5:わたしはおまえたちみたいには、ならない
作品内に登場する絵画のリンクをあとがきにのせておきましたので、よかったどうぞ。
翌日、俺は零子と一緒に学校に登校した。零子は「絵は描かないから」という条件つきでついてきた。絵を描かなきゃ一体何をしに行くつもりなんだと思わないでもないが、一人にしておくとこっそり描きかねないので、まあ、その方がいいのだろう。と思うことにする。
「ふむ……なら、折角だから今日は、展覧会に行くというのはどうだろう?」
事情を聞いた来栖は、俺達にそう提案してきた。
「ちょうど今、隣町の美術館で二〇世紀の画家を広く取り扱った絵画展が開かれていてね。是非とも見ておくべきだと思うよ。抽象画やら風景画やら統一感がなく節操がないと言われればそれまでだけれど、展示されている絵はどれも普段はその作品単独でしかお目にかかれないものだからね。いい刺激になると思うよ。なに、ちょっとした臨時収入があってね、入場料ぐらいは僕が出すから」
――というわけで、この日俺達は隣町の美術館にまで足を運ぶことになったのだった。
「しかしお前、大丈夫なのかよ?」
来栖の自家用車――古い年式のミニクーパーの後部座席で俺は、隣にいた零子に訊ねた。さすがに電車ほど混雑するということはないだろうが、それでも展覧会が開かれているとなれば、それなりに人はやって来ているだろう。人混みを嫌う――というよりアレルギーであるこいつにしてみれば、相当にストレスが掛かるはずだ。
「……手、繋いで、くれれば、だ、大丈夫……だと、おもう」
既に緊張しているのか、落ち着きなく身体を揺すりながら零子は答えた。それを聞いて運転席の来栖が、冷やかすような声を上げた。
「おやおやまあまあ、いつの間にそこまで二人の距離は縮まったんだ?」
「いいからあんたは黙って運転に集中しろ。生徒を乗せて事故でも起こしたら、あんた人生終わるぞ」
バックミラー越しのニヤケ顔を、俺は睨み付ける。
「大丈夫さ、そんな状況になったら僕は真っ先に死ぬだろうからね。生き残るのは多分君だけさ、沖澄」
その言葉には、妙な説得力があった。その光景がアリアリと想像出来てしまう自分に戸惑い、返す言葉に詰まってしまう。
「……ざけんな。教師だったらまず事故を起こさないように注意しろ」
「教師だって人だからね、注意していたって事故ぐらいは起こすさ。ところで沖澄、知ってたかい? 何か自分にとって好ましくない事態が起きた時、当事者はその原因をまずは環境に求めるんだ。対して、それを観察する第三者の方は、当事者本人の性質に求めようとする」
「なにがいいたいんだよ、あんたは」
「いや、別に。なにもかもの原因を自分だけに背負わされるのは嫌だなと、そういう話だよ。不可抗力の出来事だってあるんだしね」
「結局言い訳を口にしたかっただけかよ。そんな予防線を張るような真似するんじゃねえ。本当に事故でも起こしそうだ」
「はは、大丈夫だよ。僕は免許を取ってから一度も事故を起こしたことのない優良ドライバーだからね」
ハンドルを握りながら、来栖は器用に肩を竦めてみせる。
そして、ぽつりと、独りごちるように、小さな声で言った。
「――世界が間違っていると思えない人間にとっては、いつだって間違っているのは自分だけなんだろうね」
美術館は、大混雑とまではいかないが、やはりそれなりに人の数が多かった。
「…………」
零子は無言で俺の手を握ると、縋るようにぎゅっと力を込めた。俺はなにも言わず、迷子を引っ張るようにして歩き出した。来栖が何か言いたそうにニヤニヤとしていたが、無視する。
美術館は、庭園という言葉が相応しいような広い敷地内の中心に建っている。その周囲には綺麗に整えられた芝生や垣根が広がっており、右手の隅には地元出身の著名な画家が使っていたとされる小ぢんまりとしたアトリエが、当時のまま残っている。そこも彼の作品と一緒に展示物の一つとなっていて、人が出入りしているのが見えた。
そういった景色を楽しみつつ本館にたどり着く。洋風の造りをした大きな館だ。実物を見たことはないが、俺はいつもこの建物を見ると鹿鳴館を思い出す。街の喧噪から切り離され、静かな草花に囲まれて建つその洋館を見ていると、まるでこの地の時は明治の時代より止まったままであるかのような錯覚を受けるのだ。
実際には、この美術館が建てられたのは平成に入ってからで、洋風建築であるのはこの美術館のコンセプトがそうした懐古的な雰囲気を狙っていたからなのだが。
「さて、じゃあ見て回ろうか」
入り口から入ってすぐのところの受付けで全員分の入場料を払うと、来栖はまず、奧の展示室に向かった。
その後を追いながら、ちら、と背後を見やる。
「大丈夫か?」
うつむき加減で、手を引かれるままだった零子は、僅かに顔を上げた。もさっと、相変わらずの髪の毛が揺れる。
「だ、だいじょうぶ、だと、おもう……た、たぶん」
全く頼りにならない言葉だった。
「あんまり無理はすんなよ。また調子を崩したら元も子もねえからな」
「う、うん」
ぎゅっと握る手に力を入れる零子。
「…………」
それを引っ張って展示室に入る。
まず目に入ったのは、極端に抽象化された絵だった。
「ロスコ……ね」※1
来栖の低い呟きに、記憶の引き出しを探し回り何とかその情報を引っ張り出してくる。
マーク・ロスコ。抽象画、表現主義の描き手として名を残したロシア生まれの画家。ロスコ個人の情報については埃を被っていたが、その絵については別だ。最初に彼を知ったのは絵画集だったかポスターだったか、その独特の画風はまだ印象に残っていた。
本物を見たのはこれが初めてだ。
まずその大きさに驚き、圧倒される。通常のカンバスより一回りも二回りも大きなサイズ。両腕を広げてやっとという横幅で、高さも同じぐらいある。
ロスコの絵の殆どは「窓」――或いは「扉」のような、幾つかの長方形で構成されている。カンバスの中に一回り小さなカンバスがあるような形で、それが上下に分かれていて、「外枠」「上窓」「下窓」でそれぞれの色が異なるのだ。
正直、画集で見た時にはその特徴的な画風に「へえ」と感心する程度だったのだが、実物のこの大きさで見ると、全く異なる印象を受ける。
余計な造形を極限までそぎ落として、彼が描きたかった「何か」を純粋に表わした絵。
シンプルだが、その境界が滲みぼやけているためにシャープな印象は受けず、簡易化されているのにその曖昧さを失っていない。
そしてその曖昧さ故に、この絵は人の内面、意識といった境界が不明瞭なものを想起させる。だから多分、その「窓」「扉」というのは、俺達の内面に繋がっているのだろう。
ロスコの求めたものを描いたというより、彼の「求め」そのものが描かれているような絵だ。これを通して、鑑賞者はそれぞれが求める心象的な物事を見つめることになる――のかもしれない。
「それほど的が外れた評でもないと思うよ。絵から見出すものが、見る者によって違うというのも、ロスコの絵の特徴だからね」
俺の感想に対して、来栖は肩を竦めた。俺はそんなものかと思い、足を進め、ロスコの二枚目の作品を見た※2。こちらは彼の晩年の作品であるらしく、全体的に色調が暗い。同じ人の内面を描いているのだとしても、こちらは負の側面を表わしているように感じた。
――或いは、自身の求めるものが見つからず、苦悩していたのかもしれない。
彼は、没するまでに、その袋小路から脱することが出来たのだろうか。
俺はちら、と後ろを見やる。零子がこの絵を見て何を思うのか、興味があった。
「…………」
零子は、酷く冷めた目で絵を見上げていた。ただ冷淡というわけではなく、どことなくその目には険があるようにも見える。
「どうした?」
「……なんでも、ない」
俺の視線に気付いたか、零子は決まり悪げに目を逸らすと、俯いてしまう。心なし、手を握る力が強くなったような気がした。
ロスコの次に展示されていたのは、これまた変則的な巨大な絵だった※3。カンバス一杯には、ミミズや糸のようなぐにゃぐにゃとした曲線が所狭しと走り回っており、確固とした造形は皆無。
線で埋め尽くされた絵。線のみによって構成された絵。
こうした絵を描く人間を、この画家以外に俺は他に知らない。
「ジャクソン・ポロック――だよな」
「そう。彼の半生は映画にもなったし、割と一般的にも良く知られているよね。沖澄は、これは一体何をテーマにして描いているんだと思う?」
言われて、改めて丁寧に観察する。
偏執的なまでに書き込まれた幾多の線は、まるで秩序といったものを感じさせず、混沌としている。その線のタッチは基本的には粗い。何かをぶつけるような激しさを感じさせるが、その中にも繊細な線が混ざっている。おそらく絵の具を垂らして描いたのだろう、か細く、流れるようなその水の滴りが、混沌とした絵に不思議な滑らかさ――または意識的なものの所在を与えている。
それらが組み合わさって構成されたこの絵には、ロスコに通じるものを感じた。
「さすが沖澄だ。中々いい目をしている。ポロックはユングに随分と傾倒していてね、自分の絵について『その源泉は無意識だ』とか、『絵は存在の一状態である』とか言っているんだよ。つまり、人の内面的意識――それも無意識をテーマにして描いていたんだろうね」
「なるほど」
ロスコは、人を内面に沈ませる絵――意識への入り口を描いた。
対して、ポロックは人の内面の一状態――入り口を通った先にあるものを描いた。
そういうことになるだろうか。
「ただし彼はそれだけに留まらず個人の無意識の更に奧――もしくは上位に、世界的無意識という根源的なものを求めた。そしてそれを求め描く自らを、それと繋がった、何か特別な存在だと思うようになった。……一種の現実逃避だったのだろうね。現実には存在しないものを信仰し、そうやって自らに価値を与えることで、見据えるべき現実から目を逸らした。でも、そんなものが長続きするわけがない。現実は、いつだって僕らの周囲にあるのだから。――逃げ続ける者は、いつか必ず捕まるんだよ」
来栖は、どこかやるせないような顔で、彼の絵を見上げている。
「……人の本質的価値と、その表現の価値は同一視するべきではないと僕は思うよ。鳥山明はフリーザを倒すことは出来ないし、ヤムチャにだって勝つことは出来ないんだ。表現者と表現の価値を同一視するということは、自由なる精神を不自由にするだけだ」
俗人が高尚な絵を描いても何も問題はないんだ――と、来栖は呟いた。
そして、気分を切り替えるように首を振ると、殊更明るい声を出して、次の絵の前まで移動した。その後を俺もついていく。
「……価値なんて、あるはずないのに」
ぼそり、と低く呟く声が聞こえて、振り返る。零子が、苛立ちを含んだ目で、ポロックの絵を見上げていた。
「さて、お次は……」
来栖の声に、前を向き直る。
「…………」
キルヒナーという余り耳にしたことのない画家の絵だった。画集で一度ぐらいは目にしたことがあるかもしれないが、印象には残っていない。彼の絵は二枚展示されていて、一枚は窓から見える街の景色※4。窓枠には灰皿があり煙を棚引かせる煙草が置かれている。窓の外は、暗い色調で木々や建物が幾つか描かれていて、目の前の道を一人の人間――おそらく婦人――が横切ろうとしている。
もう一枚は、画面中央に瓶を掲げて座っている女性の置物があり、その瓶の中には幾つか果実が入れられている※5。置物の周囲には、縁の円が印象的なコップが幾つか置かれていて、バックにはテーブルか椅子のようなものが描かれている。
どちらも、リアリズムから離れた、抽象的で象徴的なタッチだ。
「彼はドイツ表現主義の代表的作家でね――ああ、表現主義については前に説明したっけ?」
「いや。多分、ないな」
「表現主義は、現実的な光景に感情を反映させて絵を描くことが一般とされている。だから、結果として出来上がった絵は写実的なそれとは異なる歪んだものになったり、シンボリックなものであることが多い。そして、得てして表現主義の画風は陰鬱なものになりやすいんだよ。人を捕らえて放さない感情というのは、どこでもいつの時代でも、陽気なそれからはかけ離れたものだからね。――まあ、それは沖澄にはよく分かるだろうけど」
俺の背後の零子に視線を向けて、来栖は言う。
「…………」
俺は答えず、振り向かず、次の絵に移動した。来栖は両手を挙げるジェスチャーをして肩を竦めると、後に続いた。
「――スタール、だ」
黄色を背景として、手前側にはテーブルの上に茶色の花瓶のようなもの、赤っぽいタマネギのような形をした水差しのようなもの、更に黄色いサイコロの形をしたものが幾つも置いてある絵だ。
具象的であるように見えるし、抽象的でもあるように見える。両者の中間――その境界線上にあるような不思議な印象を受ける。
「確か沖澄は、彼の絵が好きだったんだっけ?」
「……ああ。かもめのとか※6、夕日と列車のやつ※7がな。あの色遣いはとても真似できない」
ニコル・ド・スタールはロシア生まれの画家で、様々な地を旅して回り「絵を描くということ」に他に類を見ないほどに真摯に向き合い、生涯を捧げた。
「俺は、画家には二種類のタイプがいると思うんだよ」
「大抵のものは、『そうであるか』『そうでないか』の二種類に分けられるとは思うけどね――ああいや、これは余計なことだったね。気にせず話を続けてくれよ」
にやにや顔の来栖に舌打ちをしてから、先を続ける。
「……二種類ってのは、つまり、絵を描くことを何かの手段にする人間と、目的とする人間ってことだよ」
「なるほどねぇ。まあ、間違ったことは言ってないな。ちなみに、沖澄からすると今日目にした四人の画家――ロスコ、ポロック、キルヒナー、スタールはどう分類されるんだい?」
「スタール以外は絵を手段にしている人間だ。別にそれが悪いとか、画家としてのレベルが云々なんてことを言うつもりはねえけどな」
「仮に沖澄論で考えるとしたら、僕もそう分類するだろうね」
そう言ってから、来栖の目が意味ありげに背後に向けられる。俺はそれに気付かないふりをする。そんなもの、考えなくても分かる。来栖にだって分かっているはずだった。
「まあ、彼は『絵をかくこと』に対して他の画家より真摯だったからね。――むしろ真摯過ぎたのかもしれないけれど」
「何せ、『絵を支配したい』――なんつーことを考える人間だからな」
「きっと彼はどんな傑作を描き上げても、これは偶然出来てしまったのではないかという不安を拭えなかったんだろうね。描かされるんじゃなくて、描きたかったんだろう、彼は」
「……俺にはまだ、分からん境地だよ」
「僕にだって分からないさ。その想いに共感するには、最低限、画家として彼と同等の力量が必要だからね」
俺は目の前のスタールの絵から視線を切って、瞼を閉じる。そうして、闇の向こうにかもめの青や、落日の橙を想起する。
雲海の上を飛ぶ数羽のかもめ。青と白・灰色の見事なコントラスト。
海辺を走る列車。海のうす水色、列車の黒、棚引く白い煙、そして見る者の目を引きつけてやまない橙色の空。
彼のそれらの絵は、思わずハッとするほど美しい色遣いなのに、見る者を決して陶酔させることはない。その色を見ていると、胸のどこかを細い針で突き刺されるような、微かでありながら鋭さを失わない痛みを感じるのだ。
そしてその痛みに、俺は何故かあいつのことを思い出すのだ。
自分でもよく分からない。
スタールの絵と、この痛みと、あいつと。
それらが、何によって結びついているのか。
「なあ、似非教師」
「うん?」
「スタールは、結局、どこにも――辿り着けなかったんだろうな」
「その言葉に対する答えを、僕は持たないよ。こんな様になりながらも、僕はいまだに生きているから」
それがどういった意味なのか、俺は問わなかった。
問う言葉を、持たなかった。
その後も、ベーコン、ゴーキーに、ユトリロ、シャガール、ピカソ、ダリ、デュシャン、カンディンスキー等々、豪華絢爛、多様多彩な顔ぶれの絵が続いた。確かに来栖が言っていたように統一感といったものは皆無に近いが、それでも特定の枠組みに拘らず幅広く絵を見るという点に関しては文句なしだった。ただ、全体として見るとやや表現主義などの抽象画が多い気がしたが、多分、それは企画者の好みなのだろう。
全ての展示室を巡り終わったのは昼過ぎのことだった。一気に回りすぎた俺達は、足を休めるために美術館内のカフェに立ち寄って、軽食をとることにした。
屋内は人が多く嫌だという零子の言葉に、テラス席に向かう。
「……意外に、涼しいな」
椅子に座って首を巡らせる。風通しの良い日陰であることに加えて、テラスの突き出している中庭には大きな噴水があり、常に周囲に水を振りまいている。それが、この空間に涼を運んできているのだろう。
「いやぁ、やっぱりいつ来てもここの美術館の雰囲気はいいねぇ。この場所で絵を描き始めたいぐらいだよ」
向かいに腰を下ろした来栖が、大げさな動作で両腕を広げる。
「多分、レトロな作りだから余計なんだろうな。これが前衛的な代物だったら、こうはいかねえよ」
「だろうね。前衛芸術は知的興奮を僕らに与えてくれるけれども、安らぎは与えてくれないからね」
そんな毒にも薬にもならない会話をしながら、俺達はもう一人の連れ――零子の様子を横目で窺っていた。明らかに様子がおかしい。相変わらず俺の手を握りっぱなしなのはいいとしても、空いている方の手の親指の爪をガリガリと噛んで、視線をあっちにこっちにと落ち着きなく動かしているその姿は、鬱蒼と茂る髪の毛と相まって、この上なく不審に見える。よくこれで美術館員に呼び止められなかったものだ。
「……で、上木田の感想としては、どうだったのかな?」
ごほん、とわざとらしく咳払いをしてから、何気ない風を装って来栖が訊いた。途端、爪を噛むガリガリという音が止む。親指を唇から離し、のそりと頭を上げる。
ごくり、と来栖が喉を鳴らす音が聞こえた。気持ちは分からないでもない。今日のこいつは、いつにもまして得体の知れない空気を醸し出している。
「……吐き気が、する」
ぼそりと零子は呟いた。その声には、はっきりとした苛立ちが含まれている。……いや、むしろそれは憎しみに近いものだった。
その呟きが聞こえたのか、近くを通ったウェイトレスがびっくりしたような顔で立ち止まった。俺達のテーブルの上に目を走らせ、まだ食事が来ていないことを確認するとほっと安堵の息を吐き、だがすぐに困惑したような表情をで零子と俺達を交互に見やる。
「あの……」
「ああいや、何でもありません、大丈夫です。お気になさらず」
来栖が余所向きのにっこりとした笑顔を向けてそう言うと、ウェイトレスはきょとん、とした顔で小さく首を傾げた。まだ納得していないようだったが、「大丈夫ですから」と来栖が重ねて言うと「そうですか」と頷き、ぺこりとお辞儀をして去っていった。
その背中を見送ってから、俺と来栖は顔を見合わせて大きく溜め息を吐く。
「……それで、なんだって、上木田?」
零子はまた爪を噛み始めた。ガリガリと音を立てながら、宙のどこか一点にぼんやりとした焦点を合わせ、呟くような声で答えを返す。
「……は、吐き気が、する。ど、どいつもこいつも、どいつもこいつも、どいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつも」
ぎょっとする。それはまるで呪詛だった。今日こいつが目にした画家に対してか、こいつを緊張させるパーソナルペースに侵入してくる他人に対してか。
或いは、その両方に対してなのか。
呪いを吐き出すようにその言葉を繰り返す零子を、俺も来栖も止められなかった。
こいつの身体から世界に滲み出す何かに、圧倒されていた。
それはあたかも、彼らの絵を前にしたかのようで――
「わたしは、おまえたちみたいには、ぜったい、ならない」
俺達ではない何かに向かって宣言するように、はっきりと、力強く、零子は言った。
「だから、わたしに、これ以上、つきまとうな」
だけれど俺には、それはまるで何かに祈りをあげる声に、聞こえた。
久しぶりに人の群れの中に入って疲れたのか、帰りのクーパーの中で零子は寝入ってしまっていた。窓に額を当てるようにして、美術館での形相が嘘のようにあどけない寝顔を晒している。
手は、握ったままだった。
「なんだ、てっきり沖澄の肩に頭を預けたりなんかしてイチャついた寝方をするんだとばかり思っていたのに」
バックミラー越しに俺達を見やって、来栖がからかうような声をあげる。
「……だから、てめぇは運転に集中しろって言ってんだろうが」
「手は握ったままなのに、身体は離れようとするんだな、上木田は」
俺の言葉を無視して、来栖は続けた。
「…………」
「なぁ、沖澄」
「なんだよ」
「それがないと生きていけないのに、それに近づき過ぎると破滅してしまう――それってなんだと思う?」
「いきなりなんだよ。今更ギリシャ神話の解説でもしようってのか?」
「いや、そうじゃないけどね。果たして、イカロスは墜ちていく中、それを悔いたのだろうかと思って」
「あん? なんでだよ?」
「え?」
「飛ぼうとしていたに決まってんだろう」
「…………」
「墜ちてるんだから、また飛ぼうとするに決まってんじゃねえか。後悔してる余裕なんざないだろうよ。文字通り、必死でな」
「……そっか」
「そうだよ」
「…………そうなんだなぁ」
「なんだよ?」
「……いや。きっと沖澄イカロスの手には、勇気があったんだろうと思ってね」
「……違うのかよ? だって俺は小学校の音楽の時間でそう習ったぜ」
「きっと何もなかったんだと思うよ。だから寒くて、暖かさを求めて空を飛んだんだよ。その火が自分を滅ぼすと分かっていてもね」
「だったら、飛ぶのを止めりゃ良かったんだよ。高いところばっか飛んでるから寒いんだろうが。地上に行け、地上に」
「――く。はは……確かにそりゃそうだ。本当に、その通りだよ」
その時に訊いた来栖の笑い声は、驚くほどに、無邪気だった。
※1 ttp://art.pro.tok2.com/R/Rothko/Rothko.htm
上記リンクの前半生の時期の作品群。赤とかオレンジとかの色使いの作品が多い。
※2 1のリンクの後半生の作品群。黒とか灰色とか暗い色調の作品が多い。
※3 ttp://www.ne.jp/asahi/art/dorian/P/Pollock/Pollock.htm
上記リンクの1950年のナンバー1の作品等。
※4 ttp://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=96299
※5 ttp://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=70612&isHighlight=true&pageId=2
※6 ttp://search.fenrir-inc.com/image/?hl=ja&safe=off&lr=all&channel=s_d_e&fmt=all&imtype=&dimensions=all&rurl=&sizeview=off&q=%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB+%E6%B5%B7%E8%BE%BA%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E2%80%95%E8%90%BD%E6%97%A5&x=0&y=0
※7 http://search.fenrir-inc.com/image/?hl=ja&safe=off&lr=all&channel=s_d_e&fmt=all&imtype=&dimensions=all&rurl=&sizeview=off&q=%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E3%81%8B%E3%82%82%E3%82%81&x=0&y=0