2:ひとりはいやだと彼女は言う
そして今日もまた、俺はやつを起こしにアトリエに向かう。零子はいつもと同じように、身体に何も掛けず、ベッドの上で胎児のように丸くなっている。そいつを起こす前に、俺は昨夜描いていたのだろうカンバスに目をやった。
昨日と同じ対象――イカロスの墜落をモチーフにしたのだろう下描き。前日のそれとは切り口を変えて、イカロスが目指しているのは何故か夜空に浮かぶ月で、その背中に背負っているのは、蝋ではなく本物の翼。
幻想的――というのが相応しい絵だった。だが一方で、端々から奇妙な切実さ、現実感が漂ってくる。
「このイカロスは、自身が目指す場所にたどり着けたのか?」
いつものように零子を蹴って起こすと、俺はそう訊いた。寝ぼけ眼の零子は、子供みたいに両手でごしごしと目元を擦ると、赤く充血した目を俺に向けて、不思議そうな顔をする。
「ま、まだ、分からないよ」
目眩がするような答え。
世界の見え方が違う。思考の仕方が違う。認識の仕方が違う。
絶望的なほどに、位相を異にしている。
「そうかよ」
意図せずに冷たい言い方になってしまい、自分でも少し驚く。零子もびっくりしたような顔をして、ちらちらとこちらの様子を窺ってくる。
「別に怒ってねえから、そんなに怯えるなよ」
「う……うん」
安心したのか、稚い顔でにこりと笑う。
――見ていられなくて、顔を逸らす。
「んじゃ、外で待ってるから、さっさと着替えてこい」
そう言い残して、アトリエを後にした。
そして、今日も変わりばえのしない授業が終わり、放課後となる。騒がしくなる教室は、いよいよ引退間近となった部活動に向かおうとする者、進学を目標にして勉強道具を持って図書室なり学習室に向かおうとする者、就職組、或いは進路など全く考えて居らず、去年と同じように遊びに繰りだそうとする者、様々だった。
うちの高校では、進学組と就職組はおよそ半々の割合で存在しているので、三年の夏というこの時期になっても活気が失われることがない。
その中、俺はこれまでのように、真っ直ぐ美術室に向かう。芸大を志望する俺にとって、実技科目でもある絵は筆記試験と同じか、それ以上に重要な事柄だ。受験だからといって、疎かにすることなど出来るはずもない。
美術室の扉を開けると、やはりこれもまたいつものように零子が先に来ていて、俺の出現に驚く――というようなことは、今日はなかった。窓際のスツールの上でちょこんと窮屈そうに体育座りをして、膝の上に顎を乗せて、目の前の何かに夢中になっているようだった。こちらに背中を向けているため、それが何か分からず、傍に寄って後ろから覗き込む。
卒業生の制作物だろうか、木の枝やどんぐり、竹串で作られた、如何にも「工作」といった感じのヤジロベエだった。それを人差し指の上にのせて、ぶらぶらと揺らしている。余程それが面白いらしく、僅かに口許が緩んでいた。時折、ヤジロベエの動きに同調するように自分の身体も左右にゆらゆらと動かしている。
どうやら、それに夢中になる余り外界の情報を遮断してしまい、俺の登場にも気付かなかったらしい。
「おい」
頭の上から声を掛けてみるが、反応はない。完全に自分の世界に入り込んでしまっている。さて、どうしたものかと思案していると、背後にふと気配を感じた。
「スイッチが入っちゃったみたいだよ。僕もさっき声を掛けてみたんだけど、悉く無視されちゃったよ。胸とか触っても気付かなそうだよね」
「あんた、まさか」
俺は、姿を現わした白衣の変質者――来栖に疑念に満ちた視線を向ける。
「おいおい、僕がそんなことをするわけがないだろう。これでも歴とした教師なんだ、最低限の倫理観は忘れちゃいないぜ」
「最低限かよ。つーか、あんたがどの辺りにその主観的なラインを引いているのかを聞くまでは、この疑念は晴れないんだけどな」
「あっは。少なくとも無抵抗をいいことに教え子の身体をまさぐるという項目はラインの内だよ」
「まさぐるとか言うな。あんたが言うと妙に生々しい」
「いやいや、そんなつもりはないんだけどな。――まあ、僕のことはともかくとしてさ、君、沖澄はそんな風な気持ちになったことはないのかい?」
ちら、と零子を見やり、言う。頭の上でこんな会話をされているのに、全く気付いた様子もなく、ゆらゆらと揺れている。体育座りをしているので、スカートが捲れて、その病的なまでに白い太股が露わになり、ほんの少しドキリとさせられる。
「――なるわけがねえよ」
そこから視線を引きはがして、吐き捨てる。
「ふむん? 彼女は例え意識がある時に君が迫っても拒んだりはしないと思うんだけどね」
「だから――」
「それでも沖澄は彼女を抱こうとはしないのだろうね。それは彼女の為なんだろうか、自分の為なんだろうか……っと、おいおい、そんなに殺気立たないでくれよ。ただの戯言だろう」
「……ちっ」
俺は握っていた拳を解くと、もう来栖も零子も放って、描くための準備を始めた。イーゼルを組み立ててその上にカンバスをのせる。
以前描いた風景のデッサン――というか下描き。隣町にある丘の天辺に登って描いた、見下ろす形となる町並み。青い空の下、最近成長しつつある街がずっと向こうまで広がっており、その更に向こうに、空の青とは異なる青――海が広がっている。
ひとまず昨日のアグリッパで俺個人としてはデッサンは満足したので、当面は、これを油絵の具で仕立て上げることを目標とする。
「しっかりとモチーフを捉えた、なかなか良い構図だ。しかしその分、生真面目というか、面白みがないというか、どこか平凡な印象を受けてしまうね」
腰を屈めて後ろから覗き込んで、来栖は評する。悔しいことに、言い返すことが出来ない。確かに自分でもそう思うからだ。優等生――といった雰囲気が、そこかしこに漂っている。
「沖澄の性格とはまるで違った絵だ。或いは、この絵こそが君の本質を表わしているのかもしれない。まあ、沖澄は意外に几帳面なところがあるからね。親に頼まれたからといって、複雑な気持ちを抱いている幼馴染みを毎朝起こしに行くような、ね」
もう少し、はっちゃけてもいいと思うんだがな――昨夜、弟に使った言葉がふと思い浮かんで、自嘲する。
「または――啓司くんと同じなのかな。型にはまらない無頼な先達を持つと、後輩はその影響で妙に型にはまった良い子ちゃんになってしまうものだからね」
「――かもな。それは否定しねえよ」
隣でいまだにヤジロベエを見つめている女から影響を受けない人間なんて、いるはずがない。誰だってこいつの描くものを一度見れば、それに呪縛され、意識せずには居られなくなる。
それに、そもそもが。
俺が絵を描き始めたのだって、こいつの影響があったからだ。
こいつがこんなだから――俺は、絵を描いて。
少しでも。
……いや、どうでもいいことだ。もう、今となっては。
「そういや、もう少し青系の絵の具が欲しいんだけどよ」
下塗りの準備を始めながら、それとなく、俺は言う。
「……また僕の具材をかっぱらおうって魂胆かい。まぁ、他ならぬ可愛い生徒の頼みだ、無碍にはしないけど。……どこの?」
「ルフラン」
来栖の顔が苦々しいものに変わる。久しぶりにあのニヤケ面を歪ませたことで、胸がすっとする。
「……確かにあのメーカーは青系が豊富だけど、あんまり、公務員の安月給を甘くみないで欲しいね」
やれやれと溜め息を吐く。
「学生は学生らしく、マツダとかホルベインとかの安価なものを使っておけ――と言いたいところだけど、同じ絵描きである以上、拘りたい気持ちはよく分かるよ。ま、仕方ない。僕のと言わず、懇意にしている画材店からなら半値に近い額で仕入れることが出来るから、一通り揃えてあげるよ」
よしっと、心の中でだけガッツポーズ。
――が。
「ただし、半分はそちらが持つこと。さすがに全額出す程甘い人間じゃないよ、僕は」
「……まぁ、いいだろう」
「なんで君がそんなに偉そうなんだかね」
はぁ、と大げさに肩を落とす来栖。
それだけでも十分に助かる。絵を描く――というより描き続けるには、消耗品が多いため、相当に金が掛かるのだ。
「こういう時には、学校から部費が降りない分、同好会っていう立場は辛いねえ。幽霊部員とかでもいいから、誰かいないのかい沖澄」
「俺にその質問をするのは間違ってるな。あんた、自分でも言ってたじゃねえか」
「そういえば可哀想な子だったね、沖澄は。訊くまでもないことだけど、上木田は――」
と言いかけた来栖は、視線を俺からずらしたところで、苦笑を浮かべる。
「……本当に、行動が読めない子だね、この子は」
零子は、いつの間にか絵の準備を終えて、描き始めていた。木製のパレットを膝の上にのせ、下描きも下塗りもなしに、いきなりカンバスにナイフで絵の具を塗りたくり始めている。
「十年以上も腐れ縁でいる俺が分からないんだ、他のやつに分かられてたまるか」
「お、所有欲かな? 或いは独占欲?」
「知らねえよ」
あのニヤケ顔が舞い戻ってきたのを見て、俺も絵に専念することにする。溶き油で水っぽくした絵の具で全体に薄く、大まかに塗っていく。そうやって時折来栖からの指導を受けて、下塗りを終えて、本格的に描き込み始めたところでお開きの時間になった。見れば、零子も区切りのいいところまで進んだらしく、来栖に技術上の問題点を幾つか指摘されていた。描いている最中に言っても無駄なため、こうして描き終えた後に指導を受けるのが、通例となっていた。
「おい、お前髪に絵の具が付いてるじゃねえかよ」
指導を終えたところで、ふと気になったことを言う。もっそりとした髪の毛を掴んで目の前に持っていって見せてやると、零子は「ああ」とか「うー」とかよく分からない言葉をもぐもぐと呟く。
「トイレに行って、整えてこいよ」
俺がそう言うと、零子はぶんぶんと首を振った。
「い、いい。必要、ない」
「つったってなぁ、一応お前も女なんだから、そういうところは気にしとけよ」
「い、いい。必要、ない」
機械のように、さっきと同じ言葉を繰り返す。
「何をそんなに嫌がるんだよ?」
「……か、鏡」
「あん?」
「か、鏡を、見たくない。そこに写った自分の姿を、見たくない……から」
言うなり、立ち上がるとあいつにしては精一杯足早にさかさかと部屋を出て行ってしまう。
「……なんだありゃ」
何が気に障ったんだか、さっぱり分からない。
「――僕には、少し、上木田の気持ちが分かるけどね」
声に、振り向く。
「鏡ってのはさ、その人の姿をありのままに――または客観的に写すからね」
来栖は腕を組み、自嘲するような笑みを口許に浮かべて、零子の出て行ったドアを見つめていた。
「客体的な自覚におかれた人間は、大抵、主観的な自己と現実の自己とのズレ、そして理想の自己とのギャップを不快に感じるものだからね。そこがその人間にとって何らかのウィークポイントであるとするなら、恐怖すら感じるんじゃないかな」
「なるほど。それならあいつが鏡嫌いになるのも頷けるか」
話半分だが、何となく納得出来るような気もした。
どうして――。
首を振って、立ち上がる。零子の分まで後片付けをして、俺も美術室を後にする。去り際、来栖に気になって訊いてみた。
「あんたは、どうなんだ?」
「――僕の部屋には、鏡は一枚もないよ」
翌日土曜日、休日。この日も、変わらず空に太陽は輝いていた。入道雲が彼方でもくもくと存在を主張している。夕立になるかもしれないな――と考えながら、午後になって俺は零子のアトリエに出向いた。午前中に勉強のノルマは果たしていたから、絵を描くために、場所を借りようと思ったのだ。
熱気が篭もりにくい作りをしているログハウスの中は、ひんやりとした空気が漂っていて、外の暑さとはまるで無縁の空間のようだった。
「…………」
その外界と隔絶された世界で、主たる零子は、俺が来たことにも気付かず部屋の中央に設置されたカンバスの前に座って、黙々と筆を走らせ続けていた。傍に寄って覗き込む。
――例の月を目指すイカロスだ。油絵。もう完成間近のようで、筆を使って細かいところを描き込んでいる。
俺は壁際のベッドにまで下がって、その光景――零子を含めたこのアトリエの全部を俯瞰するように眺める。ベッドに腰を下ろすと、ふと、懐かしさを感じさせる甘い匂いが鼻先を漂った。
――ああ。あいつの匂いだ。
「――――」
そう思った瞬間、不意に、はっとした。幼い頃から散々見てきた目の前の光景が、唐突に、これまで目にしたことのないような何かに感じられたのだ。
匂い。想起されるイメージ。目の前の現実の光景。
ぐるぐると頭の中をそれらがまわって、衝動がこみ上げてくる。咄嗟に辺りを見回した。ベッドの傍に、何も描かれていないカンバスが一枚、転がっているのに気付く。それを引っ掴むと、膝の上にのせて、これまた近くの床に転がっていた木炭を拾うと、ガリガリと描き始めた。
突き動かされるような感覚。滅多に感じられない、昂揚。
閃きを受けて、俺は自分でも驚く程の速度で描き上げていく。途中、零子に何かを言われたような気がしたが「黙ってそこに座ってろ!」と叫んで、日が暮れ始めるまで、描き続けた。
石膏像、いくつものイーゼル、カンバス、画板、テーブル、その上に散乱している絵の具、筆、油壺、パレット、果物。本棚、乱雑に収められたいくつもの絵画集。床に無造作にページを開いたまま放置されている大きな図版の写真集。何処かから零子が拾ってきたガラクタ――八時十分を示して止まっている時計の文字盤、奇妙にねじれた一抱えほどもある木の枝、天頂部分が砕けたヘルメット。
それらの中心に存在し、カンバスに向かう幼馴染みの背中。その向こう側の窓からは、青い空がのぞき、薄暗い部屋の中に光を差し込ませている。
――気付いたら、そんな光景が、描き上がっていた。
「……ふうぅぅぅ」
途端、疲労がどっと押し寄せてきて、カンバスを抱えたままベッドに寝転がった。全身を、自分以外の人間の匂いが包む。
ぎしっとベッドが軋む音がして、天井から横に視線をずらすと、こちらから最も離れた位置――ベッドの端っこにちょこんと腰掛ける零子の上半身が見えた。
「も、もう、いいの?」
「あ? ……ああ。その、なんだ、悪かったな、いきなり」
「べ、別に、いいよ。全然、だいじょぶ」
零子は膝の間に両手を挟んで、ぶんぶんと首を振る。髪の毛が散らばり、その拍子に髪に絡まっていたのだろう、パンくずがこつんと鼻先に当たった。ったく、と呟き、頭を起こすとそれを指で摘んでくずかごに向かって放り投げた。しかし狙いがはずれて、床に落ちてしまった。
――まぁ、いいだろう。今更、パンくずの一つや二つ。
「なぁ、お前さ」
ぼふっと再びベッドに頭を沈ませて、言う。
「進路――っつーより、これから、どうするつもりなんだよ。どう生きるつもりなんだ?」
「…………」
零子は答えない。ただ、俺から見える背中は、少し強張ったような気がした。まるで俺の言葉を拒絶するかのように。
「お前のことだから、どうせ先のことなんて考える余裕なんかないんだろうが、今だけを生き続けることなんて、出来ねえんだぞ」
更に、ぎゅっと力がこもったような、気がした。
「……まぁ、いいけどな。俺はお前がどうなろうと――」
「っ」
関係ない、と言いかけたところで、勢いよく零子がこちらを向いた。
唖然とする。
零子は、泣いていた。ボロボロと、涙を零している。一体、今のどこに泣くようなポイントがあった? さっぱり分からない。……分からないが、それでも零子は泣いているのだった。
多分、俺には分からない理由で、俺には分からない感情で。
「ひ、ひ、ひ、一人、は、い、い、いや、だ、よ」
ひっくひっくとしゃくり上げながら、零子はそんなことを言う。
「一人、は、い、いや、だ……!」
まるで俺を責めるようにその言葉を口にする。でも、俺にはその理由が分からない。悲しみの原因が伝わってこない。だから、何も言えない。何も出来ない。
「わか、分かってる、んだ、から……そんな、こと、分かってる、から」
一人は嫌だと口にして、泣いていて、肩をふるわせていて、けれどこいつは俺との距離を絶対に縮めようとはしない。
その距離が、まるで俺とこいつの間の、決定的な溝のようだと、俺は思った。
「…………」
俺は何も言えず、ただ零子が泣き止むのを待つしかなかった。
「お味の方はどうかしら、栄くん」
スプーンを口から離した俺を見て、諒子さんがそう訊ねてきた。
――あの後、零子が泣き止んだ頃にまるでタイミングを見計らったかのように、諒子さんが姿を現わして、夕飯を食べていかないかと誘ってきたのだ。というか、間違いなく、外で中の様子を窺っていたのだろう。零子の真っ赤になっている目に気付いているはずなのに、何も言わなかったところを考えると。
そんなわけで、俺は上木田家の夕食にご相伴預かっているというわけだ。俺の向かいに諒子さん、その隣に零子の父親である一郎さん、零子は俺の隣に座っていた。
ちなみにメニューはカレー。正直、沖澄家より味は上。
「ええ、美味しいです。結構手間が掛かってますよね、これ。ジャガイモの煮え具合が良い感じです」
「あら、分かるの? 栄くんってば、かゆいところに手が届くっていうか、褒めて欲しいところをちゃんと分かって褒めてくれるわよね。案外、先生とか、そういうのに向いてるんじゃないかしら」
「先生……ですか。俺が、ねえ。あんまり、なりたいとは思いませんけどね」
どこぞの似非教師の姿が思い浮かんで、複雑な心境になる。
「零ちゃんは、どうかな?」
「え……?」
諒子さんは零子に訊ねる。にこりと、微笑みを浮かべながら。けれど俺は気付いていた。その笑みに、少し緊張が混じっていることを。
だから、どうしても、その笑みは作り物じみてしまう。
「カレー、どう?」
「う、うん、お、おいしいと、おもう、よ」
零子の方もまた、ぎこちない態度で答えを返す。そして、すぐに俯いて、まるでそれ以上の質問を拒絶するようにパクパクと勢いよくカレーを食べ始めた。
何とも言えない沈黙が食卓に降りる。
「零子は、そろそろ、進路を決めたのか?」
それまで黙って食事をしていた一郎さんが、沈黙を誤魔化すように口を開いた。諒子さんがハッとした顔を向けるが、一郎さんは気付かない。
「え……い、いや、ま、まだ」
「そうか。しかし、さすがにもう何かしら決めておかないとまずいだろう? 別にはっきりとしたビジョンがないなら、入れる大学に入って、そこで改めて考えてもいいしな」
「う、うん。で、でも……分からない、よ」
俯いて、表情を隠し零子はぼそぼそと喋る。一郎さんは、困ったように諒子さんと顔を見合わせ、諒子さんが首を振ると、小さく溜め息を吐いてそれ以上は何も訊こうとはしなかった。零子は溜め息を聞くと、ビクッと身体を竦ませる。ますます顔は俯いていき、背中は丸まっていった。
そして、それっきり大した会話もなく、気まずい雰囲気の中、食事は終わりを告げた。
アトリエに戻るなり、すぐさま零子は絵を描き始めた。仕上がっていたはずのイカロスの絵の上から、更に絵の具を重ね塗りしていく。まるで何かから逃げるように、或いは何かを求めるように。
必死と言ってもいいような、鬼気迫る雰囲気を宿したその背中は、孤独だった。
俺がここにいるのに、独りだった。
「…………」
ベッドにごろりと横になって、俺はその姿を眺める。
――諒子さんも一郎さんも、悪い人ではない。零子だって、両親を厭うているわけではない。ただ、この親子の間には埋められない溝が、もしくは越えられない壁があるのだ。食い違っている。掛け違えている。
諒子さんたちは零子のことが理解できなくて、零子はそれに気付いてしまっていて、だがどうしようもなくて、どうすることもできなくて、互いにどういった態度を取れば良いか分からずにいる。
もう、ずっと昔から。
結果、娘の、よく分からない何らかのスイッチを押さないように、繊細過ぎる心を傷つけないようにとしている内に、親子の関係はあんな風に顔色を窺うような形に落ち着いてしまった。
だから、娘の望むものなら何でも買い与えた。絵に興味を持てば、道具一式を買い揃え、本格的にやり始めたら、こんなアトリエまで建ててしまった。
これが、あの人達にとっては、愛情の代償行為なのだろう。
「……ん」
そんなことを考えている内に、腹が満たされたせいか、うとうとしてきてしまった。瞼が重くなって、いい感じに気持ちよくなってきたところで、人の気配を感じてハッと覚醒する。
ベッドに誰かが腰掛けている。零子かと思ったが、違った。
「啓司か……」
「うん。最近、部活で忙しくて、零ちゃんと顔を合わせてなかったから、久しぶりにね」
弟は、絵を描く零子の背中を、足をぶらぶらさせながら眺めている。
「何でも、お前のとこのサッカー部は、全中も夢じゃないとか聞いたが、実際のところどうなんだ?」
「え? うーん。確かにそう期待されてるけど、あんまり実感はないかなぁ。近隣の学校と試合をしたって、別に大差で勝つわけもないし」
「そのサッカー部のエース様が、よく言うぜ」
「やめてよね、そういう言い方」
怒ったようにそっぽを向く。その横顔や反応がまだまだガキという感じで、思わずニヤけてしまう。
「……相変わらず、零ちゃんの集中力って凄いよね。本当、他に何も見えてないっていうか」
ぽつり、と啓司が言った。
「集中力、ね」
そう言うには、零子の纏う雰囲気は少々狂気じみている。
「確かに、他には何も見えちゃあいないんだろうがな。本当に――どんなものだって」
それは、多分、非常に危うい。
周りが思っている以上に。
結局、その日の零時過ぎ頃になって、ようやくイカロスの絵は完成した。
イカロスは月ではなく、本物の太陽を目指していた。
夜空に浮かぶ太陽だ。
だが、その背に背負っているのは相変わらず本物の翼。
果たして、イカロスは目指す場所にたどり着けたのだろうか。
そう訊ねても、零子は何も答えなかった。
月ではなく、太陽を目指すのなら。
きっと、目指す場所にたどり着けたのだとしても、結果は変わらないのだろう。
その最期に待っているものは。