12:全てが過去になったあとで、
「それじゃあ、先生、僕はこれで失礼しますよ。今度、時間に余裕が出来たら飲みましょう」
藤堂はそう言うと、軽く会釈をして、撤収準備を始めるスタッフの間をすり抜けて、帰っていった。俺はそれを見送ってから、もう一度絵を見上げる。
ここではない何処かへ。
あいつは辿り着くことは出来なかった。
「沖澄さん」
後ろから掛かった声に振り返ると、スタッフの一人に連れられて見覚えのある中年男と女の姿が目に入った。
「おうおう、誰かと思えば教え子に手を出したどこぞの淫行教師じゃねえか」
にやりと口許を歪めて言った俺に、その中年男はやれやれというように苦笑した。
「相変わらずだねぇ、沖澄。僕は喜んでいいのか悪いのか迷ってしまうよ」
「さてな。俺ぁ、どこまで行っても、相変わらずだよ。変わらねえし、変われねえよ」
俺の言葉を聞いて、中年――来栖の目にほんの僅か、哀切の色が過ぎる。そんな来栖から、隣に視線を移した。
「よう、美馬川。久しぶりだな」
「――久しぶり、沖澄くん。結婚式以来になるかな?」
白いワンピースに黒のカーディガンという落ち着いた格好をした美馬川――現在では来栖という名字になった女は、首を傾げてはにかむように笑った。
「だろうな。来栖とはその後も何度か飲んでるが、お前とはあれ以来会ってなかったからな」
「昔から思ってたけど、本当に二人って仲が良いよね。ちょっと妬けちゃうな」
「ん? そりゃ一体どっちにだ」
俺がにやにやして問いかけると、美馬川は慌てたような顔で「そ、そんなの、決まってるじゃん」と答える。
「……相変わらずというか、何だか昔よりひどくなっているように思えるよ」
俺達のやりとりを見て、来栖が呆れ顔になる。大した余裕だった。多分、この程度ではぐらつくことのない関係を築くことが出来ているのだろう。
まあ、良いことなのだろうと、思った。
「それじゃあ、僕らはそろそろ行くよ。身体に気をつけてね」
「ああ。そっちこそ気をつけろよ」
「じゃあね、良かったら偶には家にも遊びに来てよ」
「来栖がいない時になら、いつでも行ってやる」
来栖と美馬川はおかしそうに笑い合うと、そのまま去って行った。その背中を見送って、俺はやれやれと溜め息を吐いた。今のやつの姿を、高校の時のやつに見せてやりたいものだ。どんな反応をするか非常に興味深い。
何となくだが、来栖はあの笑みを浮かべるのだと思う。
何かを諦めたような、しかしどこかほっとしたような、そんな笑みを。
「沖澄さん、これも外して大丈夫ですか?」
スタッフの声に、顔を向ける。この個展の中で唯一、俺の作品ではないその絵を指して、そいつは俺の承諾を待っていた。少しの間考えて、俺は「……ああ」と頷いた。まだ年若いそのスタッフは、その微妙な間に不思議そうな顔をしたが、すぐに分かりましたと答えて絵に手を伸ばした。慎重な、それでいて迅速な動きで絵を外した彼は、その絵の裏側を見て、「あれ?」と驚いた声を上げる。そして、信じられないというような顔をして、まじまじとそれを見つめた。
「凄い……こんな、どうして……」
震えた声で、呟く。目を丸くしたまま、絵から俺に視線を移す。
「あの、これって……沖澄さんの描いたものですよね?」
「……ああ。大分昔にな」
「どうして、こんな形で」
「それはそういう絵なんだよ。それでいいんだ」
スタッフはそれでも何かを言おうとしたようだが、俺の目を見ると、ハッとしたように口を噤んだ。しょんぼりしたように俯いてしまう。
「……すみません、何か、余計なことを」
「気にすんな。お前は何も間違ったことはしてねえよ」
「……はい」
消沈してしまったそのスタッフは、先程とは打って変わって慎重過ぎるほどの手つきで絵の梱包に取りかかる。だが、すぐに何かに気付いたように顔を上げて、俺の背後を見やった。そして、呆然とする。手元の絵と俺の後ろを交互に見やって、困惑した顔を作っていた。
その視線に気づき、俺も背後を振り返る。
振り返って、硬直した。
頭が真っ白になった。
「――――――」
そこに立っていたのは、セーラー服姿の、中学生ぐらいの年の少女だった。腰まで伸ばされた黒く艶やかな髪は、少女の透けるような白い肌と相まって、ハッと息を呑むほど鮮やかなコントラストを生み出している。
その少女の顔には、見覚えがあった。いや、忘れるわけはない。心に焼き付いてしまっている。
「零子……?」
だが、そうであるはずがなかった。その少女は、酷く屈託のない笑みを浮かべているのだ。年相応の、或いはそれよりも幼さを感じさせる無邪気な笑顔。
そんな子供らしい笑みを、あいつが浮かべたことは、終ぞなかった。
「栄一郎くん……久しぶりだね」
そう声を掛けられて、ようやく俺は正気に返った。そしてその時になって初めて、少女を挟むようにして、中年というよりは老年に近い一組の夫婦が立っていることに気付いた。
「一郎さんに……諒子さん」
二人とも、髪には白い物が混じり始めていて、顔にもその年月を感じさせる皺が幾筋も刻まれている。あの頃と比べて一郎さんの肩幅はすっかり小さくなってしまったようにも見えるし、諒子さんは、少し痩せたような気がする。
「十……五年ぶりぐらいかしらね。栄くんも、もうすっかり大人ね」
上から下から俺を眺めて、諒子さんは穏やかな笑みを口許に浮かべる。
「……そうですね。もう、十五年ですか」
或いは、まだ――たったの。
天を仰いで、とても長かったような、あっという間に過ぎてしまったようなこの十五年間を振り返る。
十五年。それだけ経っても、やはり俺は何でもないような顔をして生きている。あの頃来栖が言っていたように、別段、不幸せを感じることもなく生きている。
ちゃんと、生きている。
心臓が、握りつぶされる苦しさを、感じた。
「……それで、この子は?」
視線を戻して、一郎さんと諒子さんに挟まれた少女を見る。初対面である俺に、にこにこと無防備な笑顔をみせる無邪気な、零子と同じ顔をした少女。俺と目が合うと、少女は一層嬉しそうに笑い、勢いよくぺこりと頭を下げた。
「あの、初めまして! わたし上木田歩実っていいます。わたしも部活で絵を描いていて、だから、パパとママがこんなに凄い人と知り合いだって聞かされて、すっごくびっくりしました!」
――ああ、そうか、やはり。
「十五年……ですか」
「ああ……十五年、だよ」
俺の言葉に、一郎さんは陰のある笑みを浮かべて頷いた。しばらく、何ともいえない沈黙が俺達の間に流れた。それを、少女――歩実は不思議そうな顔で見上げていた。
「あの、この絵、どうしましょうか?」
それを破ったのは、事の成り行きを見守っていたらしい先程のスタッフだった。おそらく、自分の持っている絵が、この場にいる俺達にとって特別な意味を持つものであることに気付いたのだろう。半ば梱包され掛かっている絵を持って、立ち尽くしている。
「そう、だな……。それは、俺が持って帰ることにする」
言って、手を伸ばすと、おずおずといった様子でスタッフは絵を差し出してくる。それを受け取って、一郎さんたちに「少し、どこかで落ち着いて話しましょうか」と声を掛けた。
諒子さんと顔を見合わせて、ゆっくりと、一郎さんは頷いた。
すっかり暗くなった道を歩いて、近くの喫茶店に入った。向かい合って座る。コーヒーを三つ、メロンソーダを一つ頼んで、注文が来るまでの間、一郎さんはぽつりぽつりとこの十五年間のことを話し出した。
最初は地方の田舎に引っ越し、夫婦二人でひっそりと静かに暮らしていたこと。一年ぐらいして諒子さんが身籠もったこと。それから五年ぐらい経って一郎さんの転勤が決まって、都内に戻ることになったこと。
「――ということは、今はこの辺りに住んでいるんですか?」
「ああ。ここから二駅ほど行ったところだよ」
一郎さんが聞き覚えのある地名を口にしたところで、注文の品が届く。俺と一郎さん、諒子さんの前には湯気を立てるコーヒーが、歩実の前にはドギツイ緑色をした液体が置かれる。歩実はアイスが浮かぶそれを見ると、目を輝かせて、嬉しそうにスプーンでつつき始めた。
「君には長いこと何の連絡もせずに、済まなかったと思う」
申し訳なさそうに目を伏せて、一郎さんは頭を下げる。俺はそれを慌てて押しとどめた。
「やめてくださいよ、そんな。あの頃の俺はまともに他人の話を聞ける状態じゃありませんでしたし、それに、一郎さんたちが俺に連絡を寄越さなかった理由も、まあ、分かります」
「……すまない」
「いえ、いいんですよ」
しばらく、気まずい沈黙が降りる。それを誤魔化すようにカップに口をつけ、中身を啜る。ブラックのそれは、いつも以上に苦く感じた。
「記憶は……物に宿るから」
それまで黙っていた諒子さんが、口を開いた。
「あの場所には、どうしてもあの子の記憶が染みついていたし、それ以上に、栄くんにも……」
窓の外の、ひっきりなしに車の行き交うテールランプの洪水を眺め、呟く。つられて、俺もそれを見た。夜だというのに、この辺りはちっとも光を失わない。人工の光は絶え間なく夜空を照らし続けている。
「でも、こうして俺に会いに来てくれたということは、もう……?」
「……ええ。そろそろ、いい加減にちゃんとしないと、と思って」
――完全に、あの頃が押し流されてしまう前に。
小さな声で、諒子さんはそう続けた。
「栄一郎くんが絵描きになったということは、以前から人づてに聞いて知っていたからね」
「……それって、もしかして」
「え、ああ、まあ、その、多分、君の思っている通りだろう」
気まずそうに視線を逸らす一郎さん。思い浮かぶのは、厳めしいつ面をした老年に差し掛かった男の顔。完全に連絡を断って消息不明になったような相手を捜しだしてしまうような無駄に強靭なバイタリティを持った人間など、俺の知る限りたった一人しかいない。
あのお節介親父め。
いつまで子供の世話を焼くつもりなのか。
小さく溜め息を吐く。
「――だったら、そうですね。丁度良かったです。ずっと、この絵をお二人に受け取ってもらいたいと思ってたんですよ」
ここまで小脇に抱えてきた梱包を、差し出す。それとなく予感していたのだろう、二人は驚いた様子もなく、重苦しい表情でそれを受け取った。その隣では歩実が興味津々といった顔をしている。
「どうぞ、開けてみて下さい」
促され、中途半端な梱包を解いていく。その中から現れたのは、剥き出しのカンバス。
『ここではない何処かへ』。
どうしてもこの絵だけは、額縁の中に入れる気にならなかった。
「あぁ…………」
呻くような声を漏らし、一郎さんは、ワイシャツの胸の部分をぐうっと握りしめる。諒子さんは、何かを押し込めるようにごくりと喉を鳴らして、唇を噛みしめる。その隣で、歩実は笑みを消して、悲しそうな目をしてじっとその絵をのぞき込んでいた。
「――これが、わたしのお姉ちゃんの描いた絵なの?」
その言葉に、二人はハッと息を呑んで自分たちの娘を見た。
「歩実、お前、どうして……」
「……隠してても、分かるよ。パパもママも、わたしが中学で美術部に入ったって聞いた時、すっごく困った顔をしてたし、それに、お正月とかお盆とか……親戚のおじさんたちが、話してるの、聞いたことあるもん」
眉をハの字にして、困ったように笑って、歩実は一郎さんたちを見上げている。
「お姉ちゃんの写真だって殆ど残ってないし、わたしの前でお姉ちゃんの話をしたことだってなかったし……なにか、あったんだろうなって、ずっと思ってた」
「歩実……」
「……パパたちを困らせたくなかったから、なにも訊かなかったけど、本当はね、ずっと訊きたかったの。わたしのお姉ちゃんは、どんな人だったんだろうって」
そう言って、泣きそうな顔で、絵に目を落とす。
「お姉ちゃん……こんなに、辛かったの? 苦しかったの? だから、死んじゃったの?」
「っ――」
諒子さんは口に手を当てて、娘から顔を背けた。こみ上げてくるものを堪えようとして、顔を真っ赤にして、しかし堪えきれず、しゃくり上げ始める。一郎さんもぎゅっと拳を握り、溢れ出てしまいそうになるものを必死に堪えていた。
おそらく、この十五年間に延々と降り積もっていったものを。
「お姉ちゃんは……どんな人だったんですか?」
歩実は、今度は俺に向かって、そう言った。
震える口許をぎゅっと真一文字に引き締めて、まるであいつのような透き通った目で、俺を見上げている。
ああ――と思う。
これは多分、あいつが斯く在りたかった、理想の姿だ。
きっと、あいつはこんな女の子になりたかったのだろう。そのために、あそこまで必死になったのだろう。
だがそれでも。
俺が好きになったのは、あのままの、あいつだったのだ。
憎んでしまいそうになるぐらいに、大好きだったのだ。
「その絵、ひっくり返してみろよ」
だから俺はそう、答えた。
俺が好きだったあいつがどんな人間だったのか。その問いの答えは全て、いつまでも色あせることなく、そこにある。
「…………」
歩実は俺の言葉に素直に従い、絵を裏返す。
そうして現れたのは、その名の通り、裏返った絵だった。
「わぁ――――――」
驚きの声を歩実は上げる。沈んでいたその顔に、ぱあっと輝きが満ちていく。
歩実の見ている絵。
それは、あの夜が明けるまでの三ヶ月間に俺が描いた、あいつの人生の全て――アトリエで絵を描く零子の絵だった。
一瞬にして、永遠だった。
「すごい! すごいすごいすごい! これ、沖澄さんが描いた絵ですよね!」
「ああ。俺が、今のお前よりほんの少しだけ年上だった時にな」
「これがわたしのお姉ちゃんなんですか!?」
「ああ――俺の目には、そう見えていたよ」
歩実は興奮したように頬を赤くして、喜びの声を上げ続ける。
その隣で、一郎さんと諒子さんは呆然とした顔で、その絵を見下ろしていた。口を半開きにして、のろのろとした動作で顔を上げ、俺に目を向ける。
「栄一郎くん……これは、まさか、あの時、君が描いていた……?」
「ええ、そうですよ」
俺は、笑って頷いた。
「全然、間に合いませんでしたけど……本当に、これっぽっちも間に合いませんでしたけど……三ヶ月も経ったあの年の冬に、ようやく描き終えることが出来ました」
のろのろと、二人はまた絵に目を戻す。
「そうか……これが、あの子――零子だったんだな」
「ええ」
「零ちゃんは……いつもこんな風に絵を描いてたのね」
「ええ」
「栄くんは、いつもこんな零ちゃんを、一番近くで、見つめていたのね」
「……ええ」
「そうか……そうか、そうか。これが裏側なのか」
「はい」
「そう、か……」
ぽたぽたと、二人は涙を零し始めた。十五年もの長い時間、それを堰き止めていた何かを失い、二人はとめどなく涙を流し続けた。
「ありがとう……栄一郎くん……ありがとう……あの子の傍にいてくれて、これを描いてくれて、ありがとう……」
「……零ちゃん……零ちゃん……ごめんね、ごめんね、でも、ありがとう……」
二人は、身体に淀んでいたものを全て流しきってしまうかのように、子供のように泣き続けた。
多分それは、固まってしまったままだった、あの頃の時間なのだろうと思う。
今この時になってようやく、あの頃は現在に押し流されて、過去になったのだろう。
それを見て、そしてこの絵をこの人たちに渡すことが出来て、ようやく、俺の肩の荷も、軽くなったような気がした。
また少し、あいつの記憶が過去になったのだった。
去り際、歩実が「絶対に沖澄さんの大学に行って、絵を教えてもらいますから、それまで待っていてください!」と言ってきたので、そんなもん、今週末にでも教えてやるから大学に遊びに来いと、連絡先とキャンパス内の地図を描いて渡してやった。
狂喜乱舞しながら、歩実は、晴れ晴れとした顔の一郎さんと諒子さんに連れられて、帰って行った。