邂逅
Ⅰ
初夏を乗り越えた後に待ち受ける、更に気温の上昇する七月。
唯名が一書店で働き始めて一ヶ月以上が経った、夏本番のうだるように暑いある日のこと。今日も今日とて相も変わらず苦しい生活を強いられている俺は、冷房器具の一つもないこのぼろっちい本屋で来ない客を待ち侘びていた。
「唯名がいないと客が寄り付かないってのも、改善しなくちゃあならない事だな」
唯名の漲る女子高生パワーでなんとか客が店に足を運んでくれるようになったんだが、それも唯名が店先に立って看板娘をしてくれたり、店内で接客をしてくれている間だけのことで。唯名が学校にいる間やバイトの休日、その他もろもろの事情で彼女がいない場合、なんとも分かりやすいことに客が寄り付かない。
つまり、あの忌々しい閑古鳥が鳴いている訳だ。
閑古鳥に鳴かれ、腹の虫に鳴かれ、今度は更に蝉にまで鳴かれているしまつ。尚いっそうのこと喧しくなった大合唱に対して今後どうして行くか、どうこの一書店を経営して行くか、今、俺の手腕が試されている。
「まぁ、とりあえずは今日の晩御飯について考えよう」
先日、唯名の働きに見合った然るべき給料を払い、そして移動手段としてピカピカに光る自転車を購入した今現在、俺の懐は寒いを通り越して極寒となっていた。本当の本当に余裕が無い、缶ジュース一本買う余裕すらない。
今後のことを考えてと、中古の自転車ではなく新品の自転車を買ったのがいけなかった。あそこで中古の自転車を選んでおけば、後幾日かくらいは空腹に悩まされずに済んだというのに。唯名がいる間だけだが本の売り上げが良くなったからと言って、調子に乗るんじゃあなかった。
本当に、おっさんの言う通りだ。体のいい言い訳にしか聞えないだろうが、言霊師は宵越しの金を持てない。
「あっ、そう言えば、今はもう使ってない口座にまだ数千円くらい残っていたっけ」
使ってないというか使えてないんだが、それでもこの状況下で数千円はでかい。
自分で言っていて心底テンションが下がるんだが、背に腹は変えられない以上、仕様がない。もうそろそろ春風学校も放課後になったことだろう。しばらくすれば唯名がここに来るはずだから、申し訳ないが店番を頼むとしよう。
この前、唯名が興味深そうに見ていたから、気まぐれに会計とか色々なことを教えてやったので、留守番くらいなら少しのあいだ任せても大丈夫だろう。
「おはようございまーす」
噂をすれば影がさすとは昔の人はよく言ったもので、ちょうど件の看板娘である唯名が現れた。
「おう、おはよう。今日も浮夜と一緒にこっちに来たのか?」
「そうですよ。なんだか離れるのも寂しくて」
「付き合いたてのカップルかよ、お前等は」
えへへっ、とはにかんで見せた唯名は心底幸せそうだった。
浮夜が目を覚ましてからというもの、二人の関係は親友のそれを軽く凌駕しているような気がするのは俺の勘違いか? きっとお互いに腹を割ってかなり色々なことを吐き出しあったから、こんなにも距離が近付いたんだろうが、しかしそれでも限度ってものがあるだろうに。
まぁ、女同士で愛し合っている訳でもないし、例え愛し合っていたとしても俺が口を挟むようなことでもないから、べつに関係ないんだが。だが、こうもべったりだと仲が良すぎるというのも考え物だと思わざるを得ないな。
「ん? 浮夜は何処にいるんだ? 一緒に来たって言うわりには姿が見えないが」
「ふふふっ、それはですね」
「なんだ、その不敵な笑みは」
「見てからのお楽しみですよっ」
見てからのお楽しみ、ねぇ。一体全体なにを見せてくれるのやら。
不敵な笑みを絶やさず、心底たのしそうに唯名は後ろを振り返って浮夜の名前を呼ぶ。が、しかし一応返事だけはしっかりと返って来ていて聞き取れもするのだが、その肝心な浮夜が少しも姿を見せようとしない。硝子障子の向こう側にいることだけはシルエットで分かるのだが、一向にそこから動こうとしない、微動だにしない。
「なんなんだ?」
「うーくーよーちゃん! 隠れてても始まらないよっ!」
「でっ、でも私。はっ、恥ずかしいわ」
「全然恥ずかしくないよっ。それに浮夜ちゃんがやるって言ったんだよ?」
「そっ、そうだけれど。でも、いざとなるとどうしても」
「ああん、もうっ。じれったいなぁ、浮夜ちゃんは」
話がまったく見えてこないまま、二人の会話はどんどん進んで行き。最後には、なかなか決心のつかない浮夜に業を煮やした唯名が、強引に腕を引っ張って引きずり出す形で決着が付く。
「まっ、待って唯名! まだ心の準備が!」
「浮夜ちゃんの準備万端を待ってたら、日が暮れてお月様が出て来ちゃうよ!」
そうして力尽くで引っ張り出された浮夜の姿を、俺はここで始めてしっかりと見ることになるのだが。この目に浮夜を写したその瞬間に、胸のそこから何かマグマのように熱い、灼熱の何かが沸き上がってくるのを俺は感じたのだった。
「唯名、ちょっと来い。俺と握手を交わそう」
「はい、はじめさん。よろこんで」
「なんでそこで握手になるんですか! 二人とも!」
がっちりと硬く繋がれた互いの手は、手の平にあるものを握り潰さんとばかりに力強く握られている。にも関わらず少しも痛くはなく、寧ろこの握力が心地いいとさえ感じるのは、偏に浮夜が身に付けているある物のお陰だろう。
「だって、なぁ?」
「はい。だって、ですね」
浮夜が身に付けているある物、それは何を隠そう眼鏡であるのだから。
前にも同じようなことを言ったが、普段裸眼で過ごしている少女がふと垣間見せる眼鏡を掛けた姿。その知的な雰囲気と気丈そうな印象がプラスされつつ、どこか触れれば折れてしまいそうにも思えてしまう、そんな矛盾を孕んだ眼鏡少女に心が震えない俺が俺であるはずがないのだ。
その上、人に自分が眼鏡を掛けている姿を見られるのが恥ずかしいと思い、耳まで真っ赤にして赤面して照れているとくれば尚更だ。この姿を見て何も感じない男は男じゃあない、心の病気を患っているか、そもそも人間じゃあないかだ。
「やっ、やっぱり止めて置けばよかった」
「おいおい、何を言っているんだ。今の浮夜は無限の可能性を秘めているんだぞ?」
「そうだよ、浮夜ちゃん! 今の浮夜ちゃんは何時にも増して、すっごく可愛いんだよ!」
「そんな無限の可能性と可愛さなんて要りません!」
その後しばらくの間に渡って、俺と唯名の二人でからかうように浮夜を褒めちぎり。耳どころか顔中を真っ赤に染め上げて、頭から湯気が立ち昇りそうになったあたりで、俺達は満たされ、これら一連の流れを一旦終わりにするのだった。
浮夜にとっては災難だっただろうが、俺達二人にとってはこの上ない幸福だ。浮夜の身体をはった犠牲に感謝しよう。
「んんん? そう言えば、なんで眼鏡を掛けようと思ったんだ? 浮夜。こんなに顔を真っ赤にしてるのに」
「こんな顔になっているのは貴方達がからかうからですっ!」
と、恥ずかしさからくる涙を目の端に滲ませた浮夜が吠える。
まぁ、それはそうだし反論の仕様もないが、しかし、気になるものは気になる。どうして今日いきなり眼鏡を掛けてきたんだ? 唯名の話では浮夜が自分から眼鏡を掛けると言っていたようだが、はてさてどんな理由があるんだろうか。
「それはですねー」
羞恥に震える浮夜に変わって、未だににこにこしたままの唯名が口を開く。
「私、一書店で働いてもいないのに唯名と一緒にいて、にのまえさんに迷惑ではないかしら? って、浮夜ちゃんが言い出したからですよ」
「ほう」
「だから、それじゃ何かはじめさんが喜ぶことをして上げれば良いんだよって話になって」
「そしてこうなった、と」
「はい」
なるほど。仮にも営業時間に友達と喋り倒しているというのは、確かに印象が悪いし実際に迷惑だろう。それを浮夜が後ろめたく思う気持ちも分かる、下手をしたら唯名の評価も下がってしまうからな。
だが、それは飽くまで他の店での話だ。この一書店に限っては、なんら問題などなかったりする。
そりゃあこっちも商売でやっているんだ。唯名と浮夜がべったりくっ付いているせいで、仕事に支障を来たすなら注意もするし、場合によっては蹴っ飛ばしてでも出て行ってもらう。
が、その辺のことを二人はきちんと弁えているし、実際に他に客がいるときに二人は会話を交わさない。なので、そんなに気にして後ろめたく思うほど、俺自身が迷惑だと思ったことはない。
それどころか唯名と浮夜が一緒にいる状況は、此方にとってもありがたいとさえ思っている。なにせ自動的に手間なく看板娘が一人から二人に増えるんだからな。唯名と浮夜。二人が揃って一書店にいてくれれば、その内ここはレベルの高い女子高生が二人いる本屋として噂されるようになる。そうなれば売り上げも今まで以上に伸びるだろう。
だから、そう言うお互いに利点のある状況なので、浮夜が後ろめたく思う必要はまったくないんだが。まぁ、面白いしこの理由はこのまま黙っていてもいいだろう。また浮夜の眼鏡姿が拝めるかもしれないからな、眼福眼福。
「なんともありがたい事じゃあないか。俺は心の底から、眼鏡少女を見れて嬉しいと思っている」
「それは……本当でしょうか?」
「もちろん、俺は眼鏡について嘘は付かない」
「だってさ、浮夜ちゃん。良かったね」
えぇ、と返事をして逆上せたような顔をしつつ、小さく笑った浮夜は腰が抜けたように椅子に座り込む。
因みに、この椅子は唯名をバイトとして雇った際に物置から引っ張り出したものだ。今現在、その椅子は唯名用、浮夜用の二つが役割を果たしている。
「おっと、そう言えば出かけなくちゃあならないんだった。唯名、悪いけれど店番たのんでもいいか?」
「え? あっ、はい! 任せてください!」
いい返事が聞えて来たところで俺は軋む椅子から立ち上がり、カウンターを迂回する
「よし。じゃあ浮夜も唯名の面倒を見といてくれ。あと、別に迷惑なんかじゃあないから、無理をしなくても構わないからな?」
「はっ、はい」
一応、大人として適切な対処をするために、唯名と一緒にいることは迷惑ではないということだけを伝え、その他の目論見のことは隠し。擦れ違い様に浮夜の肩をぽんっと叩きながら、俺は蒸し暑くて蝉の鳴き声が五月蝿い店の外へと繰り出した。
Ⅱ
手持ちの残金、五千二百六十二円。
そんな子供がもらうお年玉にも劣る金額を手にした俺は、あまりの情けなさに肩を落としながら帰路についていた。
「ちっくしょう、絶対に繁盛させてやる」
俺が一書店を経営するはめになったのは親父のせいだとはいえ、此処まで貧乏生活を送っているのは俺に力がないから、だからな。なんでもかんでも親父のせいにしてたら、今よりももっとダメな大人になってしまう。
まぁ、今より下はないってくらいダメな大人だがな、俺は。
そんな風に経営者としての決意を新たにしながら、ちょうど差し掛かった一書店までの近道に爪先を向ける。
いや、本当に近道かどうかは分からないか。方角的に、この狭くて人通りの少ない道を通れば近道になる気がしたから、そっちの方向に進んだんだが。しかし、これが意外とややこしく道が入り組んでいて、まるで迷路のように俺を迷わせてくる。
「こりゃあ、不精して楽しようとしたのは間違いだったかな」
二十年以上この街に暮らしてきたが、それでも意外と迷子になる可能性が高いことに今さら気が付いた。やっぱり土地勘があるといっても初めて通る道では迷うものだな、住み慣れた街だというのに軽くショックだ。
迷うものは迷う、どうしようもないことだってある。という事にして気を取り直そう、これは仕方のない防ぎようのなかったことだ。
だから、べつに俺が方向音痴だということではないので勘違いしないように。
「さーてと、此処はどこだ?」
それから適当に歩みを進めていると、完全に迷った。迷子ならぬ迷大人である。
四方八方を建物の壁やらブロック塀に囲まれていて、どの道をどう通ったとしても同じような景色が続き。自分が今どこにいるのか、この道は一度通ったことがあるのか、などなどの情報の把握がかなり難しい。空を見上げれば屋根とかの関係で空の形が変わっていくんだが、それを目印にするというにはちょっとばかし心もとない。
はてさて、どうしたもんか。
一番てっとり早いのは、屋根の上に昇ってそこから見知った道まで向かうことだが。それを生身でやるとなると肉体的に辛いところだ、出来なくはないがな。今は文字の手持ちもないから御業に頼ることもできないし、応用版については使うことすら躊躇う。
まぁ、本当に人を迷わせるために作られた迷路なんかじゃあ有るまいし、適当に歩いていれば何処かの大通りにでは出るだろう。唯名に店番を頼んで出てきたから早めに帰ってやりたいんだが、致し方ないか。
そう俺は楽観的に判断して、止まっていた足を再び動かした。
「だっ、誰か助けてくれっ!」
そして助けを求める名前も知らない誰かの声を、この耳で確かに聞いたのだった。




