8:彼はきっと
「もしもし?」
『……俺だ』
「お? 沖澄かい。どうしたんだい? 今日の放課後は美馬川をモデルにして描くはずだったろう」
『悪いが、出来なくなった』
「中止ってことかい? 一体またどうして」
『……他に、やることが出来た。描かなければならないものが、出来たんだよ、来栖』
「……そう。成る程ね。結局、最後にはそうなるか」
『…………』
「やっぱり沖澄は、正しいことが出来る人間なんだろうね。その過程でどれだけ間違えても、最後にはそこに辿り着ける人間なんだろうね」
『…………』
「正直、君が何をしようとしているかなんて僕には分からないけど、沖澄の思った通りにやってみるといいよ。美馬川にはこっちから話しておく」
『……すまん、よろしく頼む』
「――ということみたいだよ」
「そう、ですか。……やだなぁ、私、これじゃ、すっごくバカみたいじゃないですか」
「…………」
「こ、こんなに気合い、い、入れてきて、ほんと、バカみたいで……」
「…………」
「本当は、分かって、たんです……私なんかが、あの二人の間に、割ってはいることなんて、出来ないってことぐらい。で、でも……それでも、もしかしたらって……ひ、卑怯かもしれないけど、い、今なら、私にもっ……て――」
「もう、いいよ。君は確かにバカかもしれないけど、きっとそれは愛すべき方のバカだろうからね」
「う……く……あぁあ――――――――!」
***
電話を切って、ベッドから身体を起こした。
昨日は、あのままこのアトリエで寝てしまった。朝方まで食べるものも食べずに描き続けて、気付いたら今――夕方になっていた。
少し埃っぽい布団からは、あいつの匂いは殆ど失われてしまっていた。微かに、残り香のように鼻先を掠めるだけ。俺は床に立ち、そのすぐ傍の、ちょうどこのアトリエを見渡せる位置――アトリエの中心が視界に入るように設置されたカンバスの前に立つ。
スツールにはコンビニのオニギリが二つにお茶のペットボトルが一つ、そして一枚のメモ用紙が置かれていて、そこには一郎さんの字で『好きに使ってくれて構わない』と書かれていた。
そのメモを握りしめながら、一郎さんの会社がある方向に向けて、俺は深く頭を下げた。スツールに座って、オニギリの包みを破る。もしゃもしゃとそれを食べながら、カンバスを眺める。
絵は全くと言っていいほど出来上がっていなかった。下塗りなしに絵の具をのせ始め、塗っては止め、塗っては止め、それでもどうにか形になったように思えて昨日は筆を置いた記憶がある。
だが、全然駄目だった。一応、油彩画の体を成してはいる。俺が今まで描いてきたものの中には、一晩で描き上げ、それで完成とした作品もある。
しかし、この絵は別だった。完成には程遠かった。何もかもが足りない。普段の俺が一瞬の煌めきをカンバスに写し取るのだとしたら、この絵をそのやり方で描き上げるのは不可能だった。
この一瞬には、永遠が詰まっている。
この一瞬は、ここに至るまでの過程の凝縮、その発露である。
ここに表われているのは、あいつの全てだ。
今までの全てだ。
だから、この一瞬には永遠が詰まっているのだ。
「……足りない。この程度じゃ、全くもって足りない」
――永遠には程遠い。
だが、この絵全体に更に重ねるためには、どうしても今描いた絵の具が乾くのを待つ必要があった。あと一日か二日。通気性の良いこのアトリエなら、おそらくそれだけあれば乾くはずだった。
その時間が、とてももどかしかった。
一度家に帰り、両親と話をした。
――どうしてもやらなければならないことがある。だから、しばらくの間学校を休んで自由にさせて欲しい。
そんな説明でも何でもない俺の言葉を聞いて、テーブルを挟んで座る親父とお袋は、しばらくの間押し黙った。
「お前は、今がどういった時期か分かっているんだろうな?」
腕を組んで瞑想するように目を閉じていた親父は、重苦しい声でそう言ってきた。
「ああ、分かってる。高校三年の、こんな時期にこんなことを言い出すことがどれほど馬鹿げたことで、どれほど勝手なことなのか、よく分かってる。――けど、それでも、俺はこれをやる」
射竦めるような三白眼をこちらに向ける親父から視線を逸らさず、はっきりと俺は言い切った。
「…………」
睨み合いをするかのような時が過ぎる。お袋は困ったような呆れたような顔でそんな俺達を交互に見やっていた。
どれほどの時間が経過したのか、
「――あの子に関することなのか」
不意に、親父はそんなことを訊いてきた。
――まあ、俺がこれだけ形振り構わず、無茶なことを言い出す事柄なんて、そうは多くない。むしろ分かり易すぎるといったところか。
我ながら、呆れるような思いだった。
「そうだ」
再びその三白眼を露わにした親父に向かって、答えた。
「……ならば、好きにするがいい」
そう言うなり、親父は席を立った。そのまま部屋を出て行こうとする。だが、その前に一度振り返り、こんな言葉を言い残して行った。
「だがこれだけは忘れるな。お前はまだ俺達に養われている身に過ぎないということをな」
――やれやれ、だった。
全く、この親父にだけは敵わない。所詮、俺はまだまだガキでしかないのだと思い知らされる。
「やれやれ、だわ」
まるで俺の胸中を読んだかのように、お袋が同じようなことを口にした。呆れ笑いを浮かべ、去っていく親父の背中を見て、そして俺を見る。
「あんたは、つくづくあの人そっくりね」
「ふん……気持ち悪いことを言うな」
「ほら、そういうところとか、まさに」
クスクスと笑うお袋から目を逸らし、俺も席を立つ。
「――でも、だからこそ心配になっちゃうんだけどね」
リビングから出て行こうとした俺の背に、お袋の沈んだ声が掛かった。振り返らず、足だけを止める。
「親の立場から言わせてもらうと、本当はね、あの子には関わって欲しくないって、思ってるのよ。あの子はちょっと……人と違うから」
「…………」
「お父さんのお姉さん――あんたにしてみれば伯母だけど――も、どこかあの子に似た雰囲気を持っていたのよね」
伯母さん――ヴァイオリニストだったという沖澄桐絵は俺が幼い頃に他界しており、その記憶はほとんどない。ただとても繊細な人だったという話だけは聞いている。
「本業は音楽だったけど、趣味で絵の方も嗜んでいてね……そういや、零子ちゃんが絵に興味を持ち始めたのも桐絵さんの影響だったっけ」
少し、驚いた。初耳だった。
以前に桐絵伯母さんの絵を見たことがあるが、その殆どが風景画で、とても綺麗なのにどれもどこか物悲しい雰囲気を漂わせていたのを覚えている。
「っ……?」
――刹那、言いようのない痛みが、胸に走った。
覚えのある痛み。
微かでいて、しかし鋭さを失わない針の如き痛み。
――物悲しい橙が、不意に頭の中に浮かんだ。
スタール。
「――――――――」
その瞬間、俺の中で何かがガチリと填る音がした。
スタール。あの絵。痛み。そしてそれらと結びつく――。
「桐絵伯母さんは、どうして亡くなったんだっけ?」
振り向いて、お袋にそう訊ねた。
「……交通事故よ」
顔を逸らして、お袋は答えた。
「赤信号だったのに、それに気付かず横断歩道を渡って……」
――ポロックの絵が、思い出される。
それは事故だったのか、それとも。
「だから、あんたには余り零子ちゃんとは関わって欲しくなかったんだけど……もう、無理なんでしょうね」
諦めたように笑うお袋。
「ああ――とっくの昔に、手遅れさ」
口許をつり上げて、不敵に笑って見せた。それを見て、お袋は「あーあ」と椅子に寄りかかって、呟く。
「本当――あの人にそっくりだわ」
***
カンバスをじっと見つめる。
中央でスツールに座り、イーゼルに掛けられたカンバスに向かって筆をふるう長い髪の少女。その周囲に少女を取り囲むように散乱するガラクタや道具、作品。奧にある窓の向こうには青空がのぞいており、アトリエの中に光を差し込ませている。
上手く描けてはいると思う。だが、圧倒的に情感が、説得力が足りない。
顔を横に向けて、現在のアトリエを見つめる。絵の中と同じ青い空が窓から見える。
同じ時間帯、同じ場所。
しかし、絵の中の光景と、現在の光景はどこまでも食い違っていた。
絵の中のこの場所は、生きていて。
今のこの場所は、死んでいる。
打ち棄てられた絵に関する道具。部屋の中央に主を失くしぽつんと取り残されているスツール。その前には、同じく掛けられるカンバスを失い、ただ空虚な様を露わにするイーゼル。差し込んでくる日差しもまた、色あせているかのように見える。
「…………」
瞼を閉じて、俺は頭の中にかつて何度も見たその光景を、しかしあの一瞬、それがとても特別なもののように思えた光景を、思い浮かべる。手を伸ばせば触れることが出来るまでにイメージする。現実を覆い隠すまでに、強く強く想起する。目の前に見る。
そして、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前のカンバスに重ね合わせる。
筆をとる。
描く。
煌めく一瞬に、更なる一瞬を重ねる。
髪の毛の黒に、流れ落ちるような質感を。日差しに、更なる柔らかさを、色合いを。周囲に転がるガラクタたちに、よりはっきりとした存在感を。
そしてあいつの抱えているたくさんのものを、形に。
一人じゃ持ちきれないものを、その一人に集約させる。
そして、やがて、俺は筆を置く。