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6:フォーリン・ダウン

 翌朝。

 上木田家のチャイムを鳴らして玄関の扉を開いた俺は、一瞬、思考が停止した。


「……おいおい、俺は幻覚でも見てるのか?」


 まるで俺を待っていたかのように上がり框に腰掛けていたのは、零子だった。既に制服に着替えており、髪の毛も整えられていて、その傍らには鞄も準備済み。

 正直、こんな光景はこれまでこいつと付き合ってきて初めて見る。


「その子ったら、今日は珍しく自分で起きてきたのよ。私もびっくりしたわ。雨でも降るのかしらね」


 リビングから顔を出して、諒子さんが言った。俺は零子に視線を戻す。

 相変わらず、感情の読めない目で、俺を見上げている。


「……で、そうやってスタンバってるってことは、今日も学校に来るんだな?」


 こくり、と頷いた。

 しかし、どこかその姿には精彩がない。こいつの生き生きとした姿なんて想像することすら出来ないが、いつもに比べると、そう見えた。


「お前、まだ昨日の疲れが抜けてないんじゃないのか? 夏休みなんだから、無理しないで家で寝ていてもいいんだぞ」

「い、いい。だいじょう、ぶ」

「今日も描くのは禁止だからな?」

「わ、分かってる、よ」


 少しだけ口を尖らせる。

 ……まあ、いいか。なるべく無理をさせないように気をつけておこう。


「んじゃ、行くか」

「うん」


 立ち上がった零子は自然な動作で俺の手を握ってくる。少し驚き、手に、そして零子へと視線を向けた。


「…………」


 零子は、じっと無言で俺を見ている。その目の奧には、何か切実な光が見え隠れしていた。


「……行くか」


 俺はもう一度同じ言葉を繰り返し、玄関のドアハンドルに手を掛けた。

 後ろで、零子の「……うん」と答える小さな声がした。

 どうしてか、それは、まるで泣いているように、聞こえた。




「上木田は、それじゃあ今日はどうするんだい? なんなら本でも貸そうか?」


 学校に来てもやることのない零子に来栖はそう申し出た。だがこれを零子は断る。


「それじゃあ、保健室で寝る? 上木田はあそこの常連だから、花江(はなえ)先生も快く寝床を提供してくれるだろう」

「い、いえ、いいです。栄くんの絵、み、見てます」


 そう言って、俺の手をぎゅっと殊更強く握った。昨日に続きこんな姿を来栖に見られたらまたからかわれるに違いないと俺は思っていたので、美術室に入る前に離そうとしたのだが、何となく切り出しにくく、結局手を繋いだままでここにやって来ていた。

 しかし予想に反して、その手に目を落とした来栖は何も言わなかった。


「上木田がそれで暇じゃないなら、それでいいよ。――で、沖澄は、今日はどこで描くつもりなんだい?」


 何も見ていなかったかのような顔でそう訊ねてくる。


「ここで描く。もうあの光景は目に焼き付けてあるからな。ここの方が落ち着いて作業出来る」

「そう。下塗りも終わってるし、その方がいいだろうね。分かったよ」


 来栖は頷き、そうしてから、零子に目をやった。


「なにをもじもじしているんだ、上木田は」


 言われて俺も後ろを振り返る。すると、確かに微妙に内股になっている零子がいた。


「…………」


 しかし何も答えず、俯いた状態でもじもじとし続ける。その姿を見ていて、俺は一つ思いついたことがあった。


「……お前、まさかトイレか?」


 その言葉にゆっくりと顔を上げた零子は、泣きそうな顔で頷いた。


「馬鹿かてめえ! だったら我慢してないでさっさと行きやがれ!」 

「だ、だって……」


 俺の怒鳴り声にびくっと身を竦ませた零子は、繋いだ手に視線を落とす。そして、次に、何かを訴えるように俺を見上げてくる。


「おいおい……まさか上木田さんよ。まさかまさかと思うんだが、てめぇ、ついてこいとか言うんじゃないだろうな?」

「な、夏休みで、ひと、いないから、だ、だいじょうぶ、だとおもう」

「んなわけあるか! 漏らす前にさっさと済ませてこい!」


 俺は無理矢理その手を引きはがすと、哀れを誘う眼差しを向けてくる零子の尻を蹴っ飛ばして、美術室から追い出した。


「い、今ので、ちょっと、ち――」


 恨みがましい視線を、美術室のドアを勢いよく閉めて遮った。


「……ったく、あいつは」


 ドアに背中を凭れ掛けさせて、溜め息を吐く。そんな俺を見て来栖は苦笑する。


「まるで親子か、ペットとその飼い主みたいだね」

「うるせえよ」


 俺の言葉に、やはり来栖は苦笑を浮かべ、ふとその視線を下にずらした。

 ――手。俺の手。


「その手を離されたら、あの子は一体どうなってしまうんだろう」


 呟くそうに言うその顔には、何の感情も浮かんでいない。


「――はん。腐れ縁ってのは、腐っても切れない縁だから、そう言うんだぜ」

「……すぐ傍にいるのに、届かないっていうことも、世の中にはあるんだよ、沖澄」


 まるで俺を哀れむように、見る。

 それは、とても嫌な目で。

 でも同時に、深い悲しみを宿していて、俺は何も言うことが出来なかった。




 この日、零子は言葉の通り、絵を描く俺の後ろに座ってずっとその様子を眺めていた。

 時折強い視線を感じて振り返ると、食い入るような眼差しとぶつかった。

 楽しいのか、と訊くと、首を振る。

 つまらないのか、と訊くと、首を振る。

 ――他にどうすればいいか、分からない、から。

 小さく、俺には分からないことを呟き、押し黙ってしまう。

 俺はそれ以上掛ける言葉が見つからず、作業に戻った。

 視線は、一時も離れることがなかった。






「ねえ、兄さん。零ちゃんの絵描き禁止令っていつ解けるの?」


 晩飯を食べ終え、部屋で受験勉強をしていたところに、啓司がやってきてそう訊いた。


「さあなぁ……あと何日かは休んだ方がいいと思うけどな。それが?」


 シャーペンをノートの上に置くと、椅子を回転させて身体を啓司の方に向ける。これから風呂に入るつもりなのだろう、着替えを手にした啓司はちょっと首を傾げて「ぼくも、久しぶりに絵を描こうかなって思って」と言った。


「描きたいんなら、何もあいつの禁止令が解けるのを待たなくても、一言断りをいれりゃアトリエを使わせてくれるだろ」


 啓司もまた俺と同じようにあいつから影響を受けていて、幼少の頃から絵を描いている。ただ、それはあくまで趣味の域を出るものではなく、偶に気が向いた時に描くといった程度だった。


「え、いや……どうせ描くなら、やっぱり零ちゃんと一緒に描きたいなと思って」


 照れたような笑いを浮かべる啓司。


「ったく、なんでこの頼れるお兄さんに懐かずあんなのに懐いちまうかな、お前は」

「兄さんは傍若無人過ぎるんだよ。もっと周囲に気を配ってもいいと思うよ」


 眉をハの字にして小言じみたことを言ってくる。


「は、考えようによっちゃ俺なんかよりあいつの方がよっぽど自己中だぞ?」

「ええー。違うよぉ、零ちゃんはただ人と付き合うのが下手なだけだよ」


 俺はその言葉に、敢えては反論しなかった。しても、まだ啓司には分からないだろうと思ったからだ。

 あいつは、人と付き合うのが下手だからこそ、自分のことしか考えられないのだ。

 自分のことしか考える余裕がないから、人と――世界と上手く折り合いをつけることが出来ないのだ。

 啓司が出て行った後、俺は椅子から立ち上がって、窓から隣家の様子を窺う。裏庭のアトリエに明かりは点いていない。どうやらきちんと言いつけを守っているらしい。


「……こんなこと、何の解決にもなりゃしねえんだけどな」


 一時しのぎでしかない。このままで何も変わらなければ、いつかまたあいつは同じことを繰り返すだろう。

 先日の展覧会の絵を思い出す。


「お前は、どんな絵をこの世界に遺すんだ?」


 それが、誰かの糧になるものであればいい――と、俺は思った。






 翌朝も、俺が上木田家を訪ねた時には既に零子は玄関でスタンバっていた。

 だが、その顔色はやはり今ひとつ良くなかった。


「……お前、ちゃんと寝てんのか? それとも今度こそ本当に夏バテか?」

「……ね、寝れないんだ、よ」


 か細い声で答えた。


「まぁ、確かにここのところ熱帯夜が続いてるけどな……冷房があるんだから、それをつければ――って、そういやお前は身体に合わないんだったか」


 冷房を効いている部屋で寝ると、必ずこいつは体調を崩すのだった。心だけじゃなく身体まで繊細だから、余計にタチが悪い。だからこそ、あのアトリエの環境はこいつにとっては重宝すべきものだったのだが、あんな場所に居たら絵を描こうとする欲求を抑えることなど出来なくなってしまうだろう。だから、もうしばらくは本宅の方の部屋で我慢してもらうほかない。


「だいじょ、ぶ。私は、だいじょうぶ、だから」


 そう言って、零子は立ち上がる。が、立ち眩みを起こしたかのように、その足下がふらつく。「おい」慌ててその腕を掴んで、支えた。


「全然駄目じゃねえかよ。無理しないで、今日は家で休んで――」

「だいじょうぶ」


 やたらときっぱり、言い切る。


「え、栄くんのあの絵を、見届けたい、から」


 その強情な態度にこれ以上何を言っても無駄なことを俺は悟る。こうなったら、出来るだけ早くあの絵を仕上げてしまうしかないだろう。本来なら、数日は使いたいところだったが、今日を目標に頑張ってみよう。


「……大人しくしてろよ。それと気分が悪くなったらすぐに保健室に連れていくからな」


 俺の言葉に、零子は素直に頷いた。そして昨日と同じように自然な所作で手を繋いで、俺達は家を出た。




 ペインティングナイフで橙をすくい、カンバス――グラウンドで部活に打ち込む人々の空にのせていく。厚く、暑く、熱く重ねていく。

 あの日の夕暮れを思い出す。その陽の下で、この日最後の力を振り絞ろうとする限りあるものの立ち上るような輝き。

 暮れる太陽。オレンジ色の空。一日の終わり。終わる時。黄昏。

 物悲しい? いや、そんなわけはない。彼らにとって、一日の終わりとは、この熱帯地獄からの解放を意味している。この後に、彼らには苦難からの解放が確約されているのだ。だからこそ、最後の力を振り絞り、最後の最後の力まで燃焼させようとしている。

 そんな空が、物悲しいものであるはずがない。

 それは祝福だ。彼らに安息を約束する祝いのオレンジ。

 だから、その橙は力強いものでなくてはならない。

 消え入るような、世界に溶けるような静かなものであってはならない。

 まるで炎を映すような、燃えるような橙色。

 それこそが、この空には相応しい。

 その為には、もっともっと、色が必要だった。深みが必要だった。こんな薄っぺらい空では、何も輝かせることは出来ない。

 パレットの上にオレンジ系統の絵の具をぶちまける。溶き油を混ぜて、溶かし、他の色と混ぜる。色を模索する。さがす。決定的な橙を見つけ出す。

 ナイフですくい、カンバスに重ねる。この空に繊細さは必要ない。もっと人の原初的な力、剥き出しで荒々しいものであってしかるべきだ。

 もっと。もっともっと。輝く空を目指して、自分の中の焼き付いた――或いは、新たに生み出された心象風景、イメージを形にするために、そっくり目の前の切り取られた画面に写し出す。


「…………」


 途中で、はたと気付く。空の力強さに、その他の風景が負けてしまっている。バランスが悪い。こんな有様じゃ、空の光に灼き尽くされてしまう。もっと、彼らにも力強さを。燃えさかる陽に負けじとその生命を燃やしつくさんとする、命の輝きを。

 ボールを投げている投手。それを打とうしている打者。飛んでくる打球を捕らえようと待ちかまえている守備陣。

 相手陣地に単独で切り込むフォワード。必死に食い下がるディフェンス。いつボールが来てもいいように両腕を広げて、気を張り詰めさせるキーパー。

 彼らの周囲の色調を、少しだけ上げる。ぼやけさせる。生命の輝きを描き込む。

 そして、再び空に戻る。

 仕上げ。

 生命の燃焼。足掻き。しぶとさ。それらを呑み込み、祝福せんとする橙――いや、もはや赤い空。

 ナイフで色を重ねながら、俺は目を細めた。

 なんでだろう。目を開けていられない。

 そう思って、気付く。

 ああ――眩しいのだ。

 この空の輝きが、目に眩むのだ。

 だから、俺は思った。

 つまり、それは、この絵が完成したということだった。

 これ以上、色を重ねる必要はない。

 カンバスの右端から左端まで勢いよく、大きくナイフを走らせて――最後の一色を描いて、それで、俺はようやくナイフを置いた。

 大きく、息を吐き出す。

 完成した絵を眺める。

 眩しい、と感じた。

 つまり、成功した。

 膝が震える。腕が疲労で痺れている。全身をとてつもない脱力感が襲う。思考がまとまらない。上手く物事が考えられない。ぼんやりとする。

 眩しくて、カンバスから目を逸らした。けれど、世界から橙の色は消えない。目に焼き付いてしまったのか――そう思って、ふと背後を見やる。窓の外は、いつの間にか、夕暮れだった。集中し過ぎて、昼飯を食べるのも忘れてしまったらしい。

 けれど、今は空腹も殆ど感じていなかった。

 何かに導かれるようにして、ふらりと立ち上がる。そしてそのまま、窓際に寄って外の世界を見た。

 ――燃えるような橙の空。その下で練習を行っている運動部。


「ああ――」


 生きているんだな、と思った。

 この世界は、間違えようもなく、生きている。

 その生の一端でも、形にすることが出来たのならば、それでいい。

 そんなことを、思った。


「…………ん?」


 そこに至って、俺はこの場に零子がいないことに気付いた。俺の斜め後ろに、あいつが座っていたはずのスツールがあったが、そこに姿はなかった。美術室の中を見回してみても、その姿は見当たらない。


「上木田かい?」


 その時、不意に廊下から声が掛かって顔を向ける。白衣姿の男――来栖だった。


「あの子なら、ついさっき廊下ですれ違ったよ。多分、家に帰ったんじゃないかな」


 来栖はどこか皮肉めいた笑みを口許に浮かべていた。ドアに背を凭れ掛けさせて、腕組みをして、俺を見ている。


「ったく、あいつまた――」

「そう責めてやるなよ。あの子だって、好きで君の傍を離れたわけじゃない」


 腕組みを解いて、来栖はこちらに歩いてくる。


「自己防衛的な反応なんだろう。そうしないと、灼かれてしまいそうだったんだよ、きっと」


 軽く肩を竦める。


「それにしても、上木田も沖澄も、相変わらずの速筆だね。二日で一枚の油絵を仕上げるなんて、まるで長谷川利行やボブ・ロスのようだよ」


 そして、俺の絵の前で立ち止まると、その絵を見下ろす。

 あの時と同じように、少し目を見開いて、すぐに細めた。


「眩しいな……。目が眩んでしまいそうだ」


 その後に、更に言葉を続けようとして、しかし言葉は出てこず、諦めたように口を閉じた。そうして、不意に顔を上へと向けた。その目頭をおさえ、唇を震わせる。


「…………」


 何となく、俺は視線を外して、再び外に目を向けた。そろそろ部活は切り上げ時らしく、野球部やサッカー部が後片付けを始めていた。それぞれ道具を倉庫に運んでいき、入れ替わりにトンボ掛けの集団がぞろぞろと出てくる。


「本当に――灼かれてしまいそうになるよ」


 やがて、声を絞り出すようにして来栖は言った。視線を戻す。俺を見るその目は、僅かに赤くなっていた。


「沖澄。君は、本当は絵を描くべきじゃないのかもしれない。或いは――上木田が、そうなのかもしれない」

「いきなり……なんだよ」

「本当は、一緒にいるべきじゃないのかもしれない。けれど、おそらく、ここまで来てしまったらもう後戻りは出来ないんだろう」


 俺の言葉を無視するように、来栖は続ける。


「だから、どちらかがそれを止めるしかないんだ。本当なら、それはあの子の方なのかもしれない。でも、あの子はきっと、止められないんだろうね。今それを失ったならば、きっとどこにも行けなくなる。この場所で停止するしかなくなる」


 震える手で煙草を取りだして口に咥えると、窓際に向かって歩いてくる。


「……お前は、何を言ってんだよ? 俺に、何が言いたいんだ?」

「分からない……分からないさ、そんなことは僕にだって」


 来栖は力なく首を振る。そうして、気を落ち着けるように煙草に火を点けて煙を吸うと、窓の外に向かって勢いよく吐き出した。


「沖澄。僕はね、子供の頃、大人になれば何もかも上手くいくんだって思ってた。今悩んでいることも、十年後の自分なら呑み込んで消化して、へっちゃらな顔して生きていくことが出来るんだろうって。だって周囲の大人は、みんなそんな顔をして生きていたからね」


 来栖は、口許を歪める。


「でもそんなのは嘘っぱちのただの仮面だったんだよ。本当は、大人になったって、全然、驚くほど何も変わらない。自分は、結局いつまで経っても自分でしかないんだよ。他の何かになんてなれやしないんだ」


 ――ただみんな、いろいろなものを諦めて、いろいろなものを誤魔化して、なんでもないような振りをして生きているだけなんだ。

 そう、来栖は言った。

 そしてそれ以外の言葉を、結局その日は口にしなかった。

 だから、本当は来栖が何を言いたかったのか、俺に何を伝えたかったのか、分からずじまいだった。

 だが、きっと。

 何を伝えれば良い(・・)か分からない――そういうことだったのだろうと、この時のことを後になって思い出す度、考える。

 正しい言葉なんて持っていなかったから、どうすべき(・・・)かということは分かっても、どうしたら良い(・・)かなんて、分からなかったのだろう。

 そしてやっぱり、俺だって、持っていなかったのだ。




 すっかり日が暮れて暗くなった道を歩いていた俺は、上木田家の前で立ち止まった。アトリエの明かりは点いていない。とするなら、本宅の自室にいるのだろう。


「…………」


 少し考えて、俺は立ち寄ってみることにした。来栖の言葉を聞いて、あいつが勝手に帰ってしまった理由の見当は概ねついているが、それでも実際に話してみないことには分からない。

 ――それに、今のあいつがどんな状態なのか、確認しておく必要があった。

 本当は、それを確かめるのは、少し恐ろしかったのだけれど。

 ブザーを鳴らし、顔を出した諒子さんに話を聞くと、どうやら帰宅してすぐ部屋に閉じこもって、その後は一度も出てきていないらしい。


「……寝ているみたいだから、起こさない方がいいかと思って」


 その声を背に階段を上り二階に向かった俺は、零子の部屋の前に、盆に載った食事が置いてあるのを見つけた。それには手がつけられていない。

 諒子さんの言葉を反芻する。

 娘を起こさないため――などというのは、やはり誤魔化しの一つなのだろう。結局、まだこの親子の間には溝が出来たままなのだ。それは、あいつが一度倒れたぐらいでは変わりようもないものなのだろう。

 もしかしたらそれは、一生埋まらないものなのかもしれなかった。


「おい、起きてるか?」


 ドアをノックして中の気配を窺う。だが、人が動くような気配は感じられなかった。寝ているのか、無視を決め込んでいるのか。ノブを回してみる。鍵は掛かっていない。開けて覗き込んでみる。

 明かりは点いていなかった。窓から差し込む月明りで部屋の中を見回した俺は、ベッドの上に、シーツを被って丸くなっているものを見つけた。


「……ったく」


 何となく、ここにはいないような気がしていたため、知らず安堵の息を吐いてしまう。自然と軽くなる足取りをおさえ、部屋の中を横断するとベッドの前に立った。


「おい、寝てんのか? もしシカトなんかしてやがったら、虐めるぞ」


 言って、シーツを捲る。




 そこにあったのは、丸められた布団の塊だけだった。




「――――――」


 俺は部屋から飛び出した。階段を駆け下りて、玄関の扉を掛けて、裏庭に向かう。

 アトリエには相変わらず明かりはない。だが、そこ以外であるはずがなかった。

 何故なら、あいつにはここの他に行くところなんてないのだから。

 ドアを開け放つ。


「――――!」


 そして。

 月明りだけが光源の薄暗いその中に。

 その空間の中心に。

 いつものよ(・・・・・)うに(・・)スツールに座ってカンバスに向かう、アトリエの主の姿があった。

 そしてまた、これもいつものように、俺が来たことにも気付かずカンバスに向かい続けている。

 暗くて表情は分からない。

 そもそも背中を向けているので分からない。

 俺は一瞬で頭に血が上るのを感じた。


「おい!」


 ガラクタが足にぶつかるのも構わず、まっすぐにそいつの元に向かう。何かを踏みつけた。何かが割れる音がする――無視。何かが爪先に当たる――蹴飛ばす。

 辿り着く。背後に立つ。しかしそれでもそいつは気付かない。それとも無視しているのか。


「っおい――!」


 肩を掴んで、ぐいと引っ張る。

 瞬間。




「触るな!」




 これまでに聞いたことのない鋭い声が飛び、何かが闇の中を走った。きらりと月明りを反射させて煌めいたそれ(・・)は、ハッとするほどの鋭さで俺の手を掠めていった。


「っ」


 痛みが走り、反射的に手を引っ込めて、もう一方の手でそこを覆う。ぬるりと嫌な感触がした。

 ペインティングナイフ。

 ぽたり、と傷口から溢れて出たものが垂れ、床に落ちる。

 俺はよろめくようにして、一歩、後ろにさがった。


「――――」


 呆然としていた。何も考えられなくなっていた。

 何にだろう。俺は一体、何に衝撃を受けたのだろう。頭が混乱して、自分でも分からなかった。ただ、それ以上そいつに近づくことが出来ずに、そこに立ち尽くしているしかなかった。

 立ち尽くして、その丸まった背中を眺めていることしか出来なかった。

 その――何もかもを拒絶している小さな背中を。


「…………」


 自然に、膝から力が抜けた。腰が抜けたように、すとんと尻餅をつく。

 執念じみたものを感じさせる勢いで、叩きつけるようにカンバスにナイフを走らせるその背中を見上げる。


「いつ……からだよ」


 呟く。答えがないことなど分かっているのに。


「なぁ……お前、いつから、また描き始めた? 今日か? 昨日か? それとも本当は一日も休まず、ずっと描き続けてたのかよ?」


 本当は、分かっていた。

 あの日(・・・)だ。

 心のどこかで、予感していた。

 あの――美術館でのこいつの異常な様子を垣間見た時に、そういう予感はあったのだ。

 こいつは描くだろうと。

 描かなければ、きっと壊れてしまうだろうと。

 翌朝に、調子の悪そうなこいつを見て、心の片隅ではその可能性が提起されていた。

 だけど、俺はそれを無意識の内に、捻り潰した。

 何故なら、どうすれば良い(・・)か、分からなかったからだ。今日、来栖が言っていたように、俺にはどうすべき(・・・)かは分かっても、どうすれば良い(・・)か分からなかったのだ。

 当然、こいつには絵を描かせるべきではなかった。少なくとも今は。

 けれど、絵を描かせなかったなら、今の弱り切ったこいつは、簡単に押し潰されてしまう。

 今の俺では、絵の代わりになる何かを、こいつに与えることなど出来やしないのだ。

 俺では、駄目なのだ。

 来栖が口にしていた言葉を思い出す。

 ――傍にいても、届かない。

 手を繋いでいても、触れられない。

 ――イカロスが近づこうとしたもの。

 近づけば近づくほど、その炎で灼かれてしまう。


「どうして……お前は、どうして……」


 何かに取り憑かれたかのような後ろ姿を見て、声が漏れ出る。

 答えのない、問い。

 ――やがて、零子の、その手の動きが、唐突に止まった。


「――――」


 ぽとり、とその手からナイフが落ちる。完成したのか、そうでないのか――零子は憑き物がおちたかのように、カンバスを前にして身動き一つせず停止していた。

 立ち上がり、後ろから覗き込む。

 息を呑んだ。


「お、まえ……」


 声が、出ない。うめき声しか、出てこない。

 その絵は(・・・・)今日俺が描(・・・・・)き上げたの(・・・・・)()同じ絵だっ(・・・・・)()

 モチーフが同じ。構図が同じ――のはずだった。

 なのに、それはどこまでも俺の絵とは違っていた。

 まず、グラウンドに居る運動部員は皆、地上をさ迷う亡霊のように佇んでいる。動きが全くそこからは感じられない。地に縛り付けられ、さ迷うことしか出来ない亡者の群れだった。

 そして、空。黄昏れ。夕暮れ。橙色。それは、地上をさ迷う亡霊の心象を形にしたかのように、不気味で、のっぺりとしていて、孤独だった。まるで世界が夜という闇に落ちてしまう兆しであるかのような、物悲しく、寂しげで、悲愴な、終末を感じさせる人類の黄昏れ。

 それは、死を描いていた。

 終わりが、描かれていた。


「う……ああ……」


 壊れたラジオのような声だった。


「う……あああ……ああああああ」


 零子が、頭を抱えていた。掻きむしるように頭を両手で抱え、血走った目でカンバスを凝視していた。


「あああああああああああああああああああああああああああ」


 限界まで見開かれたその目から、まるで血のような涙が零れていく。

 音が聞こえるようだった。

 ぐしゃりと心が壊れ崩れていく音が、耳元で聞こえるようだった。


「あああ、ああああああああ、あああああああああああああああああああああ」


 壊れていく。

 壊れていく。

 壊れていく。

 この手では止めようもなく、次々に壊れていってしまう。

 俺はそれを、呆然と見ていることしか出来ない。


「ああああああああああああああああああ――――――――――――――」


 聞いていられなかった。こっちまで壊れてしまいそうな音だった。

 耳を塞いでも、それを貫いて、聞こえてくる。


「……零子」

「ああああああああああああああああああああああああああああああ」

「……やめろよ、零子」

「ああああああああああああああああああああああああああああああ」

「……ちょっと黙れよ」

「あああああああああああああああああああああああああああああ」

「……なぁ、黙れって。煩いんだよ」

「ああああああああああああああああああああああああああああああ」

「…………お願いだからさ」

「あああああああああああああああああああああああああああああああ」

「………………本当、頼むって」

「あああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「…………………………………………」

「ああああああああああ――


「黙れよっ!!」


 思いっきり、カンバスから引きはがすように肩を引っ張った。バランスを崩して、零子の身体は地面に叩きつけられる。俺は、その上に覆い被さるような格好になった。

 ぴたり、と煩わしい音は、止んでいた。

 停止した顔で、虚ろな眼差しで、零子は天井を見上げている。

 異性の生々しい匂いがした。異性の――というより、この前の前にいる、上木田零子という人間の。

 吐息が肌に当たる。下敷きになっている零子の柔らかい身体の感触が、その体温が、布越しに伝わってくる。

 ――いっそ。

 不意に、頭の中で、そんな声が響いた。

 ぎくり、とする。

 ――どうせ、このまま壊れてしまうなら。

 違う、と叫ぶ。だが、その声は出ない。

 ――どうせこのまま壊れてしまうなら、いっそ、俺が。

 そんなものを俺は望んでいない!

 そんなこと、俺は思っていない!

 頭がぐわんぐわんする。

 頭の中の回路が混線する。訳が判らなくなる。ごっちゃになる。過去と今と未来が入り混じる。

『俺だって間違うことはある』

 ――間違い。正しくなかったこと。誤っていたこと。

 そうだった。あの時も俺は、こんな状態になって、それで――。


「――しないの?」


 また、ぎくりとした。

 いつの間にか、零子が俺のことを見上げていた。その焦点の合わない眼差しで、俺を見ている。

 目が合う。吸い込まれるような黒く円らな瞳。

 それだけは、こんな状況にあっても変わらず。

 その美しさに、ハッと俺は息を呑んだ。


「――しないの?」


 もう一度、零子は同じ言葉を繰り返した。


「…………」


 俺は答えず、行動でそれを示した。まるで接着剤で床とくっついてしまったかのような手足を、べりべりと音が出そうな動きで引きはがし、零子の上から、自分の身体をどかした。

 名残惜しくはあった。別にこのまま行き着くところまで行ってしまっても良いんじゃないかと思った。でも、心のどこかで、俺はそれを拒絶していた。

 今は、駄目なんだという感覚が、あった。


「そっか……また、しないんだ」


 その静かな声は、妙に響いた。


「そっか……」


 俺は何も言えなかった。すると、いきなり零子は立ち上がって、イーゼルに掛かっていた橙色のカンバスを手に取った。

 そして――。

 思い切り振り上げて、思い切り床に叩きつけた。めきっという音がして、布地を張っていたカンバスの枠が折れ、それは絵ではなくなる。

 零子は同じ事を、アトリエの中にある全てのカンバスがなくなるまで、何度も繰り返した。俺は、かつて俺を震わせた作品の数々が無惨に廃棄されていく様子を、黙ってみていた。それ以外、どうすることも出来なかった。


「……もう、いい」


 自分のこれまでを全て破壊し尽くした後で、立ち尽くす零子はぽつり、と呟いた。


「もう、私は、絵を描かない」


 そう宣言する零子の表情は、月明りの影に隠れて、俺には見ることが出来なかった。


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