3:そして彼は階段をあがる
夏休みに入った。
しかしそれでも、俺や零子の行動パターンは大して変わることはなかった。俺の場合は、勉強をして、絵を描いての繰り返し。零子の方は、ただひたすら絵を描くだけ。
「お前、少し痩せたんじゃないか?」
この日は、朝から学校で絵を描いていた。週に三日は美術室で来栖の指導を受けて、それ以外は大抵零子のアトリエを使って絵を描く、というのが俺達の夏休みだった。
「聞いてんのかよ?」
俺は、下描きを終えてその出来を確かめているらしい零子に、そう訊ねた。零子は、身体を変な風に傾けて「うー……ん」と唸っていて、今の正気状態なら間違いなく俺の言葉が聞こえているはずなのに、完全に無視を決め込む。
「……だめ」
どこか気に入らない部分があったのだろう、やがて零子はカンバスに大きく×印を描くと、イーゼルから外して脇に除けた。そうして、新しい布地が張られたカンバスを掛け直す。
「そう、かな」
そして俺の方に顔を向けて、言った。一瞬、それが先程の言葉に対する返答だということに気付かず、反応が遅れる。
「……ここんところ暑い日が続いてるから、夏バテしてるんじゃねえのか?」
「そんなこと、ないと、思うけど」
しかし、そう答える零子の顔は、いつも以上に血の気がないようにも見える。
「夏バテには梅が効くよ。梅酢なんかオススメだけどね。おいしいし」
準備室から来栖が姿を現わす。両手を白衣のポケットにやって、煙草をぷらぷら――というかぷかぷかやっていた。
「……おい、似非教師。てめぇ、火が点いてるように見えるのは俺の気のせいなのか」
「んん? こりゃあれだよ。ほら、子供の玩具のさ、煙が出るやつ」
「明らかにモノホンの煙の臭いがするんだけどな」
「夏休みだから、バレないって」
「どこの高校生だよ、あんた……」
ニヤニヤ顔でひょいと肩を竦める来栖。ああなんかもう、本当に腹立つなこいつ。
「でもま、上木田は確かにちょっと痩せたかもね」
煙草を口から離してぷはぁっと煙を吐き出して、来栖は零子を見やる。零子は既に新たに下描きを始めていた。モチーフは、台の上に置かれた古ぼけたフランス人形。
「ちょっと、気をつけておいた方がいいかもしれない」
まるで睨み合うかのように、微動だにせず人形を睨み付ける零子を横目にして、来栖はぽつりと言った。
「ああ。こいつはいったん描き始めると、止まらなくなるからな。こういう時期は結構体調を崩したりするんだよ」
「身体の方もそうなんだけど――」
この似非教師にしては珍しく、どこか煮え切らない態度だった。何かをその後に続けようとして、しかしすぐに「いや、気にしすぎかな」と小さく呟き、首を振る。
「ま、上木田については僕より沖澄の方が分かってるだろうからね、任せるよ。精々、甲斐甲斐しく世話を焼いてあげるがいいよ」
「俺はこいつのメイドじゃねえよ。勘違いすんな」
来栖は「メイド」とオウム返しに呟くと、ぷっと噴き出した。
「くく……意外に沖澄はそういうのがあってるかもね。執事とか、芸能人のマネージャーとか。ぶちぶち口では文句を言いながらも献身的に世話を焼く姿が目に浮かぶようだよ」
「ざけんな。……それならまだ教師の方がマシだっつの」
「教師? 教師ね……沖澄が。誰かに言われたのかい?」
「零子の親にな。まぁ、それに関する賛否はともかくとして、少なくともどっかの誰かよりはまともな教師になる自信はあるさ」
「知り合いにそんなにダメな教師がいるのかい? 一人の教育者として、それには憤慨せざるを得ないね」
いけしゃあしゃあとそんなことを宣う来栖。
俺はふん、と鼻を鳴らして、自分も作業に入る。この前の続きだ。丘や町並みは既に描き終えていたが、空と海は、手持ちの青系色ではしっくりこなかったので、例のルフランを仕入れるまで手をつけずにいたのだ。昨日、ようやく来栖からそれを受け取ったのだが、発色や使い心地を確かめるので一日を潰してしまった。
それで、今日から改めて仕上げに入るつもりだった。
「けどまあ、冗談はともかくとして、教師も沖澄にはあってるかもね。ある意味、教師も生徒のメイドみたいなものだから」
「そんな風に思ってんのは、きっとあんただけだ」
パレットに絵の具を垂らし、溶き油でちょうどいい柔らかさにまで薄める。
「どうかね。昔ならいざ知らず、現代の教育は、教える――というより奉仕といった言葉の方がぴったりくると思うんだけど」
皮肉めいた笑みを浮かべると、来栖は「ちょっと出てくるよ」と告げて俺達に背中を向けた。
「君らは、今日の昼はどうするつもり? もし何だったら一緒に出前を取るけど」
入り口のところで振り返って、そう訊いてくる。
「奢りだったら当然頼むが、そうじゃないんだったらコンビニにでも買いに行く」
「じゃ、自分らで何とかしてくれ」
にやりと笑って、来栖は出て行った。それを目の端で確認して改めて作業に集中する。
しばらく、静かな時が過ぎる。
グランドから聞こえてくる運動部のかけ声、金属バットにボールが当たる甲高い音、サッカーボールを蹴る鈍い音、吹奏楽部の練習する統率のない音――まるで遠い世界のようなそれらを背景にして、美術室の中には、僅かな作業の音――絵の具を筆につける音、それを塗りつける音、カンバスに木炭を走らせる音が聞こえるだけ。
不思議と、心が安らぐ。
ここに、確かに俺は居るのだという感覚。隣に、あいつが確かに存在しているのだという感覚。
時々、部屋の中に篭もる熱気を押し流すように、背にした窓から涼やかな風が入り込んでくる。
筆が進む。頭の中でイメージした通りの色が空と海を染めていく。あの時、丘の上から見たこの街の光景が、生き生きと再現されていく。
画面手前から、なだらかに画面の中央に向かって沈んでいく緑の丘――風にそよぐ草原。
その先から顔を現わす、中途半端な高さのビルや建物が建ち並ぶ、発展途上の町並み――画面中央。
街の中には一本の川が流れていて、きらきらと陽を反射する光がその穏やかで澄んだ流れを表わしている。
そして川の流れ着く先――街の背景に存在する鮮烈なる青。海原。地平線の向こうは陽の反射でまるで光の洪水のよう。その地平線を区切りに上部分――空の青は、濁りのないカラっとした、強烈な青。
頭の中に浮かぶあの時の景色――それを目にしたときの、普段とは異なる心持ち――清冽な水の流れ、或いは清涼なる風のような一瞬の感銘、感動、煌めき。
己の中の、その新鮮なる驚きの刹那、一面。それをそっくりそのまま、表わす。既に仕上がっていた部分にも手を入れて、新生させる。
自分は今、描いている――という思いがあった。
楽しい――初めて、本格的に絵を描き始めてから、そう感じる。
浮遊するような、覚束ない気持ちの中、ついに、俺はそれを描き終える。描き終えても、その余韻が続いているのか、世界が妙にクリアに見える。何もかもが新しく見える。何もかもが鮮やかに見える。アンテナが開きっぱなしになっている。
「――――」
ふと、その剥き出しの心が何かの予兆を感じ取って、隣を向く。
――零子がいた。
当り前のことだというのに、俺はその時、そう思ったのだ。
そして、風が吹いた。ざあっと空気がざわめき、クリーム色のカーテンがはためく。風に流されて、零子の長い黒髪が宙に舞う。零子は突然の強い風に、暴れる髪をおさえて、怯えるかのようにぎゅっと目を瞑っている。
しばらくして風がおさまったあと、恐る恐るといった調子で、その瞼が開かれる。
全ての光を吸い込んでしまいそうな、黒く大きな瞳。白い肌の中、それは一際強く目立ち、見る者の目を否応なしに引きつける。
何を考えているか分からない、感情が読み取れない黒目。
無機質で――だから、綺麗。
その目が、俺を捉え、俺はその目を捉える。
目が、合った。
――ああ。
頭の先から足の先まで、雷に打たれたような衝撃が貫く。
その光景は、この瞬間は、それで一つの絵だった。これまで見てきたどんな絵よりも、これまで描いてきたどんな絵よりも、比べものにならないほどの美だった。
絵におこすことさえも、無粋であるように感じて。
だから俺は、きっと、自分はこの光景を描くことは一生ないだろうと思った。
これから先、この刹那は、永遠に俺の心に巣くうだろうから。
脳裏に焼き付いて、きっと離れない。
――この一瞬が、おそらく、生涯で唯一の、俺が心に描いた美だった。
「お腹……空いた」
自分を見続ける俺をどう思ったのか、不思議そうに首を傾げた零子は、やがてぽつりと呟いた。その言葉に、たった今感じていたあらゆるものが俺の中から急速に失われていった。
次いで、きゅるる、と小さく零子の腹の音が鳴った時には、完全に消え失せてしまっていた。
「ったく、お前は……」
思わず溜め息が出る。零子はそんな俺に構わずカンバスに向き直ると、しばらく見つめた後で、おもむろにイーゼルから外し、一枚目のカンバスの隣に並べた。
「なんだよ、それも気に入らなかったのか?」
「……うん。ぜ、全然、だめ」
こいつには珍しく、どこか苛立っているようだった。親指の爪をカリカリと噛んでいる。
「とりあえずコンビニに昼飯買いに行ってくるけど、お前はいつものレーズンパンでいいか?」
「だ、大丈夫」
ポケットをごそごそやって、五百円玉を差し出してくる。
「お前、いい加減財布持てよ」
「い、いいの。必要、ない」
「……さいですか」
それ以上何を言っても無駄なのは長年の経験から分かっているので、金を受け取ってさっさとコンビニに向かった。途中、まるでそれが当然であるかのような自然な流れで、俺が零子の分まで買いに向かうことになっている辺りが来栖に揶揄される原因なのだということに気付いたが、今更だった。
昼食を買って戻ると、零子は呆然とした顔で俺の絵を見つめていた。扉を開けて中に入って来た俺に気付くと、その顔のまま、俺に目を移す。
「――――」
零子は何かを口にしようとして、しかし、すぐに諦めたように俯いた。
「……なんだよ。何か文句でもあんのかよ」
こいつは昔、自分のように上手く絵を描けず悔しがる俺を見て、勝ち誇ったようにニヤリと不気味な笑みを浮かべたりするような底意地の悪い根暗ガキだったので、そして多分、今でもそんな部分が残っているので、何か言われるのかと思ったが、どうもそういった雰囲気でもないようだった。
「……お、置いて……か、ない、で……よ」
俯いたまま、ぼそぼそと零子は喋る。
「あ? なんだって?」
「とお……い。どう、して……どうして、そ、そんなに……」
きゅっと拳を握ると、零子は突然立ち上がった。
「おい、どうしたよ? 具合でも悪いのか?」
「……かえ、る……」
顔を上げずにそう言うと、鞄を引っ掴んで早足で俺の脇をすり抜けて行こうとする。俺は慌ててその肩を掴んで引き止めた。
「いきなりなんだってんだよ、お前。調子が悪いんなら、そう言えば――」
「っ」
零子は身体を捩らせて俺の手を外すと、強引に出て行こうとする。
「――ったく、分かったよ。分かったから、何もきかねえから、飯と釣りだけは持ってけ」
こちらを振り向かせて、その手にパンと小銭を握らせる。それで、何気なく視線を上げて、ぎょっとした。
「…………」
零子は、泣きそうな顔で俺を見上げていた。その目は、まるで俺を責めているようにも見える。
だが結局、零子は何も口にせずに、再び俯くと、心なし肩を落として部屋を出て行った。
「……いつものことと言えば、いつものことだがな」
何となく、違和感があった。今までのあいつの不安定さとはどこか異なっているような……。
俺が一人首を傾げていると、来栖が戻ってきた。
「上木田、どうしたんだい?」
途中で行き会ったのだろう、廊下を振り返りながら俺に問うてくる。
「なんだか、妙に落ち込んでいたようだったけど」
「さあな。さっぱりだ。飯を買いにちょっと出て戻ってきたら、もうあんな風になってたよ」
コンビニ袋を持ち上げて、肩を竦める。
「俺の絵を見てたようだが、まさかそれでああなるとも思えないしな」
「沖澄の? 例の街の絵かい? 完成したのか」
「ああ」
親指で、こちらからだと裏側になってしまっているカンバスを指し示す。来栖はどれどれ、と例のニヤケ面でその向こうに回り込み――その笑みを、唐突に消した。
「…………」
ちょっと驚いたように目を見開いて、それから食い入るように絵の端々まで視線を走らせる。美術室の中の空気が、ぴんと緊張したものに変わる。思わず、俺もごくりと喉を鳴らしてしまった。
――その後たっぷり五分間、来栖は俺の絵を見続けた。
「……時々、いるんだよなぁ」
絵から目を離すと、来栖はふうっと大きく息を吐いて、ぼやくようにそう言った。
「ある日突然さ、なにかを掴んで、それまでとはまるっきりレベルの違う絵を描き始めるやつってのがさ。ドラクエで言えば上級職にクラスチェンジしたみたいな、ね」
「いくら何でもその例えはねえだろうよ」
「これ以上に分かりやすい例えなんてないよ。特に遊び人から賢者への転職なんかさ」
来栖はよいしょ、と爺臭い言葉を吐くと、行儀悪く作業台に腰掛けて、煙草を咥えた。躊躇なく火を点け、大きく吸い込む。
「まぁ、これを見ちゃったんなら、上木田のあの様子も頷けるね」
煙を吐き出しながら、気怠そうに告げる。
「……どういうことだよ?」
「どうもこうもないさ。正直、僕だってクるものがある。沖澄は自分でこの絵を見て、気付かないのか?」
「気付くって……」
来栖の横に並んで、改めて自分の描いた絵を見てみる。丘上からあの景色を見た時の、刹那の記憶・気持ちが、そのままに描かれていると思う。俺の認識、観方が、完全に復元されている。
「それが当り前に見えているんだとしたら、やっぱり君は……違うんだろうね。僕らとは、違うんだろう。――当り前に世界をそんな風に見ることが出来るなんて、ね」
「…………」
「気付いていないようだから教えてあげるけど、沖澄、君の描いたこの絵はね、上木田の描く絵とは正反対なんだよ」
「正反対?」
「そう。真逆の絵なのさ。上木田は人の内面――特に己の内面をひたすらに、えぐり取るようにして描いている。自分の願望や苦悩や、己から付随するもの、または他の事物の中に己が抱えるものを見出し、絵にぶつけている」
確かに、その通りだ。人間としての、圧倒的な弱さ――それが、あいつに見る者の心を震わせずにはいられないエグイ絵を描かせている。
「だがね、沖澄のこの絵は違う。これは、人の外側――世界の在りようを、その生命力を、生の躍動を、見事に捉え、描ききっている」
「そりゃ、褒めてる……んだよな?」
「もちろんだとも。こうなってくると、下描きの段階では欠点にも思えたこの平凡な構図も、素直さという美徳になってくるね」
「あんたにストレートに褒められるってのは、むず痒いな」
多分、来栖に指導されるようになってから、これが初めてだろう。
「こういう生き生きとした絵を描けるということは、沖澄が世界をこのように見ているということだ。これまでよりもより高い次元で物事を俯瞰出来るようになったんだろう。つまるところ、人間的に進歩したというわけだ。――だからこそ上木田はショックを受けたんだろう」
来栖は自嘲するように口許を歪め、
「世界にまで目を向けることが出来て、かつそれを美しいものと見ることが出来る沖澄が、羨ましいんだよ。――上木田は」
そう、告げた。
それで、理解した。
ああ――そうか、あいつは。
ふと、またあの七夕の夜、笹に吊るされた短冊のことを思い出す。
――もっとちゃんと、生きられますように。
「――そんな風に生きられたら、どれほど良いだろう」
疲れたような顔で、来栖は俺に言う。
届かないものを見るかのように。
そんなものに手を伸ばすのは、もう諦めてしまったとでも言うかのように。
そんな来栖は、まるで老人のように草臥れて見えた。
その日、帰り際にアトリエに立ち寄った。
しかし、窓から中の様子を窺っただけで、足を踏み入れはしなかった。
必死という形相が相応しい顔でカンバスに向かう零子の姿が、何もかもを拒絶しているように思えたからだ。
ブツブツと小さく何かを呟きながら、叩きつけるように筆を走らせていた。
そのちっぽけな背中は妙に縮こまっていて、この広い世界で、まるでひとりぼっちであるかのようだった。
*
それからの数日間は、零子と顔を会わすことがなかった。来栖は用事があって学校に来ることが出来ないと聞いていたので、自宅でいつもより多めに受験勉強をして、それ以外は絵のモチーフを捜しに街を歩き回っていたからだ。
来栖に褒められたから――というわけでもないが、あの丘の絵を描いていた時の感覚が忘れられず、何となく自分にはそうした実際にこの己の眼で見た光景、空間を描くのが合っているんじゃないかと思ったのだ。
カンバスや折りたたんだイーゼルなどの絵画道具を抱えて、燦々と輝く太陽の下をさ迷ったのだが、どうも今ひとつピンと来るものがない。いっそ、もう一度あの丘に登ってみるかとも思った。世界は移ろいゆくもの――その一瞬一瞬で刻々と姿を変え、決して一時たりとも同じでいることはない。だからこそ、例え同じ場所から見る景色だって、以前とはまた異なったものを俺に感じさせてくれるはずだった。
しかし、それも何となく乗り気になれなかった。もっと――もっと狭い意味で、今しか描けないものがあるように思えた。一日中歩き詰めでくたくたになって家に戻り、自分の部屋のベッドに寝そべって考え込むことしばし。
――学校。
何の脈絡もなしに、その言葉が心に浮かんだ。そしてそれを認識した瞬間、これしかないと思うようになった。
あと半年足らずで俺も卒業する。だったらその前に、あの学校が過去になる前に、切り取っておきたかった。学校にいる間にしか描けない内から見る学校の風景を、「今」を描いておきたいと思った。
そう決めると、不思議といつになく心が高揚するのを感じた。期待感――とでも言えばいいのだろうか、心の奥底で何かが沸き立つような感覚。
「……そういやここのところ顔を出してなかったから、行ってみるか」
何となくあいつのことが気になって、ベッドから身体を起こした。既に日は暮れている。だがそんなことは関係なしに、今もきっと絵を描き続けているのだろう。
部屋を出て、上木田宅に向かいながら、俺はとりとめもなく昔のことを思い出していた。
思えば、俺はこれまで絵を描くということに喜びを見出したことなんて、殆どなかった。
理由は明白。すぐ近くに、天才が――化け物がいたからだ。
隔絶した才能を持った人間がいたのだ。努力すれば――とか、何れ――とか、そんな言葉なんて霞んでしまうほどの、無力感さえ覚えてしまうの、人間が。
苦痛でしかなかったと言ってもいい。
初めはそうじゃなかった。最初は――根源は、絵を描きたいという気持ちじゃなかったからだ。だから、絵の出来に何かを求めるということなんて、なかった。その頃の俺にとって、絵は手段であって目的ではなかったのだ。
それでも意地で描き続けている内に、いつしか、どっぷり首まで浸かってしまっていた。そうなって初めて――絵描きになって初めて、あいつの絵の価値が分かるようになった。
自分では到底届かない。届けない。或いは、届きたくもない。
そう思っても、その凄さには打ちのめされて。
身体中を掻きむしりたくなるような、二律背反のどうしようもない衝動に襲われて。
そして。
…………。
俺はあいつをどうしたかったのだろう。あいつに何を求めようとしたのだろう。俺は、どうしたかったのだろう。
「どうして――」
そして口から零れ出るのは、いつもの言葉。
何かを問う言葉。
決して答えの返ってこない、疑問の言葉。
「……ふん。馬鹿馬鹿しい」
首を振って、頭からろくでもない考えを追い出す。
そうしてから、自分が既にアトリエの前に立っていることに気付いた。小さく溜め息を吐いて、足を踏み入れる。
「――――あ?」
一瞬、思考が停止した。思考能力が奪われて、呆然と立ち尽くした。
零子が倒れている。ぴくりともせず、転がっている。
背筋が、ぞっとした。身体が震えた。気持ち悪い。ぐるぐると視界が回る。
「――ちょ、なに、やって」
わけが分からなくなる。自分がとてつもなく動転しているのだということに、動転する。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!
「なにやってるのは、俺だ……!」
強引に無理矢理に頭の中からいろいろなものを追い出す。大きく息を吸って吐いて、気をしっかり持って、零子に駆け寄った。片膝をついて、横になった状態で倒れている身体を仰向けにさせる。
「落ち着け、よく見ろ、息をしてる。顔色は悪いが、青い、白くはない。傷だってどこにも見当たらない」
考えていることをわざと口にして、自分に言い聞かせる。
「――大丈夫、生きてる」
その言葉を無意識に呟いて、それで、自分がどうしてこんなにも動揺していたのかを悟った。
いつか、そんなことになるんじゃないかと、多分、心のどこかで、俺は恐れていたのだ。
「くそ……おい、零子――零子」
軽く頬を叩いてみるが、反応はない。救急車――という言葉が浮かび、ポケットを探るが、すぐに携帯は家において来たことを思い出す。舌打ちをして立ち上がると、アトリエを出て母屋に向かった。そこで諒子さんたちに事情を話し、救急車を呼んでもらう。
電話を掛けている諒子さんより先に一郎さんとアトリエに戻り、待つことしばし、あのどこか不安感を煽るサイレンを鳴らして救急車は到着した。救急隊員が力強い足取りで中に入ってきて、零子を担架に乗せて運んでいく。
そうして、諒子さんと一郎さんは付き添いで同乗し、俺は一人でその場に残った。二人とも、病人である零子以上に顔面を蒼白にしていた。諒子さんは零子の力ない手を祈るように握りしめていて、一郎さんは何かを堪えるように口の両端にぎゅっと力を込めて零子を見下ろしていた。
「ちょっと、栄、どういうこと?」
救急車を見送っていた俺のところへ、サイレンの音に様子を見に来ていたお袋がやってきた。
「いつもの如くあいつのアトリエに行ったら、倒れてた。それよりもいいところに来た、お袋」
俺はお袋に頼んで車を出してもらって、おそらく零子が運び込まれただろう病院に向かった。この辺りで夜間の救急医療を行っているのは一つしかないから、迷うこともなかった。
そこで一郎さんに聞かされたのは――過労ということだった。
「ここのところ食事量も減っていたし、以前よりアトリエに篭もる時間が多くなってきていたから、心配はしていたんだがな」
病院に備え付けの自動販売機に小銭を投入しながら、一郎さんは言った。ボタンを押すと、機械の中でカタンと微かに紙コップが落ちる音がして、次いでジャラジャラと氷が落とされる音が響く。
「結局、ああなる前に止められなかった。……駄目だな、私は。父親として、失格だ」
大きな溜め息を吐く。自動販売機の明かりに照らされた一郎さんの横顔には隠しようもない疲労感が滲んでいた。がっくりと肩を落として項垂れているその姿は、普段の毅然としている一郎さんからは想像も出来ないほどに、小さく見えた。
「零子の容態は、どうなんです?」
「点滴を打ってぐっすりと寝ているよ。とりあえず明日一日は入院して様子を見て、それから退院させるかどうかを考えるそうだ」
一郎さんは、販売機の中から出来上がったアイスコーヒーを取り出し、「栄一郎くんも、飲むかい?」と訊いてきた。そう言われて、初めて俺は自分の喉がカラカラに乾いていることに気付いた。
「すみません、頂きます」
ちゃりちゃりと一郎さんが小銭を入れて、俺はレモンスカッシュのボタンを押す。
「…………」
しばらく沈黙が続き、販売機の音だけが辺りに響く。
「床に倒れているあの子を見たとき――」
取り出し口をじっと見つめながら、一郎さんが口を開いた。
「一瞬、目の前が真っ暗になったよ。最悪の事態が起きたんじゃないかと、思った」
一郎さんの言わんとしていることは、俺にもよく分かった。
「どうしてだろうな。普通なら、病気か何かを心配するものだろうに、最初に私が考えたのは――」
その後を一郎さんは口にはしなかった。というより、出来なかったのだろう。一度それを言葉にしてしまえば、現実となってしまうのではと、恐れたに違いない。
本当に――よく分かる。
「漠然と、あの子の最期はそうなのだと、思いこんでいたのかもしれない」
「俺も……思いましたよ。どうしてなんでしょうね。今まで、あいつがそういった事件を起こしたり、気配を見せたことはなかったんですけどね」
また、その言葉だ。
あいつを語るとき、いつもその言葉が付きまとう。
「…………」
再び、沈黙が流れる。
そして、今度はそれが破られることはなかった。
破るには、余りに重すぎたのかもしれない。
一郎さんたちより先に家に戻った俺は、アトリエにやって来ていた。動転していて家のことをほったらかしにして出てきてしまった一郎さんたちの代わりに戸締まりを任されたからだ。預かった鍵で玄関の鍵を施錠すると、それをポストに放り込んで、最後にアトリエに来た。
部屋の中央に立てられたイーゼルには、倒れる前にあいつが描いていたのだろう絵が掛かっていた。
――見た瞬間に、胸を突き刺されるかのような、正体不明の痛みが走った。
ずきん、ずきんと傷口が痛む。
絵は、学校の教室を、後ろの出入り口から覗いた時に見える光景を描いたものだった。
ただし、その教室には誰もいない。黒板には数列が書かれ。授業の真っ最中といった雰囲気があるのに、人は誰も居らず、空席だけが並んでいる。
しかし、その中央の席には、人でないものがいた。人の影だ。のっぺりとしたその黒い影は、中央の席に座り、俯いているように見える。表情など何もないのに、酷く寂寥感を感じさせる姿だった。
「……俺が、追い詰めたってのか?」
この前の来栖の言葉を思い出し、呟いた。
だがここに、その問いの答えを持つあの似非教師はいない。
俺以外の誰も、いないのだった。