっこしていたことになるのか。そりゃあ腹も鳴るってもんだ。一応、狐憑きに対する対策も幾つか浮かんだことだ、一度打ち切って飯にしよう。
「……あぁ、そっか。そういえば昨日、晩飯を買いに行く途中で旦那に会ったんだっけ」
意気揚々と冷蔵庫を開けて、そして愕然としたのは言うまでもないことだった。
Ⅲ
今日の午後三時ごろ。
俺はその時間に一度、狐憑きになってしまったという旦那の知り合い、愛美さんと会うことになっていた。住所と連絡先は昨日、居酒屋にいる内に紙に書かれたものを渡され、俺が訪ねることは事前に旦那のほうから話を通しておいてくれるそうだ。
なので、唯名に臨時休業のメールを送信したり色々なことを終わらせ、今現在の時刻は午後三時を五分ほど過ぎたくらい。俺は紙に書かれていた場所であるマンションに辿り着き、愛美さんが住んでいるであろう部屋の扉の前に立っている。
社会人の端くれとして時間ぐらいは護りたかったが。でもまぁ、こう言った個人的な訪問の際には、五分前より五分遅れて行ったほうが良いとも言うような言わないような気がする。訪問先に余裕を持たせる為だとかなんとか、自信は無い。
「よし、行くか」
しかし、そんなことを気にしていても始まらないので、気を楽にしてインターホンを押す。
部屋の中に響き渡る音が扉の隙間から流れてくるなか、少しもしない内にがちゃりと鍵が解かれ、扉が開く。
「あら、どちら様かしらー?」
第一印象は、とてもおっとりとしている人、だった。
見た目から判断するに、歳は俺よりも少し上で恐らく二十代半ばから後半くらい。身長は目測で百六十センチと少しと女にしては高め。歳相応の大人しめの服装をしていて、落ち着きのある仕草が気立てのよさを感じさせていた。
そして服の上からでも分かるほど、ナイスなプロポーションだった。
彼女のは是非とも眼鏡をかけて頂きたい。
「どうも、こんにちは。俺は一一という者なんですが、五十嵐雨音さんから連絡は来ていますでしょうか?」
「あっ、そうなのー、あなたがにのまえさんなのね。御待ちしてました、どうぞ上がって下さいなー」
玄関には男が履くには少々気恥ずかしいピンク色のスリッパが容易されており。それを履いて愛美さんの背中を追いかけて廊下を歩いて行くと、数秒と掛からず空けたリビングに到達する。
そこには中々どうして女らしい、女の子らしいと言ってもいい部屋が広がっていて、それがまるで異性の侵入を阻んでいるようでもあった。けれど、俺が密かに危惧していた部屋中がドギツイピンク塗れの異空間でなかっただけ重畳だ。
男であることから来る、ほんの僅かな居心地の悪さはあれど此処が天国に見える。
「粗茶ですがどうぞー」
「ありがとうございます」
テーブルに向かい合って座り、ティーカップに淹れて貰った紅茶を口に含み、その芳しい匂いごと飲み下す。紅茶の味なんてものが分かるほど上等な舌なんて持ち合わせていないが。この匂いを嗅ぐだけでもこの紅茶は多分、美味しいのだろうと理解はできた。
こんな俺でも緑茶ならまだなんとか味が分かるんだけれどな。昔によく爺さんや婆さんに淹れて貰っていたから。
「えっと、にのまえさんは霊媒師さんなんですか?」
「いえ、俺は……まぁ、霊媒師ではなく、陰陽師と言ったほうが近い人間でしょうね。大雑把に言ってしまえば、この紅茶とレモンティーくらいの違いしか有りませんけれど。とりあえずは陰陽師と同じようなものと受けとって置いてください」
「なるほどー、わかりましたー」
言霊師の説明を手っ取り早くするために、陰陽師の名前を出さなくてはならないのが非常に癪に障るが、仕様がないことなので諦めるとして。ティーカップを受け皿に戻した俺は、会話もそこそこに本題を切り出す。
「愛美さん。旦那……じゃあない、五十嵐さんからどの程度のことまで聞いていますか? 自分の身に起こっていることについて」
「それは……にわかには信じがたいんですけど。私に幽霊が取り憑いている、ということは聞いています」
「その他には?」
「いえ、今日の三時ごろに雨音さんの知り合いが私のところに来るという話以外、他には何も」
ふむ。どうやら旦那は愛美さんに、あまりこちら側の世界のことを知って欲しくないみたいだな。だから、狐憑きという直接的な表現を避けて、幽霊が取り憑いているだなんて暈した言い方を愛美さんにした。
旦那がそう考えているのなら、俺もその意思に従う必要があるな。不用意なことを言えないぶん、言動に胡散臭さが滲み出ることになるが、なんとか信じて貰えるように努力してみるか。
「そうですか、分かりました。では、愛美さんご自身に何か自覚はありますか?」
「自覚ですかー……、そう言えば最近になってときどき、私が私じゃなくなってるって友達に言われますね」
「自分が自分じゃあない、ですか」
「はい、私自身あまり記憶にないんですけど。でも友達が言うには、とつぜん人が変わったみたいになって……その……おっ、男の人を誘惑しているって。普段はそんなことしないんですよ? 本当に!」
誘惑、か。まぁ、あの豊満な身体で誘惑されたら大概の男はその気になるよな。
「それで、この御話には続きがあって」
「続き?」
「その……ゆっ誘惑したあと、その気になってくれた男性をこっ酷く貶して、そのまま帰ってしまうらしいんです、私」
「そう……ですか」
それはそれはなんともまぁ、残酷な御話で。
分かり切ったことだが、愛美さんの身体を勝手に操って男を誘惑しているのは取り憑いた狐の霊だろう。狐は男を誑かして弄んで遊んでいるつもりなんだろうが、それによって誘惑され犠牲になった男達には同じ男として同情を禁じ得ないな。
あまりにも惨い。
「それじゃあ、愛美さん自身には自覚がなく。友達から伝え聞いただけという訳ですね?」
「はい、そうです。あのー、これって本当に幽霊が私に取り憑いているから、こういう事が起こるのでしょうか? 私はてっきり友達の冗談か何かだと思っていたんですけど」
「俺はまだ実際に、愛美さんが人が変わったように豹変する姿を見た訳じゃあないので、まだ断定は出来ませんが。十中八九、幽霊が取り憑いていると思います。取り憑かれているからこそ、自分の気付かないところで幽霊が顔を出す。言わば、二重人格のようなものですかね」
「二重人格……ですかー」
そう俺の言葉を繰り返した愛美さんは、やはりと言うべきか半信半疑だった。
旦那のことだから、愛美さんとは強固な信頼関係を築いていることは確かだ。でもだからと言って、旦那から紹介された人間だからと言って、常識で考えれば荒唐無稽なことを言っている男の話を、そう簡単には鵜呑みに出来ないんだろう。もっと言えば、俺のことを詐欺師か何かだと思って不信感を募らせているかも知れない。
だから、先ずは当初の予定を変更して本題を進めていくのではなく、愛美さんの信用を得ることから始めよう。
「それじゃあ愛美さん。御話をしましょう」
「え? 御話ですか?」
愛美さんの顔がきょとんとする。
「そう、御話です。今日会ったばかりの見ず知らずな男の話を、いきなり信じろとは言いません。だから、小難しい話は置いておいて、少しでも普通の会話を交わして俺のことを愛美さんに知って貰いたいんです。そうすれば愛美さんの不安も少しは和らぐでしょう?」
「……そう……ですね。やっぱり急には信じられない、現実離れした話なのでそうして貰えると嬉しいです。私のことなのに、お気遣いありがとうございます」
こう言った流れで俺と愛美さんは、狐憑きのことを一旦忘れてしまい。ごく普通に男女間でやりとりされるような他愛の無い会話を始めるのだった。急いては事を仕損じるとは昔の人は良くいったものだけれど、この思い付きで始めた他愛の無い話も、狐憑き解決の近道になってくれれば良いんだがなぁ。




