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4:それは変化の兆しだった


 翌朝、久しぶりに一人での登校。今日は早めに部活を切り上げて、午後からは見舞いに行ってやろうか――などと考えながら家を出た俺は、すぐにお隣さん――なぜか玄関前でスタンバっていたらしい諒子さんに呼び止められた。


「ああ、ちょうど良かったです。零子の容態はどうですか? もし何だったら、今日の午後にでも顔を見に行こうかと思うんですが」


 その態度に不審なものを感じながらも、ついでだからとそう訊ねた俺に、諒子さんは「それがね――」と微妙な顔で答えを返してきた。

 それを聞いた瞬間、俺は、途方もない疲れを覚えて、軽くよろめいた。




「てめぇはアレか。馬鹿か? 馬鹿なのか? 馬鹿なんだろ」


 零子の部屋――アトリエではなく母屋の方――に入るなり、俺はそう言った。

 だが反応はない。滅多にこちらにはやってこない部屋の主は、シーツを掛けて、ベッドの上で静かに寝入っていた。


「……この、阿呆めが」


 大きく――これまでの人生でベスト3には入るだろう盛大さで、溜め息を吐く。全身から力が抜けて、近くにあったデスクチェアを引き寄せると、それに座った。

 諒子さんが言うには、今朝早く病院で目を覚ましたこいつは強引に退院して家に戻ってきてしまったらしい。医者の話だと、病院のベッドでたった一人で目を覚ました零子は半狂乱に近い状態に陥ってしまったのだそうだ。見知らぬ人がいる見知らぬ空間は、こいつにとって耐え難いものだったのだろう。だから、医者はこれなら自宅で療養した方がいいと判断したらしい。


「この世界は、そんなにも、お前にとって辛いところなのか……?」


 零子の寝顔を観察する。仰向けになって腹のところで手を組んでいるその姿は、とても静謐で、まるで――。


「…………」


 思わず、傍によって息を確認してしまった。きちんと息をしている。


「ったくよ……。お前は、どうしても――そうなんだな」


 改めて、近くでその姿を確認する。以前より肌が白くなったような気がするし、腕もまるで枯れ木のように細い。手首なんて、俺が握ったらそのままぽきりと折れてしまいそうな程だ。夏休みに入る前も確かにやせ細っていたが、ここまで病的ではなかった。

 そして何より、生気がまるで感じられない。生きている気配が薄弱なのだ。さながら、自分が描いた絵に、それを吸われてしまったかのように。


「……えい……くん……」


 声に、目をやる。うっすらと瞼が開いて、零子の目が僅かの間さ迷うように揺れた。次いで、俺に向けられる。


「てめぇ、しばらくは絵を描くなよ。本調子に戻るまで禁止だ」

「…………」


 零子はウンともスンとも言わない。ただ黙って、その透徹した大きな黒目で俺を見上げる。


「…………」


 一体何を考えているのか分からない無表情で、不意に零子は俺に向かって手を伸ばしてきた。驚く。反射的に、硬直してしまう。こいつが他人に対して自ら接触しようとするなんてこと、これまで殆どなかった。


「…………」


 零子は俺の手に触れる直前で、逡巡したかのように、一瞬、動きを止めた。しかし、ゆっくりと、恐る恐るといった調子で、膝の上に置いた俺の手の上に、自分の手を重ねた。そして何かを確かめるように撫でさすり、最後はそっと握った。


「ひとり……は、いや……だよ。おいていかれるの、は……いや、だ」


 思いがけず、強い力だった。どこからそんな力が出て来たのかというほどに。


「私……だって、もっと、ちゃんと……ちゃんと、して、それで……」


 こんもりと、零子の目元に涙が溜まっていき――やがては溢れて零れた。

 一度決壊すると、それは次から次へと流れ出て、枕を濡らしていく。


「――ああ、そうだな」


 俺は、ポケットから取り出したハンカチでその涙を拭いてやる。


「きっといつか――お前はそうなれるさ」


 その言葉に安心したのか、零子はまた瞼を下ろし、微かな寝息を立て始めた。それを見下ろして、俺は小さく呟く。


「本当に――?」






 ――というようなことを、いろいろ端折って来栖に話した。


「はぁん。そりゃ、大変だったね」


 それが、来栖の感想だった。余りに軽い言葉に、俺は少しだけムッとする。


「今の話を聞いて一教師として言う言葉がそれかよ」

「所詮は他人事だからね――というのは冗談だよ」


 俺の殺気立った視線に気付いて、来栖はニヤニヤ顔で肩を竦める。その口には相変わらず煙草が咥えられていて、紫煙が風に乗って彼方に流されていく。


「いやぁ、やっぱり外でふかす煙草は気分がいいね」


 来栖は、目を細めて空を仰ぐ。

 空。そう、今俺達は外に出ていた。正確には、特別棟の屋上。フェンスに囲まれたそこで、俺はカンバスに向かっていた。フェンス際にイーゼルを組み立てて、美術室にあった折り畳みチェアに座って、そこから見えるグラウンドの光景を見下ろしていた。


「今この時にしか描けないものを描く――その心意気はいいね。モチーフは、部活動に励む学生たちといったところかな」

「今――だからな」


 グラウンドで部活に励む生徒――野球部やサッカー部、少し離れたコートのテニス部を眺めて、呟く。精力的に動き回る彼らの、その躍動感、命そのものといった輝き。それを絵に表わすことが、今回の目標だった。


「しかしあれだな、意外に屋上っては涼しいもんだな。そんなに暑苦しさを感じない」

「地面から離れてるから地熱の影響を受けにくいんじゃないのかな。よくは知らないけどね」


 すはぁーっと実に美味そうに煙を吐き出す来栖。

 ――しばらく沈黙が続いた。

 来栖は煙草を堪能し、俺はどのような構図にするかを決めかねて思案していた。


「さっきのことだけど」


 携帯灰皿で煙草の火を消した来栖は、円筒状のその蓋を閉めてから、口を開いた。


「本当に、他人事だとかは思ってないんだけどね、余り驚かなかったのは、何となく予感はしていたからなんだよ」

「予感?」

「夏休みに入ったばかりの頃……あの時点で、既に兆候はあったからね。のめり込み過ぎているように見えたから。微妙な変化だったから、気のせいかも思っていたんだけど」

「……いつもの、夏バテだと思ったんだけどな。見誤ったよ」


 毎年、夏になるとあいつは根を詰めすぎて調子を悪くするから、今回のもてっきりそれだと思った。だが、違った。おかしくなっていたのは、あいつの身体の方ではなく……。


「あんたの言っていたように、俺があいつを追い詰めたのか……?」

「それだけじゃないとは思うけどね。今の時期は上木田に限らず、君ら――新たな岐路を迎えようとしている十七の少年少女にとっては、不安定な時期だろうから」


 二本目を口に咥えて、火を点ける。


「だけど、沖澄は何も間違ったことをしちゃいないさ。今回の一件を気に病んで、自らに枷をはめる必要もない。そんなことは上木田だって望みはしないだろう」


 望みはしないだけなんだけどね――そう小さく付け加えて、煙を吸い込む。


「沖澄が見誤るのも無理はない。だって君は正しか(・・・・・)った(・・)。間違っていたのは上木田の方なんだから。正しいことが出来る沖澄には、間違ったこ(・・・・・)としか出来(・・・・・)ない(・・)人間の気持ちはきっと分からないよ」


 冷淡と言ってもいい口調で、来栖は言った。いつものニヤニヤ笑いを消して、完全な無表情になった来栖には、恐ろしいほどの空虚さが漂っていた。

 空っぽだ。こいつには、何もない。

 俺は初めて、この相手を、怖いと感じた。


「沖澄は、心の底から、この世界に生まれたことを呪ったことはあるかい? 自分を生んでくれた母親を、父親を殺したいほど憎んだことはあるかい?」


 来栖はその何もない眼差しで、俺を見る。


「多分、上木田はあるよ。それが逆恨みだって分かっていても、きっと思ったことがある。だって、僕らは間違ったことしか出来ないからね。それが間違っていると思っていても、自分では止められない」


 うっすらと、笑みを浮かべる来栖。

 正直なところ、それ以上来栖と目を合わせていると、気が狂ってしまいそうだった。やつが抱える何かが、俺にまで感染しそうだった。

 しかし、俺は絶対に、目を逸らさなかった。


「はっ。そりゃ大変だったな」


 鼻で笑って、そう言ってやった。

 途端。


「――く……っくっはははは!」


 ぷっと吹き出し、来栖は心底おかしそうに、腹を抱えて笑い出した。


「所詮他人事だからな――っつーのは冗談だ」


 続いた俺の言葉に、更に来栖は笑い声を大きくする。涙まで浮かべて、ちょっと引くぐらい盛大に笑い転げていた。

 ようやく笑いをおさめたのは、それから実に三分が経過してからのことだった。


「うんうん、沖澄はそれでいいよ。そうでなくちゃいけない」


 目元に滲んだ涙を指で拭って、来栖は、いつものあのニヤケ顔に戻る。そしてまた、やたらと美味そうに煙草を吸い始めた。


「……俺だって間違うことはある」

「おや、聞き捨てならないね」


 興味が引かれたように、来栖は眉を跳ねさせた。


「あんたに言うようなことじゃねえよ」

「でも、本当にそれは間違ってたのだろうかね? もしかしたら沖澄がそう思っているだけで、実際は逆だったのかもしれないよ」


 あれが?

 間違じゃないと?

 ――まさか、だった。


「ま、どっちでもいいけどね」

「んだよ、それ」


 自分から思わせぶりなことを口にしておきながら。


「ったく、あんたはいつも適当だよな」


 ニヤニヤしている似非教師に溜め息を吐いてみせてから、俺はようやく構図を決めて、カンバスに描き始めた。さすがにこうなってからは来栖も無駄話をしようとはせず、時折絵を確認しに来たり、煙草をくゆらせたり、ふいっとどこかに消えたりと、しばらく静かな時間が過ぎた。

 昼頃に一時間の昼食を挟んでさらに描き続けて、日が暮れるぐらいの時間になって、ようやく下描きが終わった。


「あー……くっそつかれた」


 だが、その甲斐はあって、概ねイメージした通りの構図で描くことが出来た。屋上から見たまんまの、切り取られた風景。今自分が立っている地面――コンクリも、視界を覆うフェンスも、そのままに描いた。そしてその向こうでは、ユニフォーム姿の野球部やサッカー部が生き生きと走り回っている――少なくとも、躍動感という点においては、込められたように思う。


「あとは上手く色を重ねられるか、だな」


 グラウンドの光景を、しっかりと頭に焼き付けておく。既に空は橙色に変わりつつあるが、まだ各運動部は粘って活動していた。オレンジ色の光が泥だらけの彼らを照らし、影を作る。野球部のショートを守っているやつが、正面からの夕日が眩しいのかキャップを被り直している。セカンドは、手を翳して光を遮っている。ピッチャーがボールを投げる。キン、と澄んだ音。夕日のせいかショートは反応が遅れて、打球はその後方へ。レフトがカバーに入り、ショートに向けて監督から叱咤の声が飛ぶ。

 サッカー部の方では紅白戦をやっているようで、黄色と緑のビブスを着たチームに別れて、熱戦を繰り広げている。そろそろ終盤のため両者の動きには疲れが感じられるが、おそらくこれが最後のメニューだからだろう、最後の力を振り絞ったようにがむしゃらにコートの中を走り回っている。

 ――夕焼けがいいな。

 半ば直感で、俺は今回の絵の時間帯をそう決めた。夕暮れの中、最後の力を振り絞って身体を動かす彼らにこそ、最も強い人の息吹を感じた。残り少ない体力を、必死で燃え上がらせようとする気力。そこに、何か震えるものを感じる。


「へぇ……構図的には、いい感じだね」


 ここ数時間ぐらいはどこかに行っていた来栖が戻ってきて、下描きを終えた俺の絵を、そう評した。道具の片付けをしながら、横に立つ白衣姿を見上げる。来栖は顎に手をやって、美術教師としての目で絵を観察している。


「あとはこれを、どう肉付けするかだね。期待しているよ」

「期待?」

「ああ。ほら、毎年夏の終わりに美術クラブの展覧会があるだろう」

「あの、よく芸能人とかの作品が選ばれる?」

「そうそう。それに、沖澄の作品を出品してみようかと思ってね。今年はまだどこにも応募していないだろう? 実力が変わっていないなら何度出品したところでお金の無駄でしかないわけだけど、一皮剥けたっぽい今の沖澄なら、その価値はあると思うから」


 まあ、実際のところ、展覧会については一応頭の片隅にはあった。去年までの俺は、どう考えても通常の高校生レベルの絵しか描けていなかったため、力試しというよりは、気を引き締めるための仮想的な目標として、展覧会を捉えていた。

 しかし、この前の一件で何かしら手応えがあったというか、絵描きとして次の段階にシフトしたというような感覚を得ていたので、自分の中で出品するに足る作品が出来上がったなら、本格的に賞を狙ってみようか、という気持ちはあったのだ。


「……あんたから見て、可能性はありそうなのか?」

「そうだねぇ……この前の街の絵、あれでも十分にその可能性があるとは思うけど、期限までにあれ以上の作品が描けたなら、それを出品しようかと思ってる」

「あんたには悪いが、もし本気で狙うとなったら、自分が手応えを感じない作品を出すつもりはないからな」

「分かってるよ」


 肩を竦める来栖に、俺は「それなら――」とその話を受けた。

 自分の絵が、そのような展覧会で賞を貰えるような段階にあるようには、まだ到底思えない。だが、何かしら、感じるものがあるのだ。

 ならば、自分のその可能性に、賭けてみたいと思った。


「ところでさ――」


 片付けが終わって、最後の見納めとばかりにグラウンドを眺めていた俺に、来栖がふと思い出したというような感じで、話しかけてきた。


「沖澄はどうして絵を描き始めたんだい?」

「突然――なんだよ」

「え? いや、別に深い意味はないんだけどね。最初は、どういうつもりで描き始めたんだろうって。やっぱりあれかい、上木田に影響を受けたのかな?」

「影響……といえば影響なのかもしれない」


 今日、自分が描いた絵に目を移して、呟く。


「最初は――本当に最初は、理解しようと、思ったんだ」

「理解?」

「そうだ、理解だ。あいつと同じことをすれば、少しはあいつのことが理解出来るかも知れないと、馬鹿なことを思ったんだ」


 どうして――。

 その言葉の答えを求めて、俺は絵を描き始めた。


「それで、理解することは出来たのかな?」

「――は。んなわけねえだろうが。あいつのことなんさ、ちっとも理解できなかった。むしろ、余計に遠ざかったような気がしたよ。自分とあいつは違うんだということを、嫌というほどに思い知らされることになった」

「口惜しいのかい、それが?」


 一瞬、考えて、でも俺は首を振った。


「多分、それでいいんだと、今は思う。理解出来ないから、まだあいつとの腐れ縁が続いてるんだ。もし理解出来てしまったら――あいつか俺か、或いはどちらも、居なくなってしまう気がする」

「マイナスとマイナスは、足してもマイナスだからね。ジャンヌとモディリアーニがプラスになれなかったように」


 見当外れのような、そうでないような答えを返してくる。


「……まあ、それにあいつのことを理解出来なくても、あいつが求めているものは分かる。それだけで十分なんだろうよ」

「へぇ。どうしてそれだけは理解出来るんだい? 以心伝心ってやつかな」


 冷やかすような笑みを浮かべる来栖に、俺は教えてやった。


「短冊に書かれてたんだよ」


 来栖は、きょとんとしたような顔をしていた。






 家に帰ると、リビングのテレビの前で零子と啓司が仲良くマリオカートをやっていた。


「……なにやってんだ、お前ら」


 珍しい光景を目の前にして、思わずそう呟いてしまった。

 零子は正座をして、右に左にと自分の身体を傾けながらゲームに熱中していた。そこから微妙に距離をとった場所では、既にゴールしてしまったのだろう啓司が、コントローラーを置いて成り行きを見守っている。


「ん? ああ、兄さんお帰り」


 リビングに入ってきた俺に気付き、啓司が振り向いた。


「父さんと母さんはお洒落レストランで食事をするから、ぼくらは勝手に済ませてってさ。出前でもとろうか?」


 テーブルの上の五千円札を親指で指して、訊いてくる。


「だったら断然ピザだな。Sサイズなら二枚はいける腹具合だ。――じゃなくてだな、ずいぶんと珍しい状況だな、おい。こいつとゲームやるとか、何年ぶりだよ」


 絵を描き始めてからの零子は、暇さえあればひたすら絵に没頭していたので、こうして子供らしく遊んだ記憶が、俺達にはほとんどない。大抵は、絵を描いているあいつの隣で漫画を読んだりとか、或いは一緒になって絵を描いたりとか、ぼけーっとしたりとか、そんなことばかりしていたのだ。


「いや、部活が早く終わったから、零ちゃんのところに顔を出そうと思ってアトリエに行ったんだけど、珍しくいなくてさ。それでおばさんに聞いたら、部屋で暇してるから良かったら相手してあげてっていわれて……」

「で、連れてきたわけか」


 俺達の視線の先で、零子はようやくゴールをしたようだった。順位はビリ。さもありなんと言う感じ。こいつにテレビゲームはむかない。

 零子はどうも相当に緊張していたらしく、ふうーっと大きく息を吐いてコントローラーを床の上にそっと置いた。そして、振り向いた。


「……絵を、描くなって、い、言った、から」


 しょぼくれた顔で、俺を見上げる。どこか拗ねているようにも見える。


「え、絵を描けないと、何もすること、ない」

「自業自得だろうが」


 今朝の一件で問題であるのはそこだけだというかのような零子に、俺は溜め息を吐きたくなる。結局、何も変わらないというわけだ。


「え、何々? 零ちゃん、どうかしたの?」

「お前、聞いてねえのかよ?」


 不思議そうに首を傾げる啓司に、俺は昨夜からの出来事を説明してやる。


「えー!? そんなことがあったの? 全然知らなかったよ……。昨日は熟睡してたし、朝も母さんが言ってくれなかったし」


 不満そうに口を尖らせていた啓司は、しかしすぐに怒ったような顔で零子を見やった。


「零ちゃん、駄目だよ! 兄さんの言うとおりしばらく身体を休ませてあげなきゃ!」

「ご、ごめん、なさい……」


 しょぼんと俯く零子。その様子を見ていると、とても零子の方が年上であるようには見えない。やれやれと首を振って、俺は着替えるためにリビングを出ようとした。


「――――」


 その手を、後ろから、突然掴まれた。

 振り返る。


「…………?」


 零子だった。自分でも不思議そうな顔で、それを見つめている。


「……なんだよ?」

「え……? う、あ、べ、別に……」


 驚いたようにパッと手を放す。


「……着替えてくるだけだ」


 そう言って、今度こそリビングを出た。階段を上って二階に上がる。部屋の前まで来て中に入ろうとしたところで、溜め息を吐いて振り返った。


「何で後をついてくるんだよ」

「わ、私に、訊かないで、よ」


 じゃあ誰に訊けばいいんだっつーの――という言葉を呑み込んで、零子を見やる。迷子のように心細げにしている一方で、今の自分の行動に本当に戸惑っているようで、困ったような表情を浮かべている。


「……ったく。好きにしろよ」


 それは、多分、何かの兆しだった。

 俺にもこいつにも分からない、何かの。

 変わるのかもしれない――漠然と、この時の俺はそんなことを思っていた。


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