1:上木田零子という少女
じりじりと部屋の中に籠り始めた熱気に炙られるようにして、俺は目を覚ました。
途端、寝間着にしていたTシャツの肌にじとっと張り付く不快な感触を覚え、眉を顰めた。
「――あー……クソあちぃ」
腹に掛けていたタオルケットを蹴飛ばして起き上がると、まずカーテンを、そして窓を開けた。カラっとした青空。その晴れ晴れとした天気に、僅かばかり憎しみを感じる。
また、今日も暑くなりそうだ。
その思いを、さあっと流れ込んできた心地よい風がさらっていった。
――まぁ、昨日よりは幾分かはマシかもしれない。
そう結論づけると、下着を持って風呂場に向かった。
シャワーを浴びてさっぱりした気分で居間に向かうと、既にそこには親父の姿はなかった。
「親父はもう?」
流し場で洗い物をしていたお袋は振り返ると、頷いて「あんたもさっさと食べちゃいなさい」と言った。
「啓司は?」
「あの子は朝練だとか言って、早くに出て行ったわよ」
このクソ暑いのによくやると俺が零すと、それを聞き咎めたお袋は「あんたと違ってあの子は真面目なのよ」などと言ってきた。
「なら、そりゃ俺のお陰だな。俺が真面目人間だったら、逆に弟のあいつの方がふらふらした人間になってたぜ」
「ま、確かにあんたは良い反面教師ではあるわね」
馬鹿にするようにお袋は笑い、俺にそれに戯けたように肩を竦めてみせた。
「んじゃ、行ってくる」
朝食を取り終えてから、最低限の身だしなみを整えると、薄っぺらい鞄を持って、家を出た。瞬間、脳天に突き刺さるような陽光に、立ち眩む。ぐわんぐわんと視界が歪むのを、しばらくその場に立って耐える。
「くっそあちぃ」
溜め息を吐いて、歩き出した。――と言っても、すぐに立ち止まる。隣家。その玄関口に設置されたインターフォンを押す。
『はいはい』
「ども。栄一郎です」
『あら、ちょっと待っててね』
一分も経たないうちに、玄関の扉が開いて、中から諒子さんが顔を出した。今年で四十になるはずなのだが、相変わらず若い。三十代前半ぐらいにしか見えない。
「ごめんね、栄くん。今日こそはってちゃんと起こしたはずなんだけれど……」
「いえ、分かってますから。大丈夫です。今日もいつもの場所ですか?」
「ええ」
困ったように笑う諒子さんに軽く頭を下げてから、玄関を迂回して、家の裏庭に向かう。そこには、この家が建てられた後で増築された、あいつの二つ目の部屋があった。外に面した窓の一つを開けて、靴を脱いで中に上がる。
途端、つん、とあの独特の、だが嗅ぎ慣れた匂いを感じた。
絵の具の匂い。
中をぐるりと見回す。。木造。ログハウス風の造り。天井は吹き抜けになっていて、如何にもといった雰囲気を出している。そして部屋の中には、様々な石膏やカンバス、その他雑多な美術用品が散らばっていた。
そこは、アトリエだった。あいつの為だけに作られた、あいつの為だけのアトリエ。あいつの空間そのもの。
その部屋の片隅、押しやられるようにして置かれたパイプベッドの上に、この空間の主がいた。まるで何かから身を守るかのように、自分で自分の身体を抱きしめ、膝を曲げて、ダンゴムシのように丸まっている。
この暑さだというのに汗一つかいておらず、その肌も相変わらずの不健康そうな青白さで、そいつからは生気といったものは殆ど感じられなかった。
――まるで死体のようだ。
そう思ってしまう。上はキャミソール一枚、下はショーツだけという、よく考えれば健康的な男子高校生の目にとっては毒の如き扇情的な姿だというのに、性的なものを全く感じないのは、多分、それが原因なのだろう。
「――まぁ、見慣れてるってのもあるんだろうけどな」
幼馴染み。腐れ縁。もう数え切れない程何度も、こんな朝を経験している。
「おい、てめぇ、いい加減起きろよ」
寝息も立てず、それこそ本当に死体であるかのようなそいつの脇腹を、俺はげしっと蹴った。
「…………」
しかし反応はなく、仕方ないので、げしげしと何度も蹴っていると、
「……ん……や、やめて、よ。け、蹴らない、で」
ようやくそいつは目を覚ました。それで俺を非難するように、じとっとした目で見上げてくる。
「なんだよ、その目は。何か文句でもあんのか? あん? てめぇはこの俺がどうしてわざわざ毎朝こんな面倒なことをやってるのか知ってるよな? どこぞの根暗女が『だるいから』とか『疲れてるから』とかふざけた理由での遅刻を繰り返して、危うく留年しかけたからだよ。で、そんな駄人間な娘を心配した親から直々に『娘を頼む』と世話を頼まれたのが、どんな因果かそいつの幼馴染みだった俺だからだよ」
「い、いやなら、断れば、良かったの、に」
視線を逸らして不満そうに口を尖らせる。
「一体どの口がそんなふざけたことをぬかすんだろうな?」
俺は笑って、そいつの鼻を指で挟むと、ぎりぎりと力を込めて捻った。
「あっ、い、いたっ。や、やめ、ごめ、ごめんなさい」
「……ったく、謝るなら初めからそんなふざけた口を利くんじゃねえよ。おら、さっさと起きろ。こっちはお前の低血圧に構ってやるほど暇じゃねえんだよ」
「……わ、分かってる」
なおも不満げな様子だったが、今度は文句を言わず、素直にベッドから這い出た。そして、相変わらずの猫背でのそのそと歩き出した。ペチペチと裸足が床を叩く音が響く。
「で、昨日は何時まで描いてたんだよ?」
またどこかで寝たりしないように俺も後を追いながら、途中、イーゼルに掛かった描きかけのカンバスにちらりと目をやった。
「……三時、ぐらい」
「そりゃ、ただでさえ低血圧のお前がそんな時間まで描いてりゃ、起きられるわけもねえわな」
「……で、でも、あんまり、上手く、描けなかった」
その言葉に、思わず何かを口にしてしまいそうになって、ぐっと奥歯を噛みしめた。
――これが、上手く描けなかった、ね。
ちらっと目をやっただけで、鳥肌が立つような絵が。
「じゃあ、着替えてくるから、ここで、待ってて」
アトリエと本宅を繋ぐ内廊下で止まって、そう振り向いた。
「とか言って、そのままあっちの部屋のベッドで寝るつもりじゃねえだろうな?」
「う、疑う、なら、別に、ついてきてもいいけど……着替えるところは、あまり、見られたくない」
「んな格好を晒しておきながら、今更だろうがよ」
キャミにショーツ一枚の格好を指摘してやると、ちょっと口を尖らせて、「それとこれとは、違う」と言った。
「まぁ、いいよ。別にお前の着替えなんざ好きこのんで見たいわけでもない。さっさと行ってこい」
しっしと追い払うように手を動かすと、こくりと頷いて、その腰まで伸ばされた妖怪みたいな長さの髪の毛をぶら下げて、のそのそと家の中に入っていく。しかしその直前、何かに気付いたかのように、足を止める。そして、振り返った。
――青白い肌をして、生気が全く感じられなくて、死体のようで。
腰まで、もっさりとした長さの髪を伸ばしていて、どもったしゃべり方しか出来なくて、歩くときはいつも猫背で、けれど。
「……栄くん。ま、毎朝、起こしてくれて、ありがと」
笑うと、とびっきりの美人なこいつは、上木田零子と言って、俺の幼馴染みだった。
到底俺には不可能な化け物じみた絵を描いて、そのくせその絵の価値など全く分かっていなくて、そんなものどうでもいいと思っている、俺にしてみればこれ以上ないほどに嫌味な存在だった。
「お前よぉ――」
アスファルトから立ち上る熱気に茹だるような気持ちを感じつつ歩いていた俺は、隣を歩いていた――はずの零子に声を掛けた。
「な、なに……?」
だが返って来たのは大分後方。いつの間にか、俺から数歩分下がった位置を零子は歩いていた。
「なんでそんな後ろに行くんだよ? 隣を歩けばいいだろうが」
「と、隣は歩きたくないっていうか、その、あんまり近づきたくないって、いうか」
「お前、俺のこと馬鹿にしてんのか?」
そういうつもりがないことぐらい、長い付き合いだから本当は分かっていた。
「……ったく。まぁ、いいけどな」と呟いて、俺はガシガシと頭を掻く。それで、また歩みを再開した。距離関係は変わらないまま。
今更の話だった。まぁ、ただでさえ暑くて苛々しているところに、その鬱陶しい長さの髪の毛を見せられたら苛々が頂点に達して、発作的にその髪を切り落としてしまいそうになるので、その方がいいに決まってるのだ。
ただの、気まぐれだった。
「ご、ごめんね、でも、だめ、なの。誰かが傍にいると、息苦しく……て」
「どんだけパーソナルスペースが広いんだよ。そんなんで、ちゃんと生きていけんのか? 電車だって乗れないだろ?」
「で、電車なんか、乗ったら、わ、私、死んじゃう」
「……お前は本当にそうなりそうだから問題だよな」
前に一度、遠出するためにどうしても避けられずに電車を使ったことがあるのだが、その時は下車するなりトイレに駆け込んで朝飯を吐き出してしまった。他者が自分の傍に近づいてくることに、極度の緊張を感じるのだ、こいつは。例えそれが身内だろうと家族であろうと、他者であるならば、必ず。
「知ってるか、パーソナルスペースってのには、アイデンティティの獲得、プライバシーの維持、他者の攻撃からの防衛なんかの意味があるらしいぜ。つまりお前は自己主張が激しく、プライバシー観念が強く、他人を信じていないっつーことだな」
「……な、なんか、そういう風に、言われると、わ、私が、とても嫌な人間、みたい」
「…………」
敢えてそれには何も答えず、無視して歩き続けていると、ぴっと頭に何かが当たるのを感じて振り返った。すると、俺の視線から逃れるようにして、零子はさっと頭を下げた。いつも以上に猫背になる。
「お前、今何か投げただろ?」
「な、投げて、ない……よ」
「嘘つけやこら。お前は嘘を吐くと挙動不審のレベルが職質を受けかねない域に達するから一目で分かるんだよ」
「う、嘘だよ」
「本当だよ」
視線を忙しなく動かして、もじもじそわそわしているどこからどうみても不審者な女に向かって、そう断言した。
「……ご、ごめんな、さい」
叱られた子供みたいにシュンとしている姿に盛大に溜め息を吐く。
どうして、こいつはこうなのだろう。
「……んで、何投げたんだよ?」
「ぱん、くず。か、髪の毛に、くっついてた、から」
大方、昨夜のデッサンの時に使って絡まってしまったのだろう。そのことに今になって気付くということは、出てくる時に身だしなみをきちんと整えていなかったということを意味している。まあ、そんなものをこいつに期待するだけ無駄なのかもしれないが。
ただ、勿体ないな、と少しだけ思う。
しかし、それでいいのだと、思う自分もいて。
そのままではいけないと思う自分もいる。
「もう少し、ちゃんとしろよお前。……俺が言うことじゃねえのかもしれないけどよ」
「ちゃんとは、したいと、思ってる。お、思ってるけど……」
言葉は尻つぼみに消えていって、零子の頭は益々下がっていって、どんよりとした空気を纏う。それを見て、不意に幼い頃の七夕の記憶が思い起こされた。
うちの親父が近所の藪から伐ってきた笹に、俺と零子と弟の啓司で短冊に願い事を書いて吊るした。俺の願い事は『早く大人になれますように』。啓司は『ごれんじゃーになれますように』。そして零子は――『もっとちゃんと生きられますように』。
あの頃からこいつはそう思い続けていて、願い続けている。
「だったらまず、友達でも作れよ。一人も友達が出来ないとか、ちょっとありえねえから」
「い、いるよ。ちゃんと、いる」
「あん? そりゃ初耳だな。誰だよ?」
どうせお前が一方的に友達だと思ってるだけなんだろうが、とか思いながら言った俺を、零子は上目遣いでじっと恨めしそうに見上げてくる。
「え、栄くんは、と、友達じゃ、ない……の?」
一瞬、その言葉に、思いがけない程の衝動がこみ上げてきたが、堪えた。
「友達、ね。お前がそう思うんならそうだろうさ」
「ち、違う、の?」
泣きそうな顔をする零子に、俺は胸中に巣くう感情を押し出すように、溜め息を吐いた。
本当に、どうしてこいつは、そうなのか。
「違わねえよ。俺はお前のお友達さ」
「……ほ、ほんと、に?」
「しつけえな。友達やめるぞ。……まぁ、なんつーかな、感覚的に幼馴染みを友達と呼ぶのは違和感がないか? 幼馴染みは幼馴染みっつーか」
「なんとなくは、わかる」
のそりと、頭を上下させる零子。
「――まあ、だから、お前ももうちょっと、器用になれよ」
俺がそう言うと、零子はこう返してきた。
「え、栄くんも、友達いないくせに、え、偉そう」
――別に友達が出来ないわけじゃなく、面倒だから作らないのだ。
というのは、いくら何でも負け惜しみのようだったので、口にはしなかった。数学教師が黒板に書き連ねる記号群をぼんやりと見つめながら、俺は、しかしそれもあながち間違ってはいないと思う。
こっちとしては別に拒絶しているわけではないのに、結果として友達が出来ないというのは、やはり「作らない」というのとは少々違うのだろうが、俺自身はそれで別に困っているわけでもないから、積極的にこちらから動こうとはしない。そうすると結果的には周囲との交流が途絶えて、半ば鎖国状態になってしまったというわけだ。
ちなみに、俺が周囲から避けられる理由――なんだか怖い、目つきが悪い、不良(死語)っぽい、近寄りがたい雰囲気を纏ってる、とのこと。何故友人がいないはずの俺がそれを知っているかというと、零子ではない別の第三者に面と向かって聞かされたからだ。それも、にやにやと笑いながら。
「……似非教師め」
あの胸糞の悪い笑みを思い出して、気分が酷く悪くなる。
だが、嫌でも放課後会うことになってしまうのだ。
小さく息を吐いて、窓の外に視線を移す。青い空。白い雲。グラウンドでは、上は白のTシャツ、下は青色のハーフパンツという学校指定の体操着を着た生徒が、この暑さに辟易した様子で、のろのろとした動きでサッカーボールを蹴り合っていた。女子は体育館で別の競技をやっているのだろう、休憩中であるらしい数人が軒下で涼みながら、ぼんやりとそれを眺めていた。
そして彼女らから少し離れたところに、何やら黒い塊が転がっていた。と思ったら、零子だった。仰向けになって、両手を胸のところで組んでいる。その顔に白いタオルが掛かっていて、一瞬、ドキリとする。
大方、運動を始めるなり速攻でバテて、あそこでずっと伸びているのだろう。特に珍しい光景ではなかった。その見た目から推測されるように、あいつは極端に文化系に傾いた人間なので、体力が人の三分の一ぐらいしかないのだ。
地面にばさりと広がった黒い髪の毛はここから見ても暑苦しくて、バリカンで思い切って刈り取ってしまいたくなる。
しばらくそのまま観察していると、休憩していた女子が中に戻り、入れ替わりに体育教師がやってきて、零子に一言二言話しかけた。零子はタオルを外して上体を起こすと、一つ頷き、立ち上がった。そしてふらふらとこちら――校舎の方に向かってくる。
保健室。
「……本当に、生きにくいやつだよ」
一瞬、きらりとした日差しが目に入り、俺は目を細めた。
放課後になり、にわかに喧噪に包まれた教室を鞄片手に後にする。いまだ陽は暮れず空は青いままだったが、昼間に比べれば日差しは大分弱まり、空気も過ごしやすいものになっていた。これから街にでも繰り出すのか、軽い足取りで連れ立って歩くグループや、大仰なセカンドバッグを肩に掛けて部活に向かうのだろう運動部、連れもなしに一人で足早に帰宅を急ごうとしているやつなど、これまで共有していた時間がそれぞれに固有の時間に変わりゆく中、俺は本校舎を抜けて特別棟に向かう。
この時間帯、特別棟をうろつくのはまず文化系の部活に所属している者だけなので、基本的に運動部が多いこの学校では、余り人を見かけない。
その閑散とした校舎を、三階に上る。踊り場から出た廊下を左手に進む。その階の階段から最も離れた位置――すなわち、最奧に俺が目指す場所はあった。美術室と書かれたプレートのあるドアの前まで来ると、中を確認することもなく開け放った。
「…………!」
すると、こちらに背中を向けて窓の外を眺めて立っていた女が、驚いたようにビクッと身を竦ませて振り返った。
「お前はどうして毎度毎度そう驚くんだよ? 放課後にこんなところに用がある奴なんて、俺とお前しかいないって分かってんだろうが」
「そ、そんなの、分かってる、けど」
もごもごと呟いて、そいつ――零子は近くにあった木製のスツールに腰を下ろした。
「目下、美術部――もとい、今年になって人数不足で格下げになった美術同好会にゃ、俺とお前しか所属してないんだからよ、他のやつがこんなところに来るわけねえだろうが」
「こんなところで悪かったねぇ」
俺の言葉にそう返してきたのは、部屋の奥――美術準備室に続くドアから顔を出した白衣の男だった。この男に常態の人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いを顔に張り付けて、口に咥えた煙草をぶらぶらと揺らしている。
「校舎内は禁煙だろうが、似非教師」
「火は点けてないよ。あと別に準備室なら吸ってもまずばれないから大丈夫」
そう言って軽く肩を竦めてみせる、二十代後半の無精髭男。こいつの名前は来栖と言って、うちの高校で美術教師をやっている。俺と零子が所属している美術同好会の顧問でもある。
「ったく、あんたがそんなんだから、美術部からどんどん人が居なくなって、同好会に降格なんて事態になるんだろうが」
「別にそれで誰が困るというわけでもないからね。君らだって本当は他に人が居ない方が、居心地がいいだろう」
見透かしたような口を利く来栖に、俺は言葉を返せない。
「わ、私は、その方が、いいです。き、緊張しないで、すみます」
零子が同意するようにこくこくと頷く。
「おや、誰かさんと違って上木田は素直だね。沖澄も彼女を見習ったらどうだい? そうすればもっと友達もたくさん出来るだろうに」
「余計なお世話だ。あんたこそ、そのねじ曲がった根性をどうにかしないと、寂しい老後を送ることになるぞ」
「おや? 僕は人当たりが良いって評判なんだけどね」
心外だというように、大げさな動作で両手を上げる。
「あんたの周りには上辺にしか興味がない人間が多いってことなんだろ」
「おやおや? 知らなかったのかい、沖澄。人間関係を円滑に保つための秘訣は、他人の上辺しか見ないことだよ。深く知ろうとするのは恋人だけで十分なのさ。――それだって、別に深く知る必要はないんだけどね」
「例えそうなんだとしても、それをわざわざ口にするあんたは、やっぱり性格が悪いんだろうよ」
「核心を突いた考えだと思うんだけどね。本質的に人間は他人には興味がないんだ。年を経れば経るほど、それは際だっていくものでね、他人を気にする素振りっていうのは、結局、他者の中に取り込まれた自己を気にしているだけなのさ」
「そうかい、なら分かるだろ。俺はあんたにも、あんたのその俺理論にも興味がないんだから、もう黙ってくれ」
いい加減、その存在が鬱陶しくなってきていた俺は冷たく言い捨てて、部活の準備を始める。零子は来栖の言葉なんか当然の如く聞き流して、既に準備を終えてデッサンを始めている。
来栖はくくっと喉で笑う。
「いやぁ、沖澄と話すのは本当に楽しいね。だからつい、僕も調子にのってしまう。もっと僕を構ってくれよ。僕は兎並みに弱々しい生き物だからね、寂しいと死んでしまうんだ」
「黙れ、この因幡生まれが。あんたは仲間なんかいなくても強かに生きていくだろうよ」
俺が目も向けずそう言うと、来栖は堪えきれないというように声を上げて笑い出した。
「くくっ……いやぁ、ホント沖澄はいいよ。僕も何だかんだ言ってこの職についてから五年近く経つけれど、今まで君以上に話していて楽しい生徒はいなかったよ」
「そりゃありがとうよ。ちっとも嬉しくないけどな。――それより、そろそろあんたの本分ってのを思い出してもらいたいんだけどな」
準備が整い、零子から少し離れたところに並んで座る。風の入って来やすい位置、窓際で外を背にする。
「ああ、もちろん分かってるよ。何せ僕は美術部――失礼、美術同好会の顧問だからね」
そう言うと来栖は俺達の後ろに回り、デッサンの出来をしげしげと眺める。
――俺はともかくとして、自宅にご立派なアトリエを持っている零子が、この性格の悪い男の居る美術部(当時)に入ったのは、絵を描くための正式な技法を学ぶためだった。
零子が絵を描き始めたのは相当に昔のことなのだが、あいつはこれまでに一度も誰かに師事して絵の描き方を教わったことがない――つまり、独学でやってきていたのだ。しかし高校に入学した頃になると、独学では表現の幅に限界があることに気づき、ようやくきちんと絵について学ぶことを望むようになった。
零子に影響を受けて絵を始めた俺は、かなり早い段階から絵画教室に通って絵の描き方を学んでいたのだが、これに誘っても零子は頑として首を縦に振らなかった。人が多いから駄目なのだという。ならどうするかというところで、当時も部として成立するぎりぎりの人数しかいなかった美術部に白羽の矢が立った。そして「一人では入れない」という零子の切願により俺も半強制的に入部させられてしまった。
で、以後、今に至るというわけである。絵画教室も結局、辞める羽目になってしまった。……余り認めたくないことなのだが、来栖は高校の美術教師にしておくには勿体ないぐらい講師としての能力に秀でていたので、こっちに専念した方が遥かに効率的だったのだ。
「しかしあれだね……上木田は本当に勿体ないなあ。今でもコンクールに出す気はないのかい?」
来栖は零子の絵――俺と同じ木炭デッサンで、如何にも軍人然とした厳めしい顔つきのおっさん――アグリッパの石膏を用いたそれを後ろから覗き込んで、そう言った。
「…………」
しかし零子は答えない。まるで何かに憑かれてしまったかのように一心に木炭を、イーゼルの上に立てかけられたカルトン、更にその上に張られた木炭紙の上に走らせ、軍人アグリッパを――俺が見ているのと同じであるはずの、アグリッパを、描き上げていく。
それは、これがデッサンかとうなり声を上げてしまうような絵だった。極度に抽象化されてしまっているそれは、人物画であるということが辛うじて分かるだけで、年齢も性別も容姿も全く曖昧な状態になってしまっている。
だというのに、奇妙な説得力があるのだ。
デッサンは写実的に描かれるものが多いが、これは結果論であって本来は事物の構造を正しく認識して描き写す力、物事の観方を養うために描かれるものだ。だから、究極的にはそれを描いた人間が描こうとしているもの、描くべきもの、主体、或いは軸、中心といったものが正しく描けていれば、問題はない。
少なくとも俺は通っていた教室でそう教えられたし、来栖も、おおむね同意していた。
しかし零子の抽象的なデッサンには、本人だけじゃなく他人さえも納得させる説得力、強いていうならば、アグリッパの軍人っぽさと言うのだろうか、そういった雰囲気が力強く感じられるのだ。
どれだけ崩されても、損なわれないもの。
絵の本質が、確かにそこにはあるのだ。
ああ――。
ぐずり、と。肩に、とてつもない重みを感じる。のし掛かってくるその圧力を、敢えて言葉にするならば――徒労。俺のしていることは、何の意味もない、単なる徒労なのではないかという思い。疑念。
俺が描く意味が何処にあるのだ、という道を見失った気持ち。
普段からは想像出来ないほどの異様な熱気――生気――或いは存在感を放ち、爛々と獣のように光らせているその目で、零子は一体、何を見ているのだろう。俺に見えない何かを見ているとでもいうのだろうか。
「どうなんだい、沖澄。いまだに、彼女はこの類い希な才能を世に出すことを拒んでいるの?」
何かを描いている時の零子には、どんな言葉を掛けても認識されない。この状態のこいつは、普段している認知とは異なったレベルでの認知を行っている。或いは位相をずらしているといえばいいのか、人間に対するそれを切り捨てて、人間でないものと対話するための認知モードに切り替わっているのだ。
そんなことは三年も付き合いのある来栖のことだから、先刻承知だろう。だから、初めから来栖は俺に訊ねていたのだろう。
ただ俺が、少し呆然としていてそれをくみ取れなかっただけで。
「……相変わらず、目立つのは嫌だって言ってるよ。この前も訊いてみたんだがな、その時は何て言ったと思う?」
――私は、自分の絵で、誰かが喜ぶのを、許せない。
「訳がわからねえよ。絵でぐらいしかこの社会と繋がっていく手段がない重度の社会不適合者だってのに、それを真っ向から否定してやがる。才能があるのに、それを他者に認められることを嫌がってんだよ」
才能は、他者に認められることで初めて、才能たり得るというのに。
「苛々するよ。こいつを見てると、本当に苛々する。それでどうやって生きていくつもりなんだってんだ」
「――今の沖澄は、まるで上木田を殺しかねない目をしているよ」
零子は、俺達の会話なんて聞こえていないように、迷いのない動作で――或いは迷いすらも絵の一部として、自分だけのアグリッパを描き続ける。
「彼女を心配しているのかい? それとも自分が願っても得られない何かを持っている彼女に、嫉妬している?」
「はっ、冗談だろうが。嫉妬なんかするものかよ。――今この次の瞬間には死んでいてもおかしくないぐらいに弱々しい人間になんぞ、誰か好きこのんでなりたいと思うか。その弱さ故に得るものなんだとしたら、そんなもの俺は要らない。俺はこの世界を地獄にするつもりはねえよ」
そう吐き捨てると、来栖は面白がるような、それでいてどこか苦笑するような、奇妙な表情をする。
「そうだね。君には弱い人間のことなんて分からないんだろうね。でもだからこそ、君は僕らみたいのに好かれるのさ。おかしなことにね」
「…………」
俺はその言葉に何も返さず、ただ、黙って、零子の絵を、眺めていた。
陽が落ちて空が薄紫色になった頃、ちょうど零子がデッサンを描き終え、それで今日の部活はお開きになった。道具を片付け、来栖に適当に挨拶をして学校を出た。
騒がしい声を上げながら、同じように家路につく運動部たちに混じって、歩く。
「…………」
零子は相変わらず俺の斜め後ろ――しかも今は他の人間からも隠れるように、道の端っこで顔を俯かせて歩いている。一体、この世界の何がこいつにそこまで肩身の狭い思いをさせるのか、俺には分からない。
「――なぁ、今日来栖に訊かれたんだけどよ、やっぱりお前は、コンクールとかに出品するつもりはないんだろ?」
電車通学組とは道行きを異にして、俺達二人だけになったところで、後ろを振り返って訊いた。零子はちょっとだけ顔を上げると、またすぐに俯いて「……うん」と小さく呟く。
「自分の絵で、誰かが喜ぶのが許せないから?」
「……う、うん」
「どういう意味なんだよ、それ?」
こいつのことだから、描いたら描いたでそれっきりで、自分の作品がどうなろうと、どう評価されようと頓着しないものだと思っていたから、その言葉は少し意外だった。
「だ、だって、腹が立つ、でしょ」
零子は、まるでそれが当然であるかのように話す。
「自分の絵の価値は自分だけが分かっていればいいとか、そういうことか?」
「ち、違うよ。全然、違う」
強く否定するようにぶんぶんと首を振る。髪の毛がばさばさと宙に散らばって、鬱陶しいことこの上ない。
そんなことを考えていた俺に、零子はふざけた言葉を口にした。
「し、失敗作、だから、だよ」
「――あ?」
一瞬、理解出来なかった。
「わ、私が今までに描いてきた絵は、みんな、ぜんぶ、失敗作なんだ、よ」
――多分。
この時、俺は。
本当に、心の底から。
こいつのことを、殺したいと思った。
「なんで……そう思うよ」
「だ、だって、何も変わって、ない。苦しい、まま、なんだよ。辛いまま、なんだよ」
「…………」
「そんなはず、ないんだ。本当に……本当に、ちゃんとした絵を描ければ、きっとそんなものから、解放されるはず、なんだよ」
ぐらり、と目眩がする。紫から橙色に変わりつつある空が、歪む。
こいつは、まだ、そんなことを。
「――絵が、私を救ってくれるはずなんだ」
胸が、ざわざわする。この弱々しい生き物を攻撃したいという気持ちと、それとは別の自分でもよく分からない気持ちが混じり合って、わけが分からなくなって、気が遠くなる。
「き、きっといつか、私は、もっとちゃんと生きられるように、なるはず、なんだ」
真っ直ぐな声に、記憶に残る、あの幼い頃の七夕の夜の、短冊を吊るした時と、全く変わらない切とした顔に、衝動がこの身を焼く。
「――――――」
立ち止まって、勢いよく、振り返った。零子は内面に沈み込んでいて気付かず、そのまま歩いてくる。ぶつかる。目を白黒させて慌てて後退ろうとする零子の、その手首を握って、引っ張った。
「あ、あの……え、栄、くん?」
「…………」
どこか怯えたように、こちらを見上げてくる零子に、俺は身を焦がされる。
焦げ付く臭いが漂ってきそうなほどに。
でも。
「……いや、悪い。なんでもねえよ」
思いの外澄んだ黒目――まるで持ち主の内面を反映したかのような――から逃げるように顔を逸らして、手首を放す。零子は、ゆっくりと手首をさすり、困惑した顔で俺を見る。
「気にするな」
ばつが悪くなって、背中を零子に向けると、足早に歩き出した。「あ……」慌ててついてこようとする足音が聞こえる。
しばらく無言で歩いていると、不意に、ぽつりと呟きが聞こえた。
「……焼けるみたいに、熱い」
どこか浮遊感を感じさせる、ふわふわとした口調、だった。
「……ふぅ」
背もたれに背中を預けてぐうっと両手を伸ばすと、ぎしりと椅子が軋みを上げた。大きく息を吐いて、だらりと両手をぶら下げる。
「まぁ、今日はこの辺にしておくか」
パタンと赤本を閉じて、シャープペンシルをその上に置いた。その表紙には都内の芸術大の名前が記されている。
「……実技はともかくとして、問題はセンターと個別試験だよな。絵ばっか描いてたから、遅れを取り戻すのに大分時間が掛かりそうだわ」
時計を確認する。一時過ぎ。そろそろ風呂に入ってくるか――と考え立ち上がる。部屋を出ようとドアノブに手を掛けたところで、ふと思い出して、窓に向かった。網戸越しに隣家――上木田家の裏庭部分を確認する。アトリエの窓からは、相も変わらず煌々とした明かりが漏れている。おそらく、そうやってまた今日も朝方まで絵を描き続けるのだろう。
何かに憑かれたように。
何かに急き立てられるように。
「そんなんでお前は――これからどうやって生きていくつもりなんだよ?」
俺もあいつも今年で高三。否が応でも「これから」を選択しなくてはならなくなる。物臭で不真面目なこの俺だって、さすがにその選択に向かって準備を始めている。
だというのに、あいつは今も昔も変わらず、ああして絵を描き続けている。
多分、あいつならこのまま試験を受けたとしても、どれだけ筆記の点数が悪くとも、実技で挽回することが出来るのだろう。
しかし、そもそも今のあいつは、そんなことをこれっぽっちも考えていない。未来のことを、展望のことを、先のことになんて、全く気がまわっていない。現在の、今の、目の前のことだけで飽和してしまっている。
「…………」
幼い頃――あいつに出会った時から、もう何度も何度も、事ある事に口にしてきた問い。
どうして――と。
思わずに居られない。
きっと、そんなのはあいつこそが教えて欲しいのだろうが。
「同じ時を過ごして、同じように育ってきて……どうして、俺達はこんなにも違うんだろうな」
――答えられる者はいない。
俺はシャッとカーテンを閉めると、部屋を出た。途中、用を足しに起きてきた寝ぼけ顔の啓司と顔を合わせた。
「……兄さん……勉強……?」
「ああ」
「兄さんでも……真面目に勉強することってあるんだ……」
「俺を馬鹿にしてんのかよ、てめぇ」
「違うよぉ……」
目元をごしごしやって、啓司はおぼつかない足取りで部屋に戻っていった。サッカー部で毎日扱かれているらしい中二の弟は、毎晩夜十時にはスイッチが切れたように寝てしまう。健康優良児だ。
「もう少し、はっちゃけてもいいと思うんだがな」
誰ともなしに呟いて、俺はバスルームに向かった。
今日一日の余分をそぎ落とすために。