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7:美――ヴィーナス


 その日以来、本当に零子は絵を描かなくなった。

 何日も部屋に閉じこもっていたかと思うと、ふらりと外に出て夜遅くに帰ってきて、また何日も閉じこもる。その繰り返し。

 アトリエには次第に埃が積もっていき、生活のにおいが時に押し流されていく。

 俺にまとわりつくこともなくなった。むしろ、避けているようだった。上木田家を訪ねても申し訳なさそうな顔の諒子さんが出てくるだけで、俺と会おうとは決してしなかった。

 だから、俺は毎日一人で学校に通い、ひたすら絵を描き続けていた。

 昼間は美術室で絵を描き、夜は家で受験勉強をする。

 そんな日々が延々と続き、やがて新学期になった。




          ***




「ごめんなさいね、あの子、もう出ちゃったみたいなのよ」


 朝訪れた上木田家の玄関で諒子さんにそう言われて、俺はこんなことをする必要も、もうないのだと悟った。


「きちんと制服も着てたし朝ご飯も食べて行ったから、学校に向かったとは思うんだけど」

「……そうですか。分かりました」

「ごめんなさいね、わざわざ来てもらったのに」

「いえ……多分、もう俺は必要ないんでしょう」


 頭を下げて、上木田家を後にする。

 夏が過ぎて大分涼しくなり、外を歩いていてもそれほど暑さを感じなくなっていた。空を仰ぐ。青い空。けれどそれは、夏のそれよりも薄く、低い。突き抜けるような空――という表現がぴったりだった夏の空とは、異なる。

 秋の空なのだ。

 そんなことに、今になって気付いた。


「そうか……夏は、終わったのか」


 そして、俺の中の――或いはあいつの中のなにかも、夏という季節と一緒に、終わってしまったのだろう。

 過ぎて、去り、もう、戻らない。

 二度と。


「…………」


 ぼんやりとしている内に、学校に着いた。下駄箱で上履きに履き替え、自分のクラスに向かおうとして、ふと、一目あいつの様子を確認しておこうかと思った。俺とあいつのクラスは廊下の端と端、真逆の方向にある。俺のクラスは廊下の奥で、あいつのは手前側。

 開け放たれたままの教室のドアから中を覗き込んでみる。

 ――いた。



「――――」



 がん、と誰かに頭を殴られたような気がした。

 窓際の席。その後ろから二番目。そこに、そいつは居た。

 ――あれだけ長かったぼさぼさの黒髪が、肩までのショートカットになっていた。そこには寝癖のあとなど一つもなく綺麗に整えられ、見事な艶を放っている。そして今まで全く化粧っ気がなかったその顔には、薄いナチュラルメイクが施され、唇は水気を含んだように光を反射している。

 そいつは、綺麗過ぎた。

 まるで創られた美(・・・・・)術品のよう(・・・・・)()、完璧だった。

 誰もが、その突然クラスに出現した女生徒を呆然とした顔で眺めていた。

 やがて、その内の一人――前の席の女子が、おずおずとそいつに声を掛けた。

 それに、そいつは微笑んで何か言葉を返した。その柔らかく明るい反応に彼女は驚き、だがすぐに興奮したように何かをまくし立てる。それにひかれるようにして、遠巻きにしていた内の何人かも話に加わり始めた。

 何人もの人間に囲まれ、そいつは、酷く楽しそうに、笑う。

 笑い声まで聞こえてくる。

 俺は、この時初めて、そいつの笑い声を聞いた。

 クラスメイトに囲まれて、嬉しそうに会話を交わすそいつの姿を見て、その光景を見て、俺は。


「っ――」


 酷い、吐き気を催した。

 気持ち悪かった。

 それ以上見ていられず、足早にその場を後にする。


「なんだあれは……なんだよあれは……! なんなんだよ!」


 あんなに醜いものを、俺は初めて見た。

 あんなに綺麗で、醜悪なものを。

 胸がずたずたにされる。心が、打ち砕かれる。

 なんてものを、あいつは創った。


「くそっ……くそくそくそ! くそくそくそくそくそ――!」


 頭がおかしくなりそうだった。心が痛みに耐えかねて血を流す。

 どこかに逃げたくて、どこかに行きたくて、気付けば俺は自らの巣にやって来ていた。

 美術室。誰もいないそこに膝を付いて、嵐のように荒れ狂う心中を、何とか鎮めようと躍起になる。

 ――と、視界に誰かの足が入って、俺は顔を上げた。

 来栖だった。


「沖澄も……見たのかい?」


 火の点いていない煙草を口に咥えて、来栖は言った。


「……あんたも、見たの、か?」


 苦しくて、息苦しくて、胸を押さえて、白衣姿を見上げる。


「見た――というかね、朝、学校に来た時に出くわして、挨拶をされたよ。最初、誰だか分からなかった。綺麗な子だなと思ったよ。でも、そんな僕にね、あの子は言ったんだよ」


 ――やだなぁ、先生。私ですよ、私。上木田零子です。ちょっとイメチェンしてみたんですけど、どうですか? おかしくないですか?


「あの子の笑顔というのを、僕は初めて見たよ。そして、もう二度と見たくなくなった。あんなものを目の前で見せられ続けたら、僕の弱い心なんかあっという間に呑み込まれてしまう」


 来栖は、倒れ込むようにして、スツールに腰を下ろした。そして、ぼんやりと宙を見る。


「なぁ、沖澄」

「…………」

「僕の、本音を言ってもいいかな」

「…………」



「上木田は、もう駄目だよ」



「…………」

「少なくとも、僕にとっては、もうあの子はそういう存在になってしまった。僕はもう二度と上木田に近づきたくない。というか、近づかない」

「…………」

「近づいたら、絶対に引きずり込まれる。道連れにされる。だから、今後一切、僕は上木田には関わらないようにする」

「…………」

「君はどうするんだい、沖澄――と訊くのは、酷なんだろうね」


 深い溜め息を吐いて、来栖は首を振る。


「一応教えておいてあげるとね、沖澄。君はかけがえのない存在を失っても、生きて最後には幸せになれる人間だよ」


 うっすらと癪に触る笑みを浮かべて、来栖は美術室を出て行った。

 一人取り残され、俺は床に寝転がる。

 天井を見上げる。


「……多分、その通りなんだろうよ」


 そして多分、あいつはそうじゃないのだろう。


「くそったれ……が……」


 両腕で顔を覆う。


「俺は………………」


 俺は、どうしたいのだろう?






 五限の始まる前になってから、俺は教室に顔を出した。全く交流のないクラスメイトは、ちらりと一度だけ目を向けて、すぐに興味を失ったように自分たちの話に戻る。まあ、俺がこんな時間になってから登校してくることなど珍しいことではないから、当然の反応だろう。その無関心さが、俺には有り難い。


「あ、沖澄くん、久しぶりの重役出勤だね。ていうか、そもそもお久しぶり」


 ――だというのに、俺の後ろの席の美馬(みま)(かわ)が声を掛けてきた。


「…………」

「うわ、なにその鬱陶しさを隠そうともしない視線。そんなんだから沖澄くんは浮いちゃうんだと思うよ」

「余計なお世話だっつーの」


 美馬川は、なんというか、普通のやつだった。美人ではないが不細工でもなく、性格だって格別陽気というわけではなく、かといって陰気でも大人しいというわけでもない。これといった特徴がないモブキャラ的な女なのだ。記憶に残りにくいと言い換えてもいい。多分、卒業したら真っ先にその存在を忘れてしまうタイプ。

 この美馬川、普段はその他のクラスメイトと同じく挨拶することもない相手なのだが、時折思い出したようにこうして声を掛けてくる。


「そういやさ、沖澄くんの彼女、噂になってるよ」


 席に着いた俺に、耳打ちするように言ってくる。


「……彼女じゃねえよ」

「え? 違うの?」

「……ああ」


 そう答える俺を、美馬川は「ふーん」と言って見つめる。


「まあいいや。それにしても、あの子ってあんなに美人さんだったんだねえ。今まで全然気付かなかったよ」

「……だろうな。あの髪型だったからな」

「そうそう。それに雰囲気も……まあ、その、ちょっと暗かったからね。なのに、今日見たらビックリしちゃったよ。あれ、まるっきり別人だよね」

「……本当に、別人なんじゃねえのか」

「え?」


 美馬川はきょとんとした顔をする。


「いや、なんでもねえよ」


 俺は首を振って、身体を前に向ける。それ以上の会話を拒否する姿勢。それが伝わったのか、美馬川は続けて話しかけてくるようなことはしなかった。


「そうかぁ……彼女じゃないんだぁ」


 ただ、ぽつりとそんなことを呟いていた。

 





 やがて五限目の数学の授業が始まった。既にこの辺りのことは受験勉強で学習し終えていた俺は、どうにも身が入らず、途中から聞き流す状態に入った。シャーペンを指先でくるくる回して、外を眺める。グラウンドには、ジャージを着て身体を動かす生徒の姿が見える。

 あいつのクラスだった。体育館に目を移す。入り口のところでは、サボっているのか休憩しているのか、何人かの女子が固まって話をしている。

 そのグループの中心には、零子の姿があった。楽しそうに笑いあって、時折肘で小突き合ったりしながら、何かの話で盛り上がっている。

 胸が、軋むように痛んだ。

 焦燥感だけが募っていく。


「…………?」


 ふと、誰かの視線を感じた。左に向けていた首を更に左に向けて、後ろの席を見やる。一瞬、美馬川と目が合った。しかしすぐに美馬川はノートに視線を落とし、何事もなかったかのようにスルーする。


「…………」


 何となく気まずいものを感じて、俺も前に向き直った。






 放課後になり、俺は鞄を持って席を立つ。今日もやることは変わらない。絵を描く。それ以外に俺のやるべきことはない。

 ……ああ、分かってるさ。

 それが逃避でしかないことぐらい。分かっているが――どうしたら良いのか、俺には分からない。どうすべきかは分かっている。一刻も早くあいつのもとに向かって「そんな無様な姿を晒すな」と怒鳴りつけて、俺のところに連れて帰ってくるのだ。

 だが、それでは何も解決しない。

 きっとあいつは俺に訊くだろう。

 ――だったら、私はどうしたら良いの?

 今の俺に、それに対する答えはない。


「……チ」


 やや乱暴に椅子を席に戻して、教室を出ようとする。だがその時、後ろから、「あ、ちょっと沖澄くん!」という声が掛かって足を止めた。


「あの、良かったら電話番号、教えて欲しいんだけど」


 美馬川だ。はにかんだ笑みを浮かべ、自分の携帯を取り出して胸の前で握りしめている。


「……なんでだよ?」

「な、なんでじゃないよ! だって友達なら普通、携番ぐらい教えるでしょ!」


 怒ったように言う。


「友達?」


 俺と美馬川を交互に指さして、訊き返す。


「え? うん、友達」


 同じように自分と俺と交互に指さして、繰り返す。そうしてからハッと何かに気付いたような顔になって、引き攣った笑みを浮かべた。


「あの、もしかして沖澄くん。私のこと、友達だと思ってなかったとか?」

「…………いや、んなことはねえよ」


 ごそごそとポケットを探って自分の携帯を取り出す。


「うわ、誤魔化しくさっ。絶対思ってたよこの人! ひどっ、鬼畜過ぎるよ沖澄くん!」

「うるせえな。文句があるなら教えねえぞ」

 「なんだよもう……ほんとに、酷いなぁ」とかぶつくさ言いながらも、素直に番号を教えてきたので俺はそれを自分の携帯に打ち込んで、発信する。美馬川の携帯から流行のポップスが流れたのを確認して切る。


「うん、これで大丈夫。ちゃんと登録したよ」

「そうか。ならそういうことでな。俺は部活に行く」


 携帯をしまって、今度こそ教室を出ようとする。「あっ――」だが、またもや美馬川の声が掛かり、俺は小さく舌打ちをして振り返った。


「今度はなんだ?」

「そ、そんなにうざったそうにしなくても……」

「いいから、なんだよ」

「うん、そのね、沖澄くん、確か美術部だったよね?」

「正確には同好会だけどな。――で、それがなんだ?」

「これから、ちょっと見学させてもらってもいいかな?」


 おずおずといった調子で、美馬川はそう切り出してきた。

 他人がいると気が散るやつがいるから――と反射的に答えようとして、すぐに俺はもうそんな配慮をする必要などないことに気付いた。


「…………」

「ど、どうかな? 迷惑だったら断ってくれてぜんぜん構わないんだけど」


 上目遣いの美馬川を見ながら、俺の頭の中にはいろいろな断りの文句が思い浮かんでは、消えていった。

 どれも、決定的な言葉にはなりえなかった。

 だが、他人を――俺達以外の誰かをあそこに連れていくことに妙な抵抗感があった。

 今のままでは、あいつがあの場所に戻ってくることは絶対に有り得ない。

 俺一人ならば、他人が居ようが居まいが、そんなことは気にならない。

 だから、別にこの申し出を断る必要などないのだ。


「――別に、いいぞ」


 そう思った瞬間、するりと口から了承の言葉が滑り出ていた。あ、と思った時には美馬川の顔がパッと輝いていて、訂正する隙はなくなっていた。

 また一つ、俺の中で何かが、通り過ぎていったような気がした。






 二人、連れだって廊下を歩き特別棟に向かう。美馬川は妙にはしゃいでいた。俺は少し上ずった調子の言葉を話半分に聞き流していて、そして、ちょうど下駄箱の前を通りかかった時だった。

 零子と、他にも何人かの女子のグループに出くわした。街にでも繰りだそうとしているのだろう、どこに行くかを相談していたようで、「やっぱ歌おうぜ」「上木田さんの歌聴きてぇー」「あんたは音痴だから歌わなくていいわよ」「ひどー」などと騒がしい声があがっていた。

 それをにこやかな笑顔で眺めている零子と、不意に目が合った。


「…………」

「…………」


 先に視線を逸らしたのは向こうだった。まるで、何も見えていませんよとでもいうような、あからさまな逸らし方だった。だが、逸らした先で俺の隣にいる美馬川に気付き、笑みが、一瞬、凍り付いた。また、逃げるように視線が逸らされる。

 グループの中の一人がそれに気づき、零子の脇腹を肘で突きながら「……付き合ってたんじゃないの?」と訊いている。


「違うよー。ただの幼馴染みだってば」


 笑いながら否定するその声を背に、俺はその場を通り過ぎる。

 無性に、苛々とした気持ちが込み上がってくる。


「……あの馬鹿が」


 見ていられなかった。そして、こうして通り過ぎていくことしか出来ない自分に、余計に苛立ちが増す。


「……ねえ、怒ってる?」

「あぁ?」


 思わず、乱暴な口調になってしまった。美馬川は俯いてしまう。それを見て、俺は小さく舌打ちをして、頭をガシガシと掻いた。気を落ち着けるように大きく息を吐いて、気分を切り替える。

 八つ当たりほどみっともないことはない。

 これは俺の問題で、美馬川には関係のないことなのだから。


「……悪かったよ。怒ってねえから心配すんな」

「そう……なら、いいんだけどね」


 明らかにさっきのことに気付いているはずなのに、それに関して美馬川は何も訊いてこようとはしなかった

 その気遣いが、今の俺には心地よかった。






 来栖は、美術室にやって来た俺の後ろにもう一人居ることに気付くと、酷く驚いたようだった。


「いやはや……さすがの僕も、これは予想出来なかったね」


 驚きから冷めると、途端にいつものにやにや笑いを浮かべ、俺と美馬川を交互に見やる。


「今朝の今で、これとは……沖澄も意外に手が」

「黙れ似非教師」


 近くにあった木片を手にとって全力で投擲する。来栖はあっさり手で受け止めた。


「で、君は?」


 俺達のやりとりを見せられて目を丸くしていた美馬川に、来栖は声を掛ける。


「え? あ、はい。その、私、沖澄くんと同じクラスの美馬川っていいますが、今日、見学させてもらってもいいですか?」

「僕は別に構わないけどね。沖澄がそれでいいなら」

「別に、問題ないだろ」

「そう。なら、そういうことで」


 何か含みがあるような言い方だった。だが、来栖がそれを言葉にすることはなかった。いつもの調子でにやにやとして「じゃあ、始めようか」などと大仰な仕草で両腕を広げている。


「それで、今日はどうするつもりなんだい?」

「あー……そうだな。ここのところ風景画ばかり描いてたから、そろそろ人物画でもと思ってるんだけどな」

「人物画か……」


 顎に手をやって考え込む来栖は、何かを思いついたかのように、美馬川に視線をやった。頭の天辺から爪先まで遠慮なしにじろじろ見てまた何かを考え込み、やがて「うん」と頷き、手をぽんと叩いた。


「美馬川、だっけ? 君、沖澄の絵のモデルになってみないかい?」

「えっ、私がですか?」


 いきなりの申し出に、驚きを顔に浮かべて美馬川は自分を指さした。


「うん、もし君が良ければだけどね。部活とかには入ってるの?」

「いえ、入ってませんけど……」

「バイトとかは?」

「あの、一応この学校では、校則で禁止されてるはずですけど……」

「校則なんて僕は一つも知らないよ」


 まるで追い払うように手をしっしっと振ってから、「だったら、どうだろう美馬川。やってみないかな?」ともう一度繰り返した。


「なに、沖澄は手が早いからね――ああもちろん男女関係のそれではないんだけど――、一日二、三時間ぐらいを三日ぐらい続けてくれれば済むと思うから」

「あの、でも私なんかが」

「いやいや、絵のモデルなんてのは、別にそんな大層なものじゃないから。そのモデルを引き立てられるかどうかっていうのは、結局描く人間次第だから、気後れする必要はないよ」

「でも、その……沖澄くんは、私でも別にいいの?」

「うん? 別に誰でもいい」

「あ、そうですか」

「だが見知らぬ他人よりは、少しは知っている人間の方がいい」


 俺がそう言うと、美馬川は少しの間悩むように「うーん」と唸っていたが、最終的にはこの申し出を承諾した。


「よし、じゃあ――」

「あ、や、やっぱりちょっと待ってください!」


 早速準備に入ろうとした俺達を、美馬川は慌てて制止する。


「ん? やっぱり嫌なのかい?」

「いえ、そうじゃないんですけど……出来たら明日からにしてくれませんか? その、なんというか心の準備が……」

「ということらしいけど、どうする沖澄?」

「別に俺はいつでも」


 どうしても今日描き始めたいというわけではない。


「だったらそうしようか」

「すみません。あの、それじゃあ、今日はこれで失礼してもいいですか?」


 来栖にそう言ってから、美馬川はちらと俺を見やる。俺が頷いてみせると、「ごめんね」と顔の前で両手を合わせて、そそくさと妙に慌てたように美術室を出て行こうとする。

 その背に、言い忘れたこともあったかのような自然な調子で、来栖が「あ、美馬川」と声を掛けた。「なんですか?」振り向く美馬川。それに来栖は、


「美容室代、ちゃんと持ったかい?」


 にやにや笑って、そう言った。


「っ……!」


 美馬川は顔を真っ赤にして逃げるように飛び出していった。それを見送って、くくっと来栖は喉で笑う。


「やれやれ。可愛いもんだね、沖澄」

「……知るかよ」


 にやけた面から顔を逸らし、俺は部活の準備を始める。テーブルの上に幾つかの静物を並べて、デッサンの練習をしようと考えていた。


「そうか。沖澄がそう言うんなら、そうなんだろうね。そういうことにしておこう」


 俺は何も答えず、黙々と準備を続けた。






 一枚、静物画のデッサンを仕上げてから部活は終了した。その帰り、カンバスのストックが残り少なくなっていたので駅近くにある行き付けの画材屋に立ち寄って、幾つか注文しておいた。ついでに溶き油や木炭など細々としたものを買い漁って店を出た。

 まだ七時前だったが、秋の空は既に暮れ始めていた。夕闇が迫り、辺りは薄暗くなっている。その反面、大通りでは青やら赤やらのチカチカと目に痛いネオンが輝き始め、街は夜のそれへと姿を変えていこうとしていた。これから繰りだそうとしている若者、解散して家路へつこうしている更に若い高校生たち。


「じゃあねー。また明日」

「うん、ばいばーい」


 ――聞き覚えのある声だった。今さっき通り過ぎたばかりのところを振り返る。よく目にするカラオケチェーン店の前で、手を振り合って別れる俺と同じ制服を着た何人かの女。その中に、一つ、見知った顔があった。

 零子。

 その姿を横目にしても、街の光景の一部として何の違和感もなく通り過ぎてしまう程にこの場所に溶け込んでいた。

 それを何と表現すればいいのだろう。一人ぽつんと立って、離れていく女たちを見送っているその姿。その周囲にはひっきりなしに人が行き交い、時折男たちの好色そうな視線が向けられている。そして向こうには、そびえ立つビル、ネオンを輝かせる居酒屋やカラオケ、レストランの様々な看板。

 まるで、街に呑み込まれようとしているように、俺には見えた。

 やがて見送っていた者の姿が見えなくなると、零子は切迫した様子で、口許に手を当てて近くの路地裏に駆け込んでいった。


「――――」


 考えるまもなく、身体が、その後を勝手に追った。路地裏に入ったところで、零子が背中をくの字に折って嘔吐している光景を目にした。げえげえと、胃の中のものが空っぽになってもまだ、吐き続ける。まるで本当に吐き出したいものは、胃の中にはないのだというように。

 そのうち胃液の中に血が混じるんじゃないかと少し心配になってきた頃に、ようやく零子は吐くのを止めた。ぐい、と腕で乱暴に口許を拭って、身体を起こす。


「…………」


 そうして、俺と目が合った。いや、気付いていないのか、それとも初めから気付いていて無視しているのか、特に何の反応もせず、ふらふらと零子は俺の傍を通り過ぎていった。

 無言で、後を追う。零子の足取りは、夢遊病者のようふ不安定な覚束ないものだった。先程までの姿など、影も形もなかった。時々、すれ違う人々とぶつかり、迷惑そうなぎょろりとした目で見られる。

 零子は、真っ直ぐ自宅には帰らなかった。大通りから離れ、俺達の家がある住宅街に差し掛かったところで進路を変更し、近くの児童公園に向かった。この時間帯になると人気は全くなく、公衆トイレにジャングルジム、ブランコに滑り台に砂場というその大して大きくもない公園は、酷く寂れているように見える。

 零子はふらふらした足取りのまま、トイレに入っていった。また、吐く音が聞こえる。しばらくして音が止み、水の流される音が響く。そしてふらりとよろめきながら出てくると、公園が見渡せる位置にあるベンチに腰を下ろした。足ごとベンチの上にのせて体育座りの格好になると、両膝の間に顔を伏せてじっと動かなくなる。


「……おい」


 その旋毛を見下ろして、俺は声を掛けた。

 しかし、返事はない。死んでしまったかのように、殻に閉じこもっている。

 俺は溜め息を吐いて、ここに来る前に自販機で買っておいたミネラルウォーターを零子の隣に置いた。そしてその隣に、俺も腰を下ろす。

 きしっと、ベンチの軋む音がした。


「…………」


 しばらく、無言の時間が続いた。チカッチカッと街灯が瞬き、薄闇を照らし始める。

 俺は何かを言わなければならない強迫感に襲われたが、何を口にしてよいか分からず、結局、何も言うことは出来なかった。

 三十分ほども経った頃だろうか、何の前触れもなくすくっと零子は立ち上がる。だが地面に足をついた瞬間、身体がふらりと傾いて、俺は思わず手を伸ばした。


「触らないで――!」


 悲鳴のような声に、俺の手は、零子に触れる寸前で停止する。倒れ込むかに見えた零子の身体は、何とか堪えて、しっかりと大地を踏みしめる。猫背になりそうな背をぴしっと真っ直ぐ伸ばし立つその後ろ姿からは、表情は窺えなかった。


「……お前、そんなのが」


 いつまで続くと思っているんだ――そう続けようとして、口を噤んだ。


「だ、だったら、他に、どうすれば、いいの」


 ――そんな言葉を返されることが、分かっていたから。


「…………」


 そして、それに対する答えを、自分が持ち合わせてなどいないことが、分かっていたから。

 零子は、少し俯いて、しかしすぐに顔を上げると、一度も振り返らずに公園を出て行った。俺はそれを見ていることしか出来なかった。

 後に取り残されたのは、俺と、結局一度も口をつけられることがなかった、ペットボトルだけだった。






 さらに三十分ぐらい経ってから、重い腰を上げて、俺は公園を後にした。

 自宅前――上木田家を通り過ぎようとしたとき、その玄関付近に、一郎さんが立っていることに気付いた。向こうも、俺のことに気付いたようで、どこか疲れたような顔で片手を上げてきた。


「どうしたんです、そんなところで」

「うん? ……いや、家の中は禁煙なものでな」


 手に持った煙草を上げて、俺に見せる。


「…………」

「…………」


 妙にぎこちない沈黙が、俺達の間に降りた。互いに、何かを言いたいのに、それを口にすることが出来ない、というような。


「……諒子がな」


 それを破ったのは、一郎さんの方だった。俺とは視線を合わせないようにして、ぽつりと、ぽつりと話し出す。


「少し、年甲斐もなくはしゃいでしまってな。正直、居心地が悪い」

「はしゃぐ……ですか?」

「初めは私と同じで困惑していたんだが、ようやく――と思ったのだろう」

「…………」


 そうか、あいつは、この人たちの前でも――。


「ああいったものが諒子の思い描いていたもので、それがようやく叶ったと思ったのだろう。別に……何も特別なことなどではない、その辺にありふれているものだというのにな」


 いや、だからあのはしゃぎようなのか――と独りごちるように、一郎さんは呟く。

 そしてまた、沈黙が流れる。

 今度は、それを破るのは俺の番なのだろう。

 だから、俺は言った。

 この人は、気付いているのだろうか。もし気付いているのなら、それがどれほどの意味を持つことなのか、この人は分かるだろうかと思いながら。


「あいつは――絵を描くのをやめました」


 ぽろり、と一郎さんの手から煙草が落ちた。

 その顔に愕然とした表情が広がる。


「……やっぱり、気付いていませんでしたか」

「あの子が……絵を、やめた?」

「ええ」


 いや、そんな、まさかと否定するように首を振って、動揺を露わにする。


「確かに、このところ絵を描いているような気配は余りなかったが、しかし、それでもあの子が……」

「アトリエ、見ましたか?」


 俺の言葉に、のろのろとした動きで一郎さんはその方向に顔を向ける。


「見ておいた方が、いいと思います」


 ――おいおい、と心の中でもう一人の自分が呆れる声が聞こえた。

 ――おいおい、お前、それでどうするつもりだ?

 ――まさか、この人に全てを預けてしまうつもりじゃないだろうな?

 ――そうやって楽になってしまおうなんて考えてるんじゃないだろうな?

 ――そんな無様を晒すつもりなのか?

 黙殺する。


「…………」


 一郎さんを導くように前に立ち、アトリエに向かう。

 ――お前は分かっていたはずじゃないのか? 彼らにはあいつをどうにかすることなんて出来やしないと。だから、お前が今まであいつの世話を焼いてきたんじゃなかったのか? 

 煩い。

 ――それを今更放り出して、どうするつもりだ? それでお前はお前のままで居られると思うのか?

 黙れ。

 ――断言しよう。あいつを失えば、お前はお前の中であいつと同じぐらいの意味を持つものを失うことになるぞ。

 黙れと言っているだろう。

 ――それでいて(・・・・・)お前は幸せ(・・・・・)に生きるこ(・・・・・)とが出来る(・・・・・)のだ(・・)。何故ならお前はそういう人間だからだ。どれだけのものを失っても、どれだけの傷を受けても、それら全てを過去におしやって最後は必ず幸福になれる人間なのだから。

 …………。

 ――幸福であるという罰を一生背負うことになっても構わないというのなら、好きにするがいいさ。


「…………」


 そして、俺はアトリエの前に立っていた。

 木造のそれを見上げて、一度、大きく息を吐く。

 扉を開いた。


「――――」


 後ろで、一郎さんの息を呑む音が聞こえた。

 アトリエの中は、あの時のまま時が止まってしまったかのようだった。無惨に破壊されたカンバス。引き裂かれた絵。破り捨てられたスケッチブックや、デッサンノート。

 否定し尽くされ、この空間は既に死んでいた。


「…………」


 脱力したように、一郎さんは膝を付いた。


「教えてくれ……栄一郎くん……。私は、どうすればいい? どうすればあの子を……」


 それを教えて欲しいのは、俺の方だった。

 俺は首を振ってみせる。

 呆けてしまった一郎さんから目を逸らし、中にあがる。

 ――結局、こうなるのさ。彼らが悪いというわけじゃない。大人であるということは、ただそれだけで全ての答えを知っているというわけじゃないんだよ。大人も子供も、一人の限界ある人間であることに違いはないのさ。

 声を無視して、アトリエの中を見て回る。あいつの手による作品は全て完全に廃棄されていた。無事なものは一つも見当たらない。床のそこかしこに打ち棄てられているその上にはうっすらと埃が積もっており、本当にあいつがここに足を踏みいれていないことが分かった。

 ――と、その中に、一つだけ無事なカンバスがあった。ベッドの脇に、立て掛けられるようにして無造作に置かれたそれ。裏になっているそれを手にとってひっくり返してみる。


「ああ――――」


 俺の描いた、絵だった。

 木炭によって、ほとんど勢いで描かれたその下描きは、あの時の絵だった。

 もうずっと昔のことに思える。

 このアトリエの真ん中で、一つのカンバスに向き合って、絵を描くあいつの姿。

 もうこの場所からは失われてしまった、かつての日々の象徴。残影。

 まるで閃光のように、目の前にその時の光景が、その時の思いが、蘇る。

 そして、それと重なるようにして、心に焼き付いた夏の日の光景、刹那の時が、浮かぶ。


「――――――――――」


 心の奥底で燻っていた何かに火が点いたような気がした。

 描かなければならないという思いが湧き上がる。

 これを描かなければ、一生後悔すると思った。


「――一郎さん。すみません、このアトリエ、しばらく借ります」


 答えを待たず、俺はイーゼルを組み立てるとそこにカンバスを掛けて、零子の道具をその辺から掻き集めて、描き始めた。

 この瞬間、他のことは全てどうでもよくなった。一郎さんの視線も、この部屋の有様も、今の状況も、あいつのことも何もかも。余計なことは綺麗さっぱり頭の中から消え失せて、ただ俺は、閃光のように頭の中で瞬くものを形にするだけの存在になった。

 ふと、美術館での来栖との会話を思い出す。

 スタールの思い。

 絵を支配する。

 描かされるのではなく、描く。

 今の俺はどちらだろうか。

 描かされているのだとしたら、それは、あの刹那。

 あの一瞬にのみ存在したものが、俺にそれを描かせようとしている。

 だから、多分。

 それが、俺にとっての(ヴィーナス)なのだろうと、思った。


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