11:降り、ふり、積もり、消えていく
時間の感覚が曖昧になっていた。どれだけの間こうして絵を描いているのか、その感覚を失っていた。生まれてからずっと描いているような気がするし、ほんの一分前に描き始めたような気もする。
今日は明日なのかもしれないし、一週間前なのかもしれない。もしかしたらもう人間なんてとっくに滅びているのかもしれないし、俺は世界でたった一人の生き残りなのかもしれない。
或いはこれは誰かの見てる夢なのかもしれないし、漫画や映画の中の世界なのかもしれない。本当に俺はここに生きて在るのだろうか。本当は、小学生の頃に四〇度の高熱を出して倒れたあの時のまま、ずっと目覚めていなくて、その間に見ている夢で、ある日突然病院のベッドで意識を取り戻すのかもしれない。
何もかもが不確かだった。
そもそも俺は何でこの絵を描いているのだったか。
俺は本当は祖父と母の間に出来た子で、それで父との確執に悩まされ、出生の秘密に悩まされ、更には妻が従兄と関係してしまい――違う。それは別の誰かの人生だ。いや、本で読んだのだったか。
そうじゃなく、そうじゃなく。
俺は、ただ、描かなければならないと思ったのだ。俺の中に焼き付いたあいつが、俺にこれを描けと訴えてきたのだ。
一体、それで何が解決するというのだろう。
何が変わるというのだろう。
さっぱり分からない。
なんの予感もない。何かに向けて手を伸ばしているというわけでもない。
もし言葉に例えるならば、これは義務――或いは使命のようなものだった。
だから、俺は描いている。
描かされている。
ぐるぐるぐるぐると回る視界の中、回転する景色の中、その衝動に突き動かされるまま筆を動かして、そして、
気付いたら、手が止まっていた。
「……………………?」
手を持ち上げようとして、そこに筆がないことに気付く。目を床にやると、いつ手から離れたのか、そこに転がっていた。拾おうとして、しかし、すぐに俺はその必要がないことを悟った。
カンバスを見る。
「――――ああ」
これ以上、そこに何かを描き加える余地はない。必要なかった。
絵は、完成していた。見事に、終わっていた。完結していた。完全がそこにあった。
一瞬にして永遠が、目の前にあった。
あいつの全てが、そこにはあった。
それを見て、ようやく俺は理解した。
ああ――そうなのだ。
確かに、そうなのだ。そうだった。これが答えだった。これが、俺の、あいつの、俺達の求めたものなのだ。
呆然とする。
魂が抜け出てその辺の空をさ迷っているような心地。
ふらり、と立ち上がる。
アトリエの外に出る。
空はとっくに暮れているようだった。闇が辺りを包んでいる。今日は何日だろう、何曜日だろうと考える。まだ九月なのだろうか。
夜空に星をさがそうと見上げたところで、別のものを見つける。
自室の窓から、擦り切れたような顔でこちらを見下ろしているあいつの姿だった。
俺と目が合っても、あいつは表情を一切変えず、ただ虚ろな顔のままで佇んでいる。
溺れているかのようだった。
溺れ疲れて、水底に沈んでいっているようだった。
「…………」
「…………」
上と下で、ただただ互いを眺め続ける。時間が止まる。地球が静止する。音が消失する。あまりの静謐さに気が遠くなり、目の前が真っ白になりかけた瞬間、頬に風を感じて、覚醒する。
後ろを振り返る。アトリエの入り口に、零子が立っていた。
――飛び降りた?
なんだかそれも、ありそうなことだと思った。驚くほどやせ細り、存在感の限りなく希薄な今のこいつなら、羽根のように地面に降り立つことも出来るような気がした。
零子は、俺に背中を見せたままで、アトリエの中に足を踏み入れる。一歩、進んでから、何かを確認するように立ち止まる。その肩が、押し潰されそうに下がる。のそのそと、足を引きずるようにして、部屋の中心――空のスツールとその前のイーゼルに掛けられたカンバスの前に、近寄っていく。
――そして、それを見た。
「――――――――――――ぁ」
ひゅっと、その小さく開いた口から、魂が抜け出ていってしまったように見えた。
目を見開き、茫然と、カンバスに描かれたものを見つめている。
「――――――――――」
そこに描かれているのはかつてのこの場所の光景だ。ここに来ればいつでも見ることの出来た情景だ。いつだってここにあった瞬間だ。
しかし、それをこいつだけは見ることが出来なかったのだ。
誰が見ることが出来ても、こいつだけは、この情景を、この瞬間を、決して自分自身を見ることは出来なかった。
いつだってもがいていた。
――『もっとちゃんと生きられますように』。
ただそれだけを願って、望んで、求めて、この場所で、このスツールに座り、真っ白なカンバスと向き合って、苦悩し、足掻き続けていた。
でも、こいつは知らなかっただろう。
いや、多分、俺だってこれを描き上げるまでは知らなかった。
もがいて、足掻いて、苦しんで、悩んで、血を吐くようにして、何者も寄せ付けぬ狂気じみたものを全身から立ちのぼらせて、絵を描くこいつの姿は。
とても美しかった。
力強く、そこには他の何物よりも、生が満ち溢れていた。生きている。確かに、こいつは生きていたのだ。
「そっか……栄くんの目から、私は、こんな風に、見えてたん、だね」
何かを諦めるように、或いは張り詰めていた糸が緩むように、零子は笑った。透明な笑みだった。あの吐き気のするものじゃなく、こいつ自身の、こいつの心から零れた笑みだった。
久しぶりに、それを見た。
「なぁ……俺は思うんだよ」
「……うん」
「お前はさ、無理に変わる必要なんて、ないんじゃないかって」
「……うん」
「変わろうとして、自分の中のどうにもならない何かをどうにかしようと無理をするから、破綻するんじゃないかって」
「…………」
「きっと、これがお前なんだよ。他人とどこまでも食い違って、理解されなくて、いつも間違えたことばかりしていて……」
「…………」
「それは、もう、そういうものとして受け入れるしかないんだろう。そうやって生きていくしかないんだよ」
「……誰にも理解されないまま、ひとりぼっちで?」
「俺がお前を見てるよ」
俺は、言った。
今まで、決して口にしなかったことを。
「俺はお前を理解しない。けど、ずっと見ていてやる。そうして、お前は生きてるって――ちゃんと生きてるって、教え続けてやる」
絵を、描き続けて。
こいつが自分じゃ見えないものを、形にし続けて。
「あの、ね。栄くん、やっぱり、ね」
振り返った零子は、透き通るような微かな笑みを口許に浮かべ、俺に手を伸ばしてくる。
それを、俺は握る。
久しぶりのその感触。
それは、以前と違って、少し骨張っていた。
「やっぱり――」
零子は言う。
「太陽がないと、人は、生きて、いけなかったよ」
ぎゅぅっ――と、握った手に、力が込められた。
胸が、ぎりりと痛んだ。
理由も分からず、胸が締め付けられる。
あまりの痛さに、死んでしまいそうになる。死んでしまいたくなる。
だけど死ねない。死ぬことは、出来ないのだ。
「ごめん、ね、栄くん。もう少し、待ってあげられれば、良かったのに、ね」
透き通るような笑み。透明な、本当に、透き通っているかのような。
向こう側が、見えているかのような。
手は、握っているのに。
その感触があるのに。
「栄くんの手を、離してしまった、あの時から、きっと、決まってたん、だよ」
やめてくれ。
お願いだから、そんなことを言うのは、やめてくれ。それ以上、言葉を続けないでくれ。
がくがくと膝が震える。手が震える。身体が震える。
「ほら、外を、見て。そろそろ、夜明けの、時間だよ」
指をさされて、窓の外に顔を向ける。零子の言うとおり、闇が新たな火によって、払われようとしていた。
震えが止まらない身体で、向き直る。
「だから、ね、栄くん、の、夜も、明ける頃合い、だよ」
ただ震えていることしか出来ない俺に、空いている方の手を伸ばしてくる零子。そっと、撫でるように頬に触れる。
驚くほど、その手は冷たかった。
身体が震える。
熱い何かが、眦からこぼれ落ち、頬を伝って、零子の手をすり抜けて、床に落ちていく。
「本当に、ごめん、ね」
震えが止まらない。どうしてこんなに震えているのだろう。まるで――まるで、寒くて、震えているかのようだった。そんなはずはないのに、まだ九月のはずなのに。
なのに、どうしてだろう。どうして、吐く息が白いのだろう。突き刺すような冷たさを感じるのだろう。
そしてどうして、零子の口からは、それが出ていないのだろう。
「さむ……い」
声もまた、震えてしまう。
「大丈夫、もう、夜は、明けるから」
――窓から、橙色の光が、差し込んでくる。世界の闇を払っていく。アトリエの中に、陽光の、生の暖かさが満ちていく。
その光に照らされて、零子の姿が、溶けるように、消えていく。
「……おいおい、なんだよそりゃ。一体これは何の冗談なんだ」
茶化すように、軽口を叩く。そうすれば、全てが笑い話になってしまうとでもいうかのように。
そんなはずはないのに。
そんなこと、ありえるはずがないのに!
「ねえ、栄、くん」
消えゆく中、零子は笑う。これまでに見たどの笑顔よりも、華やかに、綺麗に、嬉しそうに、生に満ちた顔で。
「私は、栄くんが、大好きだったよ。嫌いになるぐらい、好き、だった」
そして、それまでになく強い光がアトリエの中に差し込み、そのまばゆさに思わず目が眩んで、ほんの一瞬、目を閉じて。
それで、もう一度開いた時には。
零子の姿は、綺麗さっぱりに、なくなっていた。
そこには、まるで最初からそうであったような、無人のアトリエが、広がっているだけだった。
橙色の朝日に照らされて、主の居ないスツールと、かつてこの場所にありふれていた、しかし失われ、もう二度と目にすることの出来ない情景の、絵が一枚、あるだけだった。
――この瞬間、確かに俺の中で、決定的な何かが終わりを告げた。
朝日の眩しさに目を細めて、よろめくようにして外に出る。
白い景色。
寒い。
冷たい。
冬。
辺り一面には、雪が降り積もっていた。
それだけの時間が、辺りには堆積していた。
上木田家には、人気がない。
当り前だった。
既にあの人たちは遠方に引っ越して、新しい生活を始めている。止まっていたのは、俺だけだった。
そう。
あいつ――上木田零子が死んで、既に三ヶ月が経とうとしていた。
俺がアトリエに籠もり始めた三週間後、零子は学校の階段から落ちて、頭を打って死んだ。その頃のあいつは、水を飲んでも吐いてしまうようになっていて、足下も覚束ない有様だったらしい。
それでも、誰が止めても休もうとせず学校に通い、結局、そうなってしまった。
自殺――という話も、あったらしい。しかし、それにしては状況が余りに無作為だったらしく、やはり事故だったのだろうという形で落ち着いた。
実際、そうだったのだろうと思う。
自殺をするほどの気力が、あの状態の零子にあったはずがないのだ。
――俺は。
その事実を聞かされて、少しの間、現実を見失っていた。おかしくなっていた。或いは、そうならないために、あの絵を完成させることが必要だったのかもしれない。
その間の記憶は曖昧だ。通夜にも葬式にも出ず、現実感を失った状態で、ひたすら絵を描いていたのだから、それも無理はないだろう。
よく無理矢理にでも止めさせられなかったと思う。もしそうなっていたら、本当にどうにかなっていたかもしれないから幸いだったが、多分、あの親父辺りが、好きにさせておけとでも言ったのだろう。何となく、そう思う。
後から聞いた話だが、本宅の零子の部屋からは、一枚の絵が見つかったらしい。死ぬ何日か前に描いたもののようで、それがあいつの最後の、そして唯一現存する作品になった。
『ここではない何処かへ』。
黒い背景の中、美しい腕が何かに向かって差し伸べられている絵だ。そこに込められた救いを真っ向から否定するように、その手の甲には、釘が突き刺さっている。
結局、最後の最後まで、絵はあいつを救わなかった。裏切り続けた。
俺の絵だって、その例外ではなかった。
あの絵が救ったのは、結局俺だけだったのだ。
だから、俺はこの時から、絵が嫌いになった。憎むようにすら、なった。
あいつを失って、俺は絵に対する肯定的な気持ちを、永遠に失ってしまった。
しかし、筆を置くことは出来なかった。
約束――してしまったから。
俺の目から見える物を描き続けると、そう、あいつに、言ってしまったから。
だから、俺は描き続けた。
描き続けて、いつしか、先生と呼ばれるような立場になっていた。